イヌをしつける時には、若干スパルタ的に飼い主の方がイヌよりも上位であることを強制的にわからせるよう訓練する。
イヌに飼い主の方が上位であることを「わからせる」というのは、論理的に理解させているわけではない。
「わかった」という感覚は、必ずしも「論理的に理解している。」こととは限らないのだ。
イヌの先天的本能として、自己以外との関係性に順位という「見なし」を必要とする。 自分以外の他者が、自分よりも順位が上なのか下なのかを決めておくことで、誰に服従しておけば良いのかに迷わずに済むためだ。
役割分担をして統率的な組織行動を行う場合には、こうした「誰に服従しておけば良いのか。」が明確になっている必要性がある。
ネコの場合には、一応他の個体との間に順位のようなものはあるが、それはエサや場所の奪い合いなどの基準にするだけであって、統率的な組織行動を促すには至らない。
統率的な組織行動が発生するためには、自分より上位と見なした相手に服従する習性が必要なのである。
イヌの場合、時折飼い主が好き過ぎて興奮し、尿まで漏らすという失態まで犯すこともある。イヌは自分より「上」と見なした対象相手に異常な快楽を感じるようになっているからだ。
イヌに対して飼い主を上位と見なさせるための訓練方法というのは、既に確立されていて。手順や手法に従って訓練すれば大抵のイヌは飼い主を上位と見なすようしつけることが出来る。
逆に言えば、育て方を間違えると飼い主を上位と見なさなくなってしまうため。服従対象と見なさなくなると狂暴になり、飼い主の手を噛んだりするようにもなる。
イヌの先天的な社会形成習性とは、そういうものである。
イヌの場合、自分以外との関係性には「上」か「下」のどちらかに分類する以外に選択肢はない。
野生の状態における哺乳類の社会形成習性では、順位は狂暴性によって決定する。とは言っても、本当に決闘をしてどちらがより強いのかをいちいち見極めていては種として自滅してしまうので、欲望の強度程度としての狂暴性によって順位を決定する。
イヌとトラを一つのケージで飼った場合に、イヌの方がトラよりも上位になる場合もある。トラはそもそも本能習性的に社会形成性を持たないために、順位に対する執着がイヌ程はないためだ。
本当に殺し合いをすれば、強さという点においてはトラの方がイヌよりも圧倒的に強いはずであるが、それは集団内部における順位の基準にはならないのだ。
順位に対する執着心の強度程度が強く。自分よりも「下」と見なした相手に対して狂暴性を発揮する習性がイヌにはあるため、実際に強いかどうかはともかく、より狂暴性の強い相手を上と見なして服従するという習性の結果として、集団統率的な行動をするようになるのである。
イヌが集団統率的な行動を採るのは、目的のためではなく。結果として狩りをする時などに有利であったという、これまた「結果」でしかないのだ。
進化生物学が長い間、結果に対してこじつけ論証をしてきたのは、本能習性が促す行動結果に何らかの目的意識が介在しているはずだという勝手な妄想が働いていたためである。
イヌの脳には目的意識などない。統率的集団行動を採るのも「結果」以上に意味はなく。それが証拠に機械手続き的な訓練をすることによって、ヒトにとって便利な行動を採らせることも可能になる。
こうした結果に対して、「イヌがヒトの命令に従うのは、それが種の保存に適しているからだ。」などという「説明」までも出てくる始末である。 もはや「こじつけ」というよりは「言い逃れ」とか「取り繕い」のレベルであり、到底科学的論証には値しないのは明らかである。
イヌの行動習性はヒトにとって便利に応用利用することが可能であるため。ヒトの気分的にはイヌを「賢い」などと形容することもあるが。イヌの行動習性を利用すれば、軍事利用することも可能であり。イヌの習性が便利だからといって、その気分満足感に基づき短絡的に「賢い」と称して「知能の高さ」の論証か何かだと思い込むのはオカルト観念に過ぎない。
ヒトの脳においても、自分にとって便利だったり、或は快楽を与えてくれる相手を短絡的に「賢い」と思い込む習性があり。こうした思考バイアスが存在するために非科学的オカルト妄想であっても何の疑いも持たなくなるのである。
どんなにイヌの気持ちが「わかった」ような気分になっても、それは論理科学的な理解ではない。
それは従来の進化生物学的こじつけ論証に対しての「わかった」ような気分においても同じである。
イヌに対して飼い主などのヒトの方が順位が上であると「わからせる」ことにおいても、イヌは論理的に何かを「理解」しているわけではなく。ヒトの方が順位が上であると見なしておいた方が気分的に楽なように誘導された結果として、ヒトを上と見なすようになるだけであって。イヌの選択基準は常に快楽と苦痛の強度程度だけで決定されるに過ぎない。
ヒトであっても、イヌの行動と同じように快楽と苦痛の強度程度が行動の基準になる場合は少なくない。大脳辺縁系の構造自体はイヌであってもヒトであってもさしたる違いなどなく。促される本能的行動習性においても同様である。
だが、ヒトの場合には論理的に物事を検証することで、先天的本能習性が促す行動の結果が目的とは異なると認識出来る場合には、本能習性が促す行動バイアスを自律的に抑制することも可能である。
だが、どんなに記憶や知識の「量」があっても。他者からの評価承認とセットで教えられたことをただ漫然と「知っている。」だけでは目的そのものすら認識することも出来ないことは珍しいことではない。
観念的に「わかった」ような気分と、論理的理解との区別を自律的に出来なければ、どんなに大量の知識を「知っている。」としても本質的には知能ではない。
権威というものも、結局はヒトという種の先天的本能習性が促す盲目的服従対象としての「見なし」に過ぎない。
権威というのは、先天的本能が促す服従バイアスとして「わかった」ような気分によって見なされているに過ぎず。権威への服従こそが自律的な社会的責任判断力を個人から奪う大きな要因ともなっている。
服従対象として相応しいのかどうかは個人の自律的判断によって選択すべきものであって、単に多数決で決定し(見なし)ているだけであれば科学的には何の意味も持たないのである。
ヒトはとかく、感じていることや思っていることを、短絡的に論理検証的な考えか何かだと混同錯覚する性質がある。
記憶や知識の「量」を競いあって順位を決定しても、それが本質的な知能の認知科学的論証には一切ならない。特定能力の高さだけを基準として「勝ち負け」を決定しても、それはむしろ順位欲に基づいた観念的な「わかった」感を満足させているだけに過ぎないのだ。
イジメ対策と称して気分的に優しい気持ちに誘導するような授業が行われることがあるが、衆人環視下において他者から促されたその場限りの感情気分ではイジメなどの差別排除の対策としてはお粗末と言う他ない。 他者から促された感情気分に流されているだけであれば、それはイジメを促すような環境下になれば簡単にイジメに加わったり傍観放置をするようにもなるからである。
感受性の全てが人間性の源であるかのように「思って」おけば、気分的には満足感を得ることも簡単であろう。しかし、そうした満足感による思考停止というのは、自分の先天的な本能習性が絶対的に優秀であるという傲慢から導き出されていることにまで認識が働いていないことが原因である。
特殊詐欺の研究をしている作家までもが振り込め詐欺に騙されるというのは、「感受性こそが人間性である。」という身勝手で傲慢な固定観念に基づいているからに他ならない。
イジメなどの差別排除が発生するのは、ヒトの先天的な本能習性としての「感受性」が原因である。その現実を直視せずに他者が作り出した環境に依存したご都合主義的に、その場限りに「優しい気持ち」に誘導しておけば解決だと思うのは大間違いである。
マイケル:サンデルの講義のように、促されて考えただけでは自分から自発的に検証するようにはならないのと同様。促されたその場限りの気分でも自発的に問題解決をするようには構造原理的にならないのである。
イジメを行ってしまう子供には、何らかの原因があるはずである。それは親大人から抑圧的ストレスが原因かも知れない。そもそも暴力的威圧や人工的権威性を用いて恐怖で子供達を支配しておけば、子供個人から自律的な責任判断選択が喪失するのも必然的結果である。
先天的に他人との順位を決定しておかないといられないような、本能欲望が優先してしまっているケースもあるだろう。しかし、その場合においても、先天的本能欲望が促す「感受性」のままに行動していることは自由意志ではないことを理解させ、本当に個人が望む社会とはどういうものであるのかを自発的に考えられるようにしてあげることで、自ら自分の感情気分を抑制できるようにすることも不可能ではないはずである。 余程の重症でもない限りは。
暴力団やISILのように、暴力的威圧による恐怖心を用いた統率に対して、「カッコイイ」という感情を抱いて憧れることは、むしろ動物的には普通のことである。イヌもハダカデバネズミも暴力性の強度程度でしか順位を決定することはしないからである。
たとえボノボが暴力的威圧の代わりに性的威圧にすり替えていても、ヒトの行動に置き換えればセクハラ痴漢行為で気分的に満足して暴力性が抑えられているだけに過ぎず。ほとんど「バカの屁理屈」レベルの話に過ぎない。 自然環境下での動物の行動習性を観察することは重要であろうが、その観察結果に対して大衆からの評価承認が得られそうな屁理屈をこじつけるというのは、大衆迎合的な業績の捏造でしかない。
学校でのイジメにおいても同様で、学級内部において観念的に「カッコイイ」と見なした学級内ヒエラルキーに基づいて上位の者が差別排除を促せば、子供は簡単にイジメに加わったり傍観放置をするのも必然である。
子供じみた動物的観念に基づいて暴力的な配偶者を選択するからこそ、バカ女はDV男に引っ掛かるのである。
飼い犬が飼い主の手を噛む行動も、結局はイヌの感受性に起因する結果である。
ヒトという種の生物が、その進化(変化)過程の大部分において狂暴性によって生存に適してきた以上、先天的に狂暴性を持っていることは逃れようのない厳然たる事実である。 その先天的な狂暴性が「感受性」という大脳辺縁系が促す気分感情に由来するものである以上。それを客観的に認識し、自律的に抑制出来るようにするためには、その場限りの感受性に頼らない自発的論理検証性を育む必要性がある。
それは簡単でもなければ手間のかかることかも知れないが、学力成績よりも一人の「人間」として自律的な社会的責任を負うように育てることの方が優先されなければならない。 学力学歴がどんなに高くても、無責任であれば社会にとって負担にしかならないのは当たり前の話だからである。
通り魔や銃乱射事件などの犯人の多くには、学生時代に学力が高かった傾向が見られることからも、学力成績というのは就職にとって有利という利己的利益には供するであろうが、本当の意味で社会的に価値があるわけではない。
ヒトの子供を育てる時に、戸塚ヨットスクールのように「飼い主に対して従順なイヌの育て方。」をそのまま応用するというのは。子供の自主性を喪失させ自律的な社会的責任判断力を奪う社会的に無責任な行為である。
ヒトであってもイヌと同じような本能的社会形成習性は存在するために、人工的権威や暴力的威圧に対する恐怖心を利用して盲目的に服従させることは、むしろ簡単なことである。 だがそれは無責任な「手抜き」に他ならない。
異端や少数派であるというだけで、「仮説に過ぎない」と言い張ることは簡単である。仮説が間違っているといった論理反証せずに、漫然と「仮説に過ぎない」と言い張るのであれば、それこそが「論理的根拠もない仮説」に他ならない。
理解もせず、論理反証もしないというのは、むしろ問題意識の低さに起因するものであろう。
その場限りの気分的満足感ばかりを追求していれば、そりゃ何の問題意識も働かないのも当然である。
Ende;
イヌに飼い主の方が上位であることを「わからせる」というのは、論理的に理解させているわけではない。
「わかった」という感覚は、必ずしも「論理的に理解している。」こととは限らないのだ。
イヌの先天的本能として、自己以外との関係性に順位という「見なし」を必要とする。 自分以外の他者が、自分よりも順位が上なのか下なのかを決めておくことで、誰に服従しておけば良いのかに迷わずに済むためだ。
役割分担をして統率的な組織行動を行う場合には、こうした「誰に服従しておけば良いのか。」が明確になっている必要性がある。
ネコの場合には、一応他の個体との間に順位のようなものはあるが、それはエサや場所の奪い合いなどの基準にするだけであって、統率的な組織行動を促すには至らない。
統率的な組織行動が発生するためには、自分より上位と見なした相手に服従する習性が必要なのである。
イヌの場合、時折飼い主が好き過ぎて興奮し、尿まで漏らすという失態まで犯すこともある。イヌは自分より「上」と見なした対象相手に異常な快楽を感じるようになっているからだ。
イヌに対して飼い主を上位と見なさせるための訓練方法というのは、既に確立されていて。手順や手法に従って訓練すれば大抵のイヌは飼い主を上位と見なすようしつけることが出来る。
逆に言えば、育て方を間違えると飼い主を上位と見なさなくなってしまうため。服従対象と見なさなくなると狂暴になり、飼い主の手を噛んだりするようにもなる。
イヌの先天的な社会形成習性とは、そういうものである。
イヌの場合、自分以外との関係性には「上」か「下」のどちらかに分類する以外に選択肢はない。
野生の状態における哺乳類の社会形成習性では、順位は狂暴性によって決定する。とは言っても、本当に決闘をしてどちらがより強いのかをいちいち見極めていては種として自滅してしまうので、欲望の強度程度としての狂暴性によって順位を決定する。
イヌとトラを一つのケージで飼った場合に、イヌの方がトラよりも上位になる場合もある。トラはそもそも本能習性的に社会形成性を持たないために、順位に対する執着がイヌ程はないためだ。
本当に殺し合いをすれば、強さという点においてはトラの方がイヌよりも圧倒的に強いはずであるが、それは集団内部における順位の基準にはならないのだ。
順位に対する執着心の強度程度が強く。自分よりも「下」と見なした相手に対して狂暴性を発揮する習性がイヌにはあるため、実際に強いかどうかはともかく、より狂暴性の強い相手を上と見なして服従するという習性の結果として、集団統率的な行動をするようになるのである。
イヌが集団統率的な行動を採るのは、目的のためではなく。結果として狩りをする時などに有利であったという、これまた「結果」でしかないのだ。
進化生物学が長い間、結果に対してこじつけ論証をしてきたのは、本能習性が促す行動結果に何らかの目的意識が介在しているはずだという勝手な妄想が働いていたためである。
イヌの脳には目的意識などない。統率的集団行動を採るのも「結果」以上に意味はなく。それが証拠に機械手続き的な訓練をすることによって、ヒトにとって便利な行動を採らせることも可能になる。
こうした結果に対して、「イヌがヒトの命令に従うのは、それが種の保存に適しているからだ。」などという「説明」までも出てくる始末である。 もはや「こじつけ」というよりは「言い逃れ」とか「取り繕い」のレベルであり、到底科学的論証には値しないのは明らかである。
イヌの行動習性はヒトにとって便利に応用利用することが可能であるため。ヒトの気分的にはイヌを「賢い」などと形容することもあるが。イヌの行動習性を利用すれば、軍事利用することも可能であり。イヌの習性が便利だからといって、その気分満足感に基づき短絡的に「賢い」と称して「知能の高さ」の論証か何かだと思い込むのはオカルト観念に過ぎない。
ヒトの脳においても、自分にとって便利だったり、或は快楽を与えてくれる相手を短絡的に「賢い」と思い込む習性があり。こうした思考バイアスが存在するために非科学的オカルト妄想であっても何の疑いも持たなくなるのである。
どんなにイヌの気持ちが「わかった」ような気分になっても、それは論理科学的な理解ではない。
それは従来の進化生物学的こじつけ論証に対しての「わかった」ような気分においても同じである。
イヌに対して飼い主などのヒトの方が順位が上であると「わからせる」ことにおいても、イヌは論理的に何かを「理解」しているわけではなく。ヒトの方が順位が上であると見なしておいた方が気分的に楽なように誘導された結果として、ヒトを上と見なすようになるだけであって。イヌの選択基準は常に快楽と苦痛の強度程度だけで決定されるに過ぎない。
ヒトであっても、イヌの行動と同じように快楽と苦痛の強度程度が行動の基準になる場合は少なくない。大脳辺縁系の構造自体はイヌであってもヒトであってもさしたる違いなどなく。促される本能的行動習性においても同様である。
だが、ヒトの場合には論理的に物事を検証することで、先天的本能習性が促す行動の結果が目的とは異なると認識出来る場合には、本能習性が促す行動バイアスを自律的に抑制することも可能である。
だが、どんなに記憶や知識の「量」があっても。他者からの評価承認とセットで教えられたことをただ漫然と「知っている。」だけでは目的そのものすら認識することも出来ないことは珍しいことではない。
観念的に「わかった」ような気分と、論理的理解との区別を自律的に出来なければ、どんなに大量の知識を「知っている。」としても本質的には知能ではない。
権威というものも、結局はヒトという種の先天的本能習性が促す盲目的服従対象としての「見なし」に過ぎない。
権威というのは、先天的本能が促す服従バイアスとして「わかった」ような気分によって見なされているに過ぎず。権威への服従こそが自律的な社会的責任判断力を個人から奪う大きな要因ともなっている。
服従対象として相応しいのかどうかは個人の自律的判断によって選択すべきものであって、単に多数決で決定し(見なし)ているだけであれば科学的には何の意味も持たないのである。
ヒトはとかく、感じていることや思っていることを、短絡的に論理検証的な考えか何かだと混同錯覚する性質がある。
記憶や知識の「量」を競いあって順位を決定しても、それが本質的な知能の認知科学的論証には一切ならない。特定能力の高さだけを基準として「勝ち負け」を決定しても、それはむしろ順位欲に基づいた観念的な「わかった」感を満足させているだけに過ぎないのだ。
イジメ対策と称して気分的に優しい気持ちに誘導するような授業が行われることがあるが、衆人環視下において他者から促されたその場限りの感情気分ではイジメなどの差別排除の対策としてはお粗末と言う他ない。 他者から促された感情気分に流されているだけであれば、それはイジメを促すような環境下になれば簡単にイジメに加わったり傍観放置をするようにもなるからである。
感受性の全てが人間性の源であるかのように「思って」おけば、気分的には満足感を得ることも簡単であろう。しかし、そうした満足感による思考停止というのは、自分の先天的な本能習性が絶対的に優秀であるという傲慢から導き出されていることにまで認識が働いていないことが原因である。
特殊詐欺の研究をしている作家までもが振り込め詐欺に騙されるというのは、「感受性こそが人間性である。」という身勝手で傲慢な固定観念に基づいているからに他ならない。
イジメなどの差別排除が発生するのは、ヒトの先天的な本能習性としての「感受性」が原因である。その現実を直視せずに他者が作り出した環境に依存したご都合主義的に、その場限りに「優しい気持ち」に誘導しておけば解決だと思うのは大間違いである。
マイケル:サンデルの講義のように、促されて考えただけでは自分から自発的に検証するようにはならないのと同様。促されたその場限りの気分でも自発的に問題解決をするようには構造原理的にならないのである。
イジメを行ってしまう子供には、何らかの原因があるはずである。それは親大人から抑圧的ストレスが原因かも知れない。そもそも暴力的威圧や人工的権威性を用いて恐怖で子供達を支配しておけば、子供個人から自律的な責任判断選択が喪失するのも必然的結果である。
先天的に他人との順位を決定しておかないといられないような、本能欲望が優先してしまっているケースもあるだろう。しかし、その場合においても、先天的本能欲望が促す「感受性」のままに行動していることは自由意志ではないことを理解させ、本当に個人が望む社会とはどういうものであるのかを自発的に考えられるようにしてあげることで、自ら自分の感情気分を抑制できるようにすることも不可能ではないはずである。 余程の重症でもない限りは。
暴力団やISILのように、暴力的威圧による恐怖心を用いた統率に対して、「カッコイイ」という感情を抱いて憧れることは、むしろ動物的には普通のことである。イヌもハダカデバネズミも暴力性の強度程度でしか順位を決定することはしないからである。
たとえボノボが暴力的威圧の代わりに性的威圧にすり替えていても、ヒトの行動に置き換えればセクハラ痴漢行為で気分的に満足して暴力性が抑えられているだけに過ぎず。ほとんど「バカの屁理屈」レベルの話に過ぎない。 自然環境下での動物の行動習性を観察することは重要であろうが、その観察結果に対して大衆からの評価承認が得られそうな屁理屈をこじつけるというのは、大衆迎合的な業績の捏造でしかない。
学校でのイジメにおいても同様で、学級内部において観念的に「カッコイイ」と見なした学級内ヒエラルキーに基づいて上位の者が差別排除を促せば、子供は簡単にイジメに加わったり傍観放置をするのも必然である。
子供じみた動物的観念に基づいて暴力的な配偶者を選択するからこそ、バカ女はDV男に引っ掛かるのである。
飼い犬が飼い主の手を噛む行動も、結局はイヌの感受性に起因する結果である。
ヒトという種の生物が、その進化(変化)過程の大部分において狂暴性によって生存に適してきた以上、先天的に狂暴性を持っていることは逃れようのない厳然たる事実である。 その先天的な狂暴性が「感受性」という大脳辺縁系が促す気分感情に由来するものである以上。それを客観的に認識し、自律的に抑制出来るようにするためには、その場限りの感受性に頼らない自発的論理検証性を育む必要性がある。
それは簡単でもなければ手間のかかることかも知れないが、学力成績よりも一人の「人間」として自律的な社会的責任を負うように育てることの方が優先されなければならない。 学力学歴がどんなに高くても、無責任であれば社会にとって負担にしかならないのは当たり前の話だからである。
通り魔や銃乱射事件などの犯人の多くには、学生時代に学力が高かった傾向が見られることからも、学力成績というのは就職にとって有利という利己的利益には供するであろうが、本当の意味で社会的に価値があるわけではない。
ヒトの子供を育てる時に、戸塚ヨットスクールのように「飼い主に対して従順なイヌの育て方。」をそのまま応用するというのは。子供の自主性を喪失させ自律的な社会的責任判断力を奪う社会的に無責任な行為である。
ヒトであってもイヌと同じような本能的社会形成習性は存在するために、人工的権威や暴力的威圧に対する恐怖心を利用して盲目的に服従させることは、むしろ簡単なことである。 だがそれは無責任な「手抜き」に他ならない。
異端や少数派であるというだけで、「仮説に過ぎない」と言い張ることは簡単である。仮説が間違っているといった論理反証せずに、漫然と「仮説に過ぎない」と言い張るのであれば、それこそが「論理的根拠もない仮説」に他ならない。
理解もせず、論理反証もしないというのは、むしろ問題意識の低さに起因するものであろう。
その場限りの気分的満足感ばかりを追求していれば、そりゃ何の問題意識も働かないのも当然である。
Ende;