「学習」というと あたかも全面的に「頭が良くなる」ことだと大衆観念的には「思わ」れているが 実はそうではなくて 鳥類のヒナに見られる刷り込み学習というのは 一度親だと思い込んだ相手を疑わなくなる習性であり 思い込みという錯覚を作り出すものでもある
カルト宗教の信者達は一度教祖だと信じ込んだ相手を絶対だと思い込み 疑うことをしなくなる これもまた「学習」の一種なのである
これは 焦りや恐怖心を煽ることで簡単に「学習」させることが可能であり 振り込め詐欺に騙されている人の多くは自分が騙されていることを疑わなくなるのも同じ構造である
ヒトという種の生物は一度思い込んだ固定観念に対して 論理的根拠がなくても疑うことをしなくなる習性がある
ヒトが歴史上幾度となく実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑(人災)をかけてきたのはこうした感覚が促す錯覚が原因である
錯覚というのは ヒトの脳に先天的に存在する欠陥である
「認知的不協和理論は、社会心理学の用語ではありますが、
臨床心理学の防衛機制における「合理化」と類似する概念とも考えられます。」
臨床心理学では 気分的に満足安心することを「合理化」と形容しているのだが これが根本的に間違っているのである
気分そのものは あくまで個人の主観的感覚に過ぎず どんなに気分的に安心満足しても客観性のある論理的合理性の論証になどならない
言っておくが 臨床は科学ではない 心理臨床医学というのは 飽くまでも社会生活に適応してれば「正常」なのであって 犯罪者であっても「責任能力がある(正常)」と診断するのである
だから犯罪者に対する更生治療は制度上存在しないのである
懲役刑は犯罪者の更生治療としてはほとんど機能しておらず 半数以上は「治って」おらず 糞DQNは糞DQNのまま釈放されてくるのである
裁判員制度というものは 市民感覚を取り入れることが主旨であり 科学的合理性に基づいた犯罪の撲滅が目的ではない
そもそも司法制度というものは法律規定に触れた者を機械手続き的に処分することが目的であって それが社会安全性や持続可能性にとって有害であろうと司法役人達にとっては「知ったことではない」のである
犯罪や過失などの回避可能だったはずの「人災」が生じた場合 最も優先されるべき事項は再発防止である
刑法懲罰というものは 国家権力に対する恐怖心をもちいた観念的抑圧に過ぎず そもそもなぜ自律的な社会的無責任行動を犯罪者が採らないのかについての論理的原因究明には一切関与しない
観念的抑圧には合理性がない
「バレなきゃ良いや」とか「合法なら他人に迷惑をかけても許される」といった無責任さというものは 自律的な社会的責任判断をする本質的な自己や意識が欠けているのが原因である
犯罪者を取り締まる側の司法役人であっても犯罪を犯すものは出てくるのであって管理者を管理する管理者を 更に管理する管理者が必要となり これは堂々巡りであり 合理性が全くないのである
最も理想的な社会の「目的」とは 本来犯罪者自体を生み出さない社会であり そのために必要なのは人間としての自律的な社会的責任判断能力を より多くの市民が持てるようにすることを「目的」にする必要がある
それに対して司法というのは役に立たない あくまで機械手続き的に「法律を恐怖心を利用して強制的に守らせる」だけだからである
「怖いかどうか」だけで行動が決定していて良いのは子供だけである 子供は知識も少なく 知識を利用するだけの論理的目的行動選択能力も充分に育っていないため仕方のない話であり
一人の責任ある社会人として大人になるまでに自律的に社会的責任判断能力をつけさせるためにも 「怖いかどうか」ではなく 主体的に「どうあるべきか」を
考え選択出来るようにしなければならない
ヒトという種の生物が先天的に人間性が常に発揮出来るわけではない以上 人間性というものは後天的につけさせる必要があり そのためにも刑法という国家権力による恐怖心を用いた観念的抑圧は有害性しか発揮しないのである
現状の市民にとって 司法判断というものは あたかも絶対的で唯一の完全無欠の対策だという思い込み(錯覚)により 洗脳状態に陥っているのである
司法というものが実質的には社会にとって有益であることの論理的根拠があるのかどうかを 誰も考えてこなかった
それは 社会的には非常に無責任なのだが ヒトという種の生物というのは無責任が多数派なら責任が薄まるという感覚(錯覚)によって 問題の根源(真理)が見えなくなっているのである
◇
犯罪者にはなぜ自律的な社会的責任判断能力がないのかと言えば そもそも生育環境において自発性や主体性を発揮させてもらえなかったからである
自分が主体的に好きで自発的に行うことを許されずに育つと 自分で物事を判断する能力が育たなくなってしまう
すると 判断基準が全て他人という環境依存になってしまい 行動選択の全てが「怖いかどうか」だけでしかしなくなってしまうのである
自発的で主体的行動選択をしていれば ヒトというのは大脳容積によって自然と自己客観性や それに伴う論理検証性も発揮出来る可能性があるのだが
生育環境下において恐怖による抑圧ばかりを受けて育つことにより 本来ヒトが持っているはずの人間性をも抑圧してしまうことになるのである
「虐待の連鎖」という現象があるが 虐待の程度の差こそあれ こうした現象というのはスペクトラムであり
あからさまに「熱湯をぶっかけた」だとか「裸で浴室に長時間放置した」などといった極端なものでなくとも 子供の主体性を蔑ろにするような行為も広義の意味では軽度の虐待になり 人間性の欠落の原因となる
親が子供に学力競争を強要するのは ある種の強迫観念が原因であり 「それさえやっときゃ 全ては解決する」という盲目的観念に基づいた条件反射的行動である
子供にはそれぞれ個性があり 多数の子供が普通に出来ることが特定の子供には全く出来ない場合があるのだが そうした個人の個性を無視して とにかく「学力さえ高ければ良い」という非合理な実証不能の観念によって 不得手なことであろうと強制してしまうことになるのである
これが「無意識」というものである
本当に子供の将来のことを考えた場合 その子供が得意で 他の子供には出来ないような特徴があれば それを見極め 伸ばしてあげた方が過当競争にならずに済むのだが
ヒトというのはどうしても他人と同じことばかりで競争をしようとする習性があるため コンビニが流行ればコンビニばっかりが増えて過当競争になって 逆に苦しむ事態に陥るように 合理性のない無駄な競争に疑問を持たなくなるのである
先天的に文字を読むことが苦手な子供というのもいて 酷い場合には全く文字として認識出来ないこともあるという
にも関わらず 多数派と同じことが出来ないことに恐怖心を抱き 無駄な努力ばかりを強要し 結果的に本来持っているはずの得意なことを阻害し さらには自律的な社会的責任判断能力までをも失わさせてしまうのである
それでも多くの親達は それを無責任だとは「思って」はいない それは自分の「感覚」を絶対的なものだと錯覚しているからである
◇
「一体 何を信じれば良いのかわからない」と言い出す者は多い
これは そもそも「信じる他人」を選んでいるだけであって 自律的判断選択能力が欠如している証拠でもある
何が正しいのかは 最終的には自分自身で論理客観的に検証することであって 「誰を信じたい」のかという主観的好き嫌いでは到底主体的判断とは言えないのである
Ende;"
カルト宗教の信者達は一度教祖だと信じ込んだ相手を絶対だと思い込み 疑うことをしなくなる これもまた「学習」の一種なのである
これは 焦りや恐怖心を煽ることで簡単に「学習」させることが可能であり 振り込め詐欺に騙されている人の多くは自分が騙されていることを疑わなくなるのも同じ構造である
ヒトという種の生物は一度思い込んだ固定観念に対して 論理的根拠がなくても疑うことをしなくなる習性がある
ヒトが歴史上幾度となく実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑(人災)をかけてきたのはこうした感覚が促す錯覚が原因である
錯覚というのは ヒトの脳に先天的に存在する欠陥である
「認知的不協和理論は、社会心理学の用語ではありますが、
臨床心理学の防衛機制における「合理化」と類似する概念とも考えられます。」
臨床心理学では 気分的に満足安心することを「合理化」と形容しているのだが これが根本的に間違っているのである
気分そのものは あくまで個人の主観的感覚に過ぎず どんなに気分的に安心満足しても客観性のある論理的合理性の論証になどならない
言っておくが 臨床は科学ではない 心理臨床医学というのは 飽くまでも社会生活に適応してれば「正常」なのであって 犯罪者であっても「責任能力がある(正常)」と診断するのである
だから犯罪者に対する更生治療は制度上存在しないのである
懲役刑は犯罪者の更生治療としてはほとんど機能しておらず 半数以上は「治って」おらず 糞DQNは糞DQNのまま釈放されてくるのである
裁判員制度というものは 市民感覚を取り入れることが主旨であり 科学的合理性に基づいた犯罪の撲滅が目的ではない
そもそも司法制度というものは法律規定に触れた者を機械手続き的に処分することが目的であって それが社会安全性や持続可能性にとって有害であろうと司法役人達にとっては「知ったことではない」のである
犯罪や過失などの回避可能だったはずの「人災」が生じた場合 最も優先されるべき事項は再発防止である
刑法懲罰というものは 国家権力に対する恐怖心をもちいた観念的抑圧に過ぎず そもそもなぜ自律的な社会的無責任行動を犯罪者が採らないのかについての論理的原因究明には一切関与しない
観念的抑圧には合理性がない
「バレなきゃ良いや」とか「合法なら他人に迷惑をかけても許される」といった無責任さというものは 自律的な社会的責任判断をする本質的な自己や意識が欠けているのが原因である
犯罪者を取り締まる側の司法役人であっても犯罪を犯すものは出てくるのであって管理者を管理する管理者を 更に管理する管理者が必要となり これは堂々巡りであり 合理性が全くないのである
最も理想的な社会の「目的」とは 本来犯罪者自体を生み出さない社会であり そのために必要なのは人間としての自律的な社会的責任判断能力を より多くの市民が持てるようにすることを「目的」にする必要がある
それに対して司法というのは役に立たない あくまで機械手続き的に「法律を恐怖心を利用して強制的に守らせる」だけだからである
「怖いかどうか」だけで行動が決定していて良いのは子供だけである 子供は知識も少なく 知識を利用するだけの論理的目的行動選択能力も充分に育っていないため仕方のない話であり
一人の責任ある社会人として大人になるまでに自律的に社会的責任判断能力をつけさせるためにも 「怖いかどうか」ではなく 主体的に「どうあるべきか」を
考え選択出来るようにしなければならない
ヒトという種の生物が先天的に人間性が常に発揮出来るわけではない以上 人間性というものは後天的につけさせる必要があり そのためにも刑法という国家権力による恐怖心を用いた観念的抑圧は有害性しか発揮しないのである
現状の市民にとって 司法判断というものは あたかも絶対的で唯一の完全無欠の対策だという思い込み(錯覚)により 洗脳状態に陥っているのである
司法というものが実質的には社会にとって有益であることの論理的根拠があるのかどうかを 誰も考えてこなかった
それは 社会的には非常に無責任なのだが ヒトという種の生物というのは無責任が多数派なら責任が薄まるという感覚(錯覚)によって 問題の根源(真理)が見えなくなっているのである
◇
犯罪者にはなぜ自律的な社会的責任判断能力がないのかと言えば そもそも生育環境において自発性や主体性を発揮させてもらえなかったからである
自分が主体的に好きで自発的に行うことを許されずに育つと 自分で物事を判断する能力が育たなくなってしまう
すると 判断基準が全て他人という環境依存になってしまい 行動選択の全てが「怖いかどうか」だけでしかしなくなってしまうのである
自発的で主体的行動選択をしていれば ヒトというのは大脳容積によって自然と自己客観性や それに伴う論理検証性も発揮出来る可能性があるのだが
生育環境下において恐怖による抑圧ばかりを受けて育つことにより 本来ヒトが持っているはずの人間性をも抑圧してしまうことになるのである
「虐待の連鎖」という現象があるが 虐待の程度の差こそあれ こうした現象というのはスペクトラムであり
あからさまに「熱湯をぶっかけた」だとか「裸で浴室に長時間放置した」などといった極端なものでなくとも 子供の主体性を蔑ろにするような行為も広義の意味では軽度の虐待になり 人間性の欠落の原因となる
親が子供に学力競争を強要するのは ある種の強迫観念が原因であり 「それさえやっときゃ 全ては解決する」という盲目的観念に基づいた条件反射的行動である
子供にはそれぞれ個性があり 多数の子供が普通に出来ることが特定の子供には全く出来ない場合があるのだが そうした個人の個性を無視して とにかく「学力さえ高ければ良い」という非合理な実証不能の観念によって 不得手なことであろうと強制してしまうことになるのである
これが「無意識」というものである
本当に子供の将来のことを考えた場合 その子供が得意で 他の子供には出来ないような特徴があれば それを見極め 伸ばしてあげた方が過当競争にならずに済むのだが
ヒトというのはどうしても他人と同じことばかりで競争をしようとする習性があるため コンビニが流行ればコンビニばっかりが増えて過当競争になって 逆に苦しむ事態に陥るように 合理性のない無駄な競争に疑問を持たなくなるのである
先天的に文字を読むことが苦手な子供というのもいて 酷い場合には全く文字として認識出来ないこともあるという
にも関わらず 多数派と同じことが出来ないことに恐怖心を抱き 無駄な努力ばかりを強要し 結果的に本来持っているはずの得意なことを阻害し さらには自律的な社会的責任判断能力までをも失わさせてしまうのである
それでも多くの親達は それを無責任だとは「思って」はいない それは自分の「感覚」を絶対的なものだと錯覚しているからである
◇
「一体 何を信じれば良いのかわからない」と言い出す者は多い
これは そもそも「信じる他人」を選んでいるだけであって 自律的判断選択能力が欠如している証拠でもある
何が正しいのかは 最終的には自分自身で論理客観的に検証することであって 「誰を信じたい」のかという主観的好き嫌いでは到底主体的判断とは言えないのである
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