書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

想像力。

2012年01月09日 14時14分00秒 | 意識論関連
 松沢哲郎は想像することがホモサピエンス特有の性質であると論じる。

 しかし、想像するだけであれば、これは単なる生物種としての「習性。」を論じているだけであって、「ヒトが人間たりうる所以。」の論証とは無関係である。

 詐欺師が相手を騙す時、「相手を信用させることができれば金が儲かる。」という想像力が存分に働いているのは間違いない。

 オウム真理教の幹部、林郁夫がテロを実行する際に。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをしても良いのか。」と思いながらも実際にはテロを実行したのはなぜか。テロを実行するような教団に反目すれば自分も命を狙われるかも知れないという「想像。」もあったに違いない。

 ヒトの生物学的社会形成習性として本能的に多数他者からの気分的拒絶を忌避するのも。これもまた「想像力。」による予測によって多数他者に迎合するのである。

 ヒトは、その本能的社会形成習性によって、誰も論じようともしないことを論じると、多数他者からの気分的拒否反応や排除を恐れる性質がある。大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手に思い込んでいるのである。実際には「権威に服従していると、本能的、条件反射的に安心。」なだけなのだが、こうした気分的「安心。」と論理的「安全。」性の区別が大衆凡民にはできない「習性。」がある。

 多くのヒトは、気分的バイアス、感情が促す「大きさ。」だけが行動選択の基準であり。論理的に正しいことであっても気分によって意識から外したり、無視したりすることによって。その場限りの精神的安定を得て、これを「心が休まる。」などと称して正当化したがるのである。

 カルト宗教の信者にとって、信仰を続けることこそが精神的安定だからこそやめることができないのであり。これは依存症の類と全く同じ本能習性的な機械条件反射行動でしかないのである。

 ヒト科のチンパンジーとホモサピエンスとの差異をいくら論じても、そこから「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」を論証することは原理的に不可能である。松沢に限らず生物学者のほとんど全員は、「ホモサピエンス=人間。」という方程式に基づいた話しかしておらず。生物種自体の行動習性自体が人間としての論証になるという前提でしか論じていないのである。これが異常だとは生物学者達も、また一般大衆凡民マスコミも、全く気付く「認識。」していないのである。

 想像力が働くのは生物種としての本能習性的な動物性知能に過ぎず。何ら「人間。」としての論証にはならない。チンパンジーとホモサピエンスの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間とは何か。」を論じたことには全くならないことを、生物学/脳科学者達は意図的に無視しているのである。これをオカルトと言わずして何と形容すべきであろう。

 アイヒマン実験において、被験者の6割は最大電圧のスイッチを押してしまう結果に陥るのだが。しかし、そこに至る過程においては権威との葛藤による感情的やりとりがある。

 にも関わらず、多くのヒトは最終的には権威の命令に服従してしまう「習性。」があるのだ。これはオウム幹部の林の心理と同じものであり。自律的判断が多数他人や権威体制への迎合性に「負けて。」しまい、自律的個人の判断を不具にしてしまう「ヒトの習性。」として、あらゆるヒトに組み込まれてしまっているものなのである。

 ヒトは初期的には生物である。従ってその行動選択というものは感情による本能的バイアスによって左右されがちな習性がある。

 爆笑問題の会社社長太田光代の母親は、一式50万円の布団セットをいくつも購入していると言う。爆笑問題の会社社長であれば、数百万円の散財など痛くも痒くもないのであろうが。これによって結果的に暴力団への資金源を提供していることにもなるのである。

 太田光代の母親は、「話相手が欲しかった。」などと自分の行動を事後正当化するが。実際には執拗に感情的訴えを繰り返すことによる「丸め込み。」であり。いわゆる「観念した。」という行動である。

 ヒトという種の生物は、一度無意識的に「学習。」した行動への気分的「安心。」によって、行動を「整理。」されてしまい。その行動の論理的価値を「考え。」る余裕を失う傾向がある。「執拗なまでの感情的訴え。」というのは、要はパチンコをやっている時の脳の働きと同じような状態に陥っており、前頭葉の鎮静化が生ずることによって押し売りや詐欺というのは成立するのである。

 モンスター、キチガイというのは、基本的に文章ではなく、口頭でのやりとりで異常に長い時間を必要とする。従って、振り込め詐欺の特徴というのは普遍的に「話が異常に長い。」傾向が見られる。相手の大脳辺縁系を興奮状態に陥れるためには、ある程度の時間「話。」を続けないとならないのである。

 「立て板に水。」な話というのは、結局記憶や意識から「流れて。」しまい。最終的には気分的な行動だけに「整理」学習されてしまうことに陥るのである。

 良く考えたら養老とか茂木とか松沢の話もそうだね。


 個人の「自律的な社会的責任判断。」を行うためには、生物習性的なバイアスをいくら抽出枚挙しても意味がない。従って、生物種としての習性傾向性を枚挙するだけの従来の生物学からは「人間とは何か。」について原理的に言及不可能なのである。これを放置しておいてヒトが冒すあらゆる人為的重大事象において根本的解決に結び付く帰結には到達することができない。

 脳科学というのは生物学の一分野であり、脳科学が「人間。」について論ずるためには生物学におけるオカルト性に言及しなければならないのである。ならないのだが、既得権を失いたくないために学者研究者としての社会的責任は放棄されているのである。

 大衆マスコミはそれに気付くこと、認識することができないのは。それに対する「意識。」が低いからである。

 誰にも問題意識がない状態であるなら、これは洗脳状態であって。誰にも責任を追及することなど最初からできないのである。

end;

松沢哲郎。

2012年01月09日 00時45分29秒 | 意識論関連
 松沢哲郎 京都大学霊長類研究所

 チンパンジーは「ヒト科。」だそうである。無論生物学上の分類の話であり。所詮は生物学上の分類でしかない。そもそも分類とは、誰かが勝手に規定したものに過ぎず、生物学者だけの正義でしかない。同じヒト科の生物でありさえすれば人間と共通の何かを論理的に立証しているわけでも何でもないのである。

 「人間の進化的『心』を詳細を実験的に観察する。」と論ずるが、単なる大脳辺縁系の反射的情動は人間性を持った「心。」とは異なるものである。合理性を持たない観念を振り回しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。

 人間の心というものは、そこに意識的行動選択が伴って初めて「心。」と言えるのであって。チンパンジーなりホモサピエンスの動物的感情自体が人間性を保証するわけではない。

 社会的知性と称して他人と話を丸めることや、他者のご機嫌をうかがうことは気分的な行動「習性。」であって、これを「知性。」というのはおかしな話である。

 「駆け引きや相手をだますという社会的な知性も野外実験場で見ることができる。」これを松沢は「社会的知性。」であると定義する。なぜ、チンパンジーの子供が大人を騙さなくてはならないかというと、チンパンジーの大人は子供に対しての教育ネグレクトを平気でするからである。子供が将来生存における能力を獲得できるかどうかなど全くチンパンジーは「考え。」ないから放置するのであり、子供は仕方なしに大人を騙さなくては生存できない。

 そもそも他者を騙すことを「社会的知性。」などと論じている時点で人間としての社会性など全く考慮に入っておらず、最初から本質的人間性など全く興味のないオカルト観念に基づいて「人間とは。」などと論じているのである。

 単なる動物的知能は人間としての社会性を持った知能とは異なる。

 ホモサピエンスという生物種でありさえすれば人間としての社会性が保証されているわけではない。松沢は「ヒト科ホモサピエンス=人間。」という前提で論じており。これは生物学上の分類しかしておらず、ゲリラであろうと詐欺師であろうと全て同じ「人間。」であるという前提にしか考えておらず。生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任を負う人間との区別をしていない。

 単なる生物学上での遺伝的差異をいくら論じても、単なるホモサピエンスであるだけなのか、それとも人間としての社会性を持っているかを論ずることは、最初から原理的にできない。そもそも松沢にとってどうでもいいようである。

 地域固有の「文化。」を持ち出すのであれば、オリンパスの役員達の理論は正しいことになる。

 ホモサピエンスの子供特有の「誉められたい、認証されたい。」本能欲望があるからといって、この性質が常に人間としての社会性に寄与することの論証にはならない。カルト宗教の幹部が教祖に誉められたいがために地下鉄に毒ガスを撒く行動習性をして「人間固有。」だなどと言う論証にはならない。


 ホモサピエンスとチンパンジーの差異を論じても人間としての社会性の言及にはならない。ホモサピエンスでありさえすれば人間であるとは言えないからである。

 「人間にはおばあさんがいるが、チンパンジーにはいない。これこそが人間の人間らしいところだろう。」などという話も、単なる「ホモサピエンスとチンパンジーの差異。」を論じているだけであって。「ホモサピエンスが人間足りうる所以。」とは無関係である。

 このように、現在の生物学というのは。単なる生物種としてのホモサピエンスと、自律的に社会的責任行動が採れるかどうかの人間性を全く区別しておらず。全く「人間とは何か。」について論理的正確性を欠いた話しかできていないのである。

 「人間とは何か。」「ヒトが人間足りうる所以。」とは何かを論ずるからには、単なる生物種としての差異を枚挙するだけでは論じたことになっていない。松沢は大衆迎合で「人間とは何か。」を論じているだけで、本質的には何ら人間とは何かには興味などないのである。

 脳科学分野において、人間の脳における本質的知能とは何かを論ずるにおいても。従来の生物学のパラダイムに基づいた動物的行動習性「結果。」だけを論じても意味がない。詐欺師が他人を騙して「生存価。」に適しておいても「知能。」ということになっているからだ。にも関わらず脳科学研究者の誰も従来の生物学におけるパラダイムの問題点を全く指摘する者はいない。脳科学は生物学に分類されるのである。動物的な脳の機能をいくら論じても人間としての脳の使い方について論じたことにはならない。これを放置しておいて脳科学もすったくれもあったものではない。

 ナチスの絶滅収容所の吏官は「健康。」であろうか。生物学上では「健康。」であろう、松沢達が論ずる話とは、生物種としての健全性しか論じておらず。本質的人間性においては全く無視しているのである。

 このような状況を放置しておいて、「自律的に社会的責任。」云々について、脳科学も心理学も哲学も原理的に全く糞の役にも立たない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力の一面的高さだけを論じても、これを「知能。」ということはできない。こうした機械条件反射的能力であれば機械でも簡単に再現可能であり、そこから新しい知見や発見といった知能の拡大が得られるわけではないし。当然「自律的な社会的責任。」とも無関係である。

 どんなに一面的な特殊能力を獲得しても、それが知能を拡大するわけでも、自律的な社会的責任能力を立証するわけでもない。

 「人間。」において最も重要なのは、一義的には「自律的に社会的責任を負う。」ことであり。また本質的知能とは、一面的な特定能力の高さだけを意味するものではなく、あくまで「教えられていないことを発見。」するからこそ知能を拡大することが可能なのである。拡大できない知能など本質的には知能ではない。機械で充分であるからだ。

 教えられていないことに気付くためには、必ず自発的思考が必要であり。どんなに難解な問題で高い成績を獲得しても、自発的に何も考えない者は教えられたことを鵜呑みにする以上の何も「考え。」ないのである。


 乳幼児の発達学習の話だけなら動物的な知能論だけで充分である。別に乳幼児に「自律的に社会的責任。」は必要ないからだ。そもそも言語や運動機能というのは無意識機能であって、本質的意識とは直接関係のないものなのである。

 シンボル機能としての言語さえ獲得しておけば「人間。」であることの論証にはならない。逆に脳卒中などで言語機能を喪失したからといって突然自律的社会的責任能力を失うわけではなく。シンボルを扱うかどうかは生物種間における差異を挙げているに過ぎない。生物種としてホモサピエンスでありさえすれば人間としての社会性、すなはち自律的な社会的責任能力の証明にはならないのである。

 詐欺師が他人を騙す為には、高度な言語機能、シンボル能力によって騙すのである。こんなものが「人間として。」の論証になるわけがないのである。

 基本的に現在の生物学はオカルトであることを認識すべきである。生物学者の多くは論理的思考を嫌い、権威者に対しての批判精神を全く持たず。本能的な社会形成習性によって迎合服従する以外に無為無策な集団と化しているのである。こいつらからまともな科学的論証など出てくるわけがないのである。


http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1286328830436_02/news/20101007-OYT8T00462.htm

end;

 検索キーワードが「オリンパス。」になっちゃっているんだけど、これ変更できないのかな。↓