書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○教訓。

2018年10月07日 23時48分44秒 | 意識論関連
イデア論というのは「頭の中に先天的に分類が予め組み込まれている。」とするプラトンの妄想である

「男とはこういうものだ。」と先天的に脳内に分類が組み込まれていると錯覚していて「男は女を好きになるものである。」という方程式が出来上がる

LGBTの問題もヒトというもののイデアが予め先天的に組み込まれた完全なものであると見なしていることから生ずるのであり そんなもんが先天的にないことは近年のAIの研究によって明らかになっている

「○○とは、こういうものだ。」という思い込みの類いというものは 先天的に組み込まれているものではなく 後天的な機械学習によって分類されるものである

大衆の多くは 学習の全ては常に頭が良くなるものであると勘違いしているフシがあるのだが 機械学習というのは観念的な「思い込み」も作り出すものであって それによってむしろ頭が悪くなることも充分にある

マイクロソフトのAIがヘイトスピーチを始めたのも AIが「学習」した一つの結果でもある

産まれたばかりの鳥類の脳に見られるインプリンティング(刷り込み学習)というのは、最初に見たものを盲目的に親か何かと勘違いする性質のことである

こうした刷り込み学習において 鳥のヒナが最初に見た相手を親的なものと「学習」する際に 「親とは、こういうものだ。」というイデアが先天的にあるわけではないからこそ 相手がヒトだろうがネコだろうが親的なものだと「学習」してしまうのである

脳内では ある程度多少のハードウェア的な認識区別のメカニズムが先天的にあるらしいことは言われているものの 大半の区別は産まれた後になってから「学習」することで作り出されるものである



カルト宗教を信じ込んで疑うことをしなくなるのも 脳が機械学習することによって「教祖様の言うことは常に正しい。」という盲目性が生じてしまうからである

ヒトという種の生物は 哺乳類である

哺乳類というは産まれてくると初期的には全て子供であるため 親の養育を必要とする

そして親の養育を受けるためには親に盲目的に服従することが先天的な習性として組み込まれてもいる

この先天的に組み込まれた盲目的な服従の習性が 続柄としての親を超えて集団組織の内部における統率者へと転移が生ずることによって 封建的な統率協調行動が採れるようにもなる

これが ヒトに限らずイヌなどの哺乳類全般に見られる生物学上の「社会性」なのだが

従来の生物学においては 封建的であろうと暴力威圧的であろうと「統率的に協調行動が採れる。」という事柄だけを論拠に あたかも「人間としての社会性」の論証でもあるかのように述べてきた

これが まず 大間違いなのである

統率的な協調行動を採れることによって これが生存価において有利に働くことで 結果的に自然環境から受ける過酷な淘汰圧力を免れ「進化(変異)」してきたとは言えるのだが

言っておくが進化というのは 個体が何か目的意識に基づいた考えや願いや呪いに従って起こせるものではなく あくまで「生存にとって有利に働いた」という結果でしか遺伝的進化は促進されることはない

草食動物が足の遅い個体から天敵に襲われることによって 結果的に足の速い個体への進化が促されたのと同様

統率的協調性であっても それを発揮した個体が「生存にとって有利に働いた」結果以上に意味はない

暴力的であろうと非人道的であろうと とにかく統率的協調行動さえ採れれば生き残ることは出来るのであって ISILのような暴力集団が他の集団を淘汰することによって 暴力集団だけが生き残った可能性もある

実際中世の戦乱は暴力こそが絶対的正義だったことからも 生き残った個体に人間性が組み込まれている保障は何もない

イジメにおいても差別や暴力に反対するとイジメ排除の標的にされてしまう事実からも イジメ差別は「やった者勝ち」であって 自律的に学級内における安全性や暴力的独裁を止めることは生存価にとって不利に働くことはあっても有利に働くことはない

「結果的に生存していた」からといって 自動的に人間性が組み込まれる構造など存在しないのである

断片的な論証として 集団内部での利他的行動習性傾向を抽出することは可能であるが 仲間内で仲間内にとって有利になるだけの行動が人間性であるとは言えないのである

何度でも取り上げるが国会原発事故調査委員会報告書にあるように「組織の利益を優先し、個人が自律的に社会的責任を負わなかった。」ことが 最も根源的な事故の原因であり 同時にこれこそが本質的な人間性の有無を指し示す基準でもある

「組織の利益を優先」することというのは 断片的には「集団組織にとって利他的行動」でもある

自分が所属する集団組織にとって有利な行動であるが故に 社会全体にとっては無責任な行動を促すことは珍しいことではない

軍隊というものは その内部において上官の命令に絶対的に服従することによって統率的協調性を発揮することが出来るのだが それが大量殺人であろうとも何の疑いも持たずに実行出来るという点においては 個人の自律的な判断力は不具にさせるものでもある

アブグレイブ政治犯収容所における虐待が生じたのも 兵隊というものは自律的に責任ある判断選択を最初からするつもりがないからである

こうした無責任な虐待行動というのは 学生を使った社会心理学実験においても再現可能なものであり 米国などで複数回行われた監獄実験においても簡単に虐待は生じるものだったのである

ヒトという種の生物は先天的には差別や虐待をする先天的習性がある だから子供達だけで放置するとイジメは簡単に始まるのである

子供は年齢が低い程 自律的判断力が低いからでもある

ヒトという種の生物は 哺乳類であるため親と子の関係性において上下の順位序列がどうしても生じてしまう

生存能力の低い子供に対して 親は服従を強要しなければ子供の生存すらも維持出来ないこともあるからだ

子供は見通しの悪い交差点を左右確認せずに飛び出すことがあるが これがどれだけ危険かを親大人がどれだけ説明しても理解できない場合がある そういう時は「道路に飛び出したらきつく叱る。」ことによって 論理的説明を後回しにしてとりあえず「叱られる恐怖」と引き換えに行動抑制を行わなければならないこともある

しかし 子供が成長する過程において「叱られる恐怖」ではなく子供自身が自律的に問題意識を持つよう根気強く説明を繰り返す必要性が 本当はある

ところが である 親がそういった根気強く問題意識を持つよう説明をされて育てられていない場合 子供に対しても同じように根気強い説明をしなくなる性質というものがある

いわゆる「連鎖」である

虐待が「連鎖」するのと同様に ネグレクト(育児放棄)も連鎖をする

そして ネグレクトというものも程度問題であって 軽いものから重篤なものまで様々あるが 連鎖するという点においては同じなのである

こうした「連鎖」がどうして生ずるのかと言うと これらの行動は全て無意識に行動学習した結果だからである

鳥のヒナのインプリンティングと同様 自分の成育環境において行われた(または 行われなかった)行為というものは 機械学習的に刷り込まれたものであるため 無意識的に「連鎖」してしまいがちなのである

子供が自律的に社会的責任判断力を身につけるためには 子供の主体的意思を尊重することによって 子供自身が主観的で個人的な好き嫌いと 客観的な論理検証を区別できるようにしなければならない

養老孟司の母親は 養老の意思をあまり尊重せずに何かと強要させられたらしいのだ それが原因で支離滅裂な話で大衆人気を得て世間的成功ばかりを基準にするようになったのではなかろうか

まあ 良いや 養老みたいなオカルトジジイは他にも無数にいるし あくまでオカルトジジイが科学的権威として扱われ続けることが社会的に危険で問題だから取り扱っているだけなので 養老の個人攻撃が目的ではない

むしろもっと問題なのは オカルトジジイをそれと認識せずに多数大衆人気を根拠に科学的権威として持ち上げてしまってる大多数の大衆マスコミの無責任さの方にある

オウム真理教事件においては教祖こそが最も悪人であるかのように取り扱われているが 教祖は眼も見えない障害者であり その視覚障害者の言っていることを鵜呑みにして実行したバカな多数の幹部達がいたからこそ大規模なテロにまで発展したのである

それなら見方によっては教祖はお伽話をしていただけであって そのお伽話を鵜呑みにして勝手にテロを実行した多数のバカ幹部にこそが最大の原因であると言えるのである

「お伽話をしていた」だけなら「言論の自由」の範疇ではないか それなら教祖は無罪であり 養老もまた無罪である

オイラはむしろ 教祖がどのように幹部達をテロに導くことが出来たのかを理論的に分析し 具体的な再発防止策として洗脳の具体的手口について知識を社会的に共有することを優先すべきだったと考えている

そうでないと同じような洗脳が再発する可能性を潰したことにはならないからだ

養老による大衆洗脳手法も論理的に分析すれば再発防止においては有効だと言えるだろう それなら養老を殴ることよりも養老の著作を大衆がどのようなメカニズム構造によって科学的理論だと錯覚したのかを徹底分析することの方が社会的には価値があるはずである

言っておくがオイラは刑法廃止論者である 罰ではあらゆる事象の合理的な再発防止策にはつながらないからである



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○手口。

2018年10月07日 16時02分56秒 | 意識論関連
かつては「ヒトが人である所以はシンボル機能にある。」と 長く信じ込まれていた

そして養老孟司もこれに基づいて「唯脳論」を説いている

言語によって抽象化された分類が ヒトという種の生物において特異に複雑で大量に行われているからであろう

しかし 言語を用いて情報を交換するという性質がヒトという種において特異に多いからとって それが短絡的に「人間としての性質」とか「人間性や倫理」の論証には一切ならない

ヒトという種の生物でありさえすれば必ず人間性が発揮されるという保障は一切ないからだ

言語というシンボル機能を用いて詐欺を巧妙に行ったら人間性の論証になるであろうか 議論の余地もあるまい

言語を用いさえすれば論理的に内容が伝わるはずだ、というのも錯覚である

詐欺師の言っている嘘が見抜けないのは 被害者が論理的に内容を把握していないからである

振り込め詐欺師は電話で 占い師は面と向かって口頭で相手を丸め込む 会話というのは記録に残らないので聴いた内容の論理的整合性を時間をかけてじっくり検証することが出来ないためである それを山極壽一は「対話」と称して宗教家とも話を丸めて「エリート扱い」する

山極は理詰めでの議論をされると都合が悪い上に 「勝てない」ことで主観的に気分が悪くなるので「エリート扱い」しないのである

客観性の欠けた山極個人の主観的な好き嫌いを どうして他人の評価基準にして良いのであろうか

山極は自分のことを主観的感覚が絶対的な神か何かと勘違いしているのであろう

養老の場合は著作として残っているが その内容は無駄に長文で理解に苦しむよう書かれているため 大抵の読者は内容を論理的には理解しないまま 大量の知識の「量」だけに圧倒されてひれ伏して検証をやめてしまうのである



「ヒトとは実証不能な観念にすら頼りたくなるほどに、弱いものであることを知っているつもりである。だから、ヒトからシンボルの一つである宗教を切り離すことは出来ない。」

これは論理的な根拠に基づいた立証ではなく あくまで養老個人の主観的な観念にしかなっていない

「弱いものであることを知っているつもり」だからといって どうしていきなり「宗教を切り離すことは出来ない」と決め付けるのであろうか

完全に論理が飛躍している

そもそもシンボル機能が人間性の論証とは無関係である以上 養老の唯脳論はトンチンカンな的外れである



「実証主義者の神は実証である。」

実証は科学的立証の方法論であって宗教ではない 科学的立証の手法を宗教と混同するのはオカルト以外の何物でもない

養老が「客観的事実などない。」などと称して科学的論理検証を無効にしたがるのは 養老本人の言っている内容を論理的に精査されては困るからである



「解剖学はつねに形を扱う。だから、わたしはじつは、形しか扱えないのである。形とはすなはち形式のことである。ヒトの脳というコップに、赤い酒を入れようが、白い酒を入れようが、コップはコップである。」

これは 要するに上っ面で表面的な話しかしていないことの言い訳でもある

形式という外見しか扱わない以上 中身の具体的話は最初からするつもりもないのである

警察官が警察官の制服を来ていれば 一応とりあえずは誰もが警察官であると認識する しかし実際の警察官個人は職務に熱心な人もいれば テキトーに評価点数になりそうなことしかやらないバカもいる

死体になってしまえば凶悪犯罪者も一般人も区別は特につかないものであり 人間性や倫理について養老は「倫理、倫理の大合唱。ヒトはいつからスズムシになったんだ。」などとはぐらかすだけである

養老の著作においては「約束事を守ること」は「脳化」に過ぎないと称してハナからマトモに取り扱わない

「約束事を守る」という個人の人格についての話は ヒトの内実に関わることなので 最初から取り扱うつもりすらないからである だから「形しか扱えない」という言い逃れをする

養老は文面においても極めて表面的な「形」しか扱わず 「共通了解」という分類だけで多数派同調性バイアスという無意識な感情と 科学論理的な安全性の情報共有をゴチャマゼにして読者の論理検証性を撹乱する



養老はニューヨークの9.11テロを「さざ波」だと形容する

長い歴史の中ではヒトの大量殺戮など何度も起こっているものであって 映像が衝撃的だからといって大したことではないと言うのである

殺人が稀な事柄だから無視して構わないという話にはならない 数字上少数だからという論拠で殺人を無視するバカはいないであろう それならどうして「戦争をしているのは人類の0.2%であることに気付けば、戦争はなくなる。」などという訳のわからぬ話を鵜呑みにするのであろうか

航空機事故が自動車事故よりも少ないからといって精密な検証や対策をしなくて良いとでも言うのであろうか

冤罪が少ないからといって何の対策もしなくて良いというのであろうか

そんな無責任でバカげた話は誰も許さないはずなのだが どういうわけか養老や山極の言っている内容は多くの大衆マスコミは鵜呑みにしてしまう

それは まるで 連日のように「振り込め詐欺の被害が出た」と報道されているにも関わらず 相変わらず騙される被害者が後を絶たない構図と良く似ている



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○無責任。

2018年10月07日 12時10分37秒 | 意識論関連
「意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を確保するために言語の論理と文化、伝統がある。」

養老孟司は先天的本能習性として「同調や共感に安心や満足を感じる。」ことを述べているのであって

この文脈における「意識」とは無意識な先天的行動バイアスのことで だからこそ養老の結論は「安心して同じを求めれば良い」などという主観的気分の問題に話がすりかわるのである

東電社内において「同じ」を追求した結果 揃いも揃って津波に対する脆弱性を放置したことは「意識の問題」ではなく 気分感情が促す同調迎合性バイアスに「無意識に流された結果」に他ならない

学級内でイジメが発生していても「皆と同じように傍観放置しておけば安心」なのと同様に安心であることは安全性の論証とは何の関係もないばかりか むしろ安全性を阻害する大きな要因になるのである

「意識」というものの本質を論理的に認識していないからこそ養老の口車に乗せられてしまうのであって 養老の著作は科学論理的な根拠に基づいた理論ではなく 大衆迎合的な詐欺ペテンにしかなっていない

養老がやたらと言いたがる「脳化社会」云々の話も これは理論ではなくて養老の主観的な実証不能の観念でしかないのだが 養老の著作を読んだ大多数の大衆マスコミはこれを論理的根拠に基づいた理論か何かだと勝手に錯覚妄想して信じ込む

養老は相手がバカだとみなせば「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う、ほら俺は脳化されていない。」などという支離滅裂な事を平気で言い出す そして相手はバカなので「なるほど、そうですね。」などと短絡安易に同調する

「電車やバスばかりを利用しているから脳化する」とも言っているが 養老自身は電車もバスも利用するのであって徒歩や自転車を多用しているわけではない

具体的に脳化がどのようなものであるのかを理論的に説明している件はなく それがどのような害をもたらすのかも説明せず どのように回避するのかも一切説明などしていない

にも関わらず 大衆やマスコミの大多数は脳化の観念を鵜呑みにして何の疑問も持つことはない

養老の「脳化」の観念が実際に何かの役に立つかと言えば 何の応用性も存在していない

養老の著作を読んだ者は 論理的理解をすっ飛ばして観念的に「丸め込まれ」ることで気分的に満足安心しているだけなのである

「わからないなら、わからないなりに、わかったとする。そういうわかりかたもあるのかと思ってもらえれば幸です。」

論理的理解とは別に ヒトという種の生物は観念的に満足安心したことを「わかった」と形容することがある

ヒステリックに怒鳴り散らしている相手に対して「わかった、わかった、そんなに言うなら謝るよ。」などと丸め込まれる時に言う「わかった」というのは観念的に迎合しているだけで論理的理解とは全く別のものである

養老が促しているのは論理科学的な理解ではなく 観念的な同調迎合であって 科学を逸脱して論理的根拠のない実証不能の観念の世界へと誘っているのである

養老が「客観的事実などない。」と説明している内容は 個人の主観的好き嫌いと客観的論証をすり替えているだけであって 科学的客観性を無視したオカルト観念でしかない

個人の主観的好き嫌いは「主観的な現実」でこそあれ 客観的な論理証明とは関係のない話であるのだが 大多数の大衆マスコミはこれが区別できずに養老の論法を漫然と無意識に鵜呑みにしてしまう

そして「日本人の住むのは本来、八百万(やおよろず)の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖がない。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなはち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との大きな違いです。」などと称して あたかも論理的な真理の追求が間違いで それをしない癖がある日本人こそが正しく優秀であるかのように誘導するわけです

こうした論法によって大多数の大衆マスコミは気分的に安心満足することによって 科学的論理検証を簡単に放棄するようになる

刑事事件の捜査や検察の検証において絶対的真実を追求しないから冤罪が起きるのであり 原発が暴走した原因を究明できなければ有効な再発防止策は構築できない 養老の論法を鵜呑みにすれば「科学捜査は要らない。」という話になってしまうのである

そもそも客観的事実を否定しておいて科学的客観性もへったくれもあったものではないし 科学者としてデクノボウにも程がある

養老は「昨日の自分は、今日の自分ではない。」と称して言っている内容をその場限りにコロコロと変えてきます

「万物は流転する。」などという屁理屈を持ち出して言っている内容の論理整合性は一切責任を持たない

嘘つきというのは言っている内容の全てが嘘なわけではなく 他人を騙す時には最初は本当のことを述べておいて肝心な部分だけ嘘を混入させて騙すのであって 言っている内容が全て事実と異なる話であれば嘘であることは誰にでもわかるはずである

例えば「純粋嘘つき」という人物がいると仮定します この「純粋嘘つき」は嘘しか絶対に言わないので たとえ自分にとって損になるとしても命に関わることであっても常に嘘しか言わないので 彼の言っている内容が全て嘘であることは簡単に判明するし 彼に何かを質問したら「常に嘘である」と判っていれば騙されることもない

現実の詐欺師ペテン師というのは他人を騙すために嘘と真実をないまぜにし「もっともらしい嘘」でなければ他人は騙せない

 ◇追記:養老は「イスラム社会と日本との違い」とは言っているが どちらが正しいなどといった結論や判断は一切していない そもそもが論理的根拠に基づいた分析ではないので結論も判断も最初からないし 出来もしないのだが 読者は自分に都合の良いように観念的な「解釈」をすることで気分的に安心満足しているだけで 誰一人として論理的に理解も分析もしていないのである



「意識は同じを求める。」のはなぜか

それは「皆同じだと安心。」だからである

こうした安心というものは先天的バイアスが作り出すものであり欲求欲望という先天的に決定している自己選択不可能な無意識に過ぎない

先天的に同じものを求める性質は 同調性や多数派迎合性によって「同じではない者」を差別排除する原因でもある

逆に 多数派がバカなら自分もバカでも「恥ずかしくはない」とも思うことで気分的に安心することも出来る

それに対して論理科学的な真理の追求による論理的安全性というものは これらの気分的バイアスに左右されることなく構築されるべきものであり 安全性に関わる知識の共有と多数派同調バイアスが促す観念的共感共鳴とは全く異なるものである

養老は自分にとって都合良く観念的な共感や共鳴をするよう誘導するために 科学論理的な安全性に関わる知識共有と話をすり替えているのである



「型、形式」「カッコイイには普遍性があります。」といった話も 実際には論理的普遍性の証明ではなく 「個人が主観的にカッコイイと思うもの」自体は全然普遍性がない

そもそも「カッコイイ」というのは主観であって 客観的普遍性を証明出来ない

ヒトには普遍的に「個人的な好き嫌い(カッコイイと思うもの)が存在している」ということを指して「普遍性があります」と言っているに過ぎないのである

ヒトという種の生物が普遍的に何かを「カッコイイ」と思う現象は普遍的に見られるものだが 何に対して「カッコイイ」と思うのかには普遍性がない上に そもそも主観的な好き嫌いに過ぎない「カッコイイ」をどんなに集めてきても客観的な普遍性の論証にはならない

これ むづかしいかしら?

学校みたいに金を支払って学位学歴という抽象化された「脳への報酬」なしに理解しようと思う奴はいないのかしら

主観的に好きであることを どんなに多数派と共有したところで 主観的な好き嫌いが客観的論理証明にすり替えられるわけではないでしょ

「生駒ちゃんがかわいい」という主観的な好きをどんなに多数派で共有したところで 「生駒ちゃんは普遍的にかわいい」ことの論理的証明にはならないでしょうが

「型、形式」や「カッコイイ」といいう主観的観念というものは 客観性を持った論理的証明には最初から使えないものであって 山極壽一京大学長が「ゴリラの威嚇が相撲の型と似ている」ことをどう主観的に思っても科学的に何かを証明したことには全くならないのである

それを どんなに多数のバカなマスコミ関係者と共有しても同じことである



養老に限らず個性批判論者に共通する論法があって それは「個性=身体=世間的成功」だけを議論の俎上に乗せてくる

個性というものがどうして世間的成功に結びつかなくてはならないのであろうか

世間的成功を「多くの人」が望んでいるからといって 世間的成功に結びつかないものは個性としては意味がないとでも言うのだろうか

世間的成功というのは そもそも他人との比較における結果であって 主観的に好きな純粋行為とは関係がなく 個性尊重において最も重要なのは主体的意思を認識し 自ら尊重することによって自律的な社会安全性にも配慮が働くようになることである

世間的成功というのは あくまで「その社会における結果」に過ぎないので 成功するかどうかは何の保証もない

たとえ先天的に何かの能力に突出していたとしても それが評価報酬などの世間的成功に結びつかない場合もある

たとえ大多数の観念に迎合していても世間的に成功する保証など何もないのである

人間性にとって最も重要なのは「自律的な社会的責任判断選択」が出来ることであって どんなに多数派から評価されていても やっている本人が主観的に純粋に好きなことでなければ評価が失われたり 思ったように得られなかったりした場合に無責任な行動に走ってしまったのではどうにもならない

世間的な成功だけを求めるのであれば 養老のように無責任にオカルト観念で大衆を丸め込んでおいても構わないことになる だが それによって論理的な安全性の追求がおろそかになってしまったのでは話にならない

目先の気分的安心満足によって自律的な論理検証性を失っておいて 他人にだけ社会的責任を追求するのは無責任にも程がある



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする