スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
先月のことになりますが,『なぜ漱石は終わらないのか』という本を読み終えました。簡単にどんな内容の本であるのかを紹介しておきます。
発売されたのは昨年の3月。河出書房新社の文庫本です。基本的に石原千秋と小森陽一の対談集。文庫版まえがきと初版あとがきを石原千秋が,初版まえがきと文庫版あとがきを小森陽一が担当しています。
元になっているのは『漱石激読』というタイトルの,やはり河出書房から出版されたもの。その出版は2017年です。まえがきとあとがきに文庫版と初版の区別があるのは,文庫版というのは文庫版化されるにあたって書き下ろされたもので,初版というのは,2017年に出版されたもののために書かれたものということです。僕が読んだものが出版されたのは昨年の3月といいましたが,中身の多くは2017年には書籍化されていたということになります。ただし,文庫本化されるにあたって追加の対談を石原と小森はしていますので,その部分に関してはこの『なぜ漱石は終わらないのか』で読むことはできますが,『漱石激読』では読むことはできません。まだどちらも読んでいないという方は『なぜ漱石は終わらないのか』を読むほうがよいでしょうし,『漱石激読』は読む必要はないかと思います。
『漱石激読」の元となった対談は,2016年4月7日が最初で,これは『文学論』に関連するものでした。雑誌『文藝』の別冊に掲載するための企画でした。ですからこの部分はその雑誌でも読める筈です。後先は分かりませんが,対談は継続することが決定。6月24日に漱石が朝日新聞に入社する以前の作品,7月15日に『虞美人草 』と『坑夫 』と『夢十夜』,9月2日に『三四郎 』と『それから 』と『門 』,同月16日に『彼岸過迄 』と『行人 』と『こころ』,そして同月29日に『道草』と『明暗 』の対談が行われました。これでみれば分かるように,漱石が書いたものの大部分を対象とした対談です。
文庫化に当たっての対談の日時は不明です。この対談が『漱石はなぜ終わらないのか』というテーマで,それがそのまま文庫本のタイトルとなっています。
『はじめてのスピノザ 』と同じように入門書である『スピノザの世界 』で上野修がいっているように,『エチカ』には思考実験という側面があります。つまり,たとえば神Deusなら神で,それが世間的にいわれていることに合致するように定義した上で,共通概念notiones communesとしてだれも否定することができない公理Axiomaと組み合わされることによって,どのような結論が定理Propositioないしは系Corollariumとして導き出されるのかを実験する場であったという側面があります。したがって,『エチカ』に示されているある定理なり系なりをひとつ抽出して,その結論を出すためにスピノザは『エチカ』という公理系を産出したといえるかというと,必ずしもそうはいえないような定理なり系なりが『エチカ』には含まれていると考えておく方が僕は安全だと思います。他面からいえば,『エチカ』の定理や系の中には,当初からスピノザが導き出そうとしたものだけが含まれているというわけではなく,公理系を展開していく中で,当初の意図とは無関係に証明されていったものがいくつか含まれていると考えておくのがよいだろうと僕は思います。
だから,スピノザが世間でいわれている神というものの考え方をしっかりと定義して,それを逆手にとって神についてのいくつかの真理veritasを導き出そうという意図をもっていたかといえば,それは僕は疑問に感じます。ただ,國分が指摘しているように,スピノザはそれを逆手に取ったのだという考え方自体は,有益であると思います。なぜなら,このように考えることで,スピノザが神として定義している実体substantiaがどのようなものであるかということ,國分のいい方に倣えば,それは宗教的なものではなく自然科学的なものであるということを,より容易に理解することができるであろうからです。とくにスピノザの思想に慣れていなければ慣れていないほどこのことが成立するように僕には思えるので,入門書におけるこのような指摘は,きわめて有益なものであると僕は思うのです。一般的には神というのは宗教的なものであるとみなされていますから,それを逆手に取ったものとすれば,まさに一般的にそのようにみなされている神という概念から哲学を始められるからです。
静岡記念の決勝 。並びは吉田に守沢‐成田の北日本,渡辺‐深谷‐郡司‐佐々木の南関東,清水‐松浦の中国。
スタートを取ったのは成田。吉田の前受けとなり,4番手に渡辺,8番手に清水の周回に。残り3周のバックの入口から清水が上昇。バックでは渡辺に蓋をしました。コーナーで渡辺が引いたので清水が4番手で渡辺が6番手に。成田と清水の車間が開きましたが,ホームで清水が上昇。出口で吉田を叩きました。その外から清水ラインを追って上昇してきた渡辺が発進。ラインの4人で清水を叩いて打鐘。5番手になった清水はホームからすぐに巻き返しにいきましたが,深谷が合わせて番手から発進。このために清水は不発になりました。後方になった吉田がバックから捲ってきたものの,これは最終コーナーで郡司に牽制されて失速。吉田を止めた郡司がそのまま踏み込み,直線で深谷を差して優勝。深谷が4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。失速した吉田から郡司に切り替えた守沢が4分の3車身差で3着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年10月の熊本記念 以来の優勝で記念競輪15勝目。静岡記念は初優勝。このレースは渡辺が早めに先行して深谷の番手捲りという展開が濃厚なので,深谷と郡司の争いになるだろうと思っていました。このラインの4番手を回る佐々木はこのレベルでは経験に欠けているので,吉田か清水のどちらかが郡司の後ろには入れるのではないかとみていたのですが,佐々木まで続いての先行になりましたから,深谷と郡司にとってはなおのことよい展開となりました。郡司は捲ってきた吉田を止めていますから,仕事をした上での優勝といえ,これは見事でしょう。5番手の清水がホームから早めに巻き返そうとした分,深谷の発進が少し早めになったことが,深谷と郡司の差になって表れたといえそうです。
まず,スピノザの哲学が汎神論 であるとして,どのような意味で汎神論といわれるべきかということを確認しておきます。一口に汎神論といっても,いくつかのタイプの汎神論がある筈で,スピノザの哲学がどういうタイプに属するかを確認しておくことはとても重要です。
第一部公理一 は,存在するものはそれ自身のうちにあるesse in seかほかのもののうちにあるかのどちらかであるといっています。このうち,それ自身のうちにあるものは第一部定義三 により実体substantiaといわれます。またほかのもののうちにあるものは,第一部定義五 により様態modiといわれますが,様態は実体の変状substantiae affectioと同じです。いい換えれば様態的変状modificatioに様態化した実体というのと同じです。したがって,自然Naturaのうちに存在するものは,実体であるか様態すなわち実体の変状あるいは様態的変状に様態化した実体のいずれかであって,それ以外のものは自然のうちには何も存在しません。
第一部定理一四 により,自然のうちに実在する実体は神 Deusだけです。よって自然のうちに存在するのが実体と様態のいずれかであるとするなら,自然のうちに実在するのは神か,神の変状あるいは様態的変状に様態化した神のいずれかです。したがって,自然のうちに様態として存在するあらゆるもの,とくに有限様態として存在する個物 res singularisというのは,その個物という様態的変状に様態化した神なのです。このような意味でスピノザの哲学あるいは思想は汎神論であるということになります。他面からいえば,スピノザの哲学のことを汎神論という場合には,以上の事柄が踏まえられていなければならないのであって,とくに自然のうちに存在するいかなる個物も,様態的変状に様態化した神であるということが,汎神論ということの意味のうちに含まれていなければならないのです。國分が指摘しているように,スピノザの汎神論というのは,宗教的な要素は含まれていないのであって,むしろ自然科学に近似した思想であるといえます。
『はじめてのスピノザ 』では,この種の汎神論が帰結するのは,絶対者としての神という世間の見解opinioを逆手に取ったものだといわれています。ただしスピノザにそういう意図があったかはまた別です。
一昨日と昨日,立川市で指された第72期王将戦 七番勝負第四局。
羽生善治九段の先手で角換わり相腰掛銀 。玉の形に新しい工夫を凝らした先手から仕掛け,駒損の攻めを敢行しました。なので焦点は先手が攻め切るか,後手の藤井聡太王将が受け切るかという一点に。
大きな分岐となったのは封じ手 で,ここは玉で取る手と銀で取る手のふたつがあり,実戦は玉で取った ことによりAIの評価値は大幅に下がりました。
この将棋を後手が勝つパターンは,受け切るかさもなければどこかでカウンターの反撃を決めるかです。このとき,Aという手は評価値は下がらないけれども先手の攻めは長く続き,Bという手は評価値は下がるのだけれどももしも先手が攻め続けるには怯むところがあってはならないとすれば,人間と人間が戦う場合にはBの方が後手が勝つ可能性が高いという場合があります。なので後手が玉で取る方の手を選んだことに理由がないわけではないように思います。
実戦は先手が怯まずに攻めを継続していったので,後手が銀をただで取らせるような受け をしなければならなくなり,先手は駒損を回復することができたので局面がはっきりしました。先手としても攻め続けるほかなかったので仕方がなかったという面もあるでしょうが,怯まずに攻め続けたことで先手が勝利を引き寄せた一局だったと思います。
羽生九段が勝って2勝2敗 。第五局は25日と26日に指される予定です。
人の噂も75日という諺があります。この諺なども,第五部定理四二備考 でスピノザが無知者について語っている部分を利用して説明することができるでしょう。すなわち他人の噂をするような人間は無知者なのであって,75日も経てばその噂は消えてしまう,つまり噂をするような無知者は無知者として存在することをやめるようになるという観点です。そしてなぜ存在することをやめるようになるのかといえば,それは噂の対象となっている人の表象像imagoという点からみれば,第二部定理一七 の様式で,その人の表象像から別の表象像へと移行するからです。またそうした噂をすることへの欲望 cupiditasという点からすれば,第四部定理七 の様式で,より強力な感情affectuによってその欲望が排除されるからです。備考Scholiumの中でいわれているように,無知者というのは外部の原因causaから様ざまな仕方で揺り動かされているのですから,そうした人の表象像も受動的な感情も,排除されやすいものだといえるでしょう。つまり,他人の噂をするような人間は,ある人の噂から別の人の噂へ,またさらに別の噂へと移ろいやすいものなのです。ですから人の噂も75日という諺は,スピノザの哲学から照らし合わせてみて,ある真実をいっているといってよいでしょう。
この諺がどういう経緯でいつごろから広く使われるようになったのかということは僕は分かりません。ただ,この諺が広まった時代と比べれば,現代は情報の量というものが格段に増えていることは間違いないと思います。情報の量が増えているというのは,他人の噂をするような無知者の精神mensを揺り動かすような外部の原因が大幅に増加しているという意味です。ですから現代では75日も継続するならそれはよほど強力な噂であるといえるかもしれません。むしろもっと短い周期で,無知者はあるある噂から次の噂へ,そしてまた別の噂へと移っていくものなのであって,それだけ頻繁に存在することをやめては別のところに存在するようになるということを繰り返していくことになるといえそうです。
これで『はじめてのスピノザ 』の第一章の無知者に関連する考察は終了します。次に同じ章の中の,汎神論 に関連する部分を考察します。
昨日の第50回佐賀記念 。
サバンナロードは加速が鈍く1馬身の不利。逃げたのはディバッセで2番手にバーデンヴァイラー。3番手にジャズブルースとデルマルーヴル。5番手にリュウノシンゲン。6番手にカフジオクタゴン。差が開いてラッキードリームとミスカゴシマ。9番手にマイネルモーディグ。2馬身差でシンコウマーチャン。3馬身差でサバンナロード。4馬身差の最後尾にグレイトパールという隊列。スローペースでした。
向正面でデルマルーヴルが単独の3番手に。追い上げが来る前に2番手のバーデンヴァイラーがディバッセに並び掛けていくと一時的に2番手と3番手の差が開きました。デルマルーヴルの後ろまで追い上げてきたのがカフジオクタゴン。3コーナーを回ると外からバーデンヴァイラーがディバッセの前に出ました。その外から追ってきたのがデルマルーヴルで,内から追い上げてきたのがカフジオクタゴン。単独の先頭で直線に入ったバーデンヴァイラーはそのまま後続を寄せ付けずに快勝。内を回った分,カフジオクタゴンが一旦は2番手に上がっていましたが,外からまたデルマルーヴルが差し返して1馬身差で2着。カフジオクタゴンがクビ差で3着。
優勝したバーデンヴァイラー はマーキュリーカップ 以来の勝利で重賞2勝目。このレースはあまりレベルは高くなく,重賞を勝っているこの馬は実力上位。マーキュリーカップを勝って以降の2戦は大敗していますし,ここももう能力の限界がみえているといっていいデルマルーヴルが2着ですから,上位レベルとはまだ差があるとみていいでしょう。父はドゥラメンテ 。祖母がキョウエイマーチ で9代母がシュリリー 。ふたつ上の半姉が2021年のNARグランプリ で特別表彰馬に選出されたマルシュロレーヌ 。Badenweilerはドイツの行進曲の名称。
騎乗した福永祐一騎手と管理している斉藤崇史調教師は佐賀記念初勝利。
なぜこのような人びとをスピノザがいう意味での真の無知者であると断定することができるのかといえば,それは第五部定理四二備考 でスピノザがいっている無知者の行動に,こうした人びとが該当するからです。スピノザがいっているように,確かにこのような人びとは,外部の原因 causaから様ざまな仕方で揺り動かされているだけであって,その働きを受けるpatiことをやめると同時に,存在することもやめるでしょう。なお,ここで存在することをやめるということがどのような意味であるのかということはすでに詳しく考察しましたので,ここではそれを繰り返すことはしません。
たとえばインターネット上のいわゆる炎上の尻馬に乗る人は,格好の標的を見つけるや否やその炎上の対象となっている者を叩きます。それはその人の現実的本性actualis essentia,いい換えれば第三部諸感情の定義一 の,受動的な欲望 cupiditasによるものであると説明することができます。しかしその欲望がいかに強力なものであっても,第四部定理七 の様式でより強力な感情affectuによって排除されるときが来ます。あるいは感情としてでなく単に観念ideaとして説明するなら,第二部定理一七 の様式によってその炎上の観念は別の観念によって排除されるときが来ます。分かりやすくいえば,別の標的を発見した場合はこうしたことが妥当するのであって,そのとき,Aを叩いていた人はAを叩くことをやめ,新たな標的であるBを叩くことに夢中になるのです。それはAの炎上の観念がBの炎上の観念によって排除されたからだともいえますし,Aを叩こうとする欲望がBを叩こうとする欲望によって排除されたからだともいえるでしょう。そしてこれと同じことがBの場合も生じるのであり,その炎上の観念も叩こうとする欲望も,別の標的たとえばCの発見によって排除されることになるでしょう。
ですからこの人は,Aを叩いている無知者としては存在することをやめるのです。そしてそれは真の意味でやめるということであって,標的がBになったら,その人はもうAのことを省みることすらしなくなるでしょう。ですからこのような行動というのは,スピノザがいう意味で無知者の行動であると断定することができるのです。
ダイオライト記念トライアルの昨晩の第59回報知グランプリカップ 。笹川騎手が病気のためリンゾウチャネルは藤本騎手に変更。
徐にアナザートゥルースがハナに立ちました。ゴールドホイヤーとギガキングが2番手。4番手にゴライアスとジョエル。6番手にビービーガウディとロードゴラッソ。7番手にチャイヤプーンとソッサスブレイとリンゾウチャネル。3馬身差の最後尾にトーセンブルで発馬後の正面を通過。向正面に入ると併走状態が解消されていき,前からアナザートゥルース,ゴールドホイヤー,ギガキング。2馬身差でゴライアス。ジョエル。2馬身差でビービーガウディ。ロードゴラッソという隊列に。最初の800mは51秒2のミドルペース。
3コーナーから前の3頭が併走状態になり,雁行で直線に。真中のゴールドホイヤーがそこから脱落。併走になった時点では最も手応えが悪そうだったのが外のギガキングだったのですが,最後までしっかり伸び,逃げ粘るアナザートゥルースを差し切ると楽に抜け出して優勝。アナザートゥルースが2馬身差で2着。大外を伸びたロードゴラッソが一杯になったゴールドホイヤーを差して1馬身半差で3着。後方だったリンゾウチャネルが4分の3馬身差の4着でゴールドホイヤーはアタマ差で5着。
優勝したギガキング は前走のオープンからの連勝。南関東重賞は昨年の報知グランプリカップ 以来となる3勝目。報知グランプリカップは連覇で2勝目。このレースは実力上位と目された馬が上位を占める順当な結果でした。ギガキングは3コーナーあたりからの追走に不安を感じさせましたが,ギアが一気に上がらないというタイプなのであれば,もっと長い距離の方がよいのかもしれません。いずれにしても南関東重賞では上位レベルにあるとみてよいでしょう。船橋に良績が集中しているのが気になるところで,そこは今後の課題なのかもしれません。父はキングヘイロー 。母の父はバブルガムフェロー 。従姉に2018年に愛知杯を勝ったエテルナミノル 。従兄には2019年のNARグランプリ でダートグレード競走特別賞に選出されたオメガパフューム 。
騎乗した大井の和田譲治騎手は船橋記念 以来の南関東重賞12勝目。第58回からの連覇で報知グランプリカップ2勝目。管理している船橋の稲益貴弘調教師は南関東重賞6勝目。報知グランプリカップは連覇で2勝目。
スピノザ主義という語は,他人を侮辱するための語となっていったのですが,だからといってある人間をスピノザ主義者であるといって他者を批判するとき,批判をする当の人間が,スピノザの思想に触れたことがあるとか,スピノザの著書を読んだことがあるとは限りません。要するに,スピノザの哲学については何も知ってはいないような人が,スピノザ主義という語をもって,他者を批判するというような事例が,僕はそれを目撃したというわけではもちろんありませんが,あったであろうと推測されます。たとえばスピノザは,オルデンブルク Heinrich Ordenburgに宛てた書簡六十八の中で,自身に好意を有していると疑われている愚かなデカルト主義者たちが,その疑いを取り去るために,スピノザの見解opinioや著作を罵倒することをやめないといっています。ではそうしたデカルト主義者たちがスピノザの思想なり著作なりを確かに理解していたかは疑問ですし,そのデカルト主義者たちがスピノザに好意を抱いているのではないかという疑問を感じた人びとについては,なおさらそのようにいえるでしょう。ですから,スピノザのことをよく知りもしない人が,スピノザ主義者ということで他者を非難するという事象は確かにあったのだし,それもしばしばあっただろうと推測されます。
國分はこの種の現象は現代でも変わらないのだといっています。週刊誌がだれかを叩くことがあれば,猫も杓子もその尻馬にのって叩き始めるということは現代でもあります。同様に,インターネット上で炎上といわれる事象が生じると,我も我もと批判を始めるというようなことは,むしろ現代であるからこそ生じるといっていいでしょう。そうした批判をする人間が,批判される人間のことをよく知っているのかといえば,必ずしもそうではないということは,容易に理解することができるのではないでしょうか。
第五部五定理四二備考 で,スピノザが無知者について語っているとき,その無知者の実例に該当するのが,実はこうした人びとのことなのです。他人の尻馬に乗って我も我もと追随するような人びとは,すべからくスピノザがいっている意味で真の無知者であると断定して間違いありません。
僕がこのブログで確知する certo scimusということをどのような意味で用いているのかということを説明し,さらにそのときにとくに注意しておいてほしいふたつのこと,ひとつは確知と確実性 は異なるということ,そしてもうひとつは,確知することと疑わないこと の間に僕はほぼ差異を設けないということ,より正確にいえば僕にはその間に差を設けるということができないということも説明しました。なのでここからはそこまでの考察に戻り,これらのことを踏まえて,第四部序言で善bonumは僕たちが形成する人間の本性の型 に近づく手段になるものを確知するといったり,悪malumはその型に一致するようになるのに妨げになることを確知するといっている場合,および第四部定義一 と第四部定義二 で確知するといわれているとき,その確知するというのをどのような意味で把握するべきなのかを考えてきます。
まず,第四部定義一でいわれている確知するというのは,僕がこのブログで用いている意味で解して問題ありません。このことはこの定義 Definitioそのものよりも,第四部定理八 と関連させれば容易に理解できます。そこでいわれているように,僕たちにとっての善とは,僕たちが意識する喜び laetitiaにほかなりません。そこでもしも現実的にXという人間が存在し,かつ自身が喜びを意識しているとして,本当に自分は喜んでいるのだろうかというように疑うということは,ことばの上では可能であっても実際にそのような思惟作用がその人間に発生することはありません。ある人間が喜びを意識するとは喜んでいるから意識するのであり,自分が喜んでいることを知っているのと同じことだからです。
次に喜びは,能動actioでもあれば受動passioでもあり得ます。能動の場合は,疑い得ないという意味で確知していることになります。受動の場合は疑っていないという意味で確知しているのです。つまり,能動の場合は十全な観念idea adaequataであるがゆえにそれを疑い得ず,受動の場合は混乱した観念idea inadaequataを疑いません。なのでこの場合は僕がいっているような意味で確知するといわれていると解するのが,むしろ適切だといえるでしょう。
前もっていっておいたように,第五部定理四二備考 で,無知者が存在することをやめるといわれていることの実例を,『はじめてのスピノザ 』の中で國分は示しています。これは現代社会におけるインターネット上の炎上といわれる事象ですが,その前に,そのことがスピノザの人生と関連させて説明されていますので,そちらから紹介していきます。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』は1670年に発刊されました。これは匿名での出版でしたが,著者がスピノザであることはほどなく周知の事実となりました。スピノザがライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに宛てた書簡四十六 は,1671年9月に送られたものですが,その中でスピノザは私の『神学・政治論』といういい方をしていますので,すでにその時点でスピノザは,『神学・政治論』の著者が自身であることをとくに隠そうとはしていなかったとみることができます。もちろんこれはライプニッツがそれを知っていたからそのようにしたとみることもできますが,自身が著者であることを隠そうという意図がスピノザにあれば,わざわざそのようなことを追記する必要がないので,著者がスピノザであるということは半ば公然の事実になっていたとみてよいだろうと思われます。
『神学・政治論』がそれでも発刊できた理由のひとつは,このときは議会派のヨハン・デ・ウィット Jan de Wittがオランダ政治の実権を握っていたからです。デ・ウィット自身は民主主義者であったわけではないので,『神学・政治論』の内容に不快感を抱いたと『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』ではいわれていますが,だからといってデ・ウィットは出版の自由や思想の自由をおいそれと否定するような人物ではなかったのです。ところが1672年にデ・ウィットは群衆によって虐殺され,これ以降はオランダ政治の実権は王党派 にわたることになりました。もちろん王党派の中にもたとえばフッデ Johann Huddeとかコンスタンティン Constantijin Huygensのように,スピノザと親しく付き合い,またスピノザに同情的であった人もいます。しかし基本的に王党派は反動的勢力であり,そのこともあって『神学・政治論』は1674年には発売禁止の処分を受けました。そしてスピノザ主義は,他人を侮辱する語となっていきました。
5日に関根名人記念館 で指された第49期女流名人戦 五番勝負第三局。
伊藤沙恵女流名人の先手で西山朋佳女王・女流王将のノーマル三間飛車 。後に四間飛車に戻りました。先手が右の金を繰り出して押さえ込みにいく将棋。
4四に歩が垂れていることと,角の働きに差があるので,この局面はすでに先手が指しやすそうです。後手は☖5五歩と打ったのですが,これで戦況が著しく悪化することになりました。
☗4五金☖5三飛☗5四金☖同金☗4五銀☖6三銀 ☗5四銀☖同銀☗4三金と進展しました。
この展開は先手の攻め駒が後手の受けの金銀を相手に存分に捌けた上,角の活用も見込めるようになり,先手の大優勢。以下ほとんど一方的な内容で先手が勝っています。後手の序盤に過失があったということでしょう。
伊藤女流名人が勝って1勝2敗 。第四局は24日に指される予定です。
ある観念idea,たとえばその観念を認識するcognoscere人間の中に起こることの観念が,その人間の精神mens humanaだけに帰せられる場合に混乱した観念idea inadaequataであるなら,その人間の精神の本性essentiaを構成する限りで,あるいは同じことですがその人間の身体humanum corpusの観念を有する限りで神Deusのうちにあるその観念は,混乱した観念です。この混乱した観念は,それを認識する人間が部分的原因causa partialisとなって発生します。そこでこの人間をAとし,Aにとっての外部の物体corpusであるXが共に部分的原因を構成している場合は,Aの身体の観念を有すると共にXの観念を有する限りで神のうちにある,Aの中に起こることの観念は十全な観念idea adaequataであることになります。現実的に存在する人間が悲しみtristitiaを感じる場合は,常にこの様式が適用されます。
喜びlaetitiaの場合はこれと異なります。いうまでもなく第三部定理五九 により,働きをなすagit限りにおいての喜びが存在し得るからです。したがって,喜びの場合は悲しみと同様の様式で神に帰せられる限りで神のうちで十全adaequatumであるという場合もあるのですが,そうではなく,喜びを感じる人間の身体の観念を有する限りでの神に帰せられるだけで,その観念が神のうちで十全であるという場合もあり得るのです。いい換えれば,Aの中に起こることに対してAが十全な原因causa adaequataであるという場合,つまりAの能動actioによって生じる場合があるということになります。つまり,中に起こることというのを僕のように解すると,Xの中に起こることが,Xの能動によって発生する場合があるというように解しておく方が,少なくとも解釈上は安全であると僕は思います。ですから,たとえXの中に起こることというのを,Xの本性ならびに形相formaに変化を齎すことと解するとしても,そうしたことは常にXの受動passioであるというわけではなく,Xの能動でも生じると僕はいっておきます。Xが喜びを感じるとき,Xはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行しているのですが,この移行transitioはXの現実的本性actualis essentiaの移行,すなわちXの中に起こることと解することができる要素を含んでいて,かつそのことはXの能動によって発生し得るからです。
補足が長くなってしまいました。『はじめてのスピノザ 』に戻ります。
長野市で指された昨日の第48期棋王戦 五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王 が2勝,藤井聡太竜王が12勝。
振駒 で藤井竜王が先手となって角換わり相腰掛銀 。9筋を受けなかった後手の渡辺棋王から仕掛けて馬を作りました。その後は先手が反撃に転じ,その攻めが続くのかそれとも切れてしまうのかという将棋に。最大のポイントとなったのは以下の局面であったようです。
ここで後手は☖8五桂と打ち☗2四香 以下,攻め合いの手順に進めました。ただこれは攻め合いの過程で先手の7八の金が7七~8六~7五 と進出して後手の馬と交換になり,先手がはっきりと優勢になりました。後手は先手の攻めを切らせるのが勝つための唯一の方法であったようで,なので第1図も☖2三同金と取って徹底して受けに回るほかなかったようです。
藤井竜王が先勝 。第二局は18日に指される予定です。
僕は第二部定理一二 でいわれている中に起こること というのを,その人間の身体humanum corpusの本性essentiaならびに形相formaに変化を齎すことと解しているわけです。したがってもしもAが現実的に存在していて,Aの身体の本性および形相に変化が生じれば,そのことはAの精神mensにって認識されることになります。一方,僕は感情affectusというのを,人間の身体に起こることであると同時に,人間の精神mens humanaによっても認識されることと解しています。このとき,Aは現実的に存在している限り,何らかの感情,たとえば喜びlaetitiaを感じることがあり,それは精神によっても認識されるでしょう。ではなぜAがそれを認識するcognoscereのかといえば,それはAの身体の中に起こっていることであるからだと僕は考えるのです。確かにAはその喜びを感じたとしても,Bという別の人間になるというわけではありません。このような意味ではAの現実的本性もその形相も変化はしないというべきです。しかし,身体の中に起こることというのを僕のように解する限り,Aが何らかの感情,といってもすべての感情は基本感情affectus primariiである欲望cupiditasと喜びと悲しみtristitiaに還元されるのですから,Aが欲望を感じ,また喜びを感じ,そして悲しみを感じるということは,現実的に存在するAの身体の中に何かが起こっているからだとしなければならないと思うのです。そうでなければ,現実的に存在する人間は一切の感情を感じないというか,これ以外のシステムで感情を認識するといわなければなりませんが,前者は明らかに不条理ですし,後者は,欲望についてはそういえないことがないにしても,喜びと悲しみに関してはそうしたシステムを構築することができないと僕は考えるのです。したがって,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性に移行すること,そしてより大なる完全性からより小なる完全性へと移行するということは,そうした移行transitioをしている人間の身体の現実的本性actualis essentiaに変化が齎されているということであると僕は解します。
現実的に存在する人間が何らかの悲しみを感じるということは,その人間が部分的原因causa partialisとして生じる受動passioです。したがってその観念ideaは,その人間の精神にだけ帰せられる場合は混乱した観念idea inadaequataであることになります。
奈良記念の決勝 。並びは阿部‐新田‐佐藤の北日本,皿屋に柏野,中西‐山田‐三谷‐栗山の近畿。
三谷と新田がスタートを取りにいきました。新田の方が外だったのですが加速力で上回り誘導の後ろに。阿部の前受けになりました。4番手に中西,8番手に皿屋で周回。残り3周のホームから皿屋が上昇。これは誘導との車間を開けていた阿部が対応して突っ張りました。皿屋が引いたところで中西が発進。ホームで阿部をかまして前に。栗山は離れ,三谷の後ろに阿部という隊列に。打鐘後のホームに戻って阿部が叩き返しにいきましたが,残り1周から山田が番手捲りを敢行。阿部は不発になったので今度は新田が発進。バックから三谷が牽制しつつ発進。直線の入口まで三谷と新田のつばぜり合いになりましたが,三谷が制して新田は失速。そのまま単独の先頭に立った三谷が優勝。新田が一杯になったので三谷に切り替えた佐藤が1車輪差で2着。後方からの捲り追い込みになった皿屋の番手からコーナーで内を回った柏野が1車身差で3着。大外を回った皿屋が半車身差の4着で新田は4分の1車輪差で5着。
優勝した奈良の三谷竜生選手は前回出走の京王閣のFⅠからの連続優勝。記念競輪は2019年の伊東温泉記念 以来となる6勝目。奈良記念は2018年 以来の2勝目。この開催は有力と目された選手のうち,脇本が腰痛で欠場,古性は失格,平原は落車と次つぎに脱落していきました。なので決勝に残ったメンバーでは新田と佐藤が上位。ただ近畿勢の並びからしてどう考えても早めに先行しての二段駆けという展開になりそうで,新田の脚力であればそれは乗り越える可能性もあると思いましたが,阿部が前を回るのでどうかとみていました。阿部も先行意欲は高かったと思いますが,皿屋を突っ張ってすぐに中西に来られたので,不意を突かれてしまったのでしょう。その点では中西が発進するタイミングがうまかったといえそうです。新田が三谷との競り合いに負けたのは,展開もあったでしょうが,発走直後に前を取るためにいくらか脚を使ったことも影響したかもしれません。各自がそれぞれの役回りで力を出したよいレースだったと思います。
第三部諸感情の定義二 から分かるように,喜び laetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioを意味します。つまり,現実的にAという人間が存在して,このAが何らかの喜びを感じるということは,Aがより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを意味します。
完全性というのは第二部定義六 により,実在性 realitasと同じです。だから,現実的に存在するAがより小なる完全性からより大なる完全性に移行するということと,Aがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのと同じ意味であることになります。
スピノザの哲学で実在性とは何かといえば,それは力 potentiaという観点からみた本性 essentiaにほかなりません。したがって,Aの実在性とAの本性は,実在性とか本性というものを,どのような観点から理解するかという差異にのみ帰せられます。よってAがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのは,力という観点からみる限り,Aがより小なる本性からより大なる本性へと移行するということと同じでなければなりません。ただし,こうした移行というのは,Aが現実的に存在する限りで生じることですから,このようにいわれる場合の本性というのは,現実的本性actualis essentiaでしかあり得ず,Aのあるいは人間の形相的本性essentia formalisではあり得ません。つまり,現実的にAが存在して,そのAが喜びを感じるということは,力という観点からみる限りで,Aがより小なる現実的本性からより大なる現実的本性へと移行するということを意味するのです。
この現実的本性の移行が,AにとってAの中に起こることといえるのかどうか,いい換えればAの本性ならびに形相に変化を齎しているといえるのかということについては,いえるという見解もいえないという見解もあり得るというように僕には考えられます。単純に現実的本性をAの本性と解すれば,それが小なる現実的本性から大なる現実的本性へと移行するのですから,Aの現実的本性に変化が齎されているといえるでしょう。しかし,Aという人間がいくら喜びを感じたとしても,Aの形相が変化しているわけではない,つまりAがBになるわけではないので,変化は齎されていないともいえます。
天龍の雑感⑭ の最後のところでいった,ジャンボ・鶴田 の対戦相手に対する態度について,天龍は,鶴田はプライドが高い人間で,常にエースでなければいけないと思っていたのだということを理由としています。一般的な意味で鶴田のプライドが高かったかは僕には何ともいえません。ただ天龍はそのプライドの高さを,常にエースでなければならないという人間性に求めていて,かつこの部分では鶴田友美という本名を出していますので,天龍にはそう見えていたのでしょう。また,プライドの高さというのが天龍がいっている意味であるなら,そういう意識が鶴田の中にあったのだろうと思います。とはいえそれをファンに対してアピールするだけでなく,ファンには分からないような仕方で対戦相手に対してみせるというのは,プロレースラーとしては異常であるように僕は感じます。
天龍はそれを,鶴田の入門にまで遡って説明しています。つまり鶴田には,プロレスに入門した頃からそうしたプライド,ほかのプロレスラーたちとは違うのだという意識があったのだと天龍はみているわけです。鶴田は全日本プロレスに就職するといういい方で入団したのですが,そこには食うために仕方がなくプロレスラーになったのではないという意識があったのだと天龍はみています。いい換えれば鶴田は,自分は食うつまり金を稼ぐための手段ならば,プロレスラー以外にもいくつもの道があったのであって,プロレスラーにならなければならなかったというわけではないし,もっといえばプロレスラーになりたかったから,いい換えればプロレスとかプロレスラーに憧れがあったからプロレスラーになったわけではないと天龍はみているわけです。このこと自体はそっくりそのまま正しいわけではないでしょうが,鶴田の中にそのような意識がなかったわけではないと僕は思います。しかし少しでもそういう思いを抱えてプロレスラーになるというケースはほとんどない,あるいは皆無といってもいいでしょうから,プロレス業界の中で,鶴田は異色な存在であったのは確かだと思うのです。
こうしたことを踏まえた上で,天龍はジャンボ・鶴田という選手に対する総評を述べていますので,次回はそこをみていくことにします。
現実的に存在する人間が十全な原因causa adaequataとなって,その人間の中に何かが起こり得るとすれば,その中に起こることの観念ideaは,その人間の観念を有する限りで神Deusのうちでも十全adaequatumであるという説明も僕がしておいた理由というのは,概ね以下のようなものです。
一般に人間の本性natura humanaを考えるなら,それは第二部定理八 でいわれているところの形相的本性essentiae formalesに該当するものであって,したがってその観念は神の無限な観念の中に包容されています。つまりそれは存在することをやめるものではありません。このことは,現実的に存在するある人間が存在することをやめたとしても,人間の本性は存在することをやめないことから明白です。というかこのために,同一の形相的本性を有する複数のものが存在する場合には,そのものが存在するためにはそのものの形相的本性があるというだけでは十分ではなく,存在するための起成原因 causa efficiensを外部に必要とするのです。ですからこのことは人間の本性に限ったことではなくて,おおよそすべての個物 res singularisについて妥当します。どのような個物も,同一の形相的本性を有する複数のものが存在するといい得るからです。
しかし,ある人間の現実的本性actualis essentiaという場合にはこのことは妥当しません。人間の現実的本性というのは諸個人に固有の本性であって,したがってAという人間の現実的本性は,その人間が存在することをやめるならそれと同時に存在することをやめると,基本的には考えなければなりません。基本的にはというのは,そのような人間の現実的本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念が神のうちにはあるのであって,そうしたあるものaliquidを十全に認識するcognoscereことはできないにしても,それがあるということは確実に認識することができるからです。ただし今はこのことは考えなくて構いません。ここで僕が考察するのは,そうした個別の人間,たとえばAという人間の現実的本性がやめるということではないからです。中に起こることというのは,ある事物の本性および形相formaに変化を及ぼすことと規定されていますので,これは僕が不条理なことをいっていると解されるかもしれませんが,現実的本性は現に変化すると考えられなくもないと僕は考えるのです。
『ドストエフスキー カラマーゾフの預言 』の中の小泉義之の「ロバの鳴き声」の中で触れられている黒澤明のドストエフスキー評 では,ドストエフスキー の優しさ,普通の人間の限度を超越していると思えるようなドストエフスキーの優しさというものが評価されています。このドストエフスキーの特異な優しさの原点になったものは何であったのでしょうか。
ドストエフスキーは死刑宣告を受け,処刑の寸前までいったところで恩赦を受け,減刑されています。減刑されて懲役刑になったのであって,無罪になったわけではありません。このためにシベリアの収容所に収容されています。ここでドストエフスキーは多くの人びとを目撃することになりました。その模様は『死の家の記録』という見聞録として残されています。
見聞録といっても刑務所の中を見学して書かれたものではなく,まさに懲役刑の服役者として書かれたものなのですから,どちらかといえば体験記といった方が正確でしょう。このときにここで多くの体験をしたことは,間違いなくドストエフスキーに大きな影響を与えました。どんな悲惨な事柄であってもそれから目を逸らすのではなく,一緒になって苦しむという姿勢は,ここで培われたものであるとみることができます。というのも,そこではどんなに惨たらしい,目を覆いたくなるような出来事が生じたとしても,そもそもそこから目を逸らすということはできないのであって,したがってひたすらにそれを見続けるほかないからです。そしてそれを見続けていけば,自然と一緒になって苦しむという姿勢が生じてくるのではないでしょうか。
実際には刑務所の中での出来事のすべてが,ドストエフスキーのことを苦しめたというようには僕は思いません。そこでの生活の中にはその生活なりの楽しみがあったのであって,また喜びもあっただろうと僕は思います。ただ,どのような事柄にも目を背けることがないようなメンタリティが強化されたとすれば,ドストエフスキーにとって最も大きかったのは,刑務所で過ごした4年間であったように僕には思えます。
こうした化学変化によって,ある物体corpusが別の物体になるということ,いい換えればある物体の本性essentiaおよび形相formaに変化が齎されるというとき,それは変化を齎される物体の本性だけで説明することができません。木が炭になるというとき,それは木がほかの物体によって炭になる化学変化を起こされるからであり,木の本性そのもののうちにそれが炭になるということが含まれているわけではないからです。するとこの場合,木の中に何かが起こるといっても,それは常に木の受動passioによって起こることになりますから,単に木の観念ideaを有する限りで神Deusのうちにある,木の中に起こることの観念は,常に混乱した観念idea inadaequataなのであって,木に対してそうした変化を生じさせる別の物体の観念をも有する限りで,神のうちにある木の中に起こることの観念は十全adaequatumであるということになります。
このことは,『エチカ』のその他の定理Propositioからも論証できるように思われます。たとえば第三部定理四 は,どんなものもそれが滅ぶとすれば外部の原因causa externaによって滅ぶのだといっていますが,これでみれば,木が炭になるというのは,外部の原因によって炭になるといっているのと同じだからです。木の本性および形相を有する物体が炭の本性および形相を有する物体になるというのは,木という物体にだけ注目してみれば,木が滅ぶということにほかならないからです。同様に,第三部定理七 によれば,どのような物体も自己の有suo esseに固執するという現実的本性actualem essentiamを有するのですから,木は木としての有に固執する現実的本性を有していなければならず,炭という別の物体になるような現実的本性を有することはできないからです。これは木の現実的本性と炭の現実的本性は異なるということから明白であって,もしも木の現実的本性の中に炭になるということが含まれているなら,木は木としての有に固執していないということになってしまい,この定理に明確に反することになります。
しかし僕は,もしもある事物の中に起こることに対してその事物が十全な原因causa adaequataであれば,そのことの観念はその事物の観念を有する限りで神のうちにあるという説明もしました。そういう説明もしたのには理由があるのです。
確知と確実性 は異なるといったときに,僕は確実性certitudoについてはスピノザに従っているけれども,確知するcerto scimusということについてはそうではないといいました。僕は確知するということと疑わないということの間にほとんど差を設けていませんが,スピノザはおそらくそこに差を設けているからです。
どういう差があるのかということも僕は分からないわけではありません。というのも,ある知性intellectusが何事かを確知するというのは,その知性についてのある積極的表現であるのに対し,ある知性が何かについてそれを疑わないというのは,その知性についての消極的表現であるからです。したがって,ある知性が何らかの事柄についてそれを疑わないという大きな区分があって,その区分の中に,ある事柄についてそれを確知するということの一部が含まれるのです。すなわち,ある虚偽falsitasについてそれを真理veritasであると思い込むこと,これはその知性が誤謬errorを犯しているというのと同じことですが,そういう誤謬を犯しているということは疑わないということの一部を構成するのです。よってこの場合は,確実性の一部と疑わないということの一部にまたがる形で,確知するという思惟作用があるということになります。
ただ,誤謬を犯しているということと,単にある虚偽についてそれを疑わないということの間に実質的な差異を設けることは僕には困難だと思えるのです。なぜなら,僕たちはある事柄について,それを真理であるか虚偽であるのかということを常に意識するわけではないからです。僕たちの精神mensを構成する観念ideaは,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataのどちらかです。いい換えれば真理であるか虚偽であるかのどちらかです。ですが僕たちは,ある観念についてそれが十全な観念であるか混乱した観念であるかは気にしないという場合があるのであって,その場合は単に疑っていないというべきか,それとも誤謬を犯しているというべきか分かりません。なのでその人間がそれを確知しているともいえるし確知しているわけではないともいい得ます。
このような理由から僕は確知することと疑わないことの間にほぼ差を設けません。差を設けることができないといった方が正確かもしれません。
補足の本編はここからです。
一般にある事物の本性 essentiaならびに形相formaに変化が齎されるというのは,物体corpusでいうなら,ある物体が別の物体になるということを意味します。たとえば木が燃えて炭になるという現象がそれに該当します。これは木という物体が炭という物体になったという意味ですが,それと同時に,木の本性を有する物体が炭の本性を有する物体になったという意味であり,同様に,木の形相を有する物体が炭の形相を有する物体になったという意味であるからです。
このとき,木が炭になるというのは一種の化学変化であって,この化学変化にはいくつかの物体が関係します。これは木の本性のうちにそれが炭になるということが含まれているわけではないということから明白です。したがって木が炭になるときは,木の本性以外にも何らかの原因causaがあって,その原因から働きを受けるpatiことによって,木は部分的原因causa partialisの一部を構成しつつ炭になるのです。最も単純にいえば木は燃えることによって炭になるので,木以外にも火という物体がこの変化には関与しているというように理解するだけで十分です。
こうした化学変化が一般的に生じるとき,確かに木は炭になるとはいえ,あるいはもっと一般的にAという物体がBという物体になるとはいえ,この変化に関与するすべての物体について,それを分子レベルで考えれば,分子の結合の仕方に変化が生じるのであったとしても,全体の分子の質量に変化が生じるわけではありません。つまり分子全体のレベルで考えれば,本性の変化も形相の変化も生じていないことになります。いい換えればそれは,全体の分子の中に起こること ではありません。なので僕はこうした事象についても,無限知性 intellectus infinitusはそれを認識するcognoscereことはないと考えます。第二部定理九系 によれば,ある観念の対象 ideatumの中に起こることの認識 cognitioはその観念ideaを有する限りで神Deusのうちにありますが,分子全体レベルの観念が神の無限知性の一部を構成しなければならないとはいっても,その観念対象の中に何かが起こっているわけではないからです。よってこうした観念は,たとえば炭になるとされる木の観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければなりません。
第72回川崎記念 。
好発はテーオーケインズ。外から追い上げていったライトウォーリアがハナを奪いました。2番手はテーオーケインズとペイシャエスとノットゥルノとエルデュクラージュの4頭。3馬身差でニューモニュメント。7番手にウシュバテソーロ。8番手にテリオスベル。3馬身差でスワーヴアラミス。4馬身差の最後尾にフォルベルールで発馬後の向正面を通過。正面に入ると後方から例によってテリオスベルが追い上げ,ライトウォーリアの前に出ました。2周目の向正面に入るとテリオスベルの後ろに外に切り返したライトウォーリア。その後ろをテーオーケインズとノットゥルノとエルデュクラージュ。6番手にウシュバテソーロ。7番手にペイシャエス。8番手にニューモニュメント。9番手にスワーヴアラミスとなってここまでは一団。フォルベルールだけが大きく取り残されました。ハイペース。
3コーナーからテリオスベルにライトウォーリアが並び掛けていくと,外に出されたテーオーケインズが3番手で内に入ったウシュバテソーロが4番手。直線の入口のところでテリオスベルとライトウォーリアの間を突いたウシュバテソーロが先頭に立ち,これをライトウォーリアの外を回ったテイオーケインズが追い掛ける形での優勝争い。うまいコーナーワークで先んじたウシュバテソーロが最後までテーオーケインズの追い上げを封じて優勝。テーオーケインズが半馬身差で2着。後方から脚を伸ばしたニューモニュメントが4馬身差の3着。途中からの逃げで粘ったテリオスベルが1馬身差で4着。
優勝したウシュバテソーロ は東京大賞典 からの連勝で大レース2勝目。ここは東京大賞典よりも相手関係が強化されていましたので,試金石とみていました。ダートではトップクラスのテーオーケインズの追い上げを封じての優勝ですから価値は高く,確かに東京大賞典の勝ち馬に相応しい能力をもっていたということが証明されました。通ったコースの差から,脚力は差がないと思いますが,テーオーケインズは器用さに欠けるがゆえに外を回るレースをせざるを得ないという一面があるのであり,器用さというのは競走馬の能力のひとつと僕は考えますので,その部分の能力でははっきりと上回っているといえるでしょう。父はオルフェーヴル 。母の父はキングカメハメハ 。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン 。Ushbaはジョージアにある山の名前。
騎乗した横山和生騎手は東京大賞典以来の大レース4勝目。川崎記念は初勝利。管理している高木登調教師は東京大賞典以来の大レース9勝目。川崎記念は初勝利。
『はじめてのスピノザ 』の内容からはかけ離れてしまうのですが,この考察に関してはひとつだけ補足しておきたいことがあります。
僕は第二部定理九系 で,観念の対象ideatumの中に起こることといわれていときの中に起こることというのを,『堕天使の倫理 』に与えられたヒントによって,その観念の対象の本性 essentiaおよび形相formaに変化を及ぼすことと解しています。そしてその中に起こることの観念ideaは,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるのです。そしてこれは,第一部公理四 と関連していると僕は解しています。つまり観念の対象の中に起こることに対して,観念の対象は原因 である,十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかは問わず,いい換えれば,観念の対象の能動actioであれ受動passioであれ,原因であると解しているのです。このこと自体は異論はないと思います。というのは,あるものたとえばXが働きもせず働きを受けるpatiこともないのであれば,Xの本性ならびに形相が変化することはあり得ないからです。
このとき,Xの中に起こることの観念はXの観念を有する限りで神のうちにあるのですが,その観念がどのように神に帰せられると十全adaequatumであるのかということは,それがXの能動によるものなのかXの受動によるものなのかということ,あるいは同じことですがそれがXが十全な原因であるのか部分的原因であるのかということによって異なります。Xが十全な原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにそのことの十全な観念idea adaequataがあります。しかしXが部分的原因となってXの中に何かが起こるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにあるそのことの観念は十全な観念ではなく,混乱した観念idea inadaequataです。これはこのことが第一部公理四と関連していると僕が考えているということから明白で,Xの中に起こることに対してXが部分的原因である場合は,X以外にもその部分的原因を構成する何か,たとえばYがあるのであって,Xの観念を有するとともにYの観念を有する限りで神のうちで十全であるということになります。いずれにしても神のうちに十全な観念があるのですが,神への帰せられ方はどの場合も一律ではないのです。