書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○欲得づくの成功。

2015年06月26日 22時26分39秒 | 意識論関連
やたらと「脳活性」云々という話が取り沙汰され、その結果として「世間的に成功しているかどうか。」ばかりを論拠にしている時点で、一人の人間として自律的に社会的責任判断が出来るかどうかという、人間として最も重要な観点を無視している証明でもある。

どんなに世間的に成功しようとも、自律的に社会的責任判断をしないのであれば。これは人間として失格である。

単に現状社会に迎合し、現状社会における「成功」が出来たとしても。現状社会の問題点への認識が働くわけではない。

どこぞの病理診断医のように現状社会的に成功していようとも、自律的には何も問題意識も持たない事例は数限りなくある。

実際、現状世間的に成功している奴は山ほどいるが。その大部分は現状の社会体制における「結果」的成功者に過ぎず、現状社会体制そのものの問題点を認識しているわけではない。 だからこそ様々な社会問題の多くは一向に解決しないのである。

現状社会における持続可能性や安全性の欠如といった問題点を認識し、これを改善するといった明確な「目的」意識がないまま現状世間における成功例をどんなに取り上げても、人間としての価値基準にはならない。

「人間」のいない社会がどのような末路を辿るのかは、論じるまでもないことである。

やれ「一流大学に入学出来た。」だの、「一級建築士になれた。」といった断片的結果だけを抽出してきて、これを短絡的に人間としての優秀さか何かと勝手に妄想しておくことは簡単である。

有名大学に入学出来たとしても、それが短絡的に人間としての優秀さの論証にならないことは明らかであり。オウム真理教幹部やISILのメンバー達の多くも高学歴なのである。

一級建築士免許を取得していても、耐震強度を偽装していたのでは話にならない。

一級建築士国家免許は人間性の論証には全くならないのである。

有名大学に進学し、なをかつ研究職にまで就いていながら、進化生物学者の多くは優生学に対する論理反証すら70年もしてこなかったのである。 こんな奴らは社会的には税金泥棒のデクノボウでしかない。

脳科学というのも生物学に分類されるものであり、脳科学者であれば必ずしも論理的に正しいことを述べられる保証などなく、いうなればデクノボウ生物学者の一味に過ぎず、金儲けのためなら平気で嘘もつく可能性も充分にある。



ヒトという種の生物が先天的に持つ競争心を利用して、幼児に逆立ち歩きをさせても、こんなものは「猿回し」に過ぎない。

猿にどんなに芸を仕込んでも、それはエサという脳への報酬に対する反射でしかなく。器用に世渡り出来るように育てれば人間性まで育つわけではない。

現状世間においての成功者であれば、「ヒト」としては優秀だと言えるのかも知れないが。そんな基準は人間としての社会性にはつながらない。

文科系大衆観念者であれば、自律的な社会的責任判断力といった人間としての社会性と、現状世間における成功をバランス問題か何かと勝手に「解釈(論理的理解ではない。)」することは簡単であろうが。自律的な社会的責任判断力というのは絶対的な人間としての社会性であり、程度問題などではない。

ソニー創立者が何を言ったのかは知らないが、4期連続経常赤字の「大企業」の創設者の教育論なんぞ、社会的成功の論証にすらならないではないか。



「甘え」については明確な定義がないまま論じても空論にしかならないが、単純に「甘やかすことは悪い。」と言うのであれば、虐待でもしていれば善人に育つわけでもない。

「甘え」の最も社会的害というのは、自律的に論理検証をしなくなる点であり。これはむしろ子供時代に虐待などの精神的抑圧こそが最大の原因であり、幼い子供が親を頼る「甘え」を否定しておけばどうにかなるなどという短絡的なものではない。

子供の自主性を尊重し、自発的に物事を判断するように育てるためには。子供自身の意向に真摯に耳を傾け冷静に物事を考えられるような精神的余裕を与える必要性がある。これを「甘え」だから解釈して否定したのでは論外である。

あれこれ何でも強制的にやらせることは「甘やかす」ことではないが、それこそが子供の自主性を蔑ろにする最悪の教育方針である。

文科系大衆観念的に「甘え=悪い」といった短絡的解釈をしてしまえば、虐待体罰による「しつけのため。」を正当化しかねない。

ウサギ用のケージに閉じ込め数日に一度しか食事を与えないことは「甘やかし」ていないことになるが、それで「人間としての社会性」が育つとでも言うのであろうか。

親が権威性を振りかざし、「飯を喰わせてやっているから命令に従え。」といった観念に基づいて盲目的服従をさせているから自発的に物事を考えることが出来なくなるのであり、「甘え」を短絡的に全て悪だと決め付けることは社会的に無責任でバカげている。

子供が自発的に行っていることを静かに見守ることは「甘え」には該当しないのか、その辺りの定義が「クボタメソッド」の理論には決定的に欠けており。その場限りに「あれは良い、これは悪い。」と断言することで、あたかも全てを脳科学的、論理的根拠が存在するかのような雰囲気を醸し出し、それが大衆にウケているに過ぎない。

大衆の多くは「ズバリ言う」などと称して自信タップリに断言しておけば気分的に満足し、占いだろうと脳科学だろうと何でも鵜呑みにする習性がある。 それが一番バカの証明に他ならない。



テレビも含めて任天堂3DSやオキュラスリフトなどの3Dコンテンツなども、幼児期の脳の発達に有害である可能性は高い。

モニター画面というのは焦点深度のない平面であり、しかも時間的には一秒間に数十フレームしか更新しないため。時間的解像度が低く現実の空間とは異なるものであり、幼児があまり長時間見ていて視覚認知能力の発達に良いとは言い難い。

近年ではLEDに含まれる470μmの波長(青色LEDのピーク)が、加齢黄斑変性の原因である可能性も取り沙汰されており、LEDバックライトを長時間見続けることは大人でも推奨出来るものではない。

都市では10m以上遠くの景色が非常に少なく。また緑の種類も圧倒的に少ない。

森林で育った人の場合、相対的に色相環の緑色部分の分解能が高いと言われており。都市部で育った人の場合は赤色部分の分解能が高いことからも、森林で育った人と都市部で育った人の見ている色世界は全く異なるものであると言われている。

デジタルカメラの写真を詳細に検証してみるとわかるのだが、人工的なものの多くは空間周波数が単純な傾向が高いため。ビルなどの人工的な構造物はデジタルカメラでは鮮明に写るのだが、樹木などの天然物の多くは空間周波数が非常に複雑なため細部の再現が苦手な傾向が見られる。 これは裸眼における空間周波数認知能力の発達にも影響を及ぼすはずである。

都市部で育った人(私も含めて)にとっては、森林はほとんど一色の緑にしか見えないが、森林で育った人には様々な緑に見えているということになる。 こうした傾向というのは、絶対音感のように幼児期に決定されてしまうものであろう。

視細胞の密度から最大解像度が決定されると考えがちであるが、実際にはアフリカ原住民の中には視細胞密度を超越した視力を発揮する人もいる。 これはおそらく近年デジタルカメラで採用され始めた超解像処理のようなものが脳に存在する可能性もある。 そしてこうした超解像処理能力のようなものは都市部で育った視力の低い人にはあまり発達が期待出来ないであろうことも、予測に難くはない。

これらのことから幼児期の脳の発達は、その後の人生にとって大きな影響を及ぼすであろうことは言えるのだが。そうした特定能力の高さというものは、人間性に直結するわけではない。

様々な特定能力が低くても、自律的な社会的責任判断能力が低いことの根拠はなく。様々な特定能力の高さだけでも自律的な社会的責任判断能力の高さの論証にもならない。

このように、幼児期にしか獲得出来ない特定能力というものが存在するであろうことは確かであろうが、だからといって強迫観念的に必死になって獲得しなければならないようなものでもないのである。

「クボタメソッド」では、何か幼児期にしか獲得出来ない能力があるから、何が何でも全員獲得しなければならないかのように勧めているが。これは金儲けのための扇動でしかない。

人はそれぞれ能力に違いがあり、互いに補いあうことでより効率的な社会を作ることが出来るのであって。むしろ重要なのは人それぞれの違いを受け入れる理性であって、特定能力の方にあるのではない。

だが、人間性としての自律的な社会的責任判断というものは、「違っていてよい」という話にはならない。これは絶対問題であって、相対的バランス問題ではない。

ヒトという種の生物が、人間として行動するための最も基本的な能力が自律的な社会的責任判断能力であり。これは可能な限り多くの人が獲得して頂かないと迷惑なのである。 それは幼児期にしか獲得出来ないような特定能力とは全く異なるレベルの話であるからだ。

「クボタメソッド」にそそのかされて逆立ち歩きが出来たとしても、そうしたそそのかし環境に依存した迎合性こそが、自律的な人間としての社会的責任判断能力を喪失する大きな要因である。

流行りものに興奮して同調し、冷静さを失って強迫観念的に勝ち負けや成功ばかりを追求する根性が、そもそもの間違いである。



ここで再度アインシュタインの言葉を引用しておこう。

個人を不具にしてしまうことが資本主義最大の悪だと私は考える。私たちの教育制度全体が、この悪にむしばまれている。学生は過度に競争的な態度をたたきこまれ、将来の出世の準備として欲得づくの成功を崇拝するようしつけられる。
アルベルト:アインシュタイン (アインシュタインは語る アリス:カラプリス編 大月書店刊より)

子供の特定能力の獲得に異常執着する原因とは、親のエゴであり、欲得づくの成功を崇拝している証拠でもある。

子供の特定能力を心配する前に、まずは親自身の価値観から疑う必要性がある。

親がバカなら、子供もバカに育つ可能性は非常に高いからだ。

バカしかいない社会の末路がどういうものなのか。そこまで意識が働かないことには、社会安全性が高まるわけがないのである。

こうした頭の悪さ、意識の低さというものは、あらゆる事柄に言えることでもある。「クボタメソッド」に限らず、教育制度全体がむしばまれていることを前提に、全てを疑う必要性がある。

ISILに勧誘されてしまう高学歴な者達がなぜ後を絶たないのか。

「脳トレ」類がこれだけ蔓延していながら、一向に振り込め詐欺被害が減らないばかりか増える一方なのは、大衆の多くがバカだからである。 無論「騙す方も含めて」ではあるが。

バカを大量生産している現在の教育制度全体を疑い、論理的に検証するのは特定研究職だけの責任ではない。民主主義というのはバカしかいなければバカ主義にしかならないからである。

Ende;
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