ヒトという種の生物は、決して先天的に人間性が組み込まれているわけではない。だからこそ犯罪や紛争や差別イジメが起きるのであって、ヒトでさえあれば人間性が発揮出来るわけではない。
大人からは純真無垢なように見える子供であっても、子供達だけで放置しておくとイジメが生ずることは珍しいことではない。ヒトという種の生物は先天的に差別迫害を行う行動バイアスが存在しているからであり、先天的な本能が促す行動バイアスというものは無意識な「結果」に過ぎないことを、従来哲学も生物学も一切指摘してこなかった。
どんなに行動バイアスが促す感情が「強い」としても、その強度程度こそが自律的論理検証性という人間としての意識を阻害する最大の要因なのである。振り込め詐欺師にカモられる被害者が増える一方なのは、「気分感情の強度程度こそが意識である。」という論理的根拠のない大衆観念を鵜呑みにしているからである。恐怖心を煽られ興奮状態の時こそ冷静になって確認していれば振り込め詐欺にカモられることはない。
「ゴリラに学べば戦争はなくなる。」などという論理的根拠も何もなく、具体的方法論も導き出せない山極学長の実証不能の観念を、大多数の大衆マスコミは鵜呑みにして気分的に満足し、誰も論理検証することはない。これはもう詐欺に騙されている状況と何ら変わりはない。
ヒトという種の生物でありさえすれば、人間としての知能が常に働くものであるという錯覚(正常性バイアス)が先天的にあるため、ヒトは自らの頭の悪さが認識出来ずバカが治らないのである。
「ヒトの99.8%は戦争をしていないことに気付けば戦争はなくなる。」などという、論理的根拠の全くない実証不能の京大山極学長の観念を、大多数の大衆マスコミは鵜呑みにして気分的に安心するだけで。それが何の役にも立たない嘘であることは誰も指摘することはないばかりか、むしろ同調して「素晴らしい」だのという主観的感覚だけで科学的業績か何かであるかのように持ち上げてしまうのである。
危険学や失敗学では、「ハインリッヒの法則」に基づいて検証が行われるのが常識である。「一つの大きな事象の影には、無数の小さな事象が隠れている。」という統計的事実に基づいて徹底した原因究明が行われなければ、本当の再発防止策にはつながらないからである。そこに「少数だから、安全だ。」などというわけのわからぬ屁理屈が混入してはならない。
ヒトの大多数は殺人などという面倒臭いことはしないが、その多数という論拠だけで「ヒトは殺人をしない。」ことの科学論理的根拠には一切ならないし、それを「気づいた」だけで殺人がなくなる論理的証明になるわけでも対策にもつながることはない。
電通社内で自殺した割合だけを述べれば、さぞかし小さな値にしかならないであろう。人口に占める通り魔やテロリストの割合だけを述べれば、やはり圧倒的少数派に違いない。では、「少数派であることに気付いたら自殺も殺人もなくなる。」という話になるであろうか?
いやもう説明するのも嫌になる程くだらない問いである。一体どんなバカが山極の言っていることを鵜呑みにしているのか、わけがわからない。
「少数であれば、無視して構わない。」というのであれば、ごく稀に「カップ麺にゴキブリが混入していても構わない。」とでも言うのであろうか。若しくは「カップ麺にゴキブリは入っていることはないことの論証。」になると言うのであろうか。
こういうわけのわからない話で、どうやったら「わかったような気分。」に陥って満足出来るのか、オイラにゃさっぱり理解できない。
文科系大衆観念に染まったマスコミは、こうした論理的根拠のない実証不能の観念で気分的満足をすることによって、簡単に論理検証性を失い鵜呑みにしてしまい。わけのわからぬ嘘を漫然と垂れ流し続けるのである。
一方では「不倫はなくならない。」などという論理的根拠のないデマも鵜呑みにする。
これらのデマや嘘が生物学において通用してしまうのは、そもそも生物の遺伝的進化というものが何らかの目的に基づいて起きているものだという錯覚妄想観念に基づいているからである。
目的というものが、先天的に予め組み込まれていて、大脳辺縁系が促す先天的に組み込まれた行動バイアスに従っておきさえすれば、自動的に全て正しい「目的」に向かって結果が導かれるものであるという、ある種の宗教的妄想錯覚が大衆や進化生物学者や哲学者にはあるからだ。
自分の主観的気分感情が、常に正しい結果をもたらしてくれる万能な意識であると錯覚しているからこそ、電話だけで詐欺ることが可能なのである。
山極京大学長や、マイケル:サンデルや養老孟司の言っている内容を哲学や科学的根拠に基づいた意味のある理論か何かと勘違いするのも、気分的満足が促す安心と、論理的根拠に基づいた安全性の論証を履き違えているからである。
ヒトの大多数は、普段物事をそれ程厳密には検証していない。
「こんな奴(殺人犯)は、死刑にしちまえ!。」と怒鳴り散らして共感しておけば、全てが解決すると錯覚する。
しかし、殺人犯を死刑にしたからといって殺人が起きるメカニズム構造などの原因が究明され、再発防止につながる対策になるわけではない。
被害者や遺族の中には「こんなことで苦しむのは自分達だけで終わりにしたいので、再発防止を優先して頂きたい。」と要望されていることがあるが。大多数の無責任な「死刑にしちまえ」といった乱暴な結論の圧倒的多数と、現状制度上において再発防止が優先されていないことを理由に少数派の声は潰されており。現在の司法制度による刑罰だけで「解決」であると規定されている現状に異を唱えるものも極めて少数派である。
ヒトという種の生物でありさえすれば、先天的(自動的)に人間性を常に発揮出来るようになっている優秀な生物であるという妄想錯覚に基づいているからこそ、「物事を厳密に検証しよう。」という意識が働かないのである。
ヒトのことを「知的生命体」などと形容することがあるが、大多数の大衆は過去の知能の集積を利用しているだけであって、自発的に物事を検証するといった本質的知能はほとんど働いていない。
だからこそフランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証を130年以上も誰もしてこなかったのである。
生物の遺伝的進化には目的がないことに基づけば、優生学も含めて多くの生物学上の理論は科学的に間違いであることの立証になるのだが。生物学者の大多数はこのことに自発的に気づくことが出来なかったという頭の悪さを認めることにもなり、権威性を失うことを恐れて黙殺しているのである。
もし優生学の論理反証が周知されていれば、相模原障害者施設で植松聖による虐殺事件は起きなかった可能性もある。少なくとも殺害の動機理屈には使えない。
もしもヒトという種の生物に先天的に人間としての社会性や倫理が組み込まれているとするのであれば、冷静に厳密に物事を判断して行動選択をするという理性なんぞ必要がなく。気分感情が促すままに行動していれば自動的に人間性が発揮されることを意味する。
それは、つまり、「何も考えなくても常に人間性は発揮される。」という妄想である。
京大霊長類研究所の松沢哲郎は、「先天的な行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」と述べ。これをマスコミは何の疑問も持たずに垂れ流し、「出来たら素晴らしいですね。」などと形容した。
しかし、先天的行動習性である以上、特定環境下においての断片的「結果」以上の意味はなく。これだけでは「人間としての社会性の立証。」には構造的にならないのであり。松沢の予測は最初から立証不可能な妄想観念(オカルト)に過ぎないのである。
こうした妄想観念の素となっているのがリチャード:ドーキンス著「利己的な遺伝子」であり。要約すれば「遺伝的進化によってヒトには先天的に人間性が組み込まれている可能性がある。」という話である。
特定環境条件下において、利他的行動を促す習性が存在するとしても。それが短絡的に「先天的に人間性が組み込まれていることの論証」には全くならない。先天的行動習性である限り「特定環境条件下」という縛りがある以上、人間性や倫理の素となる「自律的な社会的責任判断選択」という条件から逸脱するからである。
例えば、振り込め詐欺師が仲間内で飯をおごったからといって、振り込め詐欺師の人間性を立証したことには全くならないからだ。
東京電力福島第一原発において、「組織の利益を優先して、自律的な社会的責任を負わなかった。」ことこそが、人間性や倫理の欠如を招いたのであり。「組織の利益。」という利他的行動が人間性を欠いた行動を促すことも珍しいことではない。
Ende;