書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

行動「学習。」。

2012年01月15日 14時03分06秒 | 意識論関連
 瞑想などの無意識的感情抑制というものは、あくまで感覚的な無関心性を脳に刷り込むだけであって論理的な思考による本質的客観性が身につくというようなものではない。

 カルト宗教において信者達が教団以外の人の意見に無関心であることからも、瞑想による無関心性というものには論理的客観性も、それに伴う自律判断、社会的責任選択性も伴うことはない。

 実際禅宗の坊主が特に人格者であることの論証もないのである。

 瞑想によって気分的に不安感がなくなるというのは、あくまで気分的に大脳辺縁系が楽になるというだけのことであって。何ら論理的に安全であることには直接的には関係しない。

 カルト宗教の信者が脱退しないことからも、瞑想による感情抑制というのは客観性自体を直接的養うようなものではなく、あくまで目先の感情の起伏を抑制する程度の効果しか持ち合わせておらず。既に刷り込まれている自己の観念的価値観による無意識的行動選択自体には何ら影響を及ぼさない。だからカルト宗教の信者は脱退しないのである。本質的な意識は全く変わっていないので、行動や思考には影響を及ぼさないからである。

 たとえば、瞑想をやった者がアイヒマン実験において権威への服従をしないようになれば良いのだが。むしろ気分的には「安心。」して権威の命令に服従してしまうことになるであろう。無意識的に抑制されているのは意識の極めて表層だけだからである。

 たとえば原発関係者に瞑想をやらせておけば事故の想定範囲が拡がったであろうか。

 根本的な自己の行動に影響を与えるためには、あくまで論理的な「考え。」による自律的な判断が必要不可欠である。決して気分の問題ではない。

 多くのヒトは、権威の命令に忠誠忠実に服従してさえおけば全ては「安全。」であると錯覚する。だが実際にはこれは気分的な「安心。」でしかないということは論理的には誰も認識したがらない。

 原発事故調査委員会の畑村洋太郎は、「一人一人が自律的に判断することが大切。」であると論ずる。この場合における「自律。」的判断というものは固定観念的に刷り込まれた条件反射的な無意識的価値観によって促されるようなものではなく。あくまで論理的に「考え。」ることによって導き出される本質的客観性によって導き出されなくはならない。

 「いままで、ずっと大丈夫だった。」からといって、「これからも永遠に大丈夫である。」という理屈は論理的根拠ではなく実証不能の観念にしかならない。これこそが気分的「安心。」による論理的「安全。」性の放棄を促すのである。

 権威を信用できないとなると、多くのヒトは気分的に「嫌。」になる。気分的価値観だけで判断していると、一体誰を信用すれば良いのかわからなくなるからである。気分的に「嫌。」になると、多くのヒトは行動や思考と気分が直結しているので行動が乱暴になったりする。こうした傾向性を指して「心が荒む。」などと形容し、論理的自律判断の重要性などの気分的に嫌な話を無視しようとするのである。この判断自体が既に本能的拒絶反応にしかなっていない。

 マスコミ関係者のほとんど全員や、生物学系研究者、哲学研究者達というのは自律的判断を行うべき論理的思考が全く機能していない。それは本能的な拒絶反応が働いているからである。

 「文科系。」と分類されるヒト達というのは、論理的に検証することが大嫌いで。観念的、本能的に世間多数や権威に迎合服従することが大好きである。ヒトという種の生物における本能的な社会形成習性に従って無意識に行動選択をしていれば自律的判断は優先されることはない。だからアイヒマン実験では6割もの被験者が最高電圧のスイッチまで押してしまう結果になるのである。実験だけではなく、事実ナチス政権下のドイツ人達はは600万人ものユダヤ人を死体に変換したのである。その原因をただ漫然と「わからない。」と無視しておくことは簡単である。「わからない。」ことにしておけば自分達の自律には言及しなくて済むからだ。

 ナチス政権下のドイツ人だけが特別に異常なヒト達であったと観念的に区別しておけば、「自分だけは大丈夫。」であると勝手に思い込むことによって「安心。」することができるであろう。それによって気分的に平穏でいられるのであれば、「ヒトとしては健康。」であろう。



 半年程前に工業系展示会に行ったのだが、最近の工作機械の精度の高さに驚かされた。ところがこうした工作機械を取り扱っている社員達は「そんなもの、今時当たり前。」といったそぶりであった。

 彼等にとって現在の機械精度というものは、産まれた時からあった「普通のもの。」であるため。その凄さというものを実感として認識していないからであろう。

 甥っ子が5歳頃のことだったろうか。自動車というものを工場で人が組み立てている事実に驚いていたことがある。甥っ子にとって自動車というのは産まれた頃から既にあった普通のものであるため。これは自然生成されたものとの区別ができていなかったのである。

 現代の社会に産まれたヒト達の多くは、社会というものは既に存在していたものであり。これは永遠の昔から存在していた不変のものであるという感覚が刷り込まれている。だから自分の選択によって社会全体に影響を及ぼしたり、変えたりすることはできないと、頭から決めてかかっている。

 「正直者はバカを見る。」ことは非常に多い。だから、「正直でいることは損である。」としか思わない。現在の体制に迎合しさえしておけば、「いままでずっと大丈夫だったから、これからも永遠に大丈夫である。」と気分的観念的に安心して迎合するのである。

 子供の頃にイジメに反対しても、大人は誰も助けてはくれなかった。大人達は徒党を組んでイジメを組織的に遂行する封建的社会形成習性を、「社会性を養う。」などと称して放置したからである。その結果、多くの子供達は「目先の多数他人には迎合しておかないと酷い目に遭う。」という行動「学習。」を刷り込まれることになる。

 行動「学習。」とは無意識的な行動選択、「安心。」のバイアスを作り出すものであり。動物行動的な無意識的選択を司るものである。イジメに参加しておけば自分はイジメられないのであれば、「生存。」価にとっては動物的な行動選択として「正しい。」ことになる。こんな生物学の正義を放置しておいて良い訳がない。



 日本人は規則は守るがマナーはない。これは規則という権威性には従順であるが、自律的に判断するマナーは全くないことの現れである。日本人の多くには意識がないのである。

 暴動が起きにくい代わりに自殺者が多いのでは自慢にはならない。

end;