ヒトは協調行動を行わないと「生存。」できないために、生物進化的に協調行動をする「習性。」を身につけたという。
協調行動の全てが人間としての社会的責任判断を導くわけではない。詐欺師もゲリラもヤクザも、全ては協調行動によって作り出されることを忘れては困る。
「命をつなぐことができなかった。」のは結果である。命をつなぐことができたかどうかと人間性とは無関係である。ゲリラになることが生存に適したからといってゲリラの残虐性が正当化できるわけではないからだ。
「行動習性。」という先天的「仕組み。」の有無が人間としての社会性、自律的な社会的責任判断を「常に作り出す。」わけではない。
扁桃核に組み込まれた「表情を読む能力。」といった反射的能力というものは。常に正しい判断を促すわけではない。
アイヒマン実験において、反射的に権威に服従する行動こそが間違った行動を促すのである。機械条件反射的行動というのは状況変化に対する対処対応能力のないシーケンシャルな行動しか促さず。常に環境依存的な結果しか導き出さないからである。
進化的に組み込まれた「仕組み。」「習性。」「傾向性。」だけでは、自律的に社会的責任選択を行うことを論証することはできない。
自律的社会的責任選択というものは、進化的な傾向性からはサンプリングできない。実際アイヒマン実験からはほとんど全員が自律的判断に基づく行動を採らなかったのである。
見ず知らずの相手と分かち合う傾向性を立証したところで、所詮は傾向性であること以上の何も証明していないのである。
協調行動を採るという「習性。」をどんなにたくさん枚挙しても、その協調行動習性を何に使うかという「目的」意識がなければ、ヒトの子供は簡単にイジメを行うようになる。
イジメをするのもヒトの傾向性である。生物学者にとって都合の良い習性だけを並べて大衆迎合するのは簡単であるが、都合の良い習性だけをどんなにたくさん抽出してもイジメがなくなるわけではない。
ヒトとは、気分的な満足や安心を与えられると、論理的検証性を放棄する性質「習性。」がある。これが社会から「安全。」性を失わせる根本的な「ヒト。」の行動習性である。
気分的に社会的利益になると「思う。」行動というものの全てが、本当に社会的利益になるという論理的根拠にはならない。「人類の救済。」と称してテロを行ったのも、そこに論理的根拠が欠落していたからである。原発も同じであろう、原発推進派が「国益の為。」と論じているのが、それが果たして本気なのかどうかはともかく、外見上は社会的利益であると「思って。」いることこそが。実際には社会的大損害を生じさせたのである。単なる気分的な「思い。」では社会的利益になる保障にはならない。「思い。」の強度がどんなに強くてもである。
SQのように、当人が気分的に「社会的。」だと「思う。」こと自体が、本当に社会的利益になるわけではなく。あくまで論理的に社会的利益になるかどうかを判断し、かつ、自律的に行動選択を行わなければ本当の社会的利益にはならない。
大衆観念的な気分によって社会の安全性が確立されるのではない。何も考えない大衆凡民のままでいることは罪なのである。
如何にも壮大そうな演出をしても、ヒトの行動習性の枚挙からは人間としての社会性、自律的に社会的責任判断が反射的な行動「習性。」によって立証できる論証にはならないのである。
ヒトの行動習性をどんなにたくさん枚挙しても、それらは全て条件反射的な行動習性、仕組みの「結果。」しか抽出できない。
「結果。」をどんなにたくさん枚挙しても、「人間。」としての意識的に選択した「目的。」行動の論証にはならない。
なぜ、こんなに簡単な原理すら誰も理解できないのか。それが私の最大の疑問である。
文科系の気分的満足こそが、論理的社会安全性を阻害する。マスコミのプロパガンダによる文科系観念は、多数大衆に気分的「安心。」を提供する代わり。多くのヒトから論理検証性を不具にし、「安全。」性を奪うのである。
マスコミ当人達にその「意識。」の有無は関係がない。当人が「人類の救済。」と勝手に「思い込んで。」いることには何の価値もないからである。
本論はカルト宗教のような気分的満足を与えるものではない。気分的満足による思考停止を促さないためである。
気分的満足を提供してしまえば人気も得られるのであろうが、それでは思考を促すことにはならない。意識を促すことにはならないのである。
それを大衆観念的には「コミュニケーション能力の欠如。」と勝手に「思う。」のは簡単である。多数大衆のご機嫌取りをしていたのでは、自律的な論理的思考を促すこと、自分の愚かさに自律的に気付くようにはならない。
バカのご機嫌取りをしていたのでは、バカな帰結しか導き出されないのである。
end;
協調行動の全てが人間としての社会的責任判断を導くわけではない。詐欺師もゲリラもヤクザも、全ては協調行動によって作り出されることを忘れては困る。
「命をつなぐことができなかった。」のは結果である。命をつなぐことができたかどうかと人間性とは無関係である。ゲリラになることが生存に適したからといってゲリラの残虐性が正当化できるわけではないからだ。
「行動習性。」という先天的「仕組み。」の有無が人間としての社会性、自律的な社会的責任判断を「常に作り出す。」わけではない。
扁桃核に組み込まれた「表情を読む能力。」といった反射的能力というものは。常に正しい判断を促すわけではない。
アイヒマン実験において、反射的に権威に服従する行動こそが間違った行動を促すのである。機械条件反射的行動というのは状況変化に対する対処対応能力のないシーケンシャルな行動しか促さず。常に環境依存的な結果しか導き出さないからである。
進化的に組み込まれた「仕組み。」「習性。」「傾向性。」だけでは、自律的に社会的責任選択を行うことを論証することはできない。
自律的社会的責任選択というものは、進化的な傾向性からはサンプリングできない。実際アイヒマン実験からはほとんど全員が自律的判断に基づく行動を採らなかったのである。
見ず知らずの相手と分かち合う傾向性を立証したところで、所詮は傾向性であること以上の何も証明していないのである。
協調行動を採るという「習性。」をどんなにたくさん枚挙しても、その協調行動習性を何に使うかという「目的」意識がなければ、ヒトの子供は簡単にイジメを行うようになる。
イジメをするのもヒトの傾向性である。生物学者にとって都合の良い習性だけを並べて大衆迎合するのは簡単であるが、都合の良い習性だけをどんなにたくさん抽出してもイジメがなくなるわけではない。
ヒトとは、気分的な満足や安心を与えられると、論理的検証性を放棄する性質「習性。」がある。これが社会から「安全。」性を失わせる根本的な「ヒト。」の行動習性である。
気分的に社会的利益になると「思う。」行動というものの全てが、本当に社会的利益になるという論理的根拠にはならない。「人類の救済。」と称してテロを行ったのも、そこに論理的根拠が欠落していたからである。原発も同じであろう、原発推進派が「国益の為。」と論じているのが、それが果たして本気なのかどうかはともかく、外見上は社会的利益であると「思って。」いることこそが。実際には社会的大損害を生じさせたのである。単なる気分的な「思い。」では社会的利益になる保障にはならない。「思い。」の強度がどんなに強くてもである。
SQのように、当人が気分的に「社会的。」だと「思う。」こと自体が、本当に社会的利益になるわけではなく。あくまで論理的に社会的利益になるかどうかを判断し、かつ、自律的に行動選択を行わなければ本当の社会的利益にはならない。
大衆観念的な気分によって社会の安全性が確立されるのではない。何も考えない大衆凡民のままでいることは罪なのである。
如何にも壮大そうな演出をしても、ヒトの行動習性の枚挙からは人間としての社会性、自律的に社会的責任判断が反射的な行動「習性。」によって立証できる論証にはならないのである。
ヒトの行動習性をどんなにたくさん枚挙しても、それらは全て条件反射的な行動習性、仕組みの「結果。」しか抽出できない。
「結果。」をどんなにたくさん枚挙しても、「人間。」としての意識的に選択した「目的。」行動の論証にはならない。
なぜ、こんなに簡単な原理すら誰も理解できないのか。それが私の最大の疑問である。
文科系の気分的満足こそが、論理的社会安全性を阻害する。マスコミのプロパガンダによる文科系観念は、多数大衆に気分的「安心。」を提供する代わり。多くのヒトから論理検証性を不具にし、「安全。」性を奪うのである。
マスコミ当人達にその「意識。」の有無は関係がない。当人が「人類の救済。」と勝手に「思い込んで。」いることには何の価値もないからである。
本論はカルト宗教のような気分的満足を与えるものではない。気分的満足による思考停止を促さないためである。
気分的満足を提供してしまえば人気も得られるのであろうが、それでは思考を促すことにはならない。意識を促すことにはならないのである。
それを大衆観念的には「コミュニケーション能力の欠如。」と勝手に「思う。」のは簡単である。多数大衆のご機嫌取りをしていたのでは、自律的な論理的思考を促すこと、自分の愚かさに自律的に気付くようにはならない。
バカのご機嫌取りをしていたのでは、バカな帰結しか導き出されないのである。
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