「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い行動習性の多数抽出に。多くの論理的思考のできない多数大衆に気分的安心を与えるという大衆迎合、人気取りを。論理的検証性のない生物学/マスコミは行っているのである。
こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。
「ヒト。」にとってのみ都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。
どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。
「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。
こうした気分的満足を与えることは科学の役割ではない。
現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。
マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。
これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。
暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。
とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。
「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。
どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。
「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。
マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。
気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。
気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。
「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。
「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。
だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。
概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。
概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。
概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。
「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。
そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。
そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。
このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。
「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」
マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。
そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。
従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。
子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。
そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。
生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。
ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。
それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。
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こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。
「ヒト。」にとってのみ都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。
どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。
「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。
こうした気分的満足を与えることは科学の役割ではない。
現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。
マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。
これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。
暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。
とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。
「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。
どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。
「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。
マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。
気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。
気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。
「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。
「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。
だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。
概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。
概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。
概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。
「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。
そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。
そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。
このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。
「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」
マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。
そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。
従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。
子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。
そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。
生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。
ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。
それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。
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