理論的な話というのは言語で説明可能ではあるのだが
そもそも定義が曖昧で論理的に説明することが出来ない話というのもある
例えば「心」である
心って何だっつう話をするときに 先天的行動習性バイアスが促す気分感情の全てを人間の心や意識だという理解の仕方をしていると 「殺人犯なんぞ死刑にしちまえ!」という短絡的感情論までもが人間としての心だという話になってしまい これでは到底論理的な理解には一切ならない
「心」というものの論理的定義が曖昧なままでは論理的説明による理解など成立するわけがない
これは「意識」においても同様で 何が意識の本質なのかを理解していないバカには 論理的説明は一切役に立たない
そもそもヒトという種の生物であるというだけで 短絡的に「ヒト=人間」という観念的解釈をしていたのでは論理的な話には全くならないのである
加害者家族が社会的に差別排除され 生活が出来ないという話がある
これは 大多数の大衆には犯罪者に対する差別意識や報復懲罰感情が働くためである
「差別意識」というのは意識ではなく むしろ厳密に言えば「差別バイアス」である こうした言葉上の論理的間違いは無数にあって 「○○意識」と言われているもののほとんど全ては厳密に論理的に言えば「○○バイアス」であり 無意識な行動バイアスを指している
単なる先天的な無意識行動バイアスを「○○意識」と呼んでしまっているために 気分感情が促すあらゆる行動バイアスの全てまでをも意識だという解釈を促してしまい 文科系大衆の論理的理解を阻害する要因でもある
気分感情が促すこうした無意識な行動バイアスのことを 大衆の多くや生物学者や哲学者達は「意識」だという解釈をしており これが論理的思考としての科学や哲学としての社会的機能不全の根本原因でもある
養老孟司が「ヒトは同じを追求する」などと称して 論理科学的安全性の追求と 単なる多数派同調性をゴチャマゼにしても誰もそれを幼稚な言葉遊びだとすら気付くことはない
「観念と実証を結合する」などという話は 気分感情が促す行動バイアスと論理思考の区別がつかない幼稚な文科系大衆を騙して人気を得るための嘘に過ぎない
ペテン師にとって カモを見つけるのは簡単なのである
言語機能というのは むしろ固定観念を植え付けることで論理検証性を阻害することの方が圧倒的に多いために 詐欺師達は言葉巧みにカモを丸め込むことが出来るのである
ネット上で「虚数意識論」だとかいう話を読んだことがあるが これは単に「知らない危険が怖い」と言っているだけであって 論理的には全く哲学や科学としての役割は果たしていない
恐怖心というのは感情であって 先天的行動バイアスを意味するものであり これは人間としての本質的意識としての論理思考とは全く別のものであり むしろこうした気分感情こそが論理思考を簡単に撹乱させ思考停止に陥れる原因なのである
女房子供を惨殺されたりすれば 社会安全性だの社会防衛だの再発防止といった理論よりも報復感情の方が優先しがちな習性がヒトにはある
たとえ身内でなくとも無抵抗な重度障害者が惨殺されても「死刑にしちまえ」という感情が出てくることは珍しいことではない
だからといって 報復や死刑によって惨殺事件を起こすような犯罪者が出てきてしまう論理的な原因究明や 具体性のある再発防止策には一切ならない
気分的に多数派で同調迎合したところで 論理的安全性につながらないのでは本当に被害者を減らすことにはつながらない
ましてや加害者家族や親族を差別排除しても 気分的には「正義」を実行したような錯覚には陥ることができるのかも知れないが 具体的に凶悪犯罪者の発生原因を論理的に解明したことにもならず 必然的に具体性のある再発防止策にも一切つながらない
「育て方に問題があった」としても 具体的にどのように問題があったのかを社会全体で共有しておくことが重要なのであって 加害者の家族親族を忌避差別しても何の具体的再発防止の知見も得られることはない
同じ「ヒト」という種の生物である以上 同じような間違いを犯す危険性は誰にでもあるし そもそも一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れていると考えるべきであり 自分の行動の中にも重大事象に発展する可能性のある危険が含まれているかも知れないのである
ましてや「育て方」なんていうのは 誰もが初心者なのであって これは教育評論家の尾木直樹ママであっても長女を「良い子症候群」にしてしまうこともある
子育ては誰もが初心者なのであって だからこそ先輩の失敗はなるたけ知っておく必要性がある
誰か他人を糾弾差別懲罰報復してさえおけば ヒトの多くは気分的に満足して簡単に思考停止に陥る習性がある
むしろ こうした習性こそが凶悪犯罪者の行動を促す最大の要因でもある
ヒトという種の生物は 成育環境に依っては狂暴性を持つものであり かつてのシエラレオネの少年ゲリラのような残虐行為を平気で行うように育てることも可能である
一人の社会人として 自律的に社会を担う人格を育てるために必要なのは 自発的主体性を重んじることである
個人が主体的に好きなことが何かを認識していないことには 他人の主体的好き嫌いも尊重出来なくなる これは一種の定理と言っても過言ではない
ヒトという種の生物は哺乳類であるため 全てのヒトは初期的には「子」であり 親という他者に服従する習性があるため 多数他人に迎合し 結果的に自律的な判断力を喪失する原因にもなる
事故当時の東電社長が無責任だったからと言って 刑法懲罰では何の解決にもならない なぜ無責任な行動を採ったのかを徹底的に追求し 成育環境や出身学校 教師が誰で どういった教育を行っていたのかまで明らかにする必要がある
ここで勘違いしては困るのは 親や教師を糾弾訴追することが目的ではないということである
例えば 体育教育において「運動中に水を飲んではいけない」などという根拠に乏しい因習が熱中症の原因になったりすることもあるわけで 当時の常識に間違いがあれば これを知識として広く知らしめておく必要(社会的責任)がある
それと同じように 犯罪者が出た場合にも教育上の間違いの原因が判れば これも知識として教訓にすることが 社会安全性にとっては最も重要なのである
こうした論理的な安全性追求において 最も邪魔なのが気分感情という無意識行動バイアスである
「殺人犯なんぞ死刑にしちまえ」という短絡的な正義を振りかざし その結果 原因もわからなければ再発防止にもならず同じような殺人が起きても誰も責任を取らないことが人間性だと言えるであろうか
多数派が無責任なバカであれば バカでも気分的には安心することも可能である
ヒトという種の生物は 多数派で「同じ」を共有さえしておけばヒトという種の生物は気分的に安心して何も「考え」ないようになる習性があり これに論理的安全性の根拠証明は一切必要ない
科学や哲学というものは こうしたヒトの先天的習性や思考のバイアスに起因する非論理性を排除するためのものであって 徹底的に理詰めで検証することが必要である
ところがドッコイ 現状の哲学界というのは主観的好き嫌いだの観念に基づいた論理的根拠のない決め付けの陳列に過ぎず 哲学としての社会的役割を一切果たしていない
ドスト:エフスキーの言っている内容が 危険学や失敗学にとって一体何の役に立つと言うのであろうか
ニーチェの超人幻想も 所詮は遺伝的進化万能説に基づいた妄想で読者が気分的に満足しているだけであって 哲学としての社会的役割なぞ一切果たしていない
リチャード:ドーキンス著「利己的な遺伝子」も 読んだ大衆が勝手に気分的満足をして喜んでいるだけであって 科学的には糞の役にも立たないお伽話お花畑にしかなっていない
ヒトという種の生物は自然淘汰圧力から逃れた時点で遺伝的進化はしないのである
カントの純粋理性批判も 批判対象を間違えており 内容自体に論理整合性すらない実証不能の観念に過ぎない
アダム:スミスによる道徳感情などというものも 感情という先天的行動バイアスの全てが常に正しい結果しかもたらさないはずだという勝手な妄想に基づいたお花畑に過ぎない
どんなに大量の知識をひけらかして多数大衆に自慢しても 何が間違いなのかすら気付かないバカでは何の役にも立たない
哲学と呼ばれている書物のほとんど全ては 論理的根拠を無視した勝手な決め付けで思考停止を促され 気分観念的に何かを「わかった」ような錯覚で満足しているだけのオカルトに過ぎない
言うなれば 現在の哲学と呼ばれている書物のほとんどは 単なる大衆の論理思考を惑わすだけのオカルトでしかないのである
大衆の多くは哲学というのは気分的な安心満足を得るためのものだと勘違いしているが 哲学というのは科学と同様客観的事実や真理を追求するためのものであって 気分的な「救い」を求めている時点で既に間違っているのである
客観的な事実や真理というものは 社会安全性にとって重要で必要だから追求するものであって 論理的安全性と気分的安心満足を区別してこその人間性であり その分別をして「了見(人格)」と言うのである
ISILやオウム真理教だけがオカルトなのではなく むしろこうしたわかりやすいオカルトというのは 社会の中において少数の結果的重大事象なのであって こうした重大事象の陰に潜む無数の小さな事象を認識しないことには重大事象の原因を究明したことにはならない
特定の集団だけを特異なものとして区別しているからこそ 自分達の頭の悪さを一切認識しないバカに陥るのである
電通による過労自殺も 電通という集団組織的なオカルト性が引き起こしたものであって 被害者人数が少ないからといってオカルトではないと思うことの方が間違っているのである
今日は何だかくだらない用事が細々とあって考えがまとまらないわ
Ende;
そもそも定義が曖昧で論理的に説明することが出来ない話というのもある
例えば「心」である
心って何だっつう話をするときに 先天的行動習性バイアスが促す気分感情の全てを人間の心や意識だという理解の仕方をしていると 「殺人犯なんぞ死刑にしちまえ!」という短絡的感情論までもが人間としての心だという話になってしまい これでは到底論理的な理解には一切ならない
「心」というものの論理的定義が曖昧なままでは論理的説明による理解など成立するわけがない
これは「意識」においても同様で 何が意識の本質なのかを理解していないバカには 論理的説明は一切役に立たない
そもそもヒトという種の生物であるというだけで 短絡的に「ヒト=人間」という観念的解釈をしていたのでは論理的な話には全くならないのである
加害者家族が社会的に差別排除され 生活が出来ないという話がある
これは 大多数の大衆には犯罪者に対する差別意識や報復懲罰感情が働くためである
「差別意識」というのは意識ではなく むしろ厳密に言えば「差別バイアス」である こうした言葉上の論理的間違いは無数にあって 「○○意識」と言われているもののほとんど全ては厳密に論理的に言えば「○○バイアス」であり 無意識な行動バイアスを指している
単なる先天的な無意識行動バイアスを「○○意識」と呼んでしまっているために 気分感情が促すあらゆる行動バイアスの全てまでをも意識だという解釈を促してしまい 文科系大衆の論理的理解を阻害する要因でもある
気分感情が促すこうした無意識な行動バイアスのことを 大衆の多くや生物学者や哲学者達は「意識」だという解釈をしており これが論理的思考としての科学や哲学としての社会的機能不全の根本原因でもある
養老孟司が「ヒトは同じを追求する」などと称して 論理科学的安全性の追求と 単なる多数派同調性をゴチャマゼにしても誰もそれを幼稚な言葉遊びだとすら気付くことはない
「観念と実証を結合する」などという話は 気分感情が促す行動バイアスと論理思考の区別がつかない幼稚な文科系大衆を騙して人気を得るための嘘に過ぎない
ペテン師にとって カモを見つけるのは簡単なのである
言語機能というのは むしろ固定観念を植え付けることで論理検証性を阻害することの方が圧倒的に多いために 詐欺師達は言葉巧みにカモを丸め込むことが出来るのである
ネット上で「虚数意識論」だとかいう話を読んだことがあるが これは単に「知らない危険が怖い」と言っているだけであって 論理的には全く哲学や科学としての役割は果たしていない
恐怖心というのは感情であって 先天的行動バイアスを意味するものであり これは人間としての本質的意識としての論理思考とは全く別のものであり むしろこうした気分感情こそが論理思考を簡単に撹乱させ思考停止に陥れる原因なのである
女房子供を惨殺されたりすれば 社会安全性だの社会防衛だの再発防止といった理論よりも報復感情の方が優先しがちな習性がヒトにはある
たとえ身内でなくとも無抵抗な重度障害者が惨殺されても「死刑にしちまえ」という感情が出てくることは珍しいことではない
だからといって 報復や死刑によって惨殺事件を起こすような犯罪者が出てきてしまう論理的な原因究明や 具体性のある再発防止策には一切ならない
気分的に多数派で同調迎合したところで 論理的安全性につながらないのでは本当に被害者を減らすことにはつながらない
ましてや加害者家族や親族を差別排除しても 気分的には「正義」を実行したような錯覚には陥ることができるのかも知れないが 具体的に凶悪犯罪者の発生原因を論理的に解明したことにもならず 必然的に具体性のある再発防止策にも一切つながらない
「育て方に問題があった」としても 具体的にどのように問題があったのかを社会全体で共有しておくことが重要なのであって 加害者の家族親族を忌避差別しても何の具体的再発防止の知見も得られることはない
同じ「ヒト」という種の生物である以上 同じような間違いを犯す危険性は誰にでもあるし そもそも一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れていると考えるべきであり 自分の行動の中にも重大事象に発展する可能性のある危険が含まれているかも知れないのである
ましてや「育て方」なんていうのは 誰もが初心者なのであって これは教育評論家の尾木直樹ママであっても長女を「良い子症候群」にしてしまうこともある
子育ては誰もが初心者なのであって だからこそ先輩の失敗はなるたけ知っておく必要性がある
誰か他人を糾弾差別懲罰報復してさえおけば ヒトの多くは気分的に満足して簡単に思考停止に陥る習性がある
むしろ こうした習性こそが凶悪犯罪者の行動を促す最大の要因でもある
ヒトという種の生物は 成育環境に依っては狂暴性を持つものであり かつてのシエラレオネの少年ゲリラのような残虐行為を平気で行うように育てることも可能である
一人の社会人として 自律的に社会を担う人格を育てるために必要なのは 自発的主体性を重んじることである
個人が主体的に好きなことが何かを認識していないことには 他人の主体的好き嫌いも尊重出来なくなる これは一種の定理と言っても過言ではない
ヒトという種の生物は哺乳類であるため 全てのヒトは初期的には「子」であり 親という他者に服従する習性があるため 多数他人に迎合し 結果的に自律的な判断力を喪失する原因にもなる
事故当時の東電社長が無責任だったからと言って 刑法懲罰では何の解決にもならない なぜ無責任な行動を採ったのかを徹底的に追求し 成育環境や出身学校 教師が誰で どういった教育を行っていたのかまで明らかにする必要がある
ここで勘違いしては困るのは 親や教師を糾弾訴追することが目的ではないということである
例えば 体育教育において「運動中に水を飲んではいけない」などという根拠に乏しい因習が熱中症の原因になったりすることもあるわけで 当時の常識に間違いがあれば これを知識として広く知らしめておく必要(社会的責任)がある
それと同じように 犯罪者が出た場合にも教育上の間違いの原因が判れば これも知識として教訓にすることが 社会安全性にとっては最も重要なのである
こうした論理的な安全性追求において 最も邪魔なのが気分感情という無意識行動バイアスである
「殺人犯なんぞ死刑にしちまえ」という短絡的な正義を振りかざし その結果 原因もわからなければ再発防止にもならず同じような殺人が起きても誰も責任を取らないことが人間性だと言えるであろうか
多数派が無責任なバカであれば バカでも気分的には安心することも可能である
ヒトという種の生物は 多数派で「同じ」を共有さえしておけばヒトという種の生物は気分的に安心して何も「考え」ないようになる習性があり これに論理的安全性の根拠証明は一切必要ない
科学や哲学というものは こうしたヒトの先天的習性や思考のバイアスに起因する非論理性を排除するためのものであって 徹底的に理詰めで検証することが必要である
ところがドッコイ 現状の哲学界というのは主観的好き嫌いだの観念に基づいた論理的根拠のない決め付けの陳列に過ぎず 哲学としての社会的役割を一切果たしていない
ドスト:エフスキーの言っている内容が 危険学や失敗学にとって一体何の役に立つと言うのであろうか
ニーチェの超人幻想も 所詮は遺伝的進化万能説に基づいた妄想で読者が気分的に満足しているだけであって 哲学としての社会的役割なぞ一切果たしていない
リチャード:ドーキンス著「利己的な遺伝子」も 読んだ大衆が勝手に気分的満足をして喜んでいるだけであって 科学的には糞の役にも立たないお伽話お花畑にしかなっていない
ヒトという種の生物は自然淘汰圧力から逃れた時点で遺伝的進化はしないのである
カントの純粋理性批判も 批判対象を間違えており 内容自体に論理整合性すらない実証不能の観念に過ぎない
アダム:スミスによる道徳感情などというものも 感情という先天的行動バイアスの全てが常に正しい結果しかもたらさないはずだという勝手な妄想に基づいたお花畑に過ぎない
どんなに大量の知識をひけらかして多数大衆に自慢しても 何が間違いなのかすら気付かないバカでは何の役にも立たない
哲学と呼ばれている書物のほとんど全ては 論理的根拠を無視した勝手な決め付けで思考停止を促され 気分観念的に何かを「わかった」ような錯覚で満足しているだけのオカルトに過ぎない
言うなれば 現在の哲学と呼ばれている書物のほとんどは 単なる大衆の論理思考を惑わすだけのオカルトでしかないのである
大衆の多くは哲学というのは気分的な安心満足を得るためのものだと勘違いしているが 哲学というのは科学と同様客観的事実や真理を追求するためのものであって 気分的な「救い」を求めている時点で既に間違っているのである
客観的な事実や真理というものは 社会安全性にとって重要で必要だから追求するものであって 論理的安全性と気分的安心満足を区別してこその人間性であり その分別をして「了見(人格)」と言うのである
ISILやオウム真理教だけがオカルトなのではなく むしろこうしたわかりやすいオカルトというのは 社会の中において少数の結果的重大事象なのであって こうした重大事象の陰に潜む無数の小さな事象を認識しないことには重大事象の原因を究明したことにはならない
特定の集団だけを特異なものとして区別しているからこそ 自分達の頭の悪さを一切認識しないバカに陥るのである
電通による過労自殺も 電通という集団組織的なオカルト性が引き起こしたものであって 被害者人数が少ないからといってオカルトではないと思うことの方が間違っているのである
今日は何だかくだらない用事が細々とあって考えがまとまらないわ
Ende;