シツケを間違えた小型犬が飼い主の手を噛むのはなぜか。イヌは服従する対象を喪失することによってシーケンシャルに暴力性を発揮するからである。
イヌが服従対象として認識する基準は論理的な根拠に基づくものではなく。シツケの方法や飼い主の態度に依存するような極めて主観的好き嫌いによるものである。
「偉そうな雰囲気。」を「演出。」することでイヌは簡単に服従対象として認識するようになる。イヌの価値観は極めて短絡的な「雰囲気。」だけで決定するものであって、服従するに値するかどうかを論理的には検証していない。
イヌのシツケにおいては、「散歩の際にイヌの目を見ない。」とか、「イヌが自発的に行動しそうになったら、意図的に違う方向に引っ張る。」などといったものであり。イヌが持つ服従欲を満たすためにはイヌ自身の自発性を無視することが必要となる。
ヒトにおいても権威性や暴力、強制性を用いて服従させることによって、イヌと同様に簡単に従順なヒトに「教育。」することも可能である。「簡単。」なのは、それが本能習性だからである。習性というのは傾向性であり、位置エネルギーのごとく「流れ。」のままに「陥る。」ようなものであるからだ。
こうした本能的な社会形成習性に「流される。」場合。自然発生的にはシエラレオネの少年ゲリラのような結果を導くことになる。ヒトが抱く暴力に対する魅力とは、本能的な服従欲を満たすことが可能であるからであり。「カッコイイ。」からである。
権威や力、権威性といったものに服従することが、ヒトという種の生物にとっては快楽であり。「安心。」であるからこそ暴力的な反社会的集団に服従する者というのが発生してしまうのである。
DV、ドメスティックバイオレンスの発生においても。要は女性側が暴力的な男に魅力を感じてしまうという本能習性的な行動判断が根底にあり。無意識的にDVに陥るような相手を選択してしまう傾向性があるからだ。
性的行動と暴力性は、本能的行動として密接に関連している。しかし、この関連性に論理的根拠は必要ない。なぜなら本能的行動の「結果。」として特定環境下において「生存。」してさえいれば構わないからである。本能というのは「結果。」的に淘汰によって偶発的に選択「された。」だけのものであって、そこには何らかの論理的判断だとか目的意識のようなものが介在する余地など存在しないからである。
生物学者がやたらとこじつけたがる「種の存続のためには。」といった目的論は、論理的には実証不能なのである。
「より優秀な遺伝子を選択するため。」などという観念においても、それぞれの個体自体は本能的には何ら選択「して。」などおらず。あくまで結果的に選択「された。」結果として優秀であるかのように見えるだけなのである。本当にその種が環境に最も適合しているという論理的証明などなく、あくまで特定環境下において結果的に生存しているだけなのである。
暴力を用いてオス同士が喧嘩をするという行動は、個体においてはメスを独占したいがゆえに行う結果的行動であって。個体においては「どちらの遺伝子がより優秀であるのかを測る。」必要性など全くない。個体はただ自己の欲望のままに行動するだけであって、種の存続だの生存といった個体の本能欲望を超越した目的意識が存在することは立証不能である。
イヌが飼い主の手を噛むのは、イヌの本能欲望のままに行動した「結果。」である。イヌ自身には本能以上の「目的。」意識など存在しないが故に、シーケンシャルに本能のままに暴力性を発揮する。その結果がどうなろうとイヌ自身は全く選択できない。
スピッツが無駄吠えをするのも、先天的本能によるものである。ところが最近のスピッツは無駄吠えをしなくなったのだという。これは無駄吠えをするスピッツを人為的に淘汰した結果であり。無駄吠えをするタイプのスピッツを絶滅させた結果である。
生物学者達ならこう反論するであろう。「種としては存続した。」と。それなら無駄吠えをするタイプのスピッツの「目的。」とは一体何であったのか。無駄吠えをするタイプのスピッツの遺伝的優位性が全く立証されていないのである。それなら「目的。」とは一体「誰。」が持っているというのであろう。
大多数のスピッツは無駄吠えをしたことを考えれば、存続できたスピッツは圧倒的少数の遺伝的要因を持った個体の子孫である。これは遺伝的要因自体のランダム性によって偶発的に無駄吠えをしない個体が発生した「結果。」として存続できたからであり。この選択過程においてどこにも個体の意図が働いた論証などできない。
そもそも遺伝的要因自体はヒトであっても現在選択不可能なものなのである。
大多数が淘汰された結果として存続できたのであるから。これは個体には結果に対して全く選択の余地など存在せず。種の方向性自体においても、大多数が淘汰された以上生存の方向性すら存在していないのである。
「下手な鉄砲も、数撃ちゃ当たる。」
大量の「犠牲。」に基づいて進化(変化)した結果として、偶発的に生存したのが現在の生物相を形成しているのである。生物にとって生存は「目的。」ではなく、「結果。」的に生存していたものを生物と分類しただけのことである。この大前提を忘れていては全く科学的理論など組み立てられるわけがない。
生存を絶対的な目的に仕立て上げたのは従来の生物学であって、生物の個体自体には本質的「目的。」は存在しない。
本能を満たすための行動選択であっても、それは元々自然選択の結果として組み込まれた行動習性に従っているだけであり。これは本質的には個体の「目的。」意識に基づく行動選択などではない。
そこに多少の「想像力。」「予測力。」が介在しても、それもまたヒトという種固有の習性の範囲内でしかない。
本能的なシーケンシャル、機械条件反射的な習性のおもむくままの行動がどのような結果になるかについて、個体当人には選択の余地など最初からない。
本質的「目的。」とは、こうした機械条件反射的な本能習性だけではない意識的な行動選択によって導き出されるものであり。その意識の広さこそがより高次の目的行動を導き出すことが可能となる。
人間としのて知能として一義的に挙げられるのが、「自律的な社会的責任行動選択。」である。自律というものは、まず基礎として自発的行動選択がなければならない。多数他者や権威の評価報酬に服従迎合していては自律にはならないからである。
単なるヒトではない、「人間。」がなぜ自律的に社会的責任選択を行うことが可能であるのか。それは目先の欲望によって行動が左右されないからである。人はいつか必ず死ぬ、従って目先の生存欲を優先して延命を優先しても。自分が生きるに価しない社会になるような選択は、自ずとしなくなるのである。
そこに生物学的な「生存。」を絶対的「目的。」とするような観念は必要としない。
「死んだら、それで全部終わり。」であると生物学者は言うであろう。逆に、「生きていさえすれば、何かが始まる。」論証でもあるのか。別に自殺を推奨しているわけではないが、逆に自殺が絶対悪である論証もないのである。
他人に危害が及ぶような選択をしてまで生存、或は世間的成功をしても。残りの人生は自分の選択の誤りを抱えたまま「生存。」しなければならないのである。それで何かが「始まる。」とすれば自己の良心の呵責に耐える苦しみだけであろう。
「人間。」であろうとする選択を放棄した時点で、それは「人間。」としては終わっているのである。
「人間。」としての存在価値を放棄してまで生物/医学的な生存を維持しても、後に残るのは動物的な「ヒト。」でしかないのである。それは個人が他者と互換不能な個人である存在価値の放棄でもあり、生物的には「生存。」していても、人間としては死んだも同然である。
しかし、本当の意味において自発的に自殺を選択する者の多くは現状の社会に迎合することを拒絶した者である。動物的本能行動しか望まないモンスター、キチガイ類というのは、動物と一緒で自発的に自殺を選択することはなく。警察に確保されたり悪事が露見した場合など、状況が悪化してから環境依存的に自殺することくらいしかできないのである。
ヴァルター:ベンヤミンがナチス批判をしたことによって服毒自殺に追い込まれたことを、環境依存的行動とは言うことはできない。そもそもナチス政権という社会体制に迎合せず、批判したことが原因だからである。
しかし、多くの大衆凡民は、「ナチスに反対したのはご立派だが、自分は体制に反対してまでご立派にはなりたくない。」のであろう。それは既に組み込まれた無為無策な本能がそう「思わせ。」るのである。より多くの者がナチス政権に反対していれば、特定の人物だけを「ご立派。」扱いにしなくても良いのだが。逆に特定の個人を特別な「ご立派。」扱いにすることによって、自分達の凡庸さの免罪符になると。多くのヒトは「思って。」いるのである。
そこには何の「考え。」も介在してはいない。
こうした本能や気分優先の無意識性こそが、ヒトが冒すあらゆる人為的問題行動の根源なのである。
畑村洋太郎が論ずる、「自律的に社会的責任を負う。」選択というのは。原発技術者だけに必要なものなどではなく。程度の差こそあれ全ての人に必要な素養である。特定の仕事に就く人だけに丸投げしておけば良いという、個人の無責任性の集積によってヒトの習性が及ぼす社会の問題点を助長することはあれ、改善に寄与することはないのである。
ヒトはその本能的社会形成習性によって、自律的判断を放棄することが気分的に「安心。」なのである。権威に服従し多数他者に迎合していないと「不安。」なのである。こうした本能的感情バイアスに無意識に流されていれば、何が起きようとも文句を言えた義理ではない。そこには意識的な「目的。」がないからである。
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イヌが服従対象として認識する基準は論理的な根拠に基づくものではなく。シツケの方法や飼い主の態度に依存するような極めて主観的好き嫌いによるものである。
「偉そうな雰囲気。」を「演出。」することでイヌは簡単に服従対象として認識するようになる。イヌの価値観は極めて短絡的な「雰囲気。」だけで決定するものであって、服従するに値するかどうかを論理的には検証していない。
イヌのシツケにおいては、「散歩の際にイヌの目を見ない。」とか、「イヌが自発的に行動しそうになったら、意図的に違う方向に引っ張る。」などといったものであり。イヌが持つ服従欲を満たすためにはイヌ自身の自発性を無視することが必要となる。
ヒトにおいても権威性や暴力、強制性を用いて服従させることによって、イヌと同様に簡単に従順なヒトに「教育。」することも可能である。「簡単。」なのは、それが本能習性だからである。習性というのは傾向性であり、位置エネルギーのごとく「流れ。」のままに「陥る。」ようなものであるからだ。
こうした本能的な社会形成習性に「流される。」場合。自然発生的にはシエラレオネの少年ゲリラのような結果を導くことになる。ヒトが抱く暴力に対する魅力とは、本能的な服従欲を満たすことが可能であるからであり。「カッコイイ。」からである。
権威や力、権威性といったものに服従することが、ヒトという種の生物にとっては快楽であり。「安心。」であるからこそ暴力的な反社会的集団に服従する者というのが発生してしまうのである。
DV、ドメスティックバイオレンスの発生においても。要は女性側が暴力的な男に魅力を感じてしまうという本能習性的な行動判断が根底にあり。無意識的にDVに陥るような相手を選択してしまう傾向性があるからだ。
性的行動と暴力性は、本能的行動として密接に関連している。しかし、この関連性に論理的根拠は必要ない。なぜなら本能的行動の「結果。」として特定環境下において「生存。」してさえいれば構わないからである。本能というのは「結果。」的に淘汰によって偶発的に選択「された。」だけのものであって、そこには何らかの論理的判断だとか目的意識のようなものが介在する余地など存在しないからである。
生物学者がやたらとこじつけたがる「種の存続のためには。」といった目的論は、論理的には実証不能なのである。
「より優秀な遺伝子を選択するため。」などという観念においても、それぞれの個体自体は本能的には何ら選択「して。」などおらず。あくまで結果的に選択「された。」結果として優秀であるかのように見えるだけなのである。本当にその種が環境に最も適合しているという論理的証明などなく、あくまで特定環境下において結果的に生存しているだけなのである。
暴力を用いてオス同士が喧嘩をするという行動は、個体においてはメスを独占したいがゆえに行う結果的行動であって。個体においては「どちらの遺伝子がより優秀であるのかを測る。」必要性など全くない。個体はただ自己の欲望のままに行動するだけであって、種の存続だの生存といった個体の本能欲望を超越した目的意識が存在することは立証不能である。
イヌが飼い主の手を噛むのは、イヌの本能欲望のままに行動した「結果。」である。イヌ自身には本能以上の「目的。」意識など存在しないが故に、シーケンシャルに本能のままに暴力性を発揮する。その結果がどうなろうとイヌ自身は全く選択できない。
スピッツが無駄吠えをするのも、先天的本能によるものである。ところが最近のスピッツは無駄吠えをしなくなったのだという。これは無駄吠えをするスピッツを人為的に淘汰した結果であり。無駄吠えをするタイプのスピッツを絶滅させた結果である。
生物学者達ならこう反論するであろう。「種としては存続した。」と。それなら無駄吠えをするタイプのスピッツの「目的。」とは一体何であったのか。無駄吠えをするタイプのスピッツの遺伝的優位性が全く立証されていないのである。それなら「目的。」とは一体「誰。」が持っているというのであろう。
大多数のスピッツは無駄吠えをしたことを考えれば、存続できたスピッツは圧倒的少数の遺伝的要因を持った個体の子孫である。これは遺伝的要因自体のランダム性によって偶発的に無駄吠えをしない個体が発生した「結果。」として存続できたからであり。この選択過程においてどこにも個体の意図が働いた論証などできない。
そもそも遺伝的要因自体はヒトであっても現在選択不可能なものなのである。
大多数が淘汰された結果として存続できたのであるから。これは個体には結果に対して全く選択の余地など存在せず。種の方向性自体においても、大多数が淘汰された以上生存の方向性すら存在していないのである。
「下手な鉄砲も、数撃ちゃ当たる。」
大量の「犠牲。」に基づいて進化(変化)した結果として、偶発的に生存したのが現在の生物相を形成しているのである。生物にとって生存は「目的。」ではなく、「結果。」的に生存していたものを生物と分類しただけのことである。この大前提を忘れていては全く科学的理論など組み立てられるわけがない。
生存を絶対的な目的に仕立て上げたのは従来の生物学であって、生物の個体自体には本質的「目的。」は存在しない。
本能を満たすための行動選択であっても、それは元々自然選択の結果として組み込まれた行動習性に従っているだけであり。これは本質的には個体の「目的。」意識に基づく行動選択などではない。
そこに多少の「想像力。」「予測力。」が介在しても、それもまたヒトという種固有の習性の範囲内でしかない。
本能的なシーケンシャル、機械条件反射的な習性のおもむくままの行動がどのような結果になるかについて、個体当人には選択の余地など最初からない。
本質的「目的。」とは、こうした機械条件反射的な本能習性だけではない意識的な行動選択によって導き出されるものであり。その意識の広さこそがより高次の目的行動を導き出すことが可能となる。
人間としのて知能として一義的に挙げられるのが、「自律的な社会的責任行動選択。」である。自律というものは、まず基礎として自発的行動選択がなければならない。多数他者や権威の評価報酬に服従迎合していては自律にはならないからである。
単なるヒトではない、「人間。」がなぜ自律的に社会的責任選択を行うことが可能であるのか。それは目先の欲望によって行動が左右されないからである。人はいつか必ず死ぬ、従って目先の生存欲を優先して延命を優先しても。自分が生きるに価しない社会になるような選択は、自ずとしなくなるのである。
そこに生物学的な「生存。」を絶対的「目的。」とするような観念は必要としない。
「死んだら、それで全部終わり。」であると生物学者は言うであろう。逆に、「生きていさえすれば、何かが始まる。」論証でもあるのか。別に自殺を推奨しているわけではないが、逆に自殺が絶対悪である論証もないのである。
他人に危害が及ぶような選択をしてまで生存、或は世間的成功をしても。残りの人生は自分の選択の誤りを抱えたまま「生存。」しなければならないのである。それで何かが「始まる。」とすれば自己の良心の呵責に耐える苦しみだけであろう。
「人間。」であろうとする選択を放棄した時点で、それは「人間。」としては終わっているのである。
「人間。」としての存在価値を放棄してまで生物/医学的な生存を維持しても、後に残るのは動物的な「ヒト。」でしかないのである。それは個人が他者と互換不能な個人である存在価値の放棄でもあり、生物的には「生存。」していても、人間としては死んだも同然である。
しかし、本当の意味において自発的に自殺を選択する者の多くは現状の社会に迎合することを拒絶した者である。動物的本能行動しか望まないモンスター、キチガイ類というのは、動物と一緒で自発的に自殺を選択することはなく。警察に確保されたり悪事が露見した場合など、状況が悪化してから環境依存的に自殺することくらいしかできないのである。
ヴァルター:ベンヤミンがナチス批判をしたことによって服毒自殺に追い込まれたことを、環境依存的行動とは言うことはできない。そもそもナチス政権という社会体制に迎合せず、批判したことが原因だからである。
しかし、多くの大衆凡民は、「ナチスに反対したのはご立派だが、自分は体制に反対してまでご立派にはなりたくない。」のであろう。それは既に組み込まれた無為無策な本能がそう「思わせ。」るのである。より多くの者がナチス政権に反対していれば、特定の人物だけを「ご立派。」扱いにしなくても良いのだが。逆に特定の個人を特別な「ご立派。」扱いにすることによって、自分達の凡庸さの免罪符になると。多くのヒトは「思って。」いるのである。
そこには何の「考え。」も介在してはいない。
こうした本能や気分優先の無意識性こそが、ヒトが冒すあらゆる人為的問題行動の根源なのである。
畑村洋太郎が論ずる、「自律的に社会的責任を負う。」選択というのは。原発技術者だけに必要なものなどではなく。程度の差こそあれ全ての人に必要な素養である。特定の仕事に就く人だけに丸投げしておけば良いという、個人の無責任性の集積によってヒトの習性が及ぼす社会の問題点を助長することはあれ、改善に寄与することはないのである。
ヒトはその本能的社会形成習性によって、自律的判断を放棄することが気分的に「安心。」なのである。権威に服従し多数他者に迎合していないと「不安。」なのである。こうした本能的感情バイアスに無意識に流されていれば、何が起きようとも文句を言えた義理ではない。そこには意識的な「目的。」がないからである。
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