書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

規則。

2012年01月25日 00時19分25秒 | 意識論関連
 イスラムでは金利を禁じている。これは不労所得を禁じるという主旨に基づく戒律である。

 イスラム銀行ではお金を貸しても金利は取らず、貸したお金によって儲けられた利益の中から分配することでビジネスとして成立させている。そのため、お金を貸したら、借りた人が利益と銀行の利益が直結しているので、借りた人がうまく儲けることができるよう銀行が協力するという仕組みでもある。

 これは非常に合理的な金融システムである。借りた人が働きやすいように銀行が協力することによって、単なる時間経過だけで利益を得るような傲慢な不労所得を誰もできなくなる「はず。」だからだ。

 ところが、証券取引によるマネーゲームについてはイスラム戒律では「直接。」的には禁じられていないため。イスラム諸国でも事実上不労所得を得ている者は少なくない。しかし無責任なマネーゲームによって社会が崩壊したとすれば、「マネーゲームが原因で社会が崩壊したのは、マネーゲームを禁じなかったムハンマドが悪い。」とでも言うのであろうか。

 私はこういう無責任なご都合主義者を有神論者とは思わない。

 戒律や法律といった規則さえ遵守してさえおけば。自律的には何も行動選択せず、何が起きても他人のせいにしておく無思考性が。戒律や法律にはある。

 「これさえやっときゃ、全てはOK。」という短絡性を鵜呑みにすべきではない。

 あらゆる規則は「手段。」であって、それ自体は「目的。」ではない。規則というのは必ず「目的。」や「主旨。」に基づいて決められたものであり。これらが主体でなければ意味がない。規則とは「形式。」であり、目的や主旨とは「意味。」だからである。



 危険学においても、人は規則やマニュアルに従ってさえおけば、責任の全ては規則やマニュアルを作った他人に全て預けられると勘違いする性質や。システムを一度構築してしまえば、そのシステムが実際に有効かどうかはシステムを作った他人が全て担保してくれるものであると錯覚する性質があると言う。

 ただ漫然と既存の規則やシステムに迎合してさえおけば、自分で自律的には何も判断しなくて良いと錯覚することが可能なのである。

 既存の規則やシステムに不具合があるのであれば、それは自律的判断によって指摘しなければならない。しかし、自律的判断に基づく指摘をする以上、その指摘には責任が伴う。その責任を負いたくないために、多くのヒトは既存の規則やシステムに無為無策に迎合し続けるのである。

 権威が作り上げた規則やシステムの不具合を指摘することを。多くのヒトは恐れ嫌がる。ヒトは権威に服従しておかなくては不安に陥る習性があるからだ。恐いとか嫌だからといって社会的責任を放棄して良い理由になどならない。

//---------

「心が綺麗になった。」

 精神的、気分的に楽になった状態のことを。多くのヒト特に文系の者は「心が綺麗になった。」などと形容する。

 実際には「気分的に満足ししている。」だけであって、何ら人間としての「心。」の働きとは無関係である。気分的に煩わしいことから意識を外し、無視し、何も考えない状態に陥って。これを「心が綺麗になった。」とは言うことができない。気分的満足によって人間としての社会的責任判断が促されるわけでも何でもないからだ。

 気楽に原発を暴走させておいて、これを「心が綺麗になった。」などという支離滅裂な話に価値はない。自律的に社会的責任を負わなければ気分的には楽になれるであろう、社会的責任を放棄しておいて「人間としての心。」もすったくれもあったものではない。

 文系の観念というのは、ほとんど全てが気晴らしであって、社会的には糞の役にも立つことはない。

end;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする