書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自己満足。

2012年01月23日 22時22分36秒 | 意識論関連
 「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い行動習性の多数抽出に。多くの論理的思考のできない多数大衆に気分的安心を与えるという大衆迎合、人気取りを。論理的検証性のない生物学/マスコミは行っているのである。

 こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。

 「ヒト。」にとってのみ都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。

 どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。

 「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。

 こうした気分的満足を与えることは科学の役割ではない。

 現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。

 マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。

 これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。

 暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。

 とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。

 「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。

 どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。

 「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。

 マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。

 気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。


 気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。

 「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。

 「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。

 だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。

 概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。

 概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。

 概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。

 「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。

 そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。

 そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。

 このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。

 「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」

 マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。

 そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。

 従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。

 子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。

 そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。

 生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。

 ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。

 それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。

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仕組み。

2012年01月23日 14時48分33秒 | 意識論関連
 「稀なこと=些細なこと。」という方程式は身勝手な大衆観念である。

 重大事故は稀にしか発生しないから些細だとでもいうのであろうか。こんな論理矛盾こそが社会安全性の最大の敵であることを、多くの大衆は自律的には認識できない。

 「概ね起こらないこと。」には気分的な危機意識、観念的恐怖心が働かない「習性。」というのがヒトという種の生物にはある。こうした無意識的な「習性。」に流されるだけだから人間としての社会性を喪失することになるのである。

 特定の他人にだけ自律的に社会的責任判断を要求しておきながら、自分自身は自律的には社会的責任判断を無視し、放棄し、蔑ろにしているというのは身勝手以外の何物でもないことを、多くのヒトは意識からはずして気分的に満足する。

 気分的満足によって、自己の思考が停止していることには誰も自律的には気付くことができない頭の悪さを改善しない限り。何が間違いであるかを「誰か。」がいちいち、その都度説明しなければならない。こうした状態を「バカ。」と形容する以外に私は形容の仕方を知らないし、知りたいとも思わない。

 ヒトの多くは、イスラム教典の戒律のように、行動のいちいちを「誰か。」に予め決めておいてもらい。それを盲目的に「信頼。」しておくことで気分的満足を得ることによって盲目性を作り出すことが可能となる。サウジアラビアの入国審査において、何らかの神を持たない者の入国を拒否するのは。「神をも恐れぬ者は、何をしでかすかわからない。」という観念的恐怖心によるものである。そもそも「神がいなければ何をしても許される。」という観念自体、「許して。」もらうという他者に依存した自律の欠落を意味するものであり。中東由来の一神教特有の強迫観念に過ぎない。

 戒律や法律というのは、あくまでそれらの規則の基となった「主旨。」こそに意味があり。主旨を逸脱した盲目的、かつ機械条件反射的服従迎合に意味があるのではない。

 イスラム教に限らず。宗教の持つ危険性というのは、戒律に対する忠誠忠実性によって促される気分的満足や、「美しい。」という主観、感覚、観念によって自律的論理思考が停止してしまう盲目性にある。こうした盲目性というのは宗教に限らず法令遵守に対する異常な盲目性の基にもなるものであり、個人の自律的判断を不具にする盲目性の大きな要因である。気分感覚的満足こそが論理的思考を阻害するのである。

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 傾向性の陳列は犯罪や事故の抑止には何の影響も与えない。「ヒトとは、人間性を持つものである。」という勝手な決め付けは、あくまで「概ね。」の傾向性を述べているだけであって。傾向性をどんなに陳列してもヒトという種の生物が常に人間性を発揮することの論証にはならない。

 ヒトというのは、本質的な意識が働かなければ人間としての行動選択ができないのである。それは傾向性の陳列による一面的「立証。」とは無関係である。

 生物学者達は自分達の固定観念を保守することにばかり意識を奪われているが。それによって本質的な人間としての意識というものがどのように失われるのかについての研究が全くなされないという社会的損失を無視した傲慢な態度であることすら、彼らには自律的には認識できないのである。

 自分達の間違いを自律的に自浄することができないことを、多くの生物学者達は社会的負担/損失であるということすら認識したがらない。

 もはや何度も論じたが、チンパンジーの行動習性をどんなに陳列しても、人間としての社会性の立証になどならない。それを「些細なこと。」「つまらないこと。」だと勝手に「思う。」のであろう。松沢哲郎は生物種としてヒトでありさえすれば、あらゆるヒトは人間としての社会性を持っているなどと勝手な観念に基づいた屁理屈を陳列している。これは科学ではない。

 原理的に不可能な立証方法論をでっちあげておいて、それが大衆観念的にウケた、話題になったからといって。それが科学的に意味を持つわけではない。

 松沢は単なるチンパンジーマニアに過ぎないのである。過去に何をしたかが重要なのではない、今現在においてポンコツであるなら、それは早々にお払い箱にすべきなのである。ましてや税金を使うのであればなをのことである。

 マスコミ大衆や生物学系研究者達は、傾向性さえ立証すれば全ての問題が解決するかのような不毛な観念を本気にしているようだが。傾向性とは「概ね、そうした傾向がある。」ことしか立証していないのである。

 ヒトの多くが概ね詐欺をしないこと立証して、それで詐欺師を更正させることに影響があるであろうか。

 ヒトの多くが暴力的ではないことを立証したからといって、それで戦争が減らせるであろうか。

 ヒトの多くが他人にも金や食料を分け与える傾向性を立証して、それが社会の公平性を担保するであろうか。

 これらの傾向性の立証というのは、単に「ヒトという種の生物は、概ね人間性を持っている。」というだけの「概ね。」論に過ぎず。稀に生じうる重大事象について全く糞の役にも立たない勝手な自己満足に過ぎないのである。

 「ヒトの多くは、概ね人間性を持っている。」傾向性を提示しておけば、バカな大衆凡人達は気分的に満足して、「素晴らしい。」だの「美しい。」だのといった主観的形容という満足や安心のまどろみに浸って思考を停止する。これは大脳辺縁系を満足させることによって大脳新皮質を麻痺させているバカの論理である。

 ヒトは気分が優先するようにできている。大脳辺縁系の感情が優先するような「仕組み。」が脳にはあるからだ。ヒトというのは初期的には動物である。従ってヒトは人間としての行動を常にできるようにはできていない。

 それを「概ね。」可能であることを陳列しても、常にできない以上習性や傾向性自体に意味があるわけではない。

 こうした話を、多くのヒトは「嫌なこと。」であると称して、条件反射的に無視し、意識から外し、思考を停止させて満足する。これこそが「ヒト。」という種の生物に先天的に組み込まれた「バカのシーケンス。」である。

 多くのヒトは嫌な話を聞くと、その嫌な気分だけを行動学習してしまい。拒絶反応だけをシーケンシャルに記憶する。認知症の患者に見られる機械条件反射的な拒絶反応というのは、大脳辺縁系の気分だけが行動を「学習。」してしまうことによるものであり。これは認知症の症状の有無に関わらず、ヒト全般に見られる「習性。」「仕組み。」である。

 「仕組み。」というシーケンスに無為無策に流されるだけであれば、そこに自由意思など存在しない。それをただのバカと言うのである。

 習性だの傾向性がどうあろうとも、自律的に自分の行動を選択することによってのみ。ヒトは人間足りうるのである。

 そこに多数他人の意見だの、社会的成功といった既存の価値観は意味を成さない。世の中の間違いを人類が修正できないのは、間違いを間違いと認識できないからである。決して社会制度といった環境依存的な原因によって世の中の間違いが修正されないということではない。ましてや制度上は民主主義である日本においては、なをのことである。


 マイノリティとオカルトの区別がつかないのは、そこに論理的検証が介在しないからである。多数意見でありさえすれば多くの学者やマスコミは安心して「信頼。」することが可能であろう。その「信頼。」に論理的検証性が伴わないから盲目性なのである。

 オカルト生物学を鵜呑みにしていることの無責任性を、マスコミは認識しなくてはならない。それがマスコミの社会的責任であり、本質的な要請であるからだ。

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入力強度。

2012年01月23日 00時23分07秒 | 意識論関連
 文科系学者が言い出す、本能感覚的「快楽。」というものを、あたかも論理的思考を超越した優れた知性であるかのように形容するのは。本能的気分、本能的感覚が促す快楽の程度や強度が促す錯覚に過ぎない。

 感覚は「知能。」ではない。知能とは感覚器官からの入力強度に依存せずに、論理的分析によって促される「考え。」である。

 錯覚というものは感覚が促すものである。錯覚を錯覚と認識するのが知能である。感覚を優先していれば知能は働かない。

 合理性というものを無視すれば、残るのは感覚だけであり。錯覚が促す気分的満足のまどろみだけである。

 文科系の者は合理性という言葉に異常な拒絶反応をするが、これは感覚が促す錯覚しか優先させない。感覚を優先させておけば気分的には「安心。」であろう、その「安心。」こそが論理的思考を阻害することの危険性は、感覚的には優先されないのが「ヒト。」という種の生物の習性である。

 これがヒトのバカたる所以であることは、マスコミは扱うことを拒絶するのである。

 理由は「大衆ウケが悪いから。」である。



 ゲリラのように暴力的である場合、生存価に適するかどうかは環境次第である。暴力的な者同士による協調行動が生存に適しても何ら不思議ではない。どのような個体が生存に適したかを結果だけから決定することは原理的に不可能である。

 強姦されることに快楽を感じる個体の遺伝子が遺った「結果。」として、強姦されることに快楽を感じる習性があるとしても。それは個体の意識的目的とは無関係である。

 虐待を連鎖する習性も「結果。」である。結果的習性に抗い、無意識的条件反射である連鎖を止めるのが「目的。」意識である。

 「結果。」をどんなに枚挙しても、それが「目的。」意識を励起することにはならない。「結果。」に何を「感じて。」もである。

 アイヒマン実験の結果であっても、多くのヒトは自分自身の意識の問題であるとは「思わ。」ないのである。

 認識によって行動や思考を変えるのは論理的分析であり、「考え。」である。決して「思い。」や「感じ。」ではない。

 従って、本質的意識とは「思い。」や「感じ。」ではない。「思い。」や「感じ。」は固定観念や本能的拒絶反応しか生み出すことはなく、不毛である。

 アイヒマン実験においても、著者の分析では生物学的論証として意味のこじつけがなされている。「サイバネティクスの観点から。」と称して、断片的な有効性を枚挙しても無意識本能的服従習性が常に正しい結果しか導かないことの論証にはならないのである。

 アイヒマン実験の著者であるミルグラムでさえ、その分析段階では生物学的なこじつけをしてしまう程、ヒトとは短絡的なものなのである。

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