スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

習志野きらっとスプリント&原因たり得るもの

2013-07-16 18:54:21 | 地方競馬
 地方競馬スーパースプリントシリーズのファイナルとなっている昨日の第3回習志野きらっとスプリント
 抜群の発走だったラブミーチャンですが,内からスパロービートが先手を主張してくると譲って2番手に控えました。すぐ外にスターボードが続き,この3頭が前。直後にアーリーロブストも差がなく続きました。最初の400mは22秒8ですから,ミドルペースといっていいでしょう。
 ラブミーチャンは4コーナーを回るとスピードの違いでごく自然に先頭に。一緒についていった3頭はここでギブアップとなり,あとは独擅場。5馬身差の圧勝になりました。先行馬の壊滅に乗じ,向正面から追い上げていったディープハントが2着。大外から伸びたアイディンパワーがクビ差まで迫って3着。
 優勝した笠松のラブミーチャンは4月に東京スプリントを勝った後,このシリーズの名古屋でら馬スプリントも勝っていて3連勝。当レースは第1回,第2回と優勝していて3連覇。重賞で勝てるほどの馬で,現時点での距離適性はもう少し長いところにあると僕は見ていますが,さすがに地方馬同士ではスピードが違いすぎました。父はサウスヴィグラス
 主戦の浜口騎手が負傷したため騎乗することになった船橋の森泰斗騎手は昨年の京浜盃以来の南関東重賞制覇。勝ち星のわりに南関東重賞勝ちが少ないですが,今後はそれも量産していくことになるものと思います。管理しているのは笠松の柳江仁調教師で習志野きらっとスプリント3連覇。

 このことはしかし,神ないしは神の属性だけが決定の原因であり得るのであって,それ以外の一切のものは決定の原因ではあり得ないということを意味するのではありません。なぜなら,ここまでの考察の過程から明らかなように,そのことを主張するためには,無限であるものは神ないしは神の属性だけであり,それ以外には無限であるいかなるものも存在しないということが成立するのでなければならないからです。ところが,実際には『エチカ』はそのようにはなっていません。
 第一部公理一の意味は,自然のうちに実在するのは実体であるか様態であるかのどちらかであるということでした。しかしここではすでに,自然のうちに実在する実体は神だけであるということを前提していますので,要するにこれは,自然のうちには神と神のある属性の変状である様態だけが存在するという意味になります。このうち,神ないしは神の本性を構成する属性が無限であるということがすでに明らかになっているのですから,それ以外に無限であるものがあるとしたら,それは当然ながら様態であるということになります。そして無限である様態,直接無限様態と間接無限様態が実在するということは,第一部定理二一と第一部定理二二で示されていることです。したがって,無限であるものが決定の原因であり得るのですから,無限様態もまた,決定の原因である可能性を排除されないということになります。
 次に,第一部定理二三が示しているのは,無限様態は第一部定理二一か第一部定理二二の様式で自然のうちに生じるということです。いい換えれば,これ以外の様式で発生するいかなる無限様態も自然のうちには実在しません。第一部公理三により,仮に第一部定理二一と第一部定理二二で示されている以外の無限様態があるとしたら,それにも発生の原因が必要とされます。しかしそれら以外の様式で発生する無限様態は存在しないと示されているのですから,そんな無限様態は存在し得ないということになります。
 きわめて基礎的なおさらいとなりましたが,これで決定の原因たり得るすべてのものが出揃いました。それは神とその属性,そして直接無限様態と間接無限様態です。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&決定の原因

2013-07-15 18:47:06 | 地方競馬
 海の日の開催が恒例となった第17回マーキュリーカップ。アポロヴァンドームが出走取消で12頭。
 エーシンモアオバーの逃げは大方の予想通りでしょう。2番手マークがソリタリーキング。ランフォルセ,トーセンルーチェ,コスモフィナンシェとなり,その後ろがグランドシチーとシビルウォー。スローペースでした。
 トーセンルーチェとコスモフィナンシェは向正面で後退。結果的にJRA勢によるレース。2番手のソリタリーキングは直線入口でエーシンモアオバーに並び掛け,すぐに先頭に。そのまま大きな差はつけられませんでしたが,追いつかれそうな気配もなく,1馬身4分の1差で優勝。大外を伸びたシビルウォーがどうにか2着。馬群を割ったグランドシチーはハナ差で3着。
 優勝したソリタリーキングは昨年の日本テレビ盃以来の重賞3勝目。その後は僕が期待していたほど走れていなかったのですが,相手関係の要素が大きかったようです。一線級だと厳しいですが,今日くらいのメンバーであれば,今後も重賞制覇が期待できるでしょう。父はキングカメハメハ。曾祖母はスカーレットインク。半兄に2005年の東海ステークス,ブリーダーズゴールドカップ,日本テレビ盃,2008年のマーキュリーカップを勝ったサカラートがいて,兄弟制覇。ほかに2007年のJRA賞最優秀ダート馬のヴァーミリアン,2010年のシリウスステークスを勝ったキングスエンブレムも半兄。Solitary Kingは唯一の王。
 騎乗した福永祐一騎手はマーキュリーカップ初勝利。管理している石坂正調教師は半兄による第12回以来5年ぶりの2勝目。

 有限であるものがres singularisだけであるのか,それともres particularisも含むのかということは別にして,少なくとも有限であるものは,限定の原因でしかあることができないということは,これで明らかになったといえます。決定と限定対義語的関係を構成するのですから,このことは直ちに,有限であるものは決定の原因であることは不可能であるということを意味することになります。したがって決定の原因であり得るものは有限ではないものであるということです。有限ではないもの,それはつまり無限であるものです。
 『エチカ』において最初に無限であることが証明されているのは実体で,これは第一部定理八です。そして実体が無限であるならば,第一部定義四によりその実体の本性である属性もまた無限でなければなりません。これは第二部定義二から明白で,もしもこれを否定するならば,有限であるものが無限であるものの存在を定立すると主張しなければならず,これほど不条理な主張もないといえるでしょう。
 ただし,第一部定理八というのは,実体に関するある名目的な主張であると僕は理解しています。今はこのことの是非については問いませんが,少なくとも第一部定理一四から,実在的にこれを考えるのであれば,実体が無限であるということは神が無限であるという意味であって,神の本性を構成する無限に多くの各属性が,各々の類において無限であるという意味でなければならないということに関しては,異論の余地がないものと思われます。
 第一部定義六は,神が絶対に無限であることを示していて,これは確かにその通りですが,この点もここでは考慮に入れません。たとえば第二部定理六が示していることの中には,仮に神が決定の原因であるとしても,ある属性の様態に対してその原因となるのはその属性であるという意味が含まれていると考えてよいと思われるからです。したがって神の属性が,各々の類において無限であるというだけで十分であり,その属性は十分に決定の原因たり得るでしょう。そして属性が決定の原因であるということは,神が決定の原因であるというのと同じ意味に僕は解します。
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漱石の記号学&限定の原因

2013-07-14 19:27:58 | 歌・小説
 『それから』の代助の次男の悲劇,それに関係する明治の民法の規定得の要求について僕に大きな示唆を与えてくれたのは,石原千秋の『漱石の記号学』でした。
                         
 『反転する漱石』を紹介したおり,石原千秋の文芸評論は作家論と作品論の分類では作品論に該当するといいました。もちろんこの本も基本的には同じです。そもそも『それから』のうちに民法の規定との関連を読解するということ自体,作家論的な立場からでは無理であるように僕には思えます。ただし,そのときには漱石自身の出自についても触れられていまして,その部分では作家論的要素があるといえます。説明したようにあくまでも作家論と作品論は類型であり,実際の文芸評論は,どちらかが色濃く浮き出ていたとしても,一方だけであるということはほとんどないということの一例であるといえるでしょう。
 『反転する漱石』はひとつの章にはひとつの小説という形で割り振られていましたが,こちらはそうではありません。序章と終章を除くと6章で構成されていて,それぞれ,次男坊,長男,主婦,自我,神経衰弱,セクシュアリティーが主題となり,それに関連する小説が幅広く評論の題材として扱われています。
 民法の規定もそうなのですが,この本には漱石が小説を書いていた時代,あるいは漱石が書いた小説の登場人物が生きていた時代の背景について詳しく解説され,その観点から小説が読解されている部分が大半です。僕たちは小説というものを読む場合に,どうしても現代の常識に照らし合わせてそれを読んでしまうことを免れません。しかしそのために,テクストに表出している事柄を見失ってしまうというケースが往々にして発生しているといえると思います。当時の法律体系や文化あるいは風俗といったものがどのようなものであったかを知るというだけでもこの本は有益なのであって,そうしたことを知ることによって,漱石の小説に新たな発見をするヒントとなり得る評論であると思います。

 このことは,第二部定理八系でいわれている,現実的に存在する場合のres singularisに注目するのであれば,やはり第四部公理からも帰結すると考えられます。なぜなら,現実的に存在するどんなres singularisにも,それを限定し得るほかのres singularisが現実的に存在するということは,逆にいえば現実的に存在するどんなres singularisも,ほかのres singularisを限定し得るということでなければならないからです。したがってこの観点からも,res singularisというのは,ほかのres singularisによって限定されつつ,それとは別のres singularisを限定しながら実在するものであるということが帰結するでしょう。
 次に,すでに示したように,僕はres singularisとres particularisに同一の訳を与えて構わない,いい換えればこれらふたつの概念は重なり合うと考えています。したがってこれでいえば,res particularisもまた,ほかのres particularisによって限定されつつ,それとは別のres particularisを限定して実在するということになります。ただしここではこの点には僕は固執しません。今は朝倉説に従い,res particularisには,res singularisだけではなく,ほかの概念も含まれると考えてもいいです。この場合には,必ずしもres particularisは,限定といわれるような原因であるとは限らないということになりますが,それは,res singularisと共にres particularisを構成するほかのものによってそのようにいわれ得るということになるのであり,そのものが何であるのかということさえ明らかにできれば困らないからです。今は決定の原因が何であるのかを探求しているのではなく,限定の原因が何であるのかを探求しています。少なくともres singularisは限定の原因なのであって,決定の原因ではあり得ないということさえ明らかにできればそれで十分です。
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キャサリーンパー&限定

2013-07-13 18:59:02 | 血統
 水曜日のジャパンダートダービーを圧勝したクリソライト。この馬の輸入基礎繁殖牝馬は祖母のキャサリーンパー。1987年アメリカ産でファミリーナンバー16-a
                         
 1993年から3年間はアイルランドで繁殖生活を送り,翌年はイギリスへ。このイギリスでの産駒は輸入されて日本で競走生活を送りました。次の年もイギリスで種付けされましたが受胎したまま日本へ。したがって1997年に産まれた産駒が最初の日本産ということになります。
 コンスタントに産駒を出していき,2003年にエルコンドルパサーとの間に産まれたのが2006年のジャパンカップダートを優勝し,同年のJRA賞では最優秀ダート馬に選出されたアロンダイト。未勝利から4連勝で初の重賞挑戦がこのジャパンカップダートであった驚異的な上がり馬でした。残念ながらその後は勝利から見放されてしまいましたが,これは順調さを欠いたため。何もなければもっと活躍できた筈であったと思います。
 アロンダイトのひとつ上の全姉がクリソプレーズで,この馬がクリソライトの母になります。2着馬に父であるゴールドアリュールと同じだけの差をつけての圧勝でしたから,父と同様の活躍を期待したいですし,一族として叔父の古馬以降の無念を晴らしてほしいです。
 キャサリーンパーは叔母も輸入されて繁殖生活を送りました。1995年にフラワーカップを優勝したイブキニュースターは,キャサリーンパーの従妹です。

 同一の本性naturaを有するほかのものによって限定されるものが有限finitumであるといわれるのであれば,有限であるものだけが限定を受けているものであるということになります。スピノザの哲学では,事物の定義Definitioは定義される事物の本性essentiaを意味し,事物の本性というのはその事物と一対一で対応するもの,すなわちAの本性がXであるなら,Xという本性を有するものはAだけであるという関係にありますから,このことは第一部定義二から明らかです。したがって,ふたつの個物のうち,少なくともres singularisの方が限定されているということは,第一部定理二八から明白であるといわなければなりません。
 ただし,現在の課題の解決のためには,何が限定されたものであるのかということを知るだけでは十分ではありません。ここで考察しようとしている限定determinatioは,結果effectusとして限定を受けるものは何であるのかということではなくて,原因causaとなって結果を限定するものは何であるのかという点にあるからです。つまり必要なことは,個物res singularisが限定を受けているといわれるときに,そのres singularisを限定しているものは何であるのかということです。
 そしてその答えもまた,第一部定理二八のうちに含まれているといえます。すなわちこの定理Propositioは個物res singularisの原因と結果の無限連鎖を主張しています。それは要するに,結果としてのres singularisの原因はそれとは別のres singularisであり,そのres singularisの原因であるものはまたそれとは別のres singularisであって,この関係が無限に連鎖していくということです。したがってあるres singularisを原因として限定するものは,それとは別のres singularisであると考えなければならないと僕は思います。つまりres singularisは,結果として別のres singularisによって限定されるものであり,同時に原因としてそれとも別のres singularisを限定するものであるということになると思うのです。つまりres singularisとは,限定されつつ限定するものなのです。
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竜王戦&問いの内容

2013-07-12 19:09:13 | 将棋
 第26期竜王戦決勝トーナメント。昨日は1組2位の森内俊之名人が登場。初戦で豊島将之七段を破った谷川浩司九段と対戦しました。対戦成績は森内名人が33勝,谷川九段が27勝。
 振駒で森内名人が先手に。先手の3手目▲6六歩に呼応して谷川九段が三間飛車を選択。先手も向飛車にして相振飛車。早い段階で後手の構想に破綻があり,差がつくことになってしまいました。
                         
 飛車先を交換した先手が高飛車に構えたところ。後手は△3七歩成▲同銀△3六歩▲4六銀と,銀を進出させる代償に拠点を作りました。△4四歩▲7八銀△4二銀と進んだところで先手は狙いの▲2五飛。後手は飛車成りを受けずに△4三銀。すぐに成ってくれば△3四銀と出て指せるという判断だったのでしょうが,▲3五銀と出られて困りました。△4五歩▲2三飛成で先手の狙いが実現。
                         
 進出させた銀に威張られた格好で,これでは後手がいけないと思われます。実戦は先手に龍を引き上げられ,拠点の歩も取られることになってしまいました。
 森内名人が準決勝進出。相手は羽生善治三冠で,これは19日に指されます。

 決定と限定対義語的関係を構成すると考えて差し支えないのであれば,第一部定理二六証明への疑問のうち最後のものは,少し異なった角度から問うことができる問いになります。つまり,対義語的関係を構成し得ると考えられるふたつの因果関係のうち,第一部定理二六では決定するといわれるべきタイプの因果関係がその対象となっているのですから,結果に対して決定といえるような原因を構成し得るものは何かということを問うならば,自ずからこの疑問は解消されてくるのではないかと考えられるからです。もちろんそうした原因となり得るものがひとつであるという保証は現時点ではありませんから,このように問うことによって,疑問のすべてが解消されるというのはいいすぎかもしれません。しかし少なくとも疑問を解消するための概念というものが,絞られてくるということは間違いないといっていいでしょう。
 決定といわれ得るような原因が何であるのかという問いは,決定が限定と対義語的関係を構成するということを考慮に入れるならば,次のように問うことで答えを絞り込むことができます。すなわち,もしもあるものXが原因であるという場合には,このXは必然的に限定といわれるタイプの原因でしかあり得ないのであるとしたら,そのXは決定の原因となることは不可能です。つまり,どういう場合に原因が限定の原因でしかあり得ないかを考えていけば,少なくともそれは決定の原因であることはできないし,また,決定の原因となり得るものがどのようなものであるのかということも,それだけ解答の範囲を狭めることができるようになるのです。
 この条件を参考にして,問いの内容を変えてみます。まず,限定ということが,スピノザの哲学なかんずく『エチカ』において,どのように把握されるべきであるのかということから考えていくことにしましょう。
 第一部定義二は,同じ本性を有するほかのものによって限定されるもののことを有限であるといっています。ということは,有限であるものは必然的にある限定を受けているということになります。とくにこのことは,ものが現実的に存在する場合には,第四部公理からも明白です。
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王位戦&決定と限定

2013-07-11 19:13:00 | 将棋
 愛知県蒲郡市で開幕した第54期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王位が5勝,行方尚史八段が2勝。
 振駒で先手は羽生王位。行方八段は後手では追随をすることが多く,角換り相腰掛銀に。先後同型の直前に先手が4筋に飛車を回るよくある将棋。そこから例の如く手待ちの応酬となり,いよいよ戦いに。前例があったようですが,ほぼ一直線といえるような攻め合いになり,これは先手に分があったよう。後手が凌げるか,先手が攻めきれるかという展開になりました。
                         
 ここで△1一角と受けていますが,並べていて最も驚嘆した手。ただ,この局面では受けとしては最善だったようです。先手は▲3三金と銀を取り,△同桂に▲2五銀と取った銀を被せていきました。△2三金打▲2四銀△同金と金銀を入れ替えて▲5五角。これが決め手でした。
                         
 これが詰めろでした。後手は△5六銀と外しましたが,▲3三角成で受けなし。後手の投了となっています。先手としては有力に見える手段が多そうで,間違いやすい局面であったようにも思うのですが,手順の妙が見事だったというほかありません。
 羽生王位が先勝。第二局は23日と24日です。

 第一部定理二六証明への疑問のうち,第一の疑問と第二の疑問が解決されましたので,ここからは最後の第三の疑問について考えていくことにします。この場合にも,第一部定理二六で決定といわれているとき,それが限定あるいは否定であると考えることは不可能であるということが解決の重要な鍵になるのですが,それだけでは十分ではありません。
 福居純の証明を紹介したときには触れなかったのですが,実は福居による証明にはもう一点,とくにこの第三の疑問の解決のためには重要になる要素がひとつ含まれているのです。ここでその福居の考え方を,また僕自身の手によって再構成することにします。
 福居によれば,そもそも第一部定理二六においてスピノザが決定ということばを用いるとき,それは限定ないしは否定を含まないということが含意されているのです。つまり福居の考え方によれば,一般に原因と結果との間にある関係は,たとえばAが原因であってBが結果であると仮定するならば,AがBを決定するといわれるべき関係と,AがBを限定するといわれるべき関係のふたつがあるのです。つまり僕自身の用語でいうならば,この場合は決定と限定は対義語的関係を構成しているということになるのです。
 この主張自体の妥当性を問うことはここではしません。ただし,第一部定理二六でいわれている決定というものが,限定ではあり得ないということは明らかになっていますから,仮に限定といわれ得るような因果関係があるのだとしても,それは第一部定理二六で示される因果関係に含まれることはないということは確実であると考える必要がすでに生じています。したがって,仮定ではありますがそれ以外の因果関係があるというならば,それは限定するといわれるような因果関係でなければならないということは,確かにここから帰結してきます。よってこの限りにおいて,決定と限定は対義語的関係を構成するのだと考えることは,少なくともその結果として,何らかの虚偽ないしは誤謬を結論として生じさせることがないであろうことは,第二部定理四〇から明らかでしょう。そこで,確かに決定と限定は対義語的関係に該当するとしておきます。
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農林水産大臣賞典ジャパンダートダービー&第一の疑問と第二の疑問

2013-07-10 20:46:12 | 地方競馬
 3歳ダート王者決定戦に相応しいメンバー構成になった第15回ジャパンダートダービー
 逃げたのはユメノアトサキ。2番手がジェネラルグラントで3番手はソルテと,地方勢が前に。その後ろがクリソライトとキタサンオーゴン。さらにベストウォーリア,エーシンゴールド,アルムダプタが差なく続きました。最初の1000mは62秒6でスローペースでしょう。
 ユメノアトサキは3コーナーで一杯。自然とジェネラルグラントが先頭になるとソルテとクリソライト,さらに中団から向正面では早くも鞭を入れて追い上げてきたケイアイレオーネの4頭が雁行で直線に。ここからはクリソライトの独擅場となり,抜け出すと7馬身もの差をつけて優勝。2着は激しい叩き合いとなり,一旦は控えてまたケイアイレオーネの内から伸びてきたエーシンゴールドがハナ差で捕え,ケイアイレオーネは力尽きて3着。
 優勝したクリソライトはこれまで8戦して3勝,2着が5回と連対パーフェクト。前々走で500万,前走でオープンを勝っていました。その昇竜ステークス組とユニコーンステークス組のどちらが上位か不明確な部分がありましたが,結果的には昇竜ステークス組に軍配が上がった形。これだけの圧勝ができるとは思っていませんでしたが,ここにきての上昇度がかなり高かったということでしょう。今後もかなりの活躍が期待できると思います。父はゴールドアリュールで,同じような圧勝での父子制覇。母の父はエルコンドルパサー。叔父に2006年のジャパンカップダートを勝ったアロンダイト。Chrysoliteはペリドットの別名。
 騎乗した内田博幸騎手は宝塚記念に続く大レース制覇。第8回以来7年ぶりのジャパンダートダービー2勝目。管理している音無秀孝調教師は2009年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇。ジャパンダートダービーは初勝利。

 僕が再構成した第一部定理二六福居純の証明において,まず最初に中心的な役割を果たしているのが,ものが作用に決定されるということは,限定的なこと,あるいは否定的なことであると考えることは不可能であるという点に存することは一目瞭然です。そしてこのことは,僕がすでに,物の表現という観点から考察し終えた事柄と一致しますから,ここではこれ以上の説明はしません。もちろん,実際に僕がそれを考察したときには,このことは神の決定ということと不可分でしたから,そのときの考察をそのまま該当させるということはできません。ものの作用への決定は神による決定であるということ自体は,この定理においては証明されなければならない事柄のひとつを構成しているからです。ただ,ものの表現というものが,神の本性の必然性に合致していなければならないということ,より具体的にいうならば,ものは神の本性の必然性に合致するようなすべての表現をなし,逆に神の本性の必然性に適合しないいかなる表現もなさないということは,第一部定理二五系から明らかであるといえますから,この決定というのが限定あるいは否定ではあり得ないということは,とくにそれが神による決定であるということを考慮に置かないとしても,帰結させることができます。というのも,ものにとって限定あるいは否定とは,神の本性の必然性に適うような表現をなすことのうちにあるのではなくて,それに反する表現をなすということのうちにあるのだからです。
 これで,第一部定理二六証明への疑問のうち,最初のものは完全に解決されたといっていいでしょう。そして同時に,第二の疑問も同時に解消されているのだといえると僕は考えます。なぜなら,上述したように,このことは単にものの表現に注目するならばそれだけで帰結してくるような事柄なのであって,それが神による決定であるということは眼中に置かなくても帰結するということが明らかになっているからです。つまりものは神の本性の必然性に適合するすべての表現をなすということは,そのものの本性から帰結する事項なのであって,それが決定に依拠するかどうかは考えなくてもよいからです。
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スピノザ「共通概念」試論&再構成

2013-07-09 18:59:21 | 哲学
 スピノザの哲学において無限様態と個物の関係をどのように理解するべきなのかという観点から,福居純の『スピノザ「共通概念」試論』をまた取り上げました。ここでこの本を紹介しておくことにします。
                         
 題名から理解できる通り,この本はスピノザの哲学の概念notioのうち,とくに共通概念notiones communesに特化して,福居自身の読解を主張しているものです。ただし,純粋な意味において共通概念だけを対象としているかといえば,そんなことはありません。そのことは福居自身が序文で説明しています。
 スピノザは知性intellectusによる事物の認識cognitioを,第一種の認識cognitio primi generis,第二種の認識cognitio secundi generis,第三種の認識cognitio tertii generisと三種類に分類しています。共通概念はこのうち第二種の認識に該当します。しかしこの本では,第三種の認識についてはまったくといってもいいくらい触れられていませんが,第一種の認識に関しては明らかに考察対象となっています。
 第一種の認識と,第二種および第三種の認識の間には,大きな断絶があります。それは,前者が虚偽falsitasであるのに対し,後者が真理veritasであるという点です。あるいは後者が有esseであるとすれば,前者は無であるという点です。しかし一方で,スピノザは第二部定理三二で,どんな観念ideaも真理であると主張しています。いい換えればそれは,虚偽であるとみなされ得るような観念も,神Deusのうちでは真理であるということです。福居によれば,ここには虚偽から真理への移行が潜んでいるのです。
 この断絶と移行の関係をどう理解するべきであるのかということが,一冊の主題です。『スピノザ『エチカ』の研究』を著したとき,福居はこの移行に関して肯定的でした。しかしこちらでは,それに比較すれば否定的になっているといえるでしょう。
 肯定的であるべきか否定的であるべきかは,軽々しく結論を出すべきものではありません。この点に関しては僕もいずれはテーマとして設定し,詳しく考察するつもりでいます。

 福居純の証明については,少し補足しておかなければならないことがあります。
                         
 書評にも示しましたように,『スピノザ『エチカ』の研究』は,『エチカ』の注解であり,公理系によって示されている『エチカ』を,通常の文章形態に置き換えたものです。このために,福居の著書では,『エチカ』で示されている順序というものが完全な意味において守られているとはいえません。ただしそれは,文法的な面から止むを得ずという場合もありますし,公理系であるものを通常の文章に直す場合に,その文章の理解の平易さといったものの側面もあります。基本的に多少の順序のずれが生じていたとしても,それは注解としての質を低下させるようなものにはなっていないと僕は考えています。ただ,事実として,『エチカ』を注解するにあたって,『エチカ』の再構成とでもいうべき事柄は行われているといえます。
 そこで僕が示した第一部定理二六の福居による証明Demonstratioが,福居によって再構成された証明にそのまま準じているのかといえば,これもまたそうはなっていません。ここに僕が示したのは,福居が再構成したものを,僕がまた再構成したものです。僕がそのようにした理由は,別に福居の証明に不備があると考えているからではありません。単に,僕の今回の考察の主旨に照らしたときに,最もよいと思われるような仕方で,この定理Propositioを証明する目的からです。したがって,僕は福居純の証明といっていますが,もしもその内容に何らかの不備があると思われた場合,その責任はおそらく福居にではなく,僕の方にあるだろうと思われます。僕は福居が示している主旨に関してはそれを曲げることなく再構成していると思っていますが,それが成功していない可能性はあります。ですからこの部分の意味としては,僕が理解する,福居純による第一部定理二六の証明であるというように考えておいてください。
 さて,この証明の内容から,まずはスピノザによる第一部定理二六証明への疑問というものが,どの程度まで解決され得るのかということを考えてみたいと思います。ただし①の疑問は積極的ということの意味に直接的に関係してきますので,焦点は別の角度から当てられることになります。
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作家論と作品論&福居純の証明

2013-07-08 18:57:07 | 歌・小説
 『反転する漱石』を紹介したおり,僕は文芸評論には作家論と作品論のふたつのタイプがあると考えていることを示しました。その類型に関しては後に説明するといいましたので,ここでそれを詳述することにします。
 僕が作家論とみなすのは,テクストを作家の手によるものであるとみなし,あるいはその点を重視して,テクストを読解する評論です。この場合,テクストは作家の思想や意図が表現されたものであると理解することになります。つまり書かれた作品を,作家の思想や意図という背景を前提として理解しようとする文芸評論に関して,僕はそれを作家論とみなすことになります。いい換えれば僕がいう作家論というのは,必ずしも作家自身に関する評論だけを含むのではありません。
 僕が作品論とみなすのは,テクストを独立したものであるとみなし,作家の思想や背景は無視して,あるいはそれは重視せずに,テクストの中に何が表れ,また何が表れてはいないのかを読解するタイプの文芸評論です。この場合,評論の対象となるのは純粋に文章だけであるということになります。したがって,場合によってはこの読解は,作家の思想に反する事柄,あるいは作家が少なくとも意識の上ではまったく意図していなかったような事柄が,読解の結論として生じてくる可能性がある,それも大いにあるということになります。よって,仮にある小説の読解であるとしても,作者の思想や意図からそれを読み解く方法は,僕は作品論であるとはみなさず,むしろ作家論であるとみなします。
 これはあくまでも類型です。実際の文芸評論というのは,作品論であるか作家論であるかのどちらかであるということはほとんどなく,作家論の要素と作品論の要素が混濁しているのが普通だといえるでしょう。ただ,作家論的要素が濃い文芸評論,逆に作品論的要素が濃厚な文芸評論というのは間違いなくありますし,このような類型化に関しては,どちらか一方であろうとする評論家も確実に存在していると僕は思います。
 場合によっては作家論に足を踏み入れなければならないこともありますが,僕は文芸評論としては,作家論ではなく作品論の方を好みます。

 ここでは『エチカ』の懇切丁寧な注解である,福居純の『スピノザ『エチカ』の研究』を利用することにします。
                         
 第一部定理二六が,作用に決定されるものの限定determinatioを意味すると仮定します。すると,限定されるものに対して限定するあるものが必要とされます。これは当然といえるでしょう。ところが,この定理Propositioというのは,一般にものが作用するといわれる事柄に関する言及です。したがって,たとえばAというものをBというものが作用に決定,限定という意味での決定をするdeterminareとしたら,BがAに対してその限定をする作用の原因causaがほかに必要とされます。かくしてこの連結connexioは無限に連鎖していくことになるでしょう。したがって,この場合には実際にはAを作用に限定するものは,はっきりとした原因であるとは考えられ得ないことになります。
 この矛盾は,作用への決定をある限定であると仮定することによって生じます。したがって,この決定はこうした限定であると理解されてはなりません。スピノザによる証明Demonstratioにおいて,この決定が積極的なもののためであるといわれているのは,こうした理由によるのです。すなわち,決定とは限定ないしは否定negatioではありません。つまり,たとえばAを作用に決定するのがBであると仮定したとしたら,このBによる決定というのが,Bにそうした決定をさせる働きactioそのものと切断されてはならないということになります。これはちょうど,桜井直文が働きと作用の関係において主張している事柄と一致しますから,ここではこれ以上の説明は付加しません。
 そこで,もしもあるものが別のものを何らかの作用に決定するという場合には,それが無限に連鎖するのであったとしても,各々の原因はそれ自身の結果effectusをそのうちに産出するという様式の下でこれを理解する必要があります。そうでないならば,ものが作用に決定される原因は存在しないということになってしまいますが,これは第一部公理三に反するからです。
 ところで,各々の原因がその結果をうちに産出するというのは,神Deusの働きそのものです。なぜなら第一部定理二五備考により,神が自己原因causa suiであるということと神が万物の原因omnium rerum causaであるということは同一の意味だからです。よって作用に決定されるものは,神によって決定されるのです。
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阿波おどり杯争覇戦&禁欲の維持

2013-07-07 18:48:47 | 競輪
 今月は四国で記念競輪がふたつ。前半は小松島記念で今日が決勝。並びは平原-岡田ー斎藤の埼京,稲毛-西岡の和歌山,稲川-村上の近畿,中川ー大塚の九州。
 スタートは岡田が取って平原の前受け。4番手が稲川,6番手が中川,8番手が稲毛という周回に。残り2周のホーム入口から稲毛が上昇を開始すると,平原はスピードを緩めて誘導との車間を開けました。このため稲毛が容易に叩いて前に。続いた中川がバックで稲毛を叩きにいきましたが,稲毛に突っ張られ,引こうとしたところで落車。稲川も行けず,ホームでは3番手に平原,6番手に稲川。村上の後ろが大塚で一列棒状。この状態がバックまで続き,稲川はそこから発進しましたが,これはタイミングが悪く外に浮いたため,前に位置していた選手だけのレースに。直線入口手前から踏み込んだ平原が前の和歌山両名を交わして優勝。マークの岡田も半車輪差で続いて埼京のワンツー。稲毛の番手から西岡が4分の1車輪差で3着。
                         
 優勝した埼玉の平原康多選手は2月の全日本選抜記念を優勝して以来のグレードレース優勝。記念競輪は1月の大宮記念以来の通算9勝目。小松島記念は初優勝。このレースは絶好の位置を確保して,落ち着いて踏み込めたことに尽きるのではないかと思います。結果的には前を取ってすぐに引いたのも,道中で無駄足をまったく使わずに済むことになりましたから,作戦的中であったといえるのではないでしょうか。好調期と不調期がわりとはっきりとしているという印象で,また好調期に入ってきたのではないかと思われますから,この後のGⅠでも期待できそうです。

 ただし,ここで思い出さなければならないことがあります。それは,現在の考察のテーマの主旨に鑑みて,スピノザによる第一部定理二六証明への疑問に対して僕自身が何らかの解答を与えるということには禁欲という姿勢で臨まなければならないということです。そこでもしも僕自身がこの定理を証明するなら,それは結果的にその疑問に対する解答を付与するということに繋がるのはいうまでもありません,ただ,ここに至ってはこの定理がいかなる方法で証明され得るのか,いい換えればスピノザによる第一部定理二六証明は具体的にどのような意味を有しているのかということに立ち入らなければ,積極的というのがどのような意味を有しているのかということも解明できません。普通に考えますとこのふたつはどうしたって整合性を保つことができないものでありますが,とりあえず緊急避難的な対策として,識者はこの定理をどのように証明しているのかという点を考えてみることにします。つまり僕自身の手によって証明するのではなしに,他人による証明を利用するということです。
 実際にはこれは緊急避難にもなってはいません。というのも,定理の証明というのは,定理が真理であるということを示すということです。しかるに,一般的な意味においてひとつの事柄にはひとつの真理しかありません。したがって,定理の証明というのは,実際にはだれが証明しても同じことなのです。これはある事物の真の観念あるいは同じことですが十全な観念というのは,どんな知性のうちにあるとしてもその形相は同一であり,それは神の無限知性のうちにある観念と同じであるという意味ですから,これ以上の説明は不要でしょう。したがって,実際には僕が自分自身の手によって証明しようと,他人の手による証明を利用しようと,同じことであるといえます。それでもなお僕が自分自身で証明することに禁欲的であり続けようとするのは,その方が多少はましであろうというほどのことであって,こうした方法を採用することによって,考察の正当性というものが増大するというように考えているというわけではありません。その点を事前に理解しておいてください。
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棋聖戦&福居説と朝倉説

2013-07-06 19:20:43 | 将棋
 静岡県沼津市で指された第84期棋聖戦五番勝負第三局。
 羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。後手の渡辺明竜王が6筋の位取り。長い長い間合いのはかり合いから決戦に突入すると,いきなり激しくなりすぐに終盤戦となりました。控室の評価ですと先手勝勢に近いくらいまでいったようですが,どうも寄せ損なってしまったようです。
                         
 たぶん先手がおかしくしたのはこの周辺からではないでしょうか。▲4一龍と寄っておくのが普通に思えますが▲3ニ金打。△1三玉▲3三金△同桂▲3二金△2二銀▲2一龍△3二角▲同龍△3一金▲4三龍で後手玉は容易に寄らない形になってしまいました。
                         
 ここから後手が△5七香と反撃。先手も▲3四龍以下よく迫りましたが及ばず,最後は変化も多い長手順の即詰みに討ち取り,後手が勝ちました。
 渡辺竜王がシリーズ初勝利で第四局へ。17日です。

 福居純が直接無限様態は個物であると主張するとき,ふたつの個物のうちres particularisを念頭にそういっているのか,それともres singularisの方を念頭に主張しているかは不明です。あるいは福居はその相違には注目していないと理解することも可能でしょう。ただ,直接無限様態であるのか間接無限様態であるのかということを離れて,無限様態と個物との関係を『エチカ』においてどのように把握するのかということだけを注視するならば,個物の集積として無限様態の一特質を見出すのではなしに,無限様態についてそれ自体をひとつの個物とみなす点において,福居の主張と朝倉説というのは完全に一致しているように僕には思えます。そしてそうであるならば,ここが重要ですが,福居もまた朝倉と同様に,res particularisとres singularisに同一の訳を与えることを否定する可能性もあるように僕には思えます。別のいい方をすれば,福居もまた,res particularisとres singularisは同一の概念ではないと解釈している可能性が残るように思うのです。
 したがって,これらふたつの個物は同一の概念であるから同一の訳を与えても構わないという見解は,すでに朝倉によって共有事項ではないということが明らかになっているのですが,この主張自体が朝倉に独自のものとすら断定できないという状況に,少なくとも僕にとってはなっているのです。これが,このことに関して長々と継続した考察理由となっているのです。
 この考察の契機となったのは,神の決定に従うことがものにとって肯定的な事柄,すなわち積極的であると認め得る事柄であり,神の決定に反することはむしろものにとって否定的な事柄であり,その限りではものは積極的であるとはみなし得ないということを,物の表現という観点から説明したことにありました。そこで,今回の主題である考察に戻ることにしますが,ものにとって何が積極的であるといい得るのかということについての結論を,これ以降の前提条件とします。そこで,そろそろ第一部定理二六を証明することにしましょう。
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スピノザと日本&無限様態と個物

2013-07-05 18:40:58 | 哲学
 『スピノザ入門』の第一章から,面白いなと感じたエピソードをひとつ紹介します。
                         
 スピノザが生きていた時代,オランダは政治状況としてはそんなに安定はしていませんでした。いろいろな出来事が起こっているのですが,1672年にはフランス軍の侵攻というのがありました。
 フランスの侵攻の目的のひとつは,オランダをプロテスタントの同盟国から切り離すこと。このために,フランスは単に軍隊による攻撃だけでなく,宗教的プロパガンダというべき攻撃も仕掛けてきました。これによってオランダ人のキリスト教的評判を貶めようとしたのです。その作戦のひとつとして,フランス軍の統治者の側近であるカルヴィニストの中佐が,オランダ人の宗教という文書,文書といってもこれは誹謗を中心とするものですが,それを出版しています。
 この文書の中で中佐は,オランダがキリスト教教義について放任主義に陥っていると主張しています。そしてその根拠としてふたつの点を提示しています。
 ひとつは,当時のオランダが,キリスト教を敵視する国家と貿易を行っているということでした。この国家とはいうまでもなく日本のことです。このとき日本との通商は東インド会社が一手に握っていましたが,この会社は日本での布教を禁ずる命令を出していたのはもちろん,キリスト教信仰を示すような外見すら禁じていたとのことです。
 もうひとつが,不敬な無神論者を自由に泳がせているという点でした。この無神論者はスピノザです。スピノザに対して何の対抗手段を企てていないという,これはまさにプロパガンダであったと思いますが,そのことでオランダのプロテスタントの牧師の地位を貶めようと考えられたのです。
 カルヴィニスムは反動的な一面があり,宗教的危機には敏感であったようです。そしてその危機の根拠として,スピノザと日本を並列的に書いているというのが,僕には面白く感じられたのです。

 今は間接無限様態と個物の関係が問題となっています。しかし,間接無限様態であるということに固執せずに,単に無限様態と個物の関係をスピノザの哲学においてどのように把握するべきなのかという点に注目するのであれば,実はこのことは,かつて問題としたことがあるのです。
                         
 それは,スピノザの哲学における知性の思惟作用をどのように理解するべきであるのかということを考察したときのことです。僕はこの考察の過程で,福居純の『スピノザ「共通概念」試論』に触れ,そこで福居が,直接無限様態は個物であるという主張をしているということに着目しました。僕はそこで福居が主張している内容は,僕自身の考察と隔たってはいないといい,しかし一方で,直接無限様態は個物であるという主張は,その言明自体を注視する限り,懐疑的であらざるを得ないといいました。
 第二部自然学②補助定理七備考でいわれていること,あるいは朝倉説は,神の延長の属性の間接無限様態に関してであると理解するべきだと僕は思います。一方,福居が主張しているのは,神の思惟の属性の直接無限様態に関してです。ですからその点ではこのふたつの間には何も関係がないといえるのですが,無限様態を個物とみなす点において一致しているということは間違いありません。そしてその点こそが僕にとっては重要なのです。
 無限様態は第一部定理二三で明らかにされているように,第一部定理二一と第一部定理二二のどちらかの様式で発生します。一方個物res singularisは第一部定理二八の様式で発生します。各々の発生の様式が異なるのですから,直接無限様態であろうと間接無限様態であろうと,それを個物res singularisとみなすことは僕はできないと考えています。ただ,僕がここでいいたいのは,そのことではありません。
 朝倉友海が福居の主張を知っているのかそうでないのか,それは僕には定かではありません。ただ,朝倉説の根幹をなす本線は,間接無限様態はres particularisであるという点にあると僕は理解します。一方,福居の説の本線は,明らかに直接無限様態自体がひとつの個物,この場合にはres particularisであるかres singularisであるか不明ですが,この点にあるとしか僕には考えられません。
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竜王戦&間接無限様態と個物

2013-07-04 18:52:16 | 将棋
 第26期竜王戦本戦トーナメントが2日に開幕。いきなり1組3位の羽生善治三冠が登場し,2組優勝の小林裕士七段と対戦しました。対戦成績は羽生三冠の2戦2勝。
 振駒で羽生三冠の先手となり,小林七段が横歩取りに誘導。先手が飛車を引かずに中住いに構えたので,相中住いの相横歩取りに進展しました。
 内容は後手が無理気味の攻めを仕掛け,先手が余しにいったというもの。やや一方的な将棋であったと思うのですが,先手の勝ち方は印象に残りました。
                         
 ここで▲5六飛と打ちましたが,これが決め手でした。詰めろ馬取りですから△同馬しかありません。もちろん▲同歩。△3八飛で一瞬だけは危ない形ですが,▲4九金と打ってしまえばそれまでで,先手の勝勢です。
                         
 羽生三冠が初戦突破。次の相手は森内名人,谷川九段,豊島七段のいずれかです。

 人によっては,res singularisが無限にまで拡大されると間接無限様態となり,res singularisはres particularisであるからres particularisのうちには間接無限様態と個々のres singularisの両方が含まれると考えることと,間接無限様態自体がres particularisであると考えることの間には,問題視しなければならないような差異はないと理解するかもしれません。しかし僕にはそのようには思えないのです。なぜなら,前者の場合,個物をres particularisであるとみるかres singularisであるとみるかの相違というのを脇におけば,個物の無限の集積が間接無限様態であると主張していることになります。というか,この主張を僕はそのように理解します。これに対して後者の場合にはそうではなく,間接無限様態はひとつの個物であると主張していることになると僕には理解できるからです。
 本性から切断された一特質としてみる限り,間接無限様態は確かに個々の物体の無限の集積であるということは,スピノザが第二部自然学②補助定理七備考で示唆していることです。そして物体は延長の属性の個物,res singularisであると考えられます。実際にはスピノザは物体の定義である第二部定義一では,第一部定理二五系すなわちres particularisへの参照を読者に促していますが,物体がres singularisであるという点に異論はなかろうと思います。したがってこの観点から,間接無限様態はres singularisであるという認識は生じ得ます。さらに事物の特質はその事物の本性から必然的に生起します。したがって間接無限様態の本性の認識から,間接無限様態がres singularisであるという認識が生じ得るということを,僕は認めないではありません。
 しかし,間接無限様態はそれがres particularisであれres singularisであれ,個物であるという言明が,真の命題であるかといえば,僕にはそうは思えないのです。
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農林水産大臣賞典スパーキングレディーカップ&朝倉説

2013-07-03 20:32:04 | 地方競馬
 ホクトベガメモリアルの第17回スパーキングレディーカップ
                         
 発馬直後にサダムグランジュテが落馬。先手を奪ったのはサマリーズでメーデイアとナターレが2番手を併走。やや離れてサクラサクラサクラ,レッドクラウディア,クラーベセクレタの3頭。また離れてハルサンサンで,その後ろは大きく離れるというばらばらの展開に。前半の800mは48秒9でハイペース。
 向正面でナターレは後退し,レッドクラウディアが3番手に。メーデイアは3コーナー過ぎにサマリーズの外に並び掛けていき,サマリーズも抵抗して2頭が並んで直線に。直線でもしばし叩き合いましたが,半ばではメーデイアが前に出て,1馬身差で優勝。逃げ粘ったサマリーズが2着。1馬身半差でレッドクラウディアが3着。
 優勝したメーデイアは前々走のマリーンカップ以来の重賞3勝目。ここ一連の成績から,能力最上位と思われましたので,順当な勝利といえるでしょう。芝の前走も着順ほど負けているわけではなく,対応できないというわけではないと思うのですが,ダートの方がよいのは明らか。牝馬ダート路線は今後もこの馬を中心に展開していくことになるだろうと思います。父はキングヘイロー。半姉に2006年の福島牝馬ステークスを勝ったロフティーエイム。Medeiaはギリシャ神話に登場する王女。
 騎乗した浜中俊[すぐる]騎手,管理している笹田和秀調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。

 実際にはres particularisとres singularisに同一の訳を与えて構わない,つまりこれらふたつの概念は完全に重なり合っているということが共有事項であるということは,僕の思い込みにすぎませんでした。僕にそのことに気付かせてくれたのは朝倉友海の『概念と個別性』です。朝倉は本書の第二章において,res particularisとres singularisを明確に分節し,前者を様態一般,後者を個物すなわち有限様態と区別しています。
                         
 僕がどのように考えているのかということについてはすでに説明しましたから,朝倉説についてこれ以上の議論を挑むことはしません。ただ,僕にとって朝倉説の重要な点は,この理解が何を本線として生じてくるのかという点にあるのです。
 僕の理解では第二部自然学②補助定理七備考で述べられている事柄は,res singularisの複雑性を無限に拡大していくと,間接無限様態の一特質の認識に至るということでした。ところが朝倉説はこれとは違っていて,その場合の間接無限様態が,res particularisであるということになるのです。もちろん朝倉説において,res particularisは様態一般を意味しますから,このことは間接無限様態だけがres particularisであるということを意味するわけではありません。res singularisもまたres particularisです。
 実はこの場合には,なぜres particularisという用語が必要になるのかという疑問が生じるのですが,今はこれについて考察はしません。それよりもむしろ,上述のように,朝倉説の本線は,res particularisのうちに間接無限様態が含まれるということを本線としてres particularisとres singularisの使い分けが生じてくるというよりも,間接無限様態はres particularisである,あるいはres particularisでなければならないということを本線として生じているという点に,僕は大いなる関心をもたざるを得なかったのです。
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鳥になって&考察理由

2013-07-02 18:55:37 | 歌・小説
 悪化した精神状態を回復させるために,僕は中島みゆきを利用します。どの曲を利用するかは,精神状態がどのように悪化しているかと関係します。自殺の衝動のような場合でいえば,まず思い浮かぶのが「鳥になって」です。
                         

     眠り薬をください 私にも
     子供の国へ 帰れるくらい
     私は早く ここを去りたい
     できるなら 鳥になって


 これがこの歌の題名として採られている部分。鳥になりたいという願望を有する人間というのはわりと多いのではないでしょうか。ただ,僕にはそういう情念はありません。歌詞としていえば,むしろこちらの方が好きです。

     眠り薬をください 私にも
     子供の国へ 帰れるくらい
     あなたのことも 私のことも
     思い出せなくなりたい


 だれかのことを忘れてしまいたい,思い出せなくなりたいというのは,あり得る願望だと僕には思えます。ただ,自分自身のことも忘れたい,思い出せなくなりたいというのは,願望としては自分の中にもあると思うのですが,それはこのようにことばにされることによって,初めて気付くことができた願望であったような気がします。
 この歌は自分が消えてしまいたいということ,つまり自殺の衝動そのものを率直に歌詞にしてあるのであって,それに対する慰めとか励ましとかではありません。でもその率直な衝動を聴き,また自分でも口にすることで,なぜか回復の効果が発生するのです。

 これでなぜ僕がres particularisとres singularisに個物という同一の訳を与えて構わないと考えているのかということについてはご理解いただけたのではないかと思います。そこで最後に,なぜ長々とこれに関する考察を続けてきたのかということの理由を説明しておきましょう。というのも,今回の考察のテーマである,『エチカ』ないしはスピノザの哲学において,積極的であるということがどのような意味であるのかという観点にだけ注目するのであれば,この部分の考察はそれとは直接的には関係しませんから,なぜそのような無関係の考察を延々と継続するのかということに関しては,疑問が生じた方がいらっしゃったであろうと推測するからです。
 実は岩波文庫版の訳者である畠中尚志がそうしているように,res particularisとres singularisを両方とも個物と訳すことについて,僕はつい最近まで何の疑念も抱いていませんでした。もっとも,僕が疑念を有していないということはこの場合には大した問題とはなりません。なぜなら,仮に僕自身がスピノザの哲学に関係するある事柄の理解に何の疑念を有してはいないのだとしても,現にそれに疑念を抱く識者というのが存在する,あるいは存在したのだとすれば,それに対して僕は疑念を抱かないことの理由というのを説明する必要があるといえるからです。たとえば,第一部定理五に関していえば,僕はそれに少しの疑問も抱いたことはありません。しかしこの定理Propositioに対してはライプニッツの疑問というのがあって,それに対する僕の解答として,かつてはこの定理をテーマとして設定して考察しました。つまりいい換えれば,考察の必要性がない,あるいはないといえないまでも希薄であるという場合というのは,単に僕がその事柄に一切の疑問を抱いていないという点に存するのではなく,むしろその事柄の疑念のなさ,つまりそれは真理性のことですが,それが共有されているという点に存するのです。そして僕はつい最近まで,res particularisとres singularisに同一の訳を与えるということ,もちろんこれは日本語に特有の課題で,正しくはres particularisとres singularisが同一の概念notioであることについてというべきでしょうが,それは共有事項なのだと理解していたのです。
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