松沢哲郎は想像することがホモサピエンス特有の性質であると論じる。
しかし、想像するだけであれば、これは単なる生物種としての「習性。」を論じているだけであって、「ヒトが人間たりうる所以。」の論証とは無関係である。
詐欺師が相手を騙す時、「相手を信用させることができれば金が儲かる。」という想像力が存分に働いているのは間違いない。
オウム真理教の幹部、林郁夫がテロを実行する際に。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをしても良いのか。」と思いながらも実際にはテロを実行したのはなぜか。テロを実行するような教団に反目すれば自分も命を狙われるかも知れないという「想像。」もあったに違いない。
ヒトの生物学的社会形成習性として本能的に多数他者からの気分的拒絶を忌避するのも。これもまた「想像力。」による予測によって多数他者に迎合するのである。
ヒトは、その本能的社会形成習性によって、誰も論じようともしないことを論じると、多数他者からの気分的拒否反応や排除を恐れる性質がある。大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手に思い込んでいるのである。実際には「権威に服従していると、本能的、条件反射的に安心。」なだけなのだが、こうした気分的「安心。」と論理的「安全。」性の区別が大衆凡民にはできない「習性。」がある。
多くのヒトは、気分的バイアス、感情が促す「大きさ。」だけが行動選択の基準であり。論理的に正しいことであっても気分によって意識から外したり、無視したりすることによって。その場限りの精神的安定を得て、これを「心が休まる。」などと称して正当化したがるのである。
カルト宗教の信者にとって、信仰を続けることこそが精神的安定だからこそやめることができないのであり。これは依存症の類と全く同じ本能習性的な機械条件反射行動でしかないのである。
ヒト科のチンパンジーとホモサピエンスとの差異をいくら論じても、そこから「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」を論証することは原理的に不可能である。松沢に限らず生物学者のほとんど全員は、「ホモサピエンス=人間。」という方程式に基づいた話しかしておらず。生物種自体の行動習性自体が人間としての論証になるという前提でしか論じていないのである。これが異常だとは生物学者達も、また一般大衆凡民マスコミも、全く気付く「認識。」していないのである。
想像力が働くのは生物種としての本能習性的な動物性知能に過ぎず。何ら「人間。」としての論証にはならない。チンパンジーとホモサピエンスの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間とは何か。」を論じたことには全くならないことを、生物学/脳科学者達は意図的に無視しているのである。これをオカルトと言わずして何と形容すべきであろう。
アイヒマン実験において、被験者の6割は最大電圧のスイッチを押してしまう結果に陥るのだが。しかし、そこに至る過程においては権威との葛藤による感情的やりとりがある。
にも関わらず、多くのヒトは最終的には権威の命令に服従してしまう「習性。」があるのだ。これはオウム幹部の林の心理と同じものであり。自律的判断が多数他人や権威体制への迎合性に「負けて。」しまい、自律的個人の判断を不具にしてしまう「ヒトの習性。」として、あらゆるヒトに組み込まれてしまっているものなのである。
ヒトは初期的には生物である。従ってその行動選択というものは感情による本能的バイアスによって左右されがちな習性がある。
爆笑問題の会社社長太田光代の母親は、一式50万円の布団セットをいくつも購入していると言う。爆笑問題の会社社長であれば、数百万円の散財など痛くも痒くもないのであろうが。これによって結果的に暴力団への資金源を提供していることにもなるのである。
太田光代の母親は、「話相手が欲しかった。」などと自分の行動を事後正当化するが。実際には執拗に感情的訴えを繰り返すことによる「丸め込み。」であり。いわゆる「観念した。」という行動である。
ヒトという種の生物は、一度無意識的に「学習。」した行動への気分的「安心。」によって、行動を「整理。」されてしまい。その行動の論理的価値を「考え。」る余裕を失う傾向がある。「執拗なまでの感情的訴え。」というのは、要はパチンコをやっている時の脳の働きと同じような状態に陥っており、前頭葉の鎮静化が生ずることによって押し売りや詐欺というのは成立するのである。
モンスター、キチガイというのは、基本的に文章ではなく、口頭でのやりとりで異常に長い時間を必要とする。従って、振り込め詐欺の特徴というのは普遍的に「話が異常に長い。」傾向が見られる。相手の大脳辺縁系を興奮状態に陥れるためには、ある程度の時間「話。」を続けないとならないのである。
「立て板に水。」な話というのは、結局記憶や意識から「流れて。」しまい。最終的には気分的な行動だけに「整理」学習されてしまうことに陥るのである。
良く考えたら養老とか茂木とか松沢の話もそうだね。
個人の「自律的な社会的責任判断。」を行うためには、生物習性的なバイアスをいくら抽出枚挙しても意味がない。従って、生物種としての習性傾向性を枚挙するだけの従来の生物学からは「人間とは何か。」について原理的に言及不可能なのである。これを放置しておいてヒトが冒すあらゆる人為的重大事象において根本的解決に結び付く帰結には到達することができない。
脳科学というのは生物学の一分野であり、脳科学が「人間。」について論ずるためには生物学におけるオカルト性に言及しなければならないのである。ならないのだが、既得権を失いたくないために学者研究者としての社会的責任は放棄されているのである。
大衆マスコミはそれに気付くこと、認識することができないのは。それに対する「意識。」が低いからである。
誰にも問題意識がない状態であるなら、これは洗脳状態であって。誰にも責任を追及することなど最初からできないのである。
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しかし、想像するだけであれば、これは単なる生物種としての「習性。」を論じているだけであって、「ヒトが人間たりうる所以。」の論証とは無関係である。
詐欺師が相手を騙す時、「相手を信用させることができれば金が儲かる。」という想像力が存分に働いているのは間違いない。
オウム真理教の幹部、林郁夫がテロを実行する際に。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをしても良いのか。」と思いながらも実際にはテロを実行したのはなぜか。テロを実行するような教団に反目すれば自分も命を狙われるかも知れないという「想像。」もあったに違いない。
ヒトの生物学的社会形成習性として本能的に多数他者からの気分的拒絶を忌避するのも。これもまた「想像力。」による予測によって多数他者に迎合するのである。
ヒトは、その本能的社会形成習性によって、誰も論じようともしないことを論じると、多数他者からの気分的拒否反応や排除を恐れる性質がある。大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手に思い込んでいるのである。実際には「権威に服従していると、本能的、条件反射的に安心。」なだけなのだが、こうした気分的「安心。」と論理的「安全。」性の区別が大衆凡民にはできない「習性。」がある。
多くのヒトは、気分的バイアス、感情が促す「大きさ。」だけが行動選択の基準であり。論理的に正しいことであっても気分によって意識から外したり、無視したりすることによって。その場限りの精神的安定を得て、これを「心が休まる。」などと称して正当化したがるのである。
カルト宗教の信者にとって、信仰を続けることこそが精神的安定だからこそやめることができないのであり。これは依存症の類と全く同じ本能習性的な機械条件反射行動でしかないのである。
ヒト科のチンパンジーとホモサピエンスとの差異をいくら論じても、そこから「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」を論証することは原理的に不可能である。松沢に限らず生物学者のほとんど全員は、「ホモサピエンス=人間。」という方程式に基づいた話しかしておらず。生物種自体の行動習性自体が人間としての論証になるという前提でしか論じていないのである。これが異常だとは生物学者達も、また一般大衆凡民マスコミも、全く気付く「認識。」していないのである。
想像力が働くのは生物種としての本能習性的な動物性知能に過ぎず。何ら「人間。」としての論証にはならない。チンパンジーとホモサピエンスの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間とは何か。」を論じたことには全くならないことを、生物学/脳科学者達は意図的に無視しているのである。これをオカルトと言わずして何と形容すべきであろう。
アイヒマン実験において、被験者の6割は最大電圧のスイッチを押してしまう結果に陥るのだが。しかし、そこに至る過程においては権威との葛藤による感情的やりとりがある。
にも関わらず、多くのヒトは最終的には権威の命令に服従してしまう「習性。」があるのだ。これはオウム幹部の林の心理と同じものであり。自律的判断が多数他人や権威体制への迎合性に「負けて。」しまい、自律的個人の判断を不具にしてしまう「ヒトの習性。」として、あらゆるヒトに組み込まれてしまっているものなのである。
ヒトは初期的には生物である。従ってその行動選択というものは感情による本能的バイアスによって左右されがちな習性がある。
爆笑問題の会社社長太田光代の母親は、一式50万円の布団セットをいくつも購入していると言う。爆笑問題の会社社長であれば、数百万円の散財など痛くも痒くもないのであろうが。これによって結果的に暴力団への資金源を提供していることにもなるのである。
太田光代の母親は、「話相手が欲しかった。」などと自分の行動を事後正当化するが。実際には執拗に感情的訴えを繰り返すことによる「丸め込み。」であり。いわゆる「観念した。」という行動である。
ヒトという種の生物は、一度無意識的に「学習。」した行動への気分的「安心。」によって、行動を「整理。」されてしまい。その行動の論理的価値を「考え。」る余裕を失う傾向がある。「執拗なまでの感情的訴え。」というのは、要はパチンコをやっている時の脳の働きと同じような状態に陥っており、前頭葉の鎮静化が生ずることによって押し売りや詐欺というのは成立するのである。
モンスター、キチガイというのは、基本的に文章ではなく、口頭でのやりとりで異常に長い時間を必要とする。従って、振り込め詐欺の特徴というのは普遍的に「話が異常に長い。」傾向が見られる。相手の大脳辺縁系を興奮状態に陥れるためには、ある程度の時間「話。」を続けないとならないのである。
「立て板に水。」な話というのは、結局記憶や意識から「流れて。」しまい。最終的には気分的な行動だけに「整理」学習されてしまうことに陥るのである。
良く考えたら養老とか茂木とか松沢の話もそうだね。
個人の「自律的な社会的責任判断。」を行うためには、生物習性的なバイアスをいくら抽出枚挙しても意味がない。従って、生物種としての習性傾向性を枚挙するだけの従来の生物学からは「人間とは何か。」について原理的に言及不可能なのである。これを放置しておいてヒトが冒すあらゆる人為的重大事象において根本的解決に結び付く帰結には到達することができない。
脳科学というのは生物学の一分野であり、脳科学が「人間。」について論ずるためには生物学におけるオカルト性に言及しなければならないのである。ならないのだが、既得権を失いたくないために学者研究者としての社会的責任は放棄されているのである。
大衆マスコミはそれに気付くこと、認識することができないのは。それに対する「意識。」が低いからである。
誰にも問題意識がない状態であるなら、これは洗脳状態であって。誰にも責任を追及することなど最初からできないのである。
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