尾木直樹ママが言ってたことなんだけど、教諭時代に自分を慕ってくれてた同僚までもが体罰をしてしまっていたそうだ。
尾木ママはそれがキッカケで学校教師を辞めることにしたそうです。
評価承認中毒に陥っている人の場合、自分よりも上と見なした相手には従順で扱い易い性質を発揮する。ところが、この従順さというものには自律的な責任意識というものが全く働いていないために。命令には従うんだけれども、その命令を実行するためには手段を選ばなくなってしまう。
新銀行東京というのは、銀行の貸し渋りを解消するために作られたはずなんだけど。その審査が物凄く甘くなってしまった原因というのは、お金を貸出すことを「目的」にしてしまって、ただひたすら貸出金額を増やすことだけで上司からの評価を得ようという、貸出を増やすことの趣旨とか大局的な目的を忘れて利己的な評価を目的にしてしまったことが原因なんじゃないかと思うのだ。
何でそんな話始めるのかって?。 いや、尾木ママを慕っていた同僚の体罰も、尾木ママに評価されることを目的にしてしまって、尾木ママの思想とか哲学を無視してしまっていたのと同じことなのではないかと思ったのだ。
従順で盲目的に信頼してくれる相手であれば、それは服従させる方にしてみれば便利で気分が良いのかも知れないけれども。その従順さというものが実は理念とか哲学に基づいて自律的に考えて行動してくれているとは限らないんだよね。
それこそ、人気の尾木ママに迎合しさえしとけば自分の社会的評価も上がるんじゃないかといったゲスい考えに基づいて尾木ママを慕っていた風味を装っていた可能性というのもある。
イスラム教徒でありながら、ISILのような暴力思想に染まっているというのも。結局は神に対する忠誠心を満足させることが目的で、クルァーンの趣旨とか理念を逸脱してしまっているのも同じことなんじゃないかと思うのだ。
ヒトは誰かに対して忠誠忠実に服従することで満足感が得られるような構造があるんじゃないかと思うのだ。
左側頭葉の一部に強力な磁気刺激を与えると神を感じることがあるそうなんだけど。そもそも神を「感じる」っていうのは、快楽だからそう「思う」はずなので。神のような絶対的に信じていても構わない存在を、脳が求めている結果、実証不能の神を「信じたい」という願望でしかない。
先天的なり、後天的にせよ。神を欲する欲望自体は利己的な欲望でしかない。
ムハンマドなりキリストが求めた平和な世界への理念とか哲学を逸脱して、ただ自分の願望のおもむくままに無差別な社会への報復へと走っているから十字軍とかISILになっちゃうんじゃなかろうか。
社会主義革命っていうのも、本来は資本主義の暴走とか独裁に対しての解放を趣旨として行われたはずのものなのに。連合赤軍みたいな過激派が出てくるのも、結局は目的と手段の区別を論理的に検証する意識が欠けているのが原因なんだと思うのだ。
だから、宗教が悪いんじゃなくて。イデオロギーでも制度でも何でもそうなんだけど、趣旨とか目的を逸脱して、無差別な社会への報復を目的にすることで、処罰感情を満たすことを目的にすりかえちゃっているから過激派なんじゃないのかね。
新銀行東京の場合は暴力ではないけれど、尾木ママの同僚は明らかに体罰という暴力につながってしまった。 でも新銀行東京の場合においても、甘い審査でやたらと貸出すことによって銀行経営が破綻するかも知れないというところにまで配慮が行かない点においては盲目的で暴走的な部分には共通点がある。
太平洋戦争時の日本軍の特攻隊なんかも、特攻が本当に国とって有益かどうかなど一切考えずに、ただ敵に対して命懸けで暴力を振るうことに何の疑問も持たなくなった。 しかも「英霊」だとか言って、あたかも「特攻隊が命懸けで戦ったから今の平和がある。」なんつう事後正当化も未だにまかり通っている。
特攻隊と今の平和は関係ないでしょ。
程度の差こそあれ、ヒトの行う様々な行動の中には、共通して盲目的暴走が存在しており。こうした盲目的暴走性が引き起こした様々な問題を、単なる個人の努力だとか懲戒処分で「解決」だと見なしてしまうから、根本的原因の究明にならず、必然的に具体的実効性のある再発防止策にもつながらない。
通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の頭の悪さというのは、いうなれば「普通の人」にも普遍的に見られる頭の悪さと程度の差こそあれ同じものであって。 ISILや連合赤軍だからといって彼らだけに特異に見られる異常性なのではなく、あくまで現象の結果の程度問題でしかない。
「ヒヤリ、ハッと」重大事象が発生した時だけ世間ウケを狙って大騒ぎするのは簡単なことで、こうした簡単なことで問題解決だと思い込むという、日常の普通の人に見られる頭の悪さが重大事象への発展を放置してしまうことにもなっている。
事象の大きさは、それによって引き起こされる感情の大きさとも比例するものであるが。感情強度を意識と勘違いしていれば、事象の大きさ程度だけで丸めて「分類」してしまい、無数に普く存在する「ヒヤリ、ハッと」事象との共通部分を見逃してしまう原因でもある。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば気分的には安心で満足感が得られるんでしょうけれども、その盲目性というのも、程度の差こそあれISILやナチズムの盲目性と構造的には同じものだということを認識する必要性があるのです。
同じ「ヒト」が引き起こした様々な「失敗」というものを、単に懲罰だの報復だのといった感情論で「解決」だと見なしてしまうから、振り込め詐欺の被害者を特別に「バカだから騙された。」などと誹謗中傷して満足しようとする。
人は誰でもバカな部分が先天的に存在していて、誰でも騙される可能性があり。詐欺であろうと犯罪であろうと、過失であろうと。それらはどんな人にも共通して存在するものであって、誰かを特別にバカ扱いしたり、処罰しておけば「解決」だと見なしてしまう短絡性こそが、様々な「ヒト」が引き起こす問題の本質を見失わせる最も大きな要因なのである。
Ende;
尾木ママはそれがキッカケで学校教師を辞めることにしたそうです。
評価承認中毒に陥っている人の場合、自分よりも上と見なした相手には従順で扱い易い性質を発揮する。ところが、この従順さというものには自律的な責任意識というものが全く働いていないために。命令には従うんだけれども、その命令を実行するためには手段を選ばなくなってしまう。
新銀行東京というのは、銀行の貸し渋りを解消するために作られたはずなんだけど。その審査が物凄く甘くなってしまった原因というのは、お金を貸出すことを「目的」にしてしまって、ただひたすら貸出金額を増やすことだけで上司からの評価を得ようという、貸出を増やすことの趣旨とか大局的な目的を忘れて利己的な評価を目的にしてしまったことが原因なんじゃないかと思うのだ。
何でそんな話始めるのかって?。 いや、尾木ママを慕っていた同僚の体罰も、尾木ママに評価されることを目的にしてしまって、尾木ママの思想とか哲学を無視してしまっていたのと同じことなのではないかと思ったのだ。
従順で盲目的に信頼してくれる相手であれば、それは服従させる方にしてみれば便利で気分が良いのかも知れないけれども。その従順さというものが実は理念とか哲学に基づいて自律的に考えて行動してくれているとは限らないんだよね。
それこそ、人気の尾木ママに迎合しさえしとけば自分の社会的評価も上がるんじゃないかといったゲスい考えに基づいて尾木ママを慕っていた風味を装っていた可能性というのもある。
イスラム教徒でありながら、ISILのような暴力思想に染まっているというのも。結局は神に対する忠誠心を満足させることが目的で、クルァーンの趣旨とか理念を逸脱してしまっているのも同じことなんじゃないかと思うのだ。
ヒトは誰かに対して忠誠忠実に服従することで満足感が得られるような構造があるんじゃないかと思うのだ。
左側頭葉の一部に強力な磁気刺激を与えると神を感じることがあるそうなんだけど。そもそも神を「感じる」っていうのは、快楽だからそう「思う」はずなので。神のような絶対的に信じていても構わない存在を、脳が求めている結果、実証不能の神を「信じたい」という願望でしかない。
先天的なり、後天的にせよ。神を欲する欲望自体は利己的な欲望でしかない。
ムハンマドなりキリストが求めた平和な世界への理念とか哲学を逸脱して、ただ自分の願望のおもむくままに無差別な社会への報復へと走っているから十字軍とかISILになっちゃうんじゃなかろうか。
社会主義革命っていうのも、本来は資本主義の暴走とか独裁に対しての解放を趣旨として行われたはずのものなのに。連合赤軍みたいな過激派が出てくるのも、結局は目的と手段の区別を論理的に検証する意識が欠けているのが原因なんだと思うのだ。
だから、宗教が悪いんじゃなくて。イデオロギーでも制度でも何でもそうなんだけど、趣旨とか目的を逸脱して、無差別な社会への報復を目的にすることで、処罰感情を満たすことを目的にすりかえちゃっているから過激派なんじゃないのかね。
新銀行東京の場合は暴力ではないけれど、尾木ママの同僚は明らかに体罰という暴力につながってしまった。 でも新銀行東京の場合においても、甘い審査でやたらと貸出すことによって銀行経営が破綻するかも知れないというところにまで配慮が行かない点においては盲目的で暴走的な部分には共通点がある。
太平洋戦争時の日本軍の特攻隊なんかも、特攻が本当に国とって有益かどうかなど一切考えずに、ただ敵に対して命懸けで暴力を振るうことに何の疑問も持たなくなった。 しかも「英霊」だとか言って、あたかも「特攻隊が命懸けで戦ったから今の平和がある。」なんつう事後正当化も未だにまかり通っている。
特攻隊と今の平和は関係ないでしょ。
程度の差こそあれ、ヒトの行う様々な行動の中には、共通して盲目的暴走が存在しており。こうした盲目的暴走性が引き起こした様々な問題を、単なる個人の努力だとか懲戒処分で「解決」だと見なしてしまうから、根本的原因の究明にならず、必然的に具体的実効性のある再発防止策にもつながらない。
通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の頭の悪さというのは、いうなれば「普通の人」にも普遍的に見られる頭の悪さと程度の差こそあれ同じものであって。 ISILや連合赤軍だからといって彼らだけに特異に見られる異常性なのではなく、あくまで現象の結果の程度問題でしかない。
事象の大きさは、それによって引き起こされる感情の大きさとも比例するものであるが。感情強度を意識と勘違いしていれば、事象の大きさ程度だけで丸めて「分類」してしまい、無数に普く存在する「ヒヤリ、ハッと」事象との共通部分を見逃してしまう原因でもある。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば気分的には安心で満足感が得られるんでしょうけれども、その盲目性というのも、程度の差こそあれISILやナチズムの盲目性と構造的には同じものだということを認識する必要性があるのです。
同じ「ヒト」が引き起こした様々な「失敗」というものを、単に懲罰だの報復だのといった感情論で「解決」だと見なしてしまうから、振り込め詐欺の被害者を特別に「バカだから騙された。」などと誹謗中傷して満足しようとする。
人は誰でもバカな部分が先天的に存在していて、誰でも騙される可能性があり。詐欺であろうと犯罪であろうと、過失であろうと。それらはどんな人にも共通して存在するものであって、誰かを特別にバカ扱いしたり、処罰しておけば「解決」だと見なしてしまう短絡性こそが、様々な「ヒト」が引き起こす問題の本質を見失わせる最も大きな要因なのである。
Ende;