書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

答えについて

2019年05月24日 23時43分25秒 | 意識論関連
「答えはない」ことの論理的根拠は何でしょうか

「答えは要らない」「答えは出さなくて良い」と なぜ言えるのでしょうか

バカな「哲学者」はこう答えるでしょう 「哲学とはそういうものだ」と

なぜそう言えるのでしょうか

論理的根拠はあるのでしょうか

それは一体誰が決めたんでしょうか

「答えはない」と断言するからには そこには論理的根拠に基づいた証明が必要です

「答えはない」ことの論理証明があるのであれば それは一つの「答え(真理)」ということになるのです



物事を考えたからといって 答えに辿りつけるかどうかはわかりませんが

疑問を持たなければ「論理的根拠のない身勝手な答え(実証不能の観念)」を鵜呑みにしてしまうことになるのです

それは妖怪悪霊の類いを信じているのと同じことであり 到底哲学とは言えません



「闇もこちらを見ている」とゾロアスター教の預言者は言いました

ヒトの恐怖心を煽ることで 他人の論理検証性を阻害させることは詐欺師の常套手段です

ヒトの多くは恐怖心を煽られると 感情の方が優先されてしまい 自発的に論理検証する冷静さ(理性)を簡単に喪失する先天的習性があるからです

ナチスが600万人ものユダヤ人を殺害したのも 民族存続が脅かされるかもしれないという恐怖心を煽られたからです



暴力的であることを 大衆観念上では「胆力のある屈強な人物」だと思われていますが

実際の暴力者というのは 恐怖心が激しく 物凄い「ビビリ」なのです

ヤクザや糞DQNが暴力に依存するのは 本人が暴力的な相手に逆らえないことから 暴力的でさえあれば全てが解決するという観念にとらわれているからです

熊は凶暴ですが 実は非常に臆病な動物で

やたらと凶暴な犬も 実は服従対象を見失うことで生ずる不安が原因です

ヤクザがにわかに宗教に目覚め キリスト教の牧師や神父になるということが時折ありますが これは一面的には「服従対象に人間性を求めた」という点においてはヤクザよりはマシではありますが

服従欲という先天的習性に突き動かされているという点においては何も変わってはいないのです



実存主義は絶望や不条理というヒトの闇の奥深くを丹念に検証することでもあります

ゾロアスター教の預言者にそそのかされて闇を見ないことにしておけば 絶望も不条理も「感じ」ずに済むので 気分的に安心満足感が得られるでしょう

それこそが哲学からの逸脱なのです

「闇」とは所詮感覚です 「恐怖」という感覚に惑わされて論理客観性を喪失し 実証不能の観念に陥らないように 哲学というものがあるのです

でも 現状の大学では700万円もの奨学金(借金)を学生に背負わせておいて 到底哲学とは言えないニーチェやハイデガーを倫理だと教えているのです

バカな学生なら単位成績だけが目的でしょうから 教えられたことが嘘であろうと就職などの生活の安定にさえ役立ちそうなら 何の疑いも持たずに鵜呑みにすることでしょう

そうやって学力成績の高いバカを大量生産している商売が 現状の教育機関の実相なのです



Ende;
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迷言

2019年05月24日 14時25分11秒 | 意識論関連
答えに辿りつけるかどうかはわからなくても 「本当にそれで良いのかな?」っていう疑問は常に持ち続けなければならない

「名言」などと称して その場限りに何か真理を知覚したかのような錯覚に陥って満足することで 哲学からの逸脱が始まるのである

原田まりるが どんなにフリードリヒ:ニーチェを読んで「カッコいい」だの「センター性がある」だの述べたところで これらは全て原田の個人的感想であり 主観的観念でしかなく

論理客観的な根拠に基づいた真理とは無関係であり 哲学ではない

亀山郁夫がフョードル:ミハイロヴィチ:ドストエフスキーを読んで 脂汗をタラタラ流しながら興奮して主観的感想をいくら述べても 社会的には糞の役にも立たないのと同じことである



ヒトという種の生物は どうしても論理客観的論証よりも その場限りに気分が良くなる話を信じ込んでしまうという先天的習性(欠陥)があり 糞の役にも立たない「名言」の類いで脳が酔いしれ 虜になり それを論理客観的根拠のある真理だと錯覚する傾向が激しい

マイケル:サンデルは やたらとトロッコ問題を取り上げたがるが トロッコ問題というのはそもそも答えが出せないよう制限拘束をされた問題であって どんなにトロッコ問題を「考えた」つもりになっても それは「出口のない迷路の中を堂々巡りしている」だけに過ぎないのである

厄介なのは こうした無意味な思考であっても 頭を使って何かを考えたような錯覚に陥り そもそも出口がないことには誰も気づかなくなるという頭の悪さを認識出来なくなることが問題なのである

トロッコ問題というのは 問題自体が制限だらけで その答えが限られている だからサンデルの想定した範囲内での答えしか出てくることはない

出口の存在しない迷路の中を歩かされて 出口が存在しない制限だらけの問題だということには バカ学生の誰も気づくことはない

これは思考実験にすらなっていないのである

哲学というのは そもそもあらゆる制限を取っ払って土台を初めから疑うことから始めることを指すのであって サンデルの講義は最初から哲学から逸脱しているのである

建築を建てる時には基礎の地盤から調査して建てるように 根本的な部分からしっかり厳密に確認することが重要である

自動車事故で子供がすり潰されないようにするためには 糞の役にも立たないトロッコ問題で脳がバカになっていてはダメなのである

「名言」などという表面的な装飾だけで満足していれば 社会的応用性もなく 必然的に安全性も置き去りにされるのである

そういうのをバカという



Ende;
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答えについて

2019年05月24日 10時31分59秒 | 意識論関連
哲学というものは 必ずしも答えに辿り着けなくても構わない

必要なのは「考える」ことであって 「考える」ことを止めてしまうことが危険なのである

ところが ヒトという種の生物というのは 論理的に「考える」ことが面倒で嫌いなため 何かにつけて論理思考を放棄するための屁理屈を鵜呑みにし 主観的感覚こそが正しいことにすることで 簡単に思考停止に陥る先天的欠陥がある

論理的に考えるためには客観性が不可欠であり 客観性がなければ主観的感覚が促す錯覚を認識出来ずに間違った認識を信じ込んでしまうことになるのである

「答えに辿り着けなくても構わない」のだが これを曲解して「考えなくても良い」と勘違いしている東大名誉教授達も非常に多い

哲学というのは「考える」ことであって 「考える」ことというのは論理的に「考える」ことであって 「考えなくても良い」というのは論理的根拠のない身勝手な観念である

哲学の「目的」 つまり「答え」とは真理である

論理客観的真理を目的としている以上 論理客観性に基づいた「考え」以外は哲学ではない

だが 現状の哲学界というのは論理客観性を無視した意味不明の主観的観念の陳列ばかりであり これは哲学ではなく哲学を逸脱したオカルト宗教か何かにしかなっていない



先日のNHKの番組では 「倫理に答えはありません」と断言していたが

「答えがない」という「答え」を出してどうする バカか

どうもマスコミっていうのは文科系大衆観念に自惚れる傾向が強く 論理検証性が抜け落ちた発言が多すぎる

「答え」すなはち「目的」というのは 現状認識可能な知識を基礎にして割り出すものであり 知識自体が拡大したり 或いは改定されたりした場合には「目的」にも
影響を及ぼすものであって あくまで暫定的な「答え」であるということは忘れてはいけないのである

決して絶対永久普遍の静止した「答え」など 有限の脳と知識しか持たないヒトが持てるわけがないことを 自覚する必要がある

こうした自覚がないから優生学などという非科学的オカルト観念を科学だと勘違いすることに陥るのである

フリードリヒ:ニーチェによる超人幻想を 多くのヒトは絶対的解答だと勘違いするのは それが気分(感覚)的に満足出来るからであり こうした感覚が及ぼす錯覚を錯覚として認識出来なくなる原因というのは ヒトの脳が持つ先天的欠陥に起因するのである

人間性としての倫理における安全性と それに付随する持続可能性というのも あくまで現状の知識に基づいた目的であるが 逆に言えばそれを目的だと認識出来ない原因というのは非論理的な観念に基づく身勝手な「答え」によって思考停止に陥っているからである

カントの「純粋理性批判」を読んで 何かを論理的に理解したような錯覚に陥ることで ヒトの多くは論理的思考が放棄できる免罪符になるという勘違い錯覚を得ることで この主観的感覚が促す先天的快楽こそが論理思考を阻害するのである

保守主義者達が信じ込んでいた「理性を超越した叡智」などという話も 論理思考を放棄するのに「都合」が良いからである

心理臨床では こうした身勝手なご都合主義を「合理化」と形容しているが 実際には論理的合理性など存在せず 全然合理的などではないのである

認知的不協和を解消する形で気分が良くなる話の方を信じこもうとするのは 自分という存在が何らかの絶対的保証の上に存在しているという傲慢さによる過信が素にあり

こうした傲慢さは棄てなくてはならない これは「人間」としての義務でもある



Ende;
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