書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

スカートの中

2019年05月26日 13時03分48秒 | 意識論関連
「感覚」というものを短絡的に「意識」だという前提自体が間違いなのです

感覚だけならヒトでなくても動物でさえあれば大抵あるはずです

感覚とは「好きか嫌いか」「怖いか安心か」という区別に過ぎず 扁桃核という大脳辺縁系に組み込まれた動物的行動バイアスを作り出しているに過ぎません

それは動物としての意識とは言えるかも知れませんが 人間としての意識とは言えません

動物的に単なる個人の主観的な好き嫌いや快楽だけを追求していたら それは到底人間としては行動出来ないからです

女子中学生誘拐監禁犯の寺内樺風や 連続幼女殺人犯の宮崎勤は 自分が主観的に快楽を感じることを短絡的に「正しいこと」だと主張しています

一般的な大多数の「普通の人」の感覚からすると 身勝手で訳がわからない判断基準ですが 寺内樺風や宮崎勤当人の脳にはこうした短絡的判断基準しか働いていないので異常であることの自覚すらないらしいのです

自己客観性が働かない原因は 本質的な主体性が存在していないからであり 快楽の全ては受動的に環境から与えられるものであると「脳が学習」してしまっているためです

「学習」というものが必ずしも「頭が良くなる」わけではないことは 既に説明したので割愛しますが 自己客観性が働いていれば主観的に何かを感じたからといって短絡的に行動に直結することはありません

こうした自己抑制というのは 目先の主観的感覚が促す行動バイアスだけに囚われずに 自己が感じるあらゆる感覚から統合的判断選択をする理性によって働くようになるのであって これは先天的性質や生育環境によって左右されるのです

近所の子供が時折いなくなったり 死体で発見されたりしていたら主観的にも嫌な気分に陥り食べ物の味がわからなくなったりするのも主観的感覚ではありますが 寺内樺風や宮崎勤にとっては目先の主観的感覚の強度程度以外には行動選択の基準が存在しないのです

宮崎勤による連続幼女殺人事件が起きていた当時 「同じ感覚がある」という悩みを持っている人の匿名の告白が時折見られました

感覚だけなら宮崎勤と同じように 「幼い少女を犯してみたい」という感覚があってもおかしくはありません その感覚自体は意識の本質ではないからです

異常な連続殺人犯と同じ感覚を持ってしまっていることに 罪悪感を感じ それを悩んでいる状態というのは いわば「感覚の大渋滞」に意識を奪われている状態だと言えます

罪悪感自体が感覚であって それを悩んでも何の解決にもなりません そもそも「悩み」自体が「考え」ではないので どんなに「悩ん」でも何の解決にも辿り着くことはないからです

ミニスカートの若い女子が 膝を曲げずに前かがみに落としたものを拾おうとしていれば 男であれば大抵の場合はウッカリ無意識に覗き込もうとしてしまうことがあります

このとき 「ああ イカンイカン 色即是空空即是色」と別のことを考えるようにして行動抑制をするのは 「自分の身内がスカートの中を他人に覗かれることを考えれば 自分も他人のスカートの中を覗き込んではいけない」という理性が働くためです

「自分の身内がスカートの中を覗かれる」ことを嫌うのも 結局は感覚であり主観なんですが 重要なのは自分の中の様々な主観的感覚全体を統合的に見渡す自己客観性を発揮するのは理性なんですね

主観的感覚の強度程度で行動が決定していれば ヒトという種の生物であっても人間性は働かなくなります

卑劣で凶悪な犯罪者の話を聞くと 多くの大衆は「死刑にしちまえ」と怒鳴り散らして共鳴し それで全てが解決するという感覚に陥りますが それでは「なぜ卑劣で凶悪な犯罪を犯すようになったのか」についての原因究明や それに伴う再発防止に有効な知見が全く得られなくなってしまうことになり 似たような犯罪の再発防止にとって より実効性の高い対策が全く採られないことになるのです

宮崎勤の場合は連続殺人だったため死刑になりましたが 寺内樺風の場合は懲役9年で出所してきます

言っておきますが 懲役刑の再犯率は50%近くあり 更生治療の効果は非常に薄いことを認識しておく必要があります

特に幼女性愛犯罪というのは再犯率が高く 寺内樺風が「治っている」保証は何もないのです

「一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている」 これはハインリッヒの法則と呼ばれるもので 危険学や失敗学では常識的な考え方で 再発防止において重要視される概念です

寺内樺風や宮崎勤のような異常者というのは その陰に無数の異常者予備軍が存在していると考えるべきであり これを考慮に入れれば寺内樺風や宮崎勤の異常性の原因は徹底的に調べ 教育段階から予防的治療をしておける可能性も拡がるのです

しかし 刑法懲罰というのは こうした取り組みにおいて阻害要因にしかなりません

危険学や失敗学の調査検証において 刑罰を一時停止させるのはそのためです



こうした徹底的な論理検証というものは 「感覚」的には「嫌」かも知れませんし 再発防止にとって より合理的で実効性のある対策にならなくても何の罪悪感も「感じ」ないかも知れませんが それが原因で似たような事件が再び起こることを予防できなかったとしたら それは未必の故意と言っても過言ではありません

再発予防可能性を高めるための論理検証よりも 格式伝統のある形式機械手続き的に懲罰を与えておいた方が気分的には楽で満足で安心な「感覚」が多くのヒトでは得られるのかも知れませんが

それによって回避可能性が狭められるという無責任さは誰も「感じ」ることはないかもしれません

それは 歩道に自動車が突っ込んでくるのを防ぐことの出来ない車止めを設置している警察の無責任さと 一体何が違うのでしょうか

自分の「感覚」を疑う客観的な論理検証性が働かなければ 合理性のある より実効性の高い対策によって社会安全性をより高めることは出来ません

「それでも構わない」という無責任な発想に人間性が伴うのかを「考え」れば 悩む必要性もなく 選択の余地など最初から存在していないのです

現状の司法制度上では 実際に犯罪が行われてからの対応しか制度上存在していません

どんなに真面目に生活していても 金銭的に破綻すれば財産を安く売り捌かれ破綻に追い込まれます それが社会全体にとって非効率だろうが何だろうが 司法にとってはどうでも良いことだからです

銀行も目先の利益ばかりを優先し 顧客の破綻リスクを無視し より多くの貸付をしたがりますが 結果的に貸付た顧客を破綻させてしまえば不良債権になり損になるという大局的視点や意識の拡さに欠けた社会的に無責任なことであることを 銀行員の誰も認識してはいないのです

「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」ことによって起きる「人災」というのは 何も原発に限った話ではないのです



Ende;
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