伊勢崎賢治が提唱する紛争予防学っていうのも危険学や失敗学と共通した手法や概念が使えるんじゃないだろうか。
どちらも「ヒト」という種の生物が引き起こす「人災」なんだから、生物種としての「ヒト」とはどういうものなのかを踏まえて考えを組み立てる必要性がある。
「ヒト」という種の生物の先天的本能習性として、他人との比較において順位序列をつけたがる性質があって。自分や自分達より劣っているとみなした相手を差別排除するために暴力を振るう性質というのが普遍的に見られる。
こうした性質というのは、子供のイジメからナチスやポルポトによる虐殺まで、程度の差こそあれ心理構造的には何の違いもない。
ヒトの多くはもたらされた結果の大きさで物事を分類しがちだが、ハインリッヒの法則から鑑みれば結果の大きさに依らず小さな事象から地道に検証することが重要なのである。
優生学などという、非科学的な観念が進化生物学でまかり通っていたのも、差別意識という無意識性がヒトの意識の根底にあるからだ。
あたかも先天的な本能習性こそが絶対的な人間としての価値であるかのように錯覚し、先天的な本能習性には誰も抗うことが構造原理的に不可能であるかのように勝手に思い込み。ヒトの先天的な遺伝要素を事後的に正当化するような優生学などの根本的間違いを誰も疑うことをしなかった。
「オノレはイヌだカブトムシだと称して先天的な本能習性には逆らえない。」などという話も、先天的な遺伝要素の事後正当化である。
先天的要素が促す行動や思考のバイアスという無意識に対し、論理検証的に客観的に自らの行動を変えることが可能であるという点において、ヒトが人間たりうるのであって。先天的本能習性を事後正当化するだけであれば、大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されているだけに過ぎない。
先天的な本能習性に抗うことに慣れていない者にとっては、それは過酷な絶望感を伴うバカの証明であるのだが。
そもそも先天的本能習性に抗うことなく社会生活が送れているのはなぜだろうか。それは他人からの抑圧を「怖れ」ているに過ぎないからである。
どこぞの病理診断医が「自分を大切に」だとか「攻めすぎ」だとか言い出すのも、結局は世間多数派からの見た目を気にしての発言である。そこに自律的な判断が介在する余地はない。
東電原発安全担当者が原発の危険性を放置したのはなぜか。それは社内における自分の地位を守るための「自分を大切に」した結果である。
上司や社内の多数派に逆らわず、「守り」に入った結果として、組織の利益を優先し。自律的な社会的責任判断を放棄したのである。
「怖い」かどうかで物事を判断しているというのは、要するに幼児の判断基準である。自律的に物事を判断する能力がない幼児の行動抑制は、他律的に「叱られる」だとか「恥ずかしい」といった判断基準だけである。
そういえばどこぞの病理診断医も「はずかしい」かどうかを基準にしていた。
「普通」はそういうものである。
だが、私が論じているのは。そうした「普通の人」の凡庸で無思考な感覚や観念が引き起こす危険性のことである。
普通で平均的な多数派に属していれば、普通のヒトは安心満足して何も疑うことをしなくなるであろう。当然何も考えないようにもなる。
ヒトの脳というのは、そういう風(先天的)に出来ているからである。
先天的にバカに陥る習性があるのであれば、バカにならないためには気分的安心満足だとか「怖い」だとか「恥ずかしい」などといった気分的バイアスに条件反射的に流されずに、意識的に何が正しいのかを自律的に判断する必要性がある。
「戦争で死んだ人達がいたから今の平和がある。」などという、単なる既製事実の事後正当化で満足することは簡単であろうが。その平和には論理的根拠が全く存在しない。
ヒトの多くは物事を深く考えることを嫌う。 すぐに短絡的結論をこじつけて考えないようにするのが「普通」である。
その「普通」の凡庸さこそが、ナチズムや原発の暴走を傍観放置したのである。
ヒトとは先天的にバカで、失敗や間違いをするものであることを前提にしないから、刑法懲罰などという不毛な制度にも何の疑いを持たなくなる。
刑法懲罰というのは、ヒトの先天的な処罰感情を満たすための制度に過ぎず。具体的に犯罪や過失の原因究明にも再発防止策にもつながらない不毛なものであることを、多くのヒトは認識するつもりもない。
その無意識性をどんなに多数で共有して気分的に安心満足しても、その安心満足感から社会安全性には全くつながらないばかりか。むしろ、その安心満足こそが社会の安全性を脅かす最も根源的原因なのである。
Ende;
どちらも「ヒト」という種の生物が引き起こす「人災」なんだから、生物種としての「ヒト」とはどういうものなのかを踏まえて考えを組み立てる必要性がある。
「ヒト」という種の生物の先天的本能習性として、他人との比較において順位序列をつけたがる性質があって。自分や自分達より劣っているとみなした相手を差別排除するために暴力を振るう性質というのが普遍的に見られる。
こうした性質というのは、子供のイジメからナチスやポルポトによる虐殺まで、程度の差こそあれ心理構造的には何の違いもない。
ヒトの多くはもたらされた結果の大きさで物事を分類しがちだが、ハインリッヒの法則から鑑みれば結果の大きさに依らず小さな事象から地道に検証することが重要なのである。
優生学などという、非科学的な観念が進化生物学でまかり通っていたのも、差別意識という無意識性がヒトの意識の根底にあるからだ。
あたかも先天的な本能習性こそが絶対的な人間としての価値であるかのように錯覚し、先天的な本能習性には誰も抗うことが構造原理的に不可能であるかのように勝手に思い込み。ヒトの先天的な遺伝要素を事後的に正当化するような優生学などの根本的間違いを誰も疑うことをしなかった。
「オノレはイヌだカブトムシだと称して先天的な本能習性には逆らえない。」などという話も、先天的な遺伝要素の事後正当化である。
先天的要素が促す行動や思考のバイアスという無意識に対し、論理検証的に客観的に自らの行動を変えることが可能であるという点において、ヒトが人間たりうるのであって。先天的本能習性を事後正当化するだけであれば、大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されているだけに過ぎない。
先天的な本能習性に抗うことに慣れていない者にとっては、それは過酷な絶望感を伴うバカの証明であるのだが。
そもそも先天的本能習性に抗うことなく社会生活が送れているのはなぜだろうか。それは他人からの抑圧を「怖れ」ているに過ぎないからである。
どこぞの病理診断医が「自分を大切に」だとか「攻めすぎ」だとか言い出すのも、結局は世間多数派からの見た目を気にしての発言である。そこに自律的な判断が介在する余地はない。
東電原発安全担当者が原発の危険性を放置したのはなぜか。それは社内における自分の地位を守るための「自分を大切に」した結果である。
上司や社内の多数派に逆らわず、「守り」に入った結果として、組織の利益を優先し。自律的な社会的責任判断を放棄したのである。
「怖い」かどうかで物事を判断しているというのは、要するに幼児の判断基準である。自律的に物事を判断する能力がない幼児の行動抑制は、他律的に「叱られる」だとか「恥ずかしい」といった判断基準だけである。
そういえばどこぞの病理診断医も「はずかしい」かどうかを基準にしていた。
「普通」はそういうものである。
だが、私が論じているのは。そうした「普通の人」の凡庸で無思考な感覚や観念が引き起こす危険性のことである。
普通で平均的な多数派に属していれば、普通のヒトは安心満足して何も疑うことをしなくなるであろう。当然何も考えないようにもなる。
ヒトの脳というのは、そういう風(先天的)に出来ているからである。
先天的にバカに陥る習性があるのであれば、バカにならないためには気分的安心満足だとか「怖い」だとか「恥ずかしい」などといった気分的バイアスに条件反射的に流されずに、意識的に何が正しいのかを自律的に判断する必要性がある。
「戦争で死んだ人達がいたから今の平和がある。」などという、単なる既製事実の事後正当化で満足することは簡単であろうが。その平和には論理的根拠が全く存在しない。
ヒトの多くは物事を深く考えることを嫌う。 すぐに短絡的結論をこじつけて考えないようにするのが「普通」である。
その「普通」の凡庸さこそが、ナチズムや原発の暴走を傍観放置したのである。
ヒトとは先天的にバカで、失敗や間違いをするものであることを前提にしないから、刑法懲罰などという不毛な制度にも何の疑いを持たなくなる。
刑法懲罰というのは、ヒトの先天的な処罰感情を満たすための制度に過ぎず。具体的に犯罪や過失の原因究明にも再発防止策にもつながらない不毛なものであることを、多くのヒトは認識するつもりもない。
その無意識性をどんなに多数で共有して気分的に安心満足しても、その安心満足感から社会安全性には全くつながらないばかりか。むしろ、その安心満足こそが社会の安全性を脅かす最も根源的原因なのである。
Ende;