書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

隠蔽。

2012年01月07日 22時51分54秒 | 意識論関連
 英国の大規模実験において、脳トレ類にはテレビゲーム程度の効果しか実際にはないことが立証されたにも関わらず。未だにマスコミは脳科学者の論ずる「脳血流=脳活性=頭が良くなる。」という観念を垂れ流しにする。

 脳トレ類において脳科学者達が「頭が良くなる。」ことの論拠としたのが脳血流増加である。従って、脳トレ類の効果が反証されたということは、同時に脳血流増加が「頭が良くなる。」という論証自体も否定されたということである。

 英国の大規模実験による脳トレ類の効果の反証について、未だにマスコミは一切触れた形跡がない。これは既に獲得した脳トレ類の既得権益を保守するための隠蔽工作である。

 脳トレ類を「頭が良くなる。」と称して推奨しておけば、大衆凡民から多数決的「人気。」による利益が得られることを、今更手放したくないという利己的判断によって脳トレ類の反証は隠蔽されたままなのである。


 大脳前頭前野の血流が増加しているということは、何らかの脳活性や「学習。」になっているのは確かであるが。その「学習。」した内容の全てが「頭が良くなる。」ような「学習。」内容であることを証明することは、今のところできない。

 「学習。」というのは、実際にはほとんどが無意識的な行動「学習。」であり。論理的思考を促すような意識的行動を自律的に選択する方向性を持った行動「学習。」というのは、短絡的に「これさえやっときゃ。」的な安易な方法論で獲得できるようなものでもなく。また、こうした安易な方法論を鵜呑みにしている短絡性自体が、論理検証性の欠落そのものを実証しているということでもある。

 「パブロフの犬。」というのは、イヌの条件反射的行動「学習。」についての傾向性を論じたものである。「ベルが鳴ったら、エサが出る。」という環境下に長くイヌを置いておくと、イヌはベルが鳴っただけでヨダレを大量に垂れ流すという機械条件反射を「学習。」する。

 ヒトにパチンコをやらせておくと、自分の赤ん坊を炎天下の車内に放置してまでパチンコをし続ける性質がある。パチンコの場合は既にドーパミンによって行動が「学習。」されていることが科学的に立証されている。クソゲーに何十万円もつぎ込む場合においても同様である。

 「学習。」の全てが「頭が良くなる。」わけではない。

 脳内物質ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理。」する。「慣れる。」「ハマる。」「癖になる。」といった性質は、全てドーパミンの持つ常習性によって作り出される。動物習性的な行動学習というものの全ては常習性によって「学習。」されたものであり、人間が意識的に行動選択する論理的思考とは直接関係のない無意識行動学習でしかない。

 脳科学者達がやたらと取り上げたがる、どんなに珍しい特定能力に長けているとしても、それが「人間としての社会性の証明=自律的に社会的責任を負う。」ことの論証とは無関係なのである。

 ところが大衆凡民にとって、「特殊能力=社会的成功。」という「エサ。」の臭いがする話や、「相手の気分的信頼関係性=コミュニケーション能力。」といった感情的誘導にばかり意識を奪われ。気分的に面倒臭い自律的社会的責任能力といった話とは無関係な観念の世界で満足して何が優先される重要な話であるのかが撹乱されているのである。

 「人間である前にヒトとして健康であることが重要。」であると言うのであれば、それは一人の人間としての行動責任よりも動物的、利己的に健康であることが優先されているということである。それはキチガイの論理でしかないことを、多くのヒトは認識するつもりはないらしい。

 ヒトは「自分の気分が良くなる=頭が良くなる。」と錯覚しがちである。「相手の手を握ると信頼関係性が改善する。」などという話も、あくまで無意識的な感情の話であり。政治家が選挙活動の時にやたらと握手を求めるのも、こうしたヒトの「習性。」を利用した「手法。」の一つであって。応用によっては詐欺にも使える「結果。」論でしかない。ところが無思考な大衆凡民にとって、気分的「信頼。」を得ることと、論理的「安全。」性の確立を区別できず。漫然と気分だけ満足して思考を停止するのである。

 北大の山岸俊男らが行うような社会心理学実験においては、結果的な「ヒト。」という種の生物における習性しか抽出することはできない。衆人環視下におけるヒトの行動習性の枚挙からは、一人の人間として自律的に社会的責任を負う行動については原理的に言及することができない。特定環境下において特定の集団内部における行動抽出によって導き出される傾向性を立証したところで、現実のヒトの全てが常に正しい行動選択が可能であることの論証になどならないからである。

 これはチンパンジーの行動習性をどんなにたくさん抽出枚挙してきても、チンパンジーの行動習性の全てが利他的行動であることの証明にはならないのと同じことである。

 チンパンジーの代わりにシエラレオネの少年ゲリラ、或は振り込め詐欺の集団を鋼鉄とポリカーボネートのケージに監禁しておいて一体彼らがどのような行動を採れば、「ヒトという種の生物は、常に利己的行動を採らず。常に社会全体にとって公益的な責任行動を選択するものである。」ことの論証になるであろうか。山岸の実験というのは、結局チンパンジーの行動結果の抽出と同様に。ヒトという種の生物における行動の結果以上の何も抽出することはない無駄な浪費にしかなっていないのである。

 人間としての社会性というものは、何かの実験だとか、何かの成績指標によって立証されるようなものではなく。一人の人が自律的に、意識的に広い意識を保とうとすることによって、その場の感情に左右されずに選択する責任行動によって導き出されるものである。

 実験だの成績指標を与えられると、ヒトは気分的に安心するのかも知れないが。こうした気分的安心ことが論理的思考を阻害し、結果として行動責任を採ることができなくなるのである。

 SQだとか言う基準で高い得点を得ても、それは無意識的な社会的責任意識を評価しているだけであって。論理的に社会の安全性に寄与できることを証明していない。気分的に無意識的な「他人や社会全体のことを考えているような気分の程度。」をどんなに測定しても、それが常に他人や社会にとっての安全性や持続可能性につながる選択が可能であることを証明しない。アイヒマン実験の被験者達の誰も他者に危害を加える意図などなかったにも関わらず、無意識的に危害を加える結果に陥っているのである。

 むしろ、気分的に安心することこそが最も安全性にとって有害な結果をもたらすのである。

 大学の研究者といった権威的な肩書があれば、そいつの言っていることの全ては有益であると大衆凡民は「思う。」であろう。現在の脳科学者達のほとんど全員は脳トレ類の人気による利益にしか興味はなく、短絡的に「これさえやっときゃ。」的な一面的傾向性の枚挙しかやっていない。マスコミは論理的思考が全く働かないばかりか、脳トレ類による既得権益の保守のために、英国の大規模実験の脳トレ反証結果すら報道しないのである。

 こうした利己的行動が正当化されるのは。生物学における無意識的行動の結果には超自然的な目的意識が存在するかのようなオカルト的観念が蔓延しているからであろう。

 野生動物が本能のままに行動した結果、「生存。」だの「種の保存。」といった個体の本能とは無関係な「結果。」が勝手に作り出されるものであると信じ切っているのである。

 それならマスコミも生物/脳科学界も、その場限りに大衆迎合して利己的追求さえしておけば全ては社会にとって良い影響になるものであると勝手に思い込んでいられるであろう。こうした無為無策を放置しておけば、「人類は絶滅する。」などというオカルト観念も科学的証明として扱えるであろうし、また実際に絶滅したとしても誰も責任を負うつもりもないのである。


 無意識とは、感情や習性によって撹乱された機械的条件反射行動のことである。どんなに強く「思って。」も、むしろ「思い。」が強ければ強い程、それは感情であって「考え。」ではなく、また本質的意識でもない。

 ヒトは、その本能的な社会形成習性によって、権威や多数派の言っていることにしか意識が働きづらい性質がある。「みんな同じ。」でありさえすれば「安心。」して何も考えなくなるのである。これがヒトの「コミュニケーション能力。」というものであるが、これを大衆凡民は「社会性。」であると錯覚する。これこそが生物学における本能的社会形成習性と、人間としての自律的社会的責任能力の混同の源なのである。科学者でありながら大衆に迎合するというのは、本来の科学者としての社会的責任を負っていないというのは、別に取り立てて論ずる程のことでもなかろう。

 多数大衆に迎合しておけば気分的には「安心。」であろう。それさえ満たしておけば世間においては安全性が確保されていると「思う。」のであろう。「あろう。」としかおいらは言うことができない。なぜならおいらは全く「思わない。」からだ。

 通常ヒトは「赤信号、皆で渡れば恐くない。」であろう。世間の全員で間違った選択をしていれば気分的には安心して間違った選択を続けることが簡単にできるのである。


 畑村洋太郎が論ずる「自律的に社会的責任を負う。」という行動選択は、本能的な社会形成習性が作り出す感情のバイアスからは原理的に行われることはない。多数や権威が作り出す「体制。」に迎合してさえおけば気分的には「安心。」だからである。権威や多数に迎合しておけば、ヒトの多くは自分が責任を負う必要性はなくなるものであると「思う。」ものなのである。

 多くのヒトが権威や多数に迎合しておけば、結果的に誰も自律的には責任を負わないことに陥る。それなら、どんな人為的重大事象が発生しても、誰も文句を言えた義理では最初からないのである。

end;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする