書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○ハインリッヒの法則。

2019年05月03日 11時58分33秒 | 意識論関連
自己が生き続ける上において「生きるに価しない社会」では意味がない

だが それは「目先の自己の欲望ばかりを追求すること」だけでは人間性を伴うことはない

他人からの評価や報酬に依らずに主体的に純粋に好きなことがあれば それを続ける上において社会安全性を求めるようになるが

しかし 他人からの評価や報酬ばかりを追求しているからこそ本質的には自己が満たされず 際限なく評価報酬を求めるようになり 自律は失われ無責任な行動もするようになる



人間性の論証において「生きるに価する社会を求める」とは言っても その前提に自律が必要であり 自律には自発的主体性が必要なのである

主体性や自律なしに「生きるに価する社会」を求めてしまうからこそ 目先の主観的欲望感情気分ばかりが優先し 身勝手で自己中心的な行動に陥るのである

その違いは 本質的な人間としての「意識(自律的な客観的論理検証性)」の有無を意味する

自己の欲望の全体像を客観的且つ統合的に検証し 論理的に「人間として生きるに価する社会」とは何かを自覚してこその人間性や倫理である

人間性の源とは 自発的主体性なしに成立することはないのである

「社会から生かされている」などという主体性の欠落した「謙虚さを装った」綺麗事は 単なるバカな大衆への迎合や同調を唆(そそのか)すだけの 洗脳ペテン詐欺でしかない

個人が主観的に「好き」かどうかと 論理客観的に「安全」かどうかは関係がないのである

江戸川乱歩が描く猟奇殺人の妄想を主観的にいくら「好き」でも それが短絡的に「人間性の欠如」にならないのと同様 ペドフィリア(幼児性愛)であっても芸術空想の範疇であれば社会的には人畜無害なのである

問題なのは目先の主観的好き嫌いが社会的行動に直結してしまう自律の欠落であって 個人的趣味趣向の問題ではないのである

今では江戸川乱歩は文学賞の冠に使われる程の評価があるが 当時は「猟奇殺人を助長する」などと称して文科系大衆観念的に拒絶されていたのであり こうした時代に左右されるような主観的観念には普遍性がないのである

どんなに多数派の同調や迎合があっても それは論理的普遍性の論証にはならないのである

世間や時代に左右される多数決では 論理的普遍性の証明にはならない

科学が多数決ではないのと同様 哲学もまた多数決で真理が求められるわけではない



ところが ヒトという種の生物は先天的に統率的協調性を発揮する本能習性があるため 多数派同調性や権威迎合性によって簡単に自発的主体性を喪失する傾向が非常に高いという先天的欠陥を持っている

順位序列への異常執着というものも 要するに「権威に誉めて欲しい」「多数派にカッコイイと思われたい」という評価承認欲求が根底にあり 結果的に「他者を蹴落としてまで優位に立とう」としたがるだけであって 本当はそこに「目的関数」のようなものは存在しないのである

「他者よりも優位に立つことが生存価にとって有利」というのは大嘘で ヒトという種の生物は本来1個体だけよりも多数他者とリソースを共有した方が生存にかかるコストを減らすことの方が合理的なのである

そんな論理的合理性を持ち出すまでもなく 近所の子供が血まみれで死んでいたら自分の人生までもが味気ないものになるものである

連続幼女誘拐殺人犯の宮崎勤のように 「子供を殺害して喰う」などという異常性の原因とは 目先の主観的欲望だけが短絡的に「正しいこと」になってしまっているからであり 自己に対する客観的論理検証性が全く働いていないことが人間性の欠落の原因なのである

これは女子中学生監禁犯の寺内樺風の身勝手さにも共通するものである

こうした極端な異常者が発生してくるのは何故かと言えば 世間一般人の多くも主観的観念と客観的論理検証性の区別がついていないという「小さな事象」 つまり「ヒヤリ」「ハッと」事象を著しく見逃しているために起こる必然的重大事象(結果)でもある



梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ることを 短絡的に人間性や倫理だと錯覚していれば 合理的原因究明や再発防止策が進まないのは当たり前の話である

私からすれば凶悪殺人犯も大衆の多くも「五十歩百歩」であり 主観的には「お前らも死ね」と「思って」いるが 誰の主観であっても主観には社会的には意味がないことに違いなどない

だから 面倒臭くてもアホらしくても 懇切丁寧に噛んで含めるように説明を尽くしているつもりである

「少しは有り難いと思え このバカ共が」と「思う」のも 所詮は私の主観に過ぎないので 客観的にはどうでもよろしい 「勝手に思っておけ」で良い話である

私が個人的にどんなに強烈に「思った」ところで人畜無害である

それが多数大衆にとって主観的に好きかどうかは関係がない

論理的に理解出来るかどうかを区別出来ないからこそ 主観的好き嫌いが優先してしまうのである

それは程度の違いこそあれ 凶悪犯罪者の身勝手さと共通するものなのである



Ende;
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