親や大人が「子供を守りたい」という感情や行動バイアス(親性)というものと
配偶者選択における行動バイアスの間には明確な境界線は特にない
親(大人)が子供に繁殖行動をしても合理性はないのだが 先天的に脳に組み込まれた行動バイアスや習性というものは そもそも目的のために合理的に選択されたものではなく 特定の行動バイアスや習性の結果として生存に適しただけに過ぎず 先天的行動バイアスに合理性がある必要性はないのである
幼児性愛の傾向を先天的に持った祖先が 成熟しても幼い容姿を持った個体を選択し続けることによって 結果的に脳の肥大や凶暴性の低い個体への進化(品種改良的な変異)を促し 大型の猿人を祖先としてヒトへと変異したに過ぎない
ヒトは別に人間になろうとしてヒトになったわけではないので ヒトという種の生物であるからといって いきなり自動的(自然)に人間性が発揮されるわけでもない
幼女性愛傾向というものが実際に幼形成熟を促すためには 外見が幼いだけで年齢は成熟している必要性があるのだが 幼女性愛傾向というのは別に「脳を肥大させよう」といった意図目的意識に基づいた合理性はないので 本当に未成熟な幼女に対しても繁殖行動を採ろうという行動バイアスが存在していても不思議ではないし それだけなら決して「異常」でもない
人間としての異常性というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた無意識な行動バイアスのままに行動してしまうことであって これは「ヒト」であっても「人間」ではない
暴力的な男に対する恐怖心によって心拍数の増加を促すことにより 「吊橋効果」のように恋愛感情(繁殖行動バイアス)だと勘違いすることでDV男を配偶者選択してしまうことがあるが この種の錯覚というのはヒトの先天的欠陥であって 何も合理性はない
大衆観念的には ヒトという種の生物は完全無欠の存在で 進化によって常に正しい行動バイアスを発揮する優秀な遺伝的性質を持っているものであるという妄想観念を抱いておいた方が気分的に安心満足なのだが
これは科学的根拠のない妄想錯覚でしかない
生物進化というものには目的関数のようなものは存在せず 偶発的に「死ななかった」個体種への淘汰圧力の結果を生物進化と形容しているに過ぎないのである
遺伝的進化において個体の主観的な気分感情というものは意味がなく どんなに嫌であろうが何だろうが「死ななければ生きている」のが生物なのである
そこに不条理を「感じ」ようが何だろうが 進化や生存にとっては影響を及ぼさないし 人間性においても意味はない
そもそも主観に過ぎない「感じ」自体は先天的に決定しているものであり それは祖先の進化過程において偶発的に組み込まれた「結果」以上に意味はないのである
「目的」とは 意識(客観的論理検証)に基づき 合理的に算出したものを指すのであって 主観的「感覚」という無意識な行動バイアスに流されていれば人間としての目的を見失うのは必然である
人間としての目的とは 別に「生存」だの「遺伝子を遺す」だのといった「生物の結果」ではなく
一個の個体として最も優先されるものは何かを「考える」ことで導き出されるものである
ところがヒトという種の生物は そもそも人間として行動選択するようには出来ていないので どうしても動物的な先天的行動バイアスという本能習性に無意識に流され 怒りや焦りといった感情を基準に行動選択をしがちである
それこそがヒトの先天的欠陥なのである
差別排除や懲罰に明け暮れ 実効性のない不毛な「解決」の制度手続きに異常執着し 結果として同じような過ちを延々と繰り返し続けているのは そのためである
危険学や失敗学というのは こうしたヒトの先天的欠陥による不毛な「バカスパイラル」から脱し 科学的に再発防止にとって最も実効性のある対策を選択するものである
航空機や鉄道の事故では一般的に危険学に基づいた再発防止策が行われるのだが これが個別の自動車事故などにおいては全く行われず 右折事故だけで年間1万件も発生している交通事故では機械手続き的に罰だけ下して「解決」とみなし あとは民事訴訟で金を要求するだけしか制度上存在しておらず 具体的に実効性のある再発防止のための制度は存在すらしていないのである
話が逸れた
司法手続きの欠陥は別の機会に論じることにしよう
幼女に対する性的暴行事件が発生すると あたかも幼女に対する性的嗜好の全てが悪いかのようなレッテル貼りが行われるが これは間違いである
性的暴行というのは別に幼女でなくても成人女性でもダメなことに違いはなく 性的嗜好自体は単なる個人的な好みの問題でしかない
幼女性愛傾向を持つ人の大多数は別に性的暴行事件を起こすわけではなく 「ロリコン狩り」というのは単なる主観的な嫌悪感に基づく差別レッテルにしかなっておらず 「ひきこもり狩り」同様差別レッテル貼りによる集団私刑やイジメ差別の標的に過ぎない
相模原障害者施設虐殺のような「障害者狩り」も ナチス政権による「ユダヤ人狩り」も 結局は主観的嫌悪感の多数決による差別排除であり どんなに多数決的にレッテル貼りをしたところで そこに合理性が存在するわけでもなく 当然原因究明にも再発防止にもならない
本当に必要な再発防止策としては 被害者の年齢に関わらず 加害者の性的嗜好が行動に直結してしまう短絡性の原因を究明することであり 「性的嗜好」という主観的感覚が行動に直結してしまうというのは「〇〇狩り」における短絡性と程度の違いはあれ 短絡的であることに違いはない
「一つの大きな事象の陰には無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)」に基づいて考えれば 無数の無責任なバカの存在が 大きな無責任なバカを生み出す温床になっているのであって 多数なら責任が薄まるかのような感覚が促す錯覚こそが 重大犯罪を生み出しているのである
今ではミステリー小説賞の冠にまでなっている江戸川乱歩であるが 当時は「猟奇殺人を助長する」などと称して批判されていたのである
ロリコンにおいても同じで ロリヲタ相手の商売がオイシイと判明した途端にアニメキャラクターが一般的に大量に使われるようにもなった
ロリヲタの大半は現実の幼女に性的暴行を実際に加えようとは思っていないし 実際に路上で小学生が血まみれで死んでいたら飯が不味くて仕方ないはずである
それは江戸川乱歩の愛読者の大半が本当に猟奇殺人をしないのと同じことである
ビデオゲームにおいても殺し合いのゲームは人気だが 殺し合いゲームに熱中している人の大半は実際に大量殺人をするわけではない
空想や妄想による主観的満足というものと 論理科学的な客観性の区別がついていないから 無責任な感情論を多数で共有して その場限りの気分的満足ばかりで「解決」だと錯覚することで 具体的実効性のある犯罪の原因究明や再発防止が全く進まないのである
Ende;