「ヒトとは、実証不能の観念にすがらなければ生きられない程弱いものであることを、私は知っているつもりである。」
ヒトって弱いんですかね?
それじゃ「強いヒト」っているんですかね?
「強いヒト」がいないんなら「弱いもの」であることの基準はどこにあるんでしょうかね?
宗教家は弱いから宗教をやってるんですかね?
誰か養老の言っている内容を論理的に説明出来る人っているんですかね?
ヒトの全てが実証不能の観念にすがらなければ生きられないことの論拠って何ですかね?
養老って 結局一体何を「知っているつもり」なんでしょうかね?
「ヒトの多くが宗教にすがりたがる」ことを どんなに多く陳列枚挙したところで 「ヒトから宗教を切り離すことは出来ない」ことの論理的証明にはならないですよね
要するに養老の観念的な決め付けでしかないでしょ
ヒトの多くは論理的安全性の論証よりも 観念的な安心や満足を優先してしまう習性が 先天的にあります
「殺人犯なんぞ 死刑にしちまえ!」と短絡的に乱暴な結論や判決を あたかも唯一絶対的な解決であるかのように錯覚するのも一つの例です
本当は犯罪被害者や遺族の中には「再発防止を優先して頂きたい」という意見もあるのですが それは法制度上存在しない上に無責任な大衆観念の多数決によって「なかったこと」にされてしまっているのですが
それを多くのヒトは残酷なことだとは誰も認識していません
「殺人犯なんぞ 死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして 合理的安全性の根拠もなく実証不能の観念に過ぎない暴言で満足していることは 果たして「弱い」のでしょうか
それとも「強い」んでしょうか
その違いは「強い」か「弱い」かではなく 感情気分が優先して論理的安全性の追求を放棄しているかどうかの違いであって 「ヒトとは弱いものである」という前提からそもそも養老個人の観念的決め付けに過ぎないのです
前提から支離滅裂なのに 正しい結論なんぞ出てくるわけがありません
科学的立証というのは 論理的に安全性を高めるためのものであって 気分的に安心満足するためのものではありません
アフリカの原住民達が行うおまじないの類で航空機の安全性が高まると思っている人などいないでしょう
いやまあアフリカの原住民ならそう思うのかも知れませんけどね
宗教というのは気分的な安心や満足を得るためのものであって 宗教さえやっときゃ安全性が確保されるというようなものではありません
莫大な資金を投入しているJAXAの探査機「はやぶさ2」の運用担当者であっても最後は神頼みになったりするんですが それは可能な限りに論理的な検証を行った後の話であって 神頼みが先に立つわけではありません
自動車に成田山のお守りをぶら下げるよりも 自動ブレーキを装備している方がはるかに追突事故は減りました そこに今更疑問を差し挟む余地はほとんどないでしょう
養老は「実証と観念を結合する。」などと 訳の判らぬことを言っていますが
徹頭徹尾主観的な観念と 論理的に検証可能な実証の区別をあやふやにしているだけであって これは「分別のつかないバカになる」だけの話に過ぎません
「客観的事実」であっても 所詮は個人の脳が認識可能な範囲での話である以上 それは個人の「主観」の範疇であることに違いはありませんが だからといって「主観の中には客観的に検証可能な事実認識など存在しない。」などというバカげた支離滅裂な話はオカルトでしかなく 分別(ふんべつ)のつかない幼稚な妄想でしかありません
個人の意識の中には 感情的なバイアス(無意識)と 論理検証的な人間としての本質的意識があります
立場によっては 例えば山口県光市母子殺人事件の被害者本村洋さんのように 残虐な殺人事件の被害者遺族であれば「無罪で釈放してください、俺が殺します」という感情が優先してしまうこともあるでしょう これは流石に致し方ないと思います もし自分も同じ状況になれば そう言い出すかも知れません
でも 客観的に見て それが社会安全性にとって最適な判断選択であるとは言えません
「なぜ残虐な殺人をするような奴になったのか」それを徹底的に原因究明して 再発防止のために知識共有することの方が社会防衛の観点からはより有効だと言えます
もし 本当に殺人犯が自分の犯した罪を認識すれば それだけで充分な「罰」になるはずです
自分の愚かさを根本から認識し いかに無駄で損害の大きな取り返しのつかないことをしてしまったのかを自覚すれば それはむしろ生き続けるほうが辛いことになるでしょう そうでなければ本当に「更正した」とは言えないからです
しかし 現実の死刑囚にはそれがありません 死刑囚にはそれ以上の懲役罰はないので ノホホンと死刑執行を待つだけで何の反省も罪の自覚もない奴ばっかりです
「どうせ誰もが一度は死ぬんだから 別に何とも思ってねぇよ」ってことです
それこそ「俺のような奴は死刑になれば良いんだ」などと言っている通り魔を死刑にしても むしろ「望みを叶えてやった」だけに過ぎません
どんなに警察による科学的捜査で精密検証しても 司法による刑法罰というものは所詮実証不能の観念にしかなっていないのです
実際に 通り魔を何人死刑にしても その原因究明や再発防止にとって有効な情報や知見は全く出てきません
ですから何度も再発する
実際に通り魔を実行する以前の「予備軍」に対して 全く防止策が立てられないのが現状の司法制度なのです
それは一体誰が無責任だからでしょうね
Ende;
ヒトって弱いんですかね?
それじゃ「強いヒト」っているんですかね?
「強いヒト」がいないんなら「弱いもの」であることの基準はどこにあるんでしょうかね?
宗教家は弱いから宗教をやってるんですかね?
誰か養老の言っている内容を論理的に説明出来る人っているんですかね?
ヒトの全てが実証不能の観念にすがらなければ生きられないことの論拠って何ですかね?
養老って 結局一体何を「知っているつもり」なんでしょうかね?
「ヒトの多くが宗教にすがりたがる」ことを どんなに多く陳列枚挙したところで 「ヒトから宗教を切り離すことは出来ない」ことの論理的証明にはならないですよね
要するに養老の観念的な決め付けでしかないでしょ
ヒトの多くは論理的安全性の論証よりも 観念的な安心や満足を優先してしまう習性が 先天的にあります
「殺人犯なんぞ 死刑にしちまえ!」と短絡的に乱暴な結論や判決を あたかも唯一絶対的な解決であるかのように錯覚するのも一つの例です
本当は犯罪被害者や遺族の中には「再発防止を優先して頂きたい」という意見もあるのですが それは法制度上存在しない上に無責任な大衆観念の多数決によって「なかったこと」にされてしまっているのですが
それを多くのヒトは残酷なことだとは誰も認識していません
「殺人犯なんぞ 死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして 合理的安全性の根拠もなく実証不能の観念に過ぎない暴言で満足していることは 果たして「弱い」のでしょうか
それとも「強い」んでしょうか
その違いは「強い」か「弱い」かではなく 感情気分が優先して論理的安全性の追求を放棄しているかどうかの違いであって 「ヒトとは弱いものである」という前提からそもそも養老個人の観念的決め付けに過ぎないのです
前提から支離滅裂なのに 正しい結論なんぞ出てくるわけがありません
科学的立証というのは 論理的に安全性を高めるためのものであって 気分的に安心満足するためのものではありません
アフリカの原住民達が行うおまじないの類で航空機の安全性が高まると思っている人などいないでしょう
いやまあアフリカの原住民ならそう思うのかも知れませんけどね
宗教というのは気分的な安心や満足を得るためのものであって 宗教さえやっときゃ安全性が確保されるというようなものではありません
莫大な資金を投入しているJAXAの探査機「はやぶさ2」の運用担当者であっても最後は神頼みになったりするんですが それは可能な限りに論理的な検証を行った後の話であって 神頼みが先に立つわけではありません
自動車に成田山のお守りをぶら下げるよりも 自動ブレーキを装備している方がはるかに追突事故は減りました そこに今更疑問を差し挟む余地はほとんどないでしょう
養老は「実証と観念を結合する。」などと 訳の判らぬことを言っていますが
徹頭徹尾主観的な観念と 論理的に検証可能な実証の区別をあやふやにしているだけであって これは「分別のつかないバカになる」だけの話に過ぎません
「客観的事実」であっても 所詮は個人の脳が認識可能な範囲での話である以上 それは個人の「主観」の範疇であることに違いはありませんが だからといって「主観の中には客観的に検証可能な事実認識など存在しない。」などというバカげた支離滅裂な話はオカルトでしかなく 分別(ふんべつ)のつかない幼稚な妄想でしかありません
個人の意識の中には 感情的なバイアス(無意識)と 論理検証的な人間としての本質的意識があります
立場によっては 例えば山口県光市母子殺人事件の被害者本村洋さんのように 残虐な殺人事件の被害者遺族であれば「無罪で釈放してください、俺が殺します」という感情が優先してしまうこともあるでしょう これは流石に致し方ないと思います もし自分も同じ状況になれば そう言い出すかも知れません
でも 客観的に見て それが社会安全性にとって最適な判断選択であるとは言えません
「なぜ残虐な殺人をするような奴になったのか」それを徹底的に原因究明して 再発防止のために知識共有することの方が社会防衛の観点からはより有効だと言えます
もし 本当に殺人犯が自分の犯した罪を認識すれば それだけで充分な「罰」になるはずです
自分の愚かさを根本から認識し いかに無駄で損害の大きな取り返しのつかないことをしてしまったのかを自覚すれば それはむしろ生き続けるほうが辛いことになるでしょう そうでなければ本当に「更正した」とは言えないからです
しかし 現実の死刑囚にはそれがありません 死刑囚にはそれ以上の懲役罰はないので ノホホンと死刑執行を待つだけで何の反省も罪の自覚もない奴ばっかりです
「どうせ誰もが一度は死ぬんだから 別に何とも思ってねぇよ」ってことです
それこそ「俺のような奴は死刑になれば良いんだ」などと言っている通り魔を死刑にしても むしろ「望みを叶えてやった」だけに過ぎません
どんなに警察による科学的捜査で精密検証しても 司法による刑法罰というものは所詮実証不能の観念にしかなっていないのです
実際に 通り魔を何人死刑にしても その原因究明や再発防止にとって有効な情報や知見は全く出てきません
ですから何度も再発する
実際に通り魔を実行する以前の「予備軍」に対して 全く防止策が立てられないのが現状の司法制度なのです
それは一体誰が無責任だからでしょうね
Ende;