書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○ヒトの遺伝的進化に目的はないけど人間には目的がある。

2019年05月11日 19時44分11秒 | 意識論関連
アオリ運転って程ではなかったんだけど やたらと急加速で他の車を抜くことに必死になってる奴がいて

先の交差点信号が赤なのにも関わらず 異常なまでに前に詰めることに異常執着しているバカがおったので

「コイツ何でこんなに急いでるんだろう?」って思って そん時は暇で自転車だったので後をつけてやったら

コンビニに入って漫画読んでたのだ



まあ ありていに言ってバカなんだけど

何か急いでいるフリをしていないと不安になるような精神病なんじゃなかろうか

そういう奴って時折いる

こういう一部の病人の観念に煽られることで 他の人まで「焦らされ」てしまうことで 右折事故みたいのを誘発する要因になってんじゃなかろうかと

オイラは懸念しておる



「焦り」というのは論理思考を停止させてしまう性質があって 振り込め詐欺に騙されているヒトも「焦り」を煽られることで 冷静に考えればわかるような嘘にも簡単に騙されてしまう

「焦り」というのは感情の一つで 「怖い」とか「安心」とか「不満」とか「好き嫌い」といった主観的感覚なので 時に客観的事実と異なる錯覚の原因となる

冷静に考えれば安全性を優先してゆっくり走ることの方が社会的に考えて合理的なんだけど 利己的利益の観点からは「時は金なり」とばかりに乱暴な運転をしてコンビニで漫画読んでいることの方が「合理的」だと勝手に錯覚しているフシがある

これは 利己的利益追求というものを短絡的に「合理性」だと勘違いしている妄想錯覚の一種であり

こうした錯覚に対して 大多数の哲学者も経済学者も疑問を持ってこなかった



「安全第一」っていうのは 工場などの生産現場では常識なんだけど

どういうわけか日常生活においては優先順位が低く見積もられる傾向がある

(電気通信大学ではない方の)広告代理店の電通における「鬼十則」みたいのも 従業員の健康を後回しにして会社の利益を優先するというバカみたいな社畜観念を誰も疑わなかった



何か「金持っている方や 賃金を支払っている方が偉い」的な盲目的観念みたいのがあって

従業員であれば会社から任された仕事以外をやったら「背任」になるからといって 原発の津波に対する脆弱性放置までをも正当化出来ると錯覚してしまう性質がある



「天は人の上に人を作らず」とかって 諭吉っちゃんだっけか?

本来人は順位序列なんぞありゃしないし 各自の能力の違いがあることを前提として社会全体を構築すべきなんだけど 大衆の多くは遺伝的進化のメカニズムにおける淘汰圧力さえかけておけば 自動的(自然)に何でもかんでも進歩や進化をするはずだとでも思っているフシがある

だから競争「したがる」んだけど 「したい」ってのは先天性の欲望であって そこには人間としての目的関数みたいなものは存在しないのよね

順位序列への執着心というのは 先天的な社会形成習性が促す統率行動バイアスであって それは遺伝的進化とは関係がないんだけど 脳が昭和だと過酷な競争に勝ち続ければ自動的(自然)に民族として優秀に進化するかのような妄想観念が働いているもんだから インパール作戦みたいな無謀な行為にも誰も疑問を持たずに迎合してしまう

何せ兵隊だから逆らわないよう訓練によって行動「学習」的に盲目的服従性を発揮することになる



もしかすると 国家権力が決定した刑法懲罰司法制度にさえ服従しておけば自動的(自然)に社会安全性が担保されるはずだという 論理的根拠のない錯覚が刑法懲罰司法制度に疑問を持たなくなる原因なんじゃなかろうか

右折事故で被害が甚大だったからといって 罰を重くしても右折事故に対する再発防止策には有効性が薄過ぎるんだけど

みんな 何か勘違いしてないか?

年間1万7800件もの右折事故が発生している段階で 有効な対策をしてこなかったから 甚大な被害にまで発展したんであって 論理的に有効な対策が全く進まないのは現在の司法刑罰制度の構造的問題なのに

その集団勘違いというか 集団洗脳みたいなもんのために安全性が後回しにされているんだとしたら それは「バカ」としか言いようがないんじゃないのかね



自分達の頭の悪さを認めたくないからといって「バカのままで良い」って無責任になげやりなことを言うのは簡単だけど

それによって本来回避可能性があったはずの対策がされないことが原因で 身内に「人災」被害が及んでから嘆いても遅いんだよ



Ende;
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○だってヒトだもの。

2019年05月11日 15時15分21秒 | 意識論関連
以前にアオリ運転というのを受けたことがあったのを思い出した

細い曲がりくねった一方通行の路地で 制限速度が20キロだったので ゆっくり注意しながら運転していたら

後ろから やたらとエンジンを吹かしながら車間距離を詰めてくるワゴン車が来た

まあ オイラは軽いアスペルガーなので そういうのはあんま気にしないので 「うるさいなぁ」と思いながら 逆にわざとノロノロ運転をしてやっていたのだが

信号機のある交差点にさしかかったところで こちらが青信号なのにも関わらず 小さな子供が自転車でフラフラ飛び出して来たので急ブレーキをかけたら

後ろのアオリ野郎は車間距離を詰めてたもんだから追突寸前になっていた

窓を開けて 後ろを睨んでやったら アオリ烏賊野郎は所在なさげに目を逸らしていた

 ◇

普通一般的なヒトの多くは 後方から煽られると 焦ってしまうことが多く

まるで 安全を優先してゆっくり走ることが悪いことであるかのような錯覚に陥ってしまうことがある らしい

滋賀県での右折事故でも 右折を焦るあまり対向車への注意が疎(おろそ)かになってしまったのではかなろうか



高圧的な態度というのは あまり道を歩いていて受けることはないのだが どういうわけか自動車の運転中とか エスカレーターでは 「邪魔だ退け」とばかりに急いでいることがあたかも偉いかのような態度を採る奴が出てくる



高圧的な態度を採る相手に対し ヒトは「関わりたくない」という感情が働くんだか とりあえずは高圧的な奴に逆らわずに優先したり 同調しておいたりする傾向がある

ところが 常日頃から高圧的な相手に同調し続けていると あたかもそれこそが「正しい」とか「正常」とか「常識」であるかのような感覚を植え付けられてしまうらしい

オラは軽いアスペルガーなので 「ナンダコイツ」としか思わないのだが アスペルガー傾向のない大多数の「普通のヒト」は 多数派同調こそが「正常」であるという感覚が促す錯覚を 錯覚だとすら認識できなくなるらしい

これが つまり「脳の過剰整理」状態である

「みんなが そうしている」ことは 短絡的に「正しいこと」だという認識区別の仕方を 何ら自発的には論理検証することなく鵜呑みにしてしまう

こうしたAIの機械「学習」的な区別というのは MicrosoftのTwitterAIみたいに「ヘイトスピーチに同調」することもある危険性がある

脳が整理されやすい「普通のヒト」というのは 自分のしている判断に論理的根拠が伴っているのかどうかを検証する余裕がないんだか 何だか

それとも強迫観念的に多数派同調をしていないと不安で仕方ないんだか

オラようわからんのだが 高圧的な態度を採る奴に同調してしまう傾向というのが「普通のヒト」では顕著に見られる

ような気がする

イジメに対する同調や傍観放置というのも 気分的に「逆らうと面倒臭い」という主観的感覚によって歯止めがかからなくなるんであって

客観的に論理検証すれば 「そんなのおかしいだろ」って理屈では解っていても 感覚的に嫌なことは「普通のヒト」には出来ないらしい

まあ 主観的に嫌なことは 「そんなにしなくて良い」って益川敏英さんも言ってたけどな

あいだみつを的に「まちがったって いいじゃないか にんげんだもの」なんつう話に人気が出たりするのは 間違えたことを事後正当化することによって認知的不協和を解消する形で 気分的 主観的に安心満足することができるからであって

でも本当は「ヒトである以上 間違えることは避けられない」とは言えるものの 「間違える権利がある」とか「間違ったって良い」わけじゃないんだよね

間違えること自体は仕方ないことなんだけど 間違えていることを「ええじゃないか」的にはぐらかして 「なかったこと」にしてしまい 結局同じような間違いに対しての具体的再発防止への取り組みをしないという頭の悪さこそが ヒトの本当の間違い(先天的欠陥)なんだよね

でも 先天的欠陥なんだから誰のせいにも出来ないので それは自分でナントカせんとアカン訳よ

ナントカしてこその「人間」性だもの



「人間は 即自存在でないが故に 即自存在化を求むる(ジャン:ポール:サルトル)」んだけれども

ヒトという種の生物なだけでは「人間」としての行動を採れるわけじゃないのよね

ヒトという種の生物は ただそれだけでは人間ではないのよ



「まちがえることは しかたない だってヒトだもの」なら とりあえず間違ってはいないんだけどね



Ende;
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○A級戦犯。

2019年05月11日 11時45分30秒 | 意識論関連
養老孟司の著作の中には以下の件(くだ)りがある

そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられないじゃありませんか

30年間安月給で好きでもない解剖学の教師を勤めたことを事後正当化するため 認知的不協和を解消する形でこう述べているのである

一体何を「やってられない」と述べているのかと言えば 要は主観的気分の問題に過ぎない

養老が述べているのは主観的気分こそが絶対的な基準で 論理客観的な視点は全く考慮に入れていない



ヒトは 好きでもないことを他人から強要されていると 主体的に物事を客観視する意欲を喪失する

何でもかんでも「他人からの評価」という主体性のない動機だけでしか判断をしなくなるのである

すると 客観的論理検証性を喪失し 個人の主観的「感覚」だけが絶対的な価値観になってしまうようになる

当然自律的な社会的責任判断選択能力も喪失する

これは あらゆる犯罪者全般に見られる無責任さの構造であり

また こうした無責任さというのは既に犯罪を犯した者だけに見られるものではなく あらゆる一般人の中に潜む無責任さにも見られるものである

重大犯罪という結果だけに注目して人間性云々を語るのは そこに至るまでの構造に潜む小さな事象である「ヒヤリ、ハッと」を見逃しているのである



自己の無責任さを意識(無意識な感覚)から「なかったこと」にするのに 最も簡単な方法は 大きな被害を出した加害者を糾弾することである

過失事故における加害者を よってたかって悪者扱いして糾弾しておけば 自己の無責任さを過小評価することが出来る「感覚(錯覚)」があるからだ

過失 すなはち「間違い」というものは ヒトでありさえすれば不可避なものである

「絶対に間違えないヒト」など存在しないのである

「間違える権利」は存在しないかも知れないが 人間性においては「間違いを繰り返さないようにする義務」はあるのだ

それが気分的に「不条理だ」と感じたとしても それは誰のせいでもない

自然災害で被害に遭ったからといって 「不条理だ」とどんなに思っても意味がないのと同じで

ヒトという自然の産物が持つ先天的欠陥を補うことは 人間としての逃れざる義務なのである

その義務を果たそうともしないということは 「私は人間ではない」と主張しているのと同義である

ヒトという種の生物でありさえすれば 自動的(自然)に人間性が発揮されるメカニズム構造は存在しないのである

にも関わらず 京大霊長類研究所は「あるはずだ」などという大嘘を主張し続けているのである

これを「A級戦犯」以外に何と形容すればよろしかろ



Ende;
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