書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○感受性万能論への反証。

2015年06月03日 14時23分00秒 | 意識論関連
個人の主観的好き嫌いを互いに尊重する必要性がある。

自分の個人的主観に基づいた好き嫌いを他人に強要してしまえば、他人の個人的主観に基づいた好き嫌いを拒絶する権利もなくなるということになる。 それは主観のなすり合いにしかならず、双方の傲慢に過ぎず、全く意味がありません。

イジメ対策と称して、大人から「優しい気持ち」を強要されても、それは大人の主観を押し付けていることにしかならないので。子供達の間で生ずる「優しくない気分」を大人が全く受け入れていないことにもなるのです。 これは大人の傲慢でしかありません。

「自分の感受性だけは常に絶対に正しい行動しか促されることのない、完璧な人間である。」という前提に基づいているからこそ、「感受性=人間性」という方程式が出てきてしまうのであって。こうした傲慢に基づいて気分感情をその場限りに押し付けても、むしろ子供達は傲慢さを身につけてしまうだけで、何一つ自律的な行動選択を出来なくもなるのです。

他者から促された感情に流されている限り、差別排除はなくなりません。

個人の好き嫌いを尊重し合う社会というのは、個人的に嫌いであることも受け入れる社会ということでもあります。

自分の個人的な好き嫌いを根拠に、他人の好き嫌いを頭ごなしに否定していたのでは、あまりに一方的で傲慢なのです。

個人的な好き嫌いは、それぞれ違っていて良い。

重要なのは、個人的好き嫌いを他人に押し付けないことであって。そのためには何が個人の主観的好き嫌いなのか、それとも客観的に善悪なのかを判断出来なければなりません。

そうした判断を下すのは論理検証性であって、決して「感受性」だのといった気分感情の問題ではないのです。

文系の人達の多くは、「感受性が人間性を作る。」などという論理的根拠のない話をしたがりますが。それは多数という大衆への迎合に過ぎず、その場限りのご機嫌取りにしかならないのです。

ヒトという種の生物が先天的に優秀で、あたかも本能習性に流されてさえいれば常に正しい結果が得られるかのような錯覚を促しておけば、大衆の多くは気分的に安心満足し、何の疑問も持たずに受け入れてしまいます。

そうした傲慢さこそが、進化生物学におけるこじつけ論証を科学的証明か何かだという錯覚を促してきたのです。

感受性というのは、大脳辺縁系が促す行動バイアスです。 その場限りに「優しい気持ち」になるように大人達が誘導しても、むしろ誘導されて簡単に変わる気分ではイジメの根絶にはならないのです。

重要なのは、環境条件に誘導されるような無意識性に左右されず、自律的に行動判断出来る論理検証性(本質的意識)を持つことなのです。

その場の空気に流されて、何も自律的には判断出来ないことこそが、差別排除に限らずあらゆる「人災」の根源的原因として隠れているのです。




子供の行動というのは、大人の写し鏡のようなものですから。子供達の間で差別排除や身勝手な序列を形成してしまう原因というものには、必ず子供達が接している大人の方の差別排除や序列意識が関与しているのです。

差別排除という行動には、必ず序列意識が背後に隠れています。 「自分達の方が優秀だ。」といった傲慢な考えに基づいて、多数派同調バイアスがそれに気分的安心感を与え、条件反射的無意識に差別排除をしてしまうのが「ヒトという種の生物」の先天的習性でもあります。

ナチズムがユダヤ人迫害の根拠とした優生学というのも、民族の優劣を正当化するものでした。

ヒトという種の生物には、先天的に自己と他者との間に優劣序列を規定したがる習性があります。しつけを間違えた小型犬が飼い主の手を噛んだり、逆に訓練によっては飼い主に忠誠忠実に服従するようにもなるように。イヌなどの動物の行動習性としての先天的な社会形成習性には、個人が自律的に物事の良し悪しを判断する性質など組み込まれてはいないのです。

物事の善悪を判断するためには、自律的に「考え」選択する必要があります。自分の方が優位だと「思いたい」感情に基づき、他人を蔑んで良い理由には全くなりません。 個人的に嫌いなのは仕方ありませんが、それはあくまで個人の主観的好き嫌いに過ぎないという分別に基づいて行動選択する必要性があるのであって。たとえ犯罪者であるとしても、処罰感情の促すままにただ差別しておけば良いということにはならないのです。

論理検証的「考え」が成立しないことにも、何らかの理由があるはずです。 それは評価承認中毒が原因かも知れませんし、先天的な序列感情が働いているからかも知れません。ですが、原因を自分自身で認識出来れば、そういった思考バイアスから逃れ、自律的に自分の感情や本能から自由になることも可能となるのです。

先天的に序列感情が強過ぎて、他人との間に順位をつけておかないと不安で仕方ない人というのもいるかも知れません。しかし、だからといって、先天的本能習性の促すままにしか行動が出来ないことの論理的証明にはならないのです。

ヒトの脳には可塑性があります。本能習性に流されないよう自分の行動を客観的に見る癖をつけることで、それまで出来なかったことも簡単に出来るようにもなるのです。

最初は難しいでしょう。何だってそうです。最初は何でも不器用なのは当たり前であって、少しずつ慣れることによって、少しずつ出来るようになるのは当たり前の話です。

必要なのは意志です。自分がどうあるべきなのかといった「目的」意識がなければ、その場限りの気分感情が促す行動バイアスの「結果」しか得ることは出来ません。

「意志」というと、大衆的にはあたかも努力辛抱根性的な精神論か何かと錯覚しがちですが。そうではありません。むしろ、様々な感情にその場限りに流されずに、心静かに「自分が本当に望むものが何なのか。」を考えることで導き出されるものであって。それは多数他人から促されるようなものではないのです。

ヒトが他人に何かを強要する原因には、少なからず「自分が強要されたことを受け入れた事実」を事後正当化する形で他人にも何かを強要するようになるのです。 しかし、これこそが無意識な条件反射であり、「虐待の連鎖」の原因メカニズムでもあります。

「自分は他人から何かを強要され、それを受け入れた。」という、ある種の諦めを事後正当化し、「受け入れた自分は間違っていない。」ことにしておくことで、何の疑問も持たずに他人にも何かを強要するようになるのです。

ヒトの脳は、「自分だけは絶対に大丈夫」だと思い込んでおけば、何も考えずに行動出来るので安心満足を得ることが出来ます。 これは、「ヒトというのは何も考えずにバカでいた方が気分的に楽でいられるバイアスが存在する。」という意味でもあるのです。

ヒトは自分の愚かさを認識すると、「あぁ、自分はバカなんだ。」と決め付け、気分的に落ち込み憂鬱になります。しかし、それもまたヒトの脳の先天的なバイアスでしかなく。その気分的な憂鬱から逃れようと、「自分はバカだから。」という決め付けをすることで、バカのままでいることまでをも事後正当化しようとするのです。

ヒトの脳というのは、自律的には考えないようにしようとするバイアスが先天的に組み込まれているために。すぐに短絡的に何かを決め付け、何も考えないようにする性質があるのです。

気分感情の大部分は、論理検証的「考え」を阻害する方向にしか働かないと思っても丁度良いくらいなのです。

キェルケゴール著「死に至る病」の岩波翻訳本は、言い回しが難解なこともあって、10回や20回読んだくらいではちんぷんかんぷんで何を言っているのかちいともわからないでしょうけれども。ヒトが陥る思考バイアスの傾向性についての考察でもあることが、何となく解ってきます。(正直言うとおいらも9割方わからんけど。)

気分感情が促す固定観念に左右されずに冷静に理論的「考え」だけを純粋に組み立てれば、「感受性」が短絡的に人間性ではないことは理解出来るはずです。

感受性という大脳辺縁系が促す感情というものは、ほったらかしておいても勝手に湧いてくるものであって。人間として、社会的に責任ある行動を採るために必要なのは、個人の主観的好き嫌いと社会的責任判断との区別が自律的に出来ることなのです。



キェルケゴールやサルトルは、読んでも気分が良くなったりしません。むしろ不条理性を目の当たりにさせられて嫌な気分にしかならないので、北大の澤口俊之は進化生物学的こじつけ論証が未だにまかり通る脳科学に逃げました。澤口は臆病者のdqnに過ぎないのです。

逆に、マイケル:サンデルの講義だの、麻原彰晃の説法だの、ISILのネット勧誘のように。簡単に気分が良くなって、その気分を短絡的に「正しいことだ。」と勘違い錯覚妄想することの方が簡単なのです。

「感受性」万能論も同じことです。

ヒトの脳というのは、「悩ましい」命題を与えられると、本当は何ら自発的考えなど出てきてなどいないにも関わらず、あたかも何かを自発的に「考えた」ような錯覚に陥ります。 振り込め詐欺というのは、被害者に対して気分的に恐怖心を煽るような悩ましいことを陳列し、被害者に「何かを自分から考えた」ような錯覚に陥れることで、本当は何も考えていないことに気付かせないよう誘導します。

誘導されて出てくる考えなどというものは、予め予測可能な範囲から出ることは出来ません。サンデルが予め決めた条件の範囲内だけで、どんなに何かを考えたような錯覚に陥っても、世の中の諸問題を自発的に考えるようにはならないのと同様。 振り込め詐欺が促した条件や情報だけで何かを考えても、実際には内容を抽象化して単純化し、「振込みさえすれば、全ては解決」という短絡的行動しか出て来ないのです。

ヒトの脳は抽象化をします。民族や国籍、性別で人格が決まるといった、短絡的で個人の人格性を何も検証しない雑な分類を絶対だと信じるからこそ、ヘイトスピーチに何の疑問も持たなくなるのです。

分類抽象化というのは、物事を考えるための道具に過ぎず。それ自体は目的ではありません。

分類そのものが暴走するからこそ、論理検証性がなくなるのであって。分類というもの、抽象化されたあらゆる概念にも論理的根拠が必要であることを忘れてはならないのです。

何度でも言いますけど、「感受性=人間性」などという、論理的根拠のない固定観念に囚われ暴走しているからこそ、イジメの原因究明にもならないんですよ。 それがどれだけ社会的に無責任なのかを認識してください。

「感受性=人間性」とでも述べておけば、多数派の賛同を得られて安心満足なんでしょうけれども、科学的真理というものは多数決で決まるようなものではなく、徹頭徹尾論理的根拠と証明によって導き出されなければならないのです。 それをやらないから具体的な再発防止策にまで至らず、同じ過ちを何度も繰り返し続けることに陥るのです。

どんなにその場限りに気分的に「優しい気持ち」になっても、自律的な社会的責任判断力は身につきません。気分感情の強度程度は人間性の証明には一切ならないからです。

主観的にどんなに「感受性=人間性」という方程式を肯定したいと思っても、それは人間性の論理証明にはならないのです。 そこ分別つけろよって話です。


Ende;
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