交差点での右折事故は年間1万8712件あり うち死亡事故は130件だという
なるほど航空機事故の方がリスクが低いって話ではあるのだが 車輌事故の方が圧倒的に多すぎる
警察は「充分に注意して」などと言っているが 具体性のある合理的再発防止策には全くなっておらず 単なる「頑張れ」的な精神論にしかなっていない
そもそも交通過失事故というのは悪意がない場合がほとんどであり これに刑罰だけで「解決」だとみなす制度そのものに合理性がまるで無いのである
しかし 司法警察というのは罰を目的とした制度である以上 構造的に合理性のある再発防止策を立てるための手続きすら存在しないのである
本当に事故を減らし 被害者を減らすために最も優先されるべきなのは 論理的検証による原因究明と それに伴う再発防止策であるのだが
現状の司法制度上では「悪者探し」に終始し 裁判官の気分で刑が確定 これを「解決」だとみなして それ以上の具体性のある対策にはほとんど手をつけていない
こうした無責任な手抜き制度を「解決」だと思っているのは 国家権力を絶対だと思う感覚が促す「錯覚」によるものである
司法裁判所は 実質的に社会安全性にとって意味のない懲罰を決定しているだけであって 具体性のある再発防止策にならなくても管轄外であり「どうでも良い」のである
犯罪者の中には 死刑が確定していながらも自分の主観的好き嫌いを主張する傲慢極まりないトンデモない大バカ野郎がいるが ここまでくると明らかに病気である
乖離性同一性障害(多重人格)や統合失調のような精神疾患があったとしても 現在の臨床心理学上では「責任能力がある」とみなすのだが 明らかに自律的責任判断をしようとする自覚や意志が存在していなくても 現在の司法裁判では刑罰を「解決」だとみなし 他に似たような身勝手な者がいたとしても 犯罪や被害の程度が低いうちや犯罪が認知されなければほとんど野放しにされてしまう
こうした いわゆる犯罪者予備軍に対する予防的対策も 「どうして自律的な責任を負おうとしない無責任な人格になってしまっているのか」についての具体的で合理的な原因究明もなされないのが 現状の司法裁判制度の正体である
明らかに人格に異常があっても 実際に重大犯罪を起こして被害者が出なければ 予防的な拘束や治療を行う制度もないのが現在の刑法制度なのである
ヒトという種の生物の脳というのは ドーパミンの常習性が促す中毒によって 馴れたものに疑いを持たなくなる習性がある
論理的に検証すれば 司法刑罰には合理性がないにも関わらず 「産まれてからずっと存在していたもの」に対して 盲目的信頼(執着)をしてしまうことで 安心して何も疑問を持たなくなっているのである
これもまた一種の集団洗脳なのだが 洗脳というのは洗脳されている当人にはその自覚がない
刑罰という国家権力による暴力代行を解決だとみなし 具体的な社会安全性にとって優先されるべき行動を一切しなくなることを 大衆の多くは「多数である」ということだけで無責任性という罪が薄まっているという錯覚に陥っているに過ぎない
松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 「原発を暴走させる権利」も「交通事故で他人を轢き殺す権利」もない
だが ヒトは間違えることを誰も避けることは出来ないのである
たまたま間違いによって大きな被害が出た場合にのみ大騒ぎし 「悪者」と見なした相手を差別排除しても 具体性のある再発防止策には一切ならない
一つの大きな過失の陰には 無数の小さな過失が隠れているのであって 被害が出ないほど小さな過失を見逃さず 丹念に再発防止のための対策を周知共有することこそが 本当の意味での「社会人(人間)としての責任」である
「刑罰が無くなれば 何をしても怖くない」などと言っているバカがいるとしたら そいつは充分に「治療対象」である
怖いか怖くないかという主観的安心恐怖だけでしか行動が決定しないという 理性の欠落がどのようにして生ずるのかを徹底的に調べ上げ 再発防止のために教訓として公に周知徹底する必要がある
しかし それは差別排除を旨とした個人攻撃(懲罰)のためではなく あくまで社会安全性 社会防衛の立場から自己自身の行動規範や教訓として扱うことが「目的」である
それが出来ない時点で 既に人間性(自律的な客観的論理検証性)は欠落しているのである
Ende;
なるほど航空機事故の方がリスクが低いって話ではあるのだが 車輌事故の方が圧倒的に多すぎる
警察は「充分に注意して」などと言っているが 具体性のある合理的再発防止策には全くなっておらず 単なる「頑張れ」的な精神論にしかなっていない
そもそも交通過失事故というのは悪意がない場合がほとんどであり これに刑罰だけで「解決」だとみなす制度そのものに合理性がまるで無いのである
しかし 司法警察というのは罰を目的とした制度である以上 構造的に合理性のある再発防止策を立てるための手続きすら存在しないのである
本当に事故を減らし 被害者を減らすために最も優先されるべきなのは 論理的検証による原因究明と それに伴う再発防止策であるのだが
現状の司法制度上では「悪者探し」に終始し 裁判官の気分で刑が確定 これを「解決」だとみなして それ以上の具体性のある対策にはほとんど手をつけていない
こうした無責任な手抜き制度を「解決」だと思っているのは 国家権力を絶対だと思う感覚が促す「錯覚」によるものである
司法裁判所は 実質的に社会安全性にとって意味のない懲罰を決定しているだけであって 具体性のある再発防止策にならなくても管轄外であり「どうでも良い」のである
犯罪者の中には 死刑が確定していながらも自分の主観的好き嫌いを主張する傲慢極まりないトンデモない大バカ野郎がいるが ここまでくると明らかに病気である
乖離性同一性障害(多重人格)や統合失調のような精神疾患があったとしても 現在の臨床心理学上では「責任能力がある」とみなすのだが 明らかに自律的責任判断をしようとする自覚や意志が存在していなくても 現在の司法裁判では刑罰を「解決」だとみなし 他に似たような身勝手な者がいたとしても 犯罪や被害の程度が低いうちや犯罪が認知されなければほとんど野放しにされてしまう
こうした いわゆる犯罪者予備軍に対する予防的対策も 「どうして自律的な責任を負おうとしない無責任な人格になってしまっているのか」についての具体的で合理的な原因究明もなされないのが 現状の司法裁判制度の正体である
明らかに人格に異常があっても 実際に重大犯罪を起こして被害者が出なければ 予防的な拘束や治療を行う制度もないのが現在の刑法制度なのである
ヒトという種の生物の脳というのは ドーパミンの常習性が促す中毒によって 馴れたものに疑いを持たなくなる習性がある
論理的に検証すれば 司法刑罰には合理性がないにも関わらず 「産まれてからずっと存在していたもの」に対して 盲目的信頼(執着)をしてしまうことで 安心して何も疑問を持たなくなっているのである
これもまた一種の集団洗脳なのだが 洗脳というのは洗脳されている当人にはその自覚がない
刑罰という国家権力による暴力代行を解決だとみなし 具体的な社会安全性にとって優先されるべき行動を一切しなくなることを 大衆の多くは「多数である」ということだけで無責任性という罪が薄まっているという錯覚に陥っているに過ぎない
松尾豊は「人間は間違える権利がある」と述べたが 「原発を暴走させる権利」も「交通事故で他人を轢き殺す権利」もない
だが ヒトは間違えることを誰も避けることは出来ないのである
たまたま間違いによって大きな被害が出た場合にのみ大騒ぎし 「悪者」と見なした相手を差別排除しても 具体性のある再発防止策には一切ならない
一つの大きな過失の陰には 無数の小さな過失が隠れているのであって 被害が出ないほど小さな過失を見逃さず 丹念に再発防止のための対策を周知共有することこそが 本当の意味での「社会人(人間)としての責任」である
「刑罰が無くなれば 何をしても怖くない」などと言っているバカがいるとしたら そいつは充分に「治療対象」である
怖いか怖くないかという主観的安心恐怖だけでしか行動が決定しないという 理性の欠落がどのようにして生ずるのかを徹底的に調べ上げ 再発防止のために教訓として公に周知徹底する必要がある
しかし それは差別排除を旨とした個人攻撃(懲罰)のためではなく あくまで社会安全性 社会防衛の立場から自己自身の行動規範や教訓として扱うことが「目的」である
それが出来ない時点で 既に人間性(自律的な客観的論理検証性)は欠落しているのである
Ende;