書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○全部のせ。

2019年05月14日 23時19分10秒 | 日記
ヒトって哺乳類だからさ

「赤ん坊が丸焦げ」的な話が一番キツイんだよね

もうね 輪ゴム喰ってんだか ペヤング喰ってんだか わっかんなくなっちゃうんだよね

理屈上の持続可能性だの安全性だのすっ飛ばして とにかく子供が元気じゃないのが一番嫌なのよ

近所の子供が自動車に轢かれて死んでたら 写真を撮る意欲も プラモデルに色塗る意欲も 音楽聴くのも何にも意欲の全てが剥ぎ取られちゃう



オートバックスでブレーキ踏み間違い防止装置っての売っているんだそうな

アクセルをいきなりベタ踏みすると 燃料噴射装置がキャンセルされて暴走はしなくなるらしい

完全ではないけれど 無いよりかはかなりマシかも

ただ 高速道路の合流でいきなりアクセルがキャンセルされないか心配ではある

この装置つけたら高速道路には乗らない方が良いかもね

でも サードパーティで作れんなら純正の後づけ自動ブレーキだって作れんじゃねぇのかね



あとさ ブレーキ踏んでいるつもりなのに自動車が動き出したら「とにかくペダルから足を離す」という対処以外にも

○イグニッションを切る *:この対処は危険という話があった

○サイドブレーキを引く

○セレクターをパーキングに入れる (ニュートラルでも効果ある

などの対処も頭に入れておいた方が良いと思う

サイドブレーキとセレクターは運転席以外からでも操作出来るし

出来そうなことは全部やって欲しいわ



恐い予測をすると 運転者がパニックになっている場合 反射的にセレクターをドライブに戻そうとする可能性もあるので

そういう時は問答無用で肘で顔面殴る用意もしといた方が良いかも

いやまじで



スマホアプリで加速度を表示させ 明らかに異常加速を検出したらディスプレイと音で警告するアプリを 公的に作成して無料配布しておくのも良いかも

そのアプリを起動している間は他の機能が使えないようにしておけば スマホ運転防止にもなりそうだし



内閣直轄の交通事故削減委員会的なものを立ち上げて

畑村洋太郎(危険学)とか松尾豊(電子工学)などの知識人や

自動車メーカーの技術研究者や交通事故の研究者を全員集めて

現時点で可能なあらゆる対策の全てをやって欲しい



右折事故だけで年間1万8千も起きているのに有効な対策をしなかった警察にも

無責任の一端はあるぞ

言われたことだけやっときゃ良いってわけじゃないぞ

そういうのを「バカ」っつうんだ



Ende;
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○臭っ!。

2019年05月14日 21時45分29秒 | 日記
家の玄関の扉や 窓の古いアルミサッシの密閉性が悪くて

隙間からゴキカブリ様が侵入してくることがあるので

今年はブラックキャップっての買ったんだけど

開けた途端臭いがキツい

臭いに敏感な人はコンバットの方が良いかも

アース製薬って蚊取り線香も臭いがキビシい

鼻の悪い人が開発しているのかしら



Ende;
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○選択の余地はない。

2019年05月14日 14時58分08秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物は 認知的不協和を解消する形で 事後正当化をしようとする

既に自分が一度信じた事柄に対して 疑いを持つことに対する拒絶反応を示す思考バイアスが ヒトの脳の認知機能には存在するため ヒトは簡単に洗脳されるのである

ヒトは洗脳されていると気分的に安心満足感が得られるため 洗脳というのは簡単で

逆に洗脳を解くことは非常に困難になる

バカというのは難治性が高い



ヘイトスピーチを繰り返す奴に対し 認知行動療法のメソッドを用いて「それは なぜそう思うのですか?」という問いかけをしても

最終的には「だって 悔しいじゃありませんか」などという主観的感想にしか至らないのだが

何せ自分の主観的「感覚」こそが絶対だと思っているパラノイアなので 自分の異常性を自覚することは出来ない

「自分も間違う可能性が充分にある」という自己客観性を失わなければ 特定の他人だけを糾弾懲罰して満足するような短絡安易な方法論には頼らなくなる

同じ「ヒト」という種の生物であれば 同じような間違いに陥る可能性は充分に有り得るという自覚が必要である

だが 自己客観性のない者というのは 自分の主観的「感覚」こそが絶対だと「思って」いるため 実証不能の観念ばかりを信じ込もうとするのである

つまり 主観的な「思い」の強度程度というものは 本質的意識を阻害することはあっても人間としての意識そのものではなく 「動物的なヒトという種の生物としての意識」レベルでしかない

重要なのは ヒトに普遍的に見られる「間違いや欠陥の構造」を知り 自己の思考や行動における同じ間違いに陥らないように教訓知識として理論体系化することである



京大霊長類研究所や養老孟司やマイケル:サンデルの言っていることが嘘であることの論証を根拠に 彼らを糾弾非難するのはトンチンカンな行動である

騙されていた大多数のバカも バカであることに何の違いもないからだ

「目糞 鼻糞」「50歩 100歩」でしかない

私が刑法廃止を主張しているからといって 「死刑制度が気に入らないから 竹下通りをほっつき歩いていた奴を自動車で轢き殺しました」などというのも もうバカ過ぎてどうにもならん

養老孟司は「教えられて知っていることと 気付いたことは 脳の機能として同じだ」と述べたが 自発的に「気付く」ことと 単に他人から教えられて「知っている」ことは 行動結果が同じだとしても 脳の機能自体は全く別のものである

地動説を単に教えられて「知っているだけ」なのと 当時に「地動説に気付く能力」は全く別物なのである

大量の知識を「知っているだけ」では 与えられた情報の中から間違いに「気付く能力」が発揮されるわけではない



論理検証性というものは 自己客観性に基づくものであり 「自己客観性」自体は文字通り自発性 主体性 能動性を意味するものであり

客観的論理検証性がなければ 主観的観念が促す気分感情の強度程度でしか行動選択は働かなくなる それは「ヒト」という動物ではあっても 「人間」性は伴わない

あらゆる「人災」の全ては 「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が原因である

「人災」を引き起こしておいて人間性もヘッタクレもあるわけがないのだが 実際に被害が起きる以前の「小さな事象」を見逃すことも 「人災」に加担しているのと同じである

言っておくが 私は刑法廃止論者である だから観念的な「罪の意識」なんぞどうでもよろしい

間違いを間違いだと論理的に自覚したら 気分的に凹んだり悔やんだりすることよりも これから間違わないようにするにはどうするべきかを「考える」ことである

既に轢き殺された子供達は どんなに悔やんでも戻らない

遺された我々に出来ることは これから起きる危険の可能性をどうやって潰してゆくかを「考える」こと以外に選択肢はどこにも実在しないからだ



Ende;
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○自己客観視のススメ。

2019年05月14日 11時55分04秒 | 意識論関連
目先のご機嫌取りは人間性ではない

大衆の多くは 主観的気分が良くしてくれる相手を好み 信頼しようとする

言葉遣いが丁寧なだけで振り込め詐欺であることを認識出来なくなるのはそのためである

「詐欺師とは こういうものだ」という先入観には論理的根拠が伴わないのだが

地方公務員など「きちんとした人(だと思う観念)」の言葉遣いでありさえすれば 相手を詐欺師だと見抜くことが出来なくなることがある



「洗脳」というものは ヒトという種の生物の先天的行動バイアスを利用し 気分が良くなるよう誘導することで可能となる

だから洗脳されているヒトは その自覚がなく 安心して盲目的に嘘を信頼するようになる

一度気分的 主観的に「安心」して信用した事柄に対して 「既に自分が信用した」ことを事後正当化(認知的不協和を解消)する形で その事柄にとって不都合(論理的に不都合なのではなく 気分的に嫌なだけなのだが)な話に耳を貸さなくなる習性が ヒトにはある

だから洗脳されているヒトは 洗脳されていることを自覚出来なくなるのである

カルト宗教に洗脳されている信者に対し 「お前んとこの教祖はアタマおかしいぞ」と説明されても 一度信頼しちまった教祖を疑うことは 自分の頭の悪さを認識することでもあるため 「そんなこたない」と言い張るようになる

これは 振り込め詐欺師に騙されているヒトにも見られるものであり 騙されている状態のヒトに「これは振り込め詐欺なんじゃないですか?」なんて言おうもんなら 「そんなことはねぇ!」と怒鳴り返されたりすることがよくある

ヒトという種の生物は 先天的に洗脳されるシーケンス(条件反射的習性)が存在しているからである

動物的習性というものは 特定環境下において普遍的に見られる行動を指すものであり 「他人を騙すためのメソッド」さえ踏襲すれば 多くのヒトを騙すことは難しいことではない

ただ 逆に言えば こうした「他人を騙すためのメソッド」的なものの構造原理を理解していれば 「あれ 何だかおかしくね?」と気付くことも出来るようになるのである

そのために必要なのは 構造原理を論理的に理解していることが前提であって 観念的猜疑心では何が本当で何が嘘なのかを区別出来なってしまうことになる

構造原理を論理的に理解していれば応用も出来るが 観念的猜疑心というのは主観的気分でしか区別が出来ず 主観的な「信頼感」の強度程度でしか区別が出来ず 結果的に「より嘘の上手い相手の言うことしか耳に入らなくなる」のである

マイケル:サンデルの講義や 養老孟司やマルクス:ガブリエルの著作を 多数の大衆や「哲学者」が鵜呑みにしてしまうのは こうしたヒトの先天的習性という構造原理を論理的に理解していないからである



認知行動療法のメソッドでは 治療者は「それはなぜそう思うのですか?」という問いかけを繰り返す手法を用いる

その理由は 「患者」自身が自分で考え気付いたような感覚を持たせることによって 「患者」自身の思い込みによる錯覚を 錯覚だと気付かせるよう誘導するからである

そもそも 他人から「それはなぜそう思うのですか?」といちいち問いかけをしなければ自律的には自分の思い込みによる錯覚を自覚出来ないバカな「患者」だから いちいち認知療法のメソッドを用いなければならないのであって

本来なら自分自身で「俺はなぜそう思っているのだろうか?」と自問自答を自発的に繰り返しておけば間違った思い込みによる錯覚も自律的に解消出来るのである

そのために必要なのは「自分の主観的感覚が促す価値観に本当に合理的根拠があると言えるのだろうか?」という客観性である

「自分は既に何かを盲目的に信じ込んではいまいか?」という 自分自身を一回疑ってみる客観性がないと 自律的な論理検証には至らない

日頃からそういう自己客観視に馴れていないと どうしても主観的観念によって促される錯覚によって簡単に嘘を盲目的に信頼してしまうことに陥る



Ende;
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