まず挙げておかなければならないことは、学力偏差値というのは認知科学的な本質的知能の論証にはならないということだ。
学力偏差値というのは、教えられたことに対して何の疑いも持たず、鵜呑みにしていても得られるものであり。いわゆる承認欲求中毒との親和性が非常に高く、学力評価という抽象化された脳への報酬系に直接作用してしまうと権威が促す考えには異常執着するのだが、逆に権威として「見なす」ことの出来ない相手に対しては異常なまでに誹謗中傷をすることで、自己の優位性を正当化しようと必死になる傾向が見られる。
例の病理診断医にも見られたが、マイケル:サンデルのような既存の権威(実際には科学的根拠はない)を盲信すると同時に、自分の気分が少しでも悪くなるような話に対しては条件反射的に拒絶反応を示すようになり。身勝手な価値観に基づいて自然科学を専門家しか論じてはいけないかのような閉鎖性をも作り出してしまう。
権威性がなく、自分よりも「下」だと見なした相手に対して異常なまでに噛み付き。「論破した。」「バカしかいねぇ。」などと言い張るのだが。権威に教えられた内容に対する論理的批判精神も何もなく、ただ教えられたことを鵜呑みにすることしか出来ないという、学力偏差値が高いだけの凡人に過ぎない。
学力偏差値の高い者というのは世界中に大変たくさんいるのだが、そのほとんど全員が進化生物学のこじつけ論証(優生学の源)への反論すら出来なかったことからも、彼らは単なる「学力サヴァン」のようなものに過ぎない。
こうした学力偏差値偏執狂が学力に執着する動機とは、学力の高さを短絡的に「本質的知能」だとか「人間としての優位性」か何かと勝手に勘違いしていることが根底にある。
学力偏差値が知能や人間としての優位性だと「思う」のは、別に認知科学的根拠があるわけではなく。単に大衆の多くがそう「思い込んでいる」ことを短絡的に鵜呑みにしているに過ぎず、自律的には何も検証することも、調べることすらしないという頭の悪さを証明してもいるのである。
通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の多くに、学生時代の学力偏差値が高いという傾向性が見られる。
また、ISILやオウム真理教幹部達にも学力偏差値の高さは見られるものであり。学力偏差値というのは一人の社会的人間としての自律的な社会的責任判断能力とも無関係なのである。
もちろん学力偏差値が高ければ短絡的に無差別殺人犯になるというわけでもなく、学力などの既存の価値観で「勝負」できないと諦めた場合には狂暴性を基準とした序列競争で優位に立とうとする場合も珍しくない。
ここで留意しておかなければならないことは、「勝負」への異常執着性である。
なぜ彼らは勝たなければならないのか。 それは他人との関係性において順位序列をつけることで、「誰に従っていれば良いのか。」を規定しておきたいからである。
こうした順位序列への異常執着というのは、イヌなどの本能的な社会形成習性に基づいた行動バイアスであり。イヌが「自分よりも上」と見なした相手に対して異常なまでの執着を発揮するのと全く同じものである。
イヌも「自分より下」と見なした相手に対しては暴力性や差別排除的行動を採ることがある。
イヌなどの本能的な社会形成習性というのは、「自分よりも上」だと見なした服従対象に対してだけ盲目的に信用することが気分的に安心で満足感が得られるのと同時に。「自分よりも下」だと見なした相手に対しては異常なまでに蔑んだり、大して論理的根拠もないのに誹謗中傷することで差別や排除をも生じさせる原因でもある。
これは脳のドーパミン報酬系のシーケンシャルな行動パタンである。
ヒトは今までずっと「生きて」来たため、「生きて」いることが安心であると同時に。「生きて」いない状態に対して論理的根拠もない拒絶反応をも示す。
大脳辺縁系に直結したドーパミン報酬系というのは、定常安定状態を好むことが結果的に生存につながったために組み込まれた動物としての最も基本な情動システムではあるのだが。このシーケンスが促す行動というものは必ずしも生存や持続可能性につながる保証は何もない。
危険な薬物への中毒や、DV男に対する恋愛感情などもドーパミン報酬系が促す行動バイアスの結果であり。そこに「目的」が介在する余地はない。
イヌが飼い主の手を噛んだりすることがあるが、これはイヌが飼い主に対して「上」であると見なさなくなった場合の行動結果なのだが。この行動には特に目的もないので、訓練次第では飼い主を「上」と見なして従順に服従するようにも出来る。
イヌの価値観には平等というものは存在せず、服従対象か差別対象かの2択しか行動として組み込まれていない。
よく訓練された命令に従う従順なイヌやヒトの子供に対して、ヒトの多くは短絡的に「賢い」という錯覚を感じる性質がある。
実際には「自分にとって都合が良い行動をしてくれる。」だけか、若しくは「気分が良くなる行動をしてくれる。」だけなのであって。その行動に倫理的人間性が伴っているのかどうかは考慮に入っていない。
マイケル:サンデルの講義を聴いて、気分が良くなったことを短絡的に「サンデルは頭が良い。」とか、「サンデルの講義を聴くと自分の頭が良くなった。」などと「思う」らしいのだが。実際には茂木健一郎が勧める「アハ体験」同様に、あたかも「自分の頭を使ったような気分。」になっているだけであり。 サンデルや茂木の講義を聴いても、統計的に自律的な考えが出来るようになったといった実証データがあるわけではなく。単に学生や大衆から「人気がある。」ことから、短絡的に効果があるという、勝手な大衆妄想でしかないのである。
このように、感覚的に「思う」ことという価値観には、合理性のある科学的根拠を必要としない。そこにはただ、ドーパミン報酬系が促した気分的安心満足感さえあれば良いのである。
そこで問題となるのが、本能的な社会形成習性が促す順位序列への異常執着である。
通り魔や銃乱射などの無差別殺人犯達に共通して見られるのが、「思ったように世間から注目や評価報酬が得られなかった。」ことへの腹いせ、報復的な処罰感情である。
彼らは社会というものの規範にさえ従っておけば、何でも必ずそれに見合った評価報酬や注目が得られるという勝手な思い込みに基づいて。社会規範や制度、権威性に対する何の批判もせずにただ従順に服従するに気分が良くなる相手を求めているだけなので、社会の何が具体的にどこが問題点なのかとか、それに対する具体的対策といった論理的「考え」が全く働いておらず。
漫然と多数や、多数の承認した権威が促す行動にさえ従っておけば常に自分の利己的欲望にとって有利な結果が得られるものであるという勝手な妄想に囚われているため。自分が勝手に思った程の評価報酬が得られない場合に短絡的に暴力的報復や処罰といった感情的行動しか選択することができないのである。
それは、まるでエサが思ったように貰えず暴れる日光いろは坂のニホンザルの狂暴性と酷似している。
彼らは、なぜ自分が他人を無差別に誹謗中傷しているのかといった、気分的行動バイアスの原因すら自分では認識することが出来ないため。気分感情が促す行動バイアスのままに最も気分が良くなる行動として報復的な処罰感情へと暴走するのである。
論理検証的に何が最も重要なことなのかといった「考え」は働かず、それゆえに気分感情の強度程度だけで行動が決定してしまっており。そこに自律的な意思選択が介在する余地はない。
評価承認中毒に陥っている場合。その行動や言動といったものには合理性は必要なく、その場限りに自分の気分が良くなるようにしか行動選択することは出来ず、その行動選択というものには自律的な「考え」が全く存在せず、当然目的意識も存在せず、気分感情が促すシーケンシャルな条件反射的選択という無意識選択しか出来ないのである。
ヒトという種の生物は、その場限りの「勝ち負け」や「優劣」ばかりを決定したがり。雰囲気的に「勝った」ように多数から見なされることだけで充分な気分的安心満足感得ることが可能である。
その場限りに言いくるめ、あたかも自分の主張には普遍的価値観や合理的根拠が存在するかのような錯覚を多数大衆にアピールすることで、その場限りに満足するのである。
だが、実際にはそんなことでは評価承認欲求を充足することは叶わず。最終的には盲信するための権威への忠誠忠実な服従欲求を満たすまで暴走は止まらない。
「イヌにとって服従はアヘン。」なのである。
一度何らかの理由でISILだのオウム真理教などへの忠誠忠実さを発揮し盲信的な忠誠忠実さを発揮すると、彼らは本能的な服従欲求を満たし、死ぬまで服従を誓うのである。
そういった盲信出来る組織集団が見つからない場合には、通り魔や銃乱射などの無差別殺人にも発展することもある。
「自分よりも上」と見なした相手からの評価承認を得ることが彼らの「目的」なのだが。この「目的」というものには自律的な考えや意思が全く介在しておらず、本能欲望が促す無意識な行動選択の結果的な「目的」に過ぎない。
こうした「無意識な目的」というのは、利己的金儲けなどと同じものであり。社会全体にとって普遍的な価値などを一切持たず、その場限りに自己の本能欲求のおもむくままに流されているに過ぎず。本質的な目的選択も自由意思も介在しない。
予め組み込まれた情動行動が促すシーケンシャルな行動バイアスに無意識に流されるだけでは、そこに「自己」も「意識」も「自由意思」も存在しないのである。 こうした論理的事実から目を背ける習性もヒトの脳にはあるため、「オノレはイヌだカブトムシだから先天的本能習性には抗うことが出来ない。」などという身勝手な言い逃れが出てくるのである。
言い逃れや取り繕い、はぐらかし、ごまかし、開き直りの類というのは。認知症の初期症状でも見られる簡単なお仕事である。
それらは何の考えもせずに無意識的条件反射でいくらでも出てくる屁理屈に過ぎず。何の論理的根拠も持ち得ないからこそ、大脳が萎縮し始めていても可能なのである。
大脳辺縁系というのは、ヒトをバカであろうと導く性質がある。
学力偏差値を短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勝手に勘違いしたまま、何も気付かないバカであれば。実社会においては「教えたこと以外何も出来ないデクノボウ。」であることは明らかである。
おそらくは、その無能さに起因する社会的評価の低さから、SNS上で匿名アカウントを使って無差別的に他人を蔑んだり、誹謗中傷に邁進することで現実逃避をしているのではないだろうか。
おいらの育ちがもう少し良ければ、尾木直樹ママのように「どうしたの?。」と相談にのってあげることも出来るのかも知れないが。 残念ながらおいらは育ちがあまり良くないので、評価承認中毒患者のご機嫌取りには興味がない。
ヘイトスピーチの類というのは、評価承認中毒患者が、世間からの評価や注目を集めることで本能欲求を満たすことを「目的」とした行動である。 無論、この場合の「目的」とは無意識が促す条件反射の結果に過ぎず。本人の自律的な論理検証性に基づいた意識的「目的」ではない。
だが、ヒトの多くはヘイトスピーチのような理不尽な差別に怒りを感じ。うっかり条件反射的に処罰感情のおもむくままにカウンターに入りがちであるが、それは解決にはならない。
順序としては処罰感情に基づいた刑法罰による「解決」というものへの疑義から認識する必要性がある。 そのためには、先天的な本能としての処罰感情が社会的には目的でも意識的選択でもないことを認識することから始める必要性がある。
「あれはダメ、これもダメ」と心理的抑圧ばかりを子供達に強制し、規範意識などという盲目性を植え付けてしまうから自律的に何も考えることが出来ない者が増えてしまうのであり。こうした悪しき因習への執着もまた、ドーパミン報酬系が促す中毒の結果に過ぎない。
学力偏差値というものを短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勘違いしている評価承認中毒患者であっても、その自律的な論理検証性の欠落には成育環境における原因があるはずである。
ただ漫然と嫌いな相手を排除するだけではヘイトスピーチと何の違いもないのである。
ヘイトスピーチをしている者を差別しているだけであれば、それもまたヘイトにしかならず。レイシストであることに違いはないと教えてくれたのはれにさんさんでした。
母は強いな。
Ende;
学力偏差値というのは、教えられたことに対して何の疑いも持たず、鵜呑みにしていても得られるものであり。いわゆる承認欲求中毒との親和性が非常に高く、学力評価という抽象化された脳への報酬系に直接作用してしまうと権威が促す考えには異常執着するのだが、逆に権威として「見なす」ことの出来ない相手に対しては異常なまでに誹謗中傷をすることで、自己の優位性を正当化しようと必死になる傾向が見られる。
例の病理診断医にも見られたが、マイケル:サンデルのような既存の権威(実際には科学的根拠はない)を盲信すると同時に、自分の気分が少しでも悪くなるような話に対しては条件反射的に拒絶反応を示すようになり。身勝手な価値観に基づいて自然科学を専門家しか論じてはいけないかのような閉鎖性をも作り出してしまう。
権威性がなく、自分よりも「下」だと見なした相手に対して異常なまでに噛み付き。「論破した。」「バカしかいねぇ。」などと言い張るのだが。権威に教えられた内容に対する論理的批判精神も何もなく、ただ教えられたことを鵜呑みにすることしか出来ないという、学力偏差値が高いだけの凡人に過ぎない。
学力偏差値の高い者というのは世界中に大変たくさんいるのだが、そのほとんど全員が進化生物学のこじつけ論証(優生学の源)への反論すら出来なかったことからも、彼らは単なる「学力サヴァン」のようなものに過ぎない。
こうした学力偏差値偏執狂が学力に執着する動機とは、学力の高さを短絡的に「本質的知能」だとか「人間としての優位性」か何かと勝手に勘違いしていることが根底にある。
学力偏差値が知能や人間としての優位性だと「思う」のは、別に認知科学的根拠があるわけではなく。単に大衆の多くがそう「思い込んでいる」ことを短絡的に鵜呑みにしているに過ぎず、自律的には何も検証することも、調べることすらしないという頭の悪さを証明してもいるのである。
通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の多くに、学生時代の学力偏差値が高いという傾向性が見られる。
また、ISILやオウム真理教幹部達にも学力偏差値の高さは見られるものであり。学力偏差値というのは一人の社会的人間としての自律的な社会的責任判断能力とも無関係なのである。
もちろん学力偏差値が高ければ短絡的に無差別殺人犯になるというわけでもなく、学力などの既存の価値観で「勝負」できないと諦めた場合には狂暴性を基準とした序列競争で優位に立とうとする場合も珍しくない。
ここで留意しておかなければならないことは、「勝負」への異常執着性である。
なぜ彼らは勝たなければならないのか。 それは他人との関係性において順位序列をつけることで、「誰に従っていれば良いのか。」を規定しておきたいからである。
こうした順位序列への異常執着というのは、イヌなどの本能的な社会形成習性に基づいた行動バイアスであり。イヌが「自分よりも上」と見なした相手に対して異常なまでの執着を発揮するのと全く同じものである。
イヌも「自分より下」と見なした相手に対しては暴力性や差別排除的行動を採ることがある。
イヌなどの本能的な社会形成習性というのは、「自分よりも上」だと見なした服従対象に対してだけ盲目的に信用することが気分的に安心で満足感が得られるのと同時に。「自分よりも下」だと見なした相手に対しては異常なまでに蔑んだり、大して論理的根拠もないのに誹謗中傷することで差別や排除をも生じさせる原因でもある。
これは脳のドーパミン報酬系のシーケンシャルな行動パタンである。
ヒトは今までずっと「生きて」来たため、「生きて」いることが安心であると同時に。「生きて」いない状態に対して論理的根拠もない拒絶反応をも示す。
大脳辺縁系に直結したドーパミン報酬系というのは、定常安定状態を好むことが結果的に生存につながったために組み込まれた動物としての最も基本な情動システムではあるのだが。このシーケンスが促す行動というものは必ずしも生存や持続可能性につながる保証は何もない。
危険な薬物への中毒や、DV男に対する恋愛感情などもドーパミン報酬系が促す行動バイアスの結果であり。そこに「目的」が介在する余地はない。
イヌが飼い主の手を噛んだりすることがあるが、これはイヌが飼い主に対して「上」であると見なさなくなった場合の行動結果なのだが。この行動には特に目的もないので、訓練次第では飼い主を「上」と見なして従順に服従するようにも出来る。
イヌの価値観には平等というものは存在せず、服従対象か差別対象かの2択しか行動として組み込まれていない。
よく訓練された命令に従う従順なイヌやヒトの子供に対して、ヒトの多くは短絡的に「賢い」という錯覚を感じる性質がある。
実際には「自分にとって都合が良い行動をしてくれる。」だけか、若しくは「気分が良くなる行動をしてくれる。」だけなのであって。その行動に倫理的人間性が伴っているのかどうかは考慮に入っていない。
マイケル:サンデルの講義を聴いて、気分が良くなったことを短絡的に「サンデルは頭が良い。」とか、「サンデルの講義を聴くと自分の頭が良くなった。」などと「思う」らしいのだが。実際には茂木健一郎が勧める「アハ体験」同様に、あたかも「自分の頭を使ったような気分。」になっているだけであり。 サンデルや茂木の講義を聴いても、統計的に自律的な考えが出来るようになったといった実証データがあるわけではなく。単に学生や大衆から「人気がある。」ことから、短絡的に効果があるという、勝手な大衆妄想でしかないのである。
このように、感覚的に「思う」ことという価値観には、合理性のある科学的根拠を必要としない。そこにはただ、ドーパミン報酬系が促した気分的安心満足感さえあれば良いのである。
そこで問題となるのが、本能的な社会形成習性が促す順位序列への異常執着である。
通り魔や銃乱射などの無差別殺人犯達に共通して見られるのが、「思ったように世間から注目や評価報酬が得られなかった。」ことへの腹いせ、報復的な処罰感情である。
彼らは社会というものの規範にさえ従っておけば、何でも必ずそれに見合った評価報酬や注目が得られるという勝手な思い込みに基づいて。社会規範や制度、権威性に対する何の批判もせずにただ従順に服従するに気分が良くなる相手を求めているだけなので、社会の何が具体的にどこが問題点なのかとか、それに対する具体的対策といった論理的「考え」が全く働いておらず。
漫然と多数や、多数の承認した権威が促す行動にさえ従っておけば常に自分の利己的欲望にとって有利な結果が得られるものであるという勝手な妄想に囚われているため。自分が勝手に思った程の評価報酬が得られない場合に短絡的に暴力的報復や処罰といった感情的行動しか選択することができないのである。
それは、まるでエサが思ったように貰えず暴れる日光いろは坂のニホンザルの狂暴性と酷似している。
彼らは、なぜ自分が他人を無差別に誹謗中傷しているのかといった、気分的行動バイアスの原因すら自分では認識することが出来ないため。気分感情が促す行動バイアスのままに最も気分が良くなる行動として報復的な処罰感情へと暴走するのである。
論理検証的に何が最も重要なことなのかといった「考え」は働かず、それゆえに気分感情の強度程度だけで行動が決定してしまっており。そこに自律的な意思選択が介在する余地はない。
評価承認中毒に陥っている場合。その行動や言動といったものには合理性は必要なく、その場限りに自分の気分が良くなるようにしか行動選択することは出来ず、その行動選択というものには自律的な「考え」が全く存在せず、当然目的意識も存在せず、気分感情が促すシーケンシャルな条件反射的選択という無意識選択しか出来ないのである。
ヒトという種の生物は、その場限りの「勝ち負け」や「優劣」ばかりを決定したがり。雰囲気的に「勝った」ように多数から見なされることだけで充分な気分的安心満足感得ることが可能である。
その場限りに言いくるめ、あたかも自分の主張には普遍的価値観や合理的根拠が存在するかのような錯覚を多数大衆にアピールすることで、その場限りに満足するのである。
だが、実際にはそんなことでは評価承認欲求を充足することは叶わず。最終的には盲信するための権威への忠誠忠実な服従欲求を満たすまで暴走は止まらない。
「イヌにとって服従はアヘン。」なのである。
一度何らかの理由でISILだのオウム真理教などへの忠誠忠実さを発揮し盲信的な忠誠忠実さを発揮すると、彼らは本能的な服従欲求を満たし、死ぬまで服従を誓うのである。
そういった盲信出来る組織集団が見つからない場合には、通り魔や銃乱射などの無差別殺人にも発展することもある。
「自分よりも上」と見なした相手からの評価承認を得ることが彼らの「目的」なのだが。この「目的」というものには自律的な考えや意思が全く介在しておらず、本能欲望が促す無意識な行動選択の結果的な「目的」に過ぎない。
こうした「無意識な目的」というのは、利己的金儲けなどと同じものであり。社会全体にとって普遍的な価値などを一切持たず、その場限りに自己の本能欲求のおもむくままに流されているに過ぎず。本質的な目的選択も自由意思も介在しない。
予め組み込まれた情動行動が促すシーケンシャルな行動バイアスに無意識に流されるだけでは、そこに「自己」も「意識」も「自由意思」も存在しないのである。 こうした論理的事実から目を背ける習性もヒトの脳にはあるため、「オノレはイヌだカブトムシだから先天的本能習性には抗うことが出来ない。」などという身勝手な言い逃れが出てくるのである。
言い逃れや取り繕い、はぐらかし、ごまかし、開き直りの類というのは。認知症の初期症状でも見られる簡単なお仕事である。
それらは何の考えもせずに無意識的条件反射でいくらでも出てくる屁理屈に過ぎず。何の論理的根拠も持ち得ないからこそ、大脳が萎縮し始めていても可能なのである。
大脳辺縁系というのは、ヒトをバカであろうと導く性質がある。
学力偏差値を短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勝手に勘違いしたまま、何も気付かないバカであれば。実社会においては「教えたこと以外何も出来ないデクノボウ。」であることは明らかである。
おそらくは、その無能さに起因する社会的評価の低さから、SNS上で匿名アカウントを使って無差別的に他人を蔑んだり、誹謗中傷に邁進することで現実逃避をしているのではないだろうか。
おいらの育ちがもう少し良ければ、尾木直樹ママのように「どうしたの?。」と相談にのってあげることも出来るのかも知れないが。 残念ながらおいらは育ちがあまり良くないので、評価承認中毒患者のご機嫌取りには興味がない。
ヘイトスピーチの類というのは、評価承認中毒患者が、世間からの評価や注目を集めることで本能欲求を満たすことを「目的」とした行動である。 無論、この場合の「目的」とは無意識が促す条件反射の結果に過ぎず。本人の自律的な論理検証性に基づいた意識的「目的」ではない。
だが、ヒトの多くはヘイトスピーチのような理不尽な差別に怒りを感じ。うっかり条件反射的に処罰感情のおもむくままにカウンターに入りがちであるが、それは解決にはならない。
順序としては処罰感情に基づいた刑法罰による「解決」というものへの疑義から認識する必要性がある。 そのためには、先天的な本能としての処罰感情が社会的には目的でも意識的選択でもないことを認識することから始める必要性がある。
「あれはダメ、これもダメ」と心理的抑圧ばかりを子供達に強制し、規範意識などという盲目性を植え付けてしまうから自律的に何も考えることが出来ない者が増えてしまうのであり。こうした悪しき因習への執着もまた、ドーパミン報酬系が促す中毒の結果に過ぎない。
学力偏差値というものを短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勘違いしている評価承認中毒患者であっても、その自律的な論理検証性の欠落には成育環境における原因があるはずである。
ただ漫然と嫌いな相手を排除するだけではヘイトスピーチと何の違いもないのである。
ヘイトスピーチをしている者を差別しているだけであれば、それもまたヘイトにしかならず。レイシストであることに違いはないと教えてくれたのはれにさんさんでした。
母は強いな。
Ende;