情緒って何?
野依良治やアルベルト:アインシュタインが時折使う言葉だけど
論理的な定義があやふやなまま情緒について議論しても意味がない
たとえば 情緒不安定な原因って何かと言えば 自己客観性の欠如が原因の大半を占めていて
故に認知行動療法が効果的なわけですよ
主観的な感覚が促す意味のない恐怖や不安なんてもんは錯覚に過ぎないことを 客観的に論理検証することで解消することが出来る
ヒトの多くは多数他人という社会環境から受ける強迫観念で行動が決定してしまう習性があって 多数派に同調迎合していないと不安や恐怖を「感じ」るという先天的欠陥が存在しているので
客観的に考えて多数派の異常性を認識していても 観念的に「悩む」ばかりで 自律的に社会的責任判断するという「考え」を阻害してしまう
ヒトの多くは気分的に「悩む」と あたかも自律的に何かを「考えた」かのような錯覚に陥るため 必死になって努力辛抱根性論的に「悩む」と「自分は物事を深く考えたので 頭が良くなった」かのような錯覚に陥り
結局は有効な「考え」に到達出来ないので ひたすら「悩み」に翻弄されることに陥る
科学や哲学に観念(主観)的な「悩み」なんてもんは存在しません
あるのは論理客観的な「考え」だけです
ですから 仏教における「煩悩」からの解脱というのは 論理客観的な「考え」によって無駄な苦しみから解き放たれることを意味するのであって 仏教の考え方というのはむしろニーチェだのハイデガーだのプラトンよりも哲学(論理)的なわけです
「苦しみから解き放たれる」とは言っても あくまで「無駄な苦しみ」からの解放であって 東池袋のプリウス暴走事故で女房子供を失った松永さんの「地獄」までどうにかなるわけではない
松永さんも 多くの交通事故被害者同様に「厳罰」を求めていますが 果たしてアクセルと踏み間違えた老人だけを悪者にしておけば 踏み間違い事故って減るでしょうか?
事故を起こす前から老人の運転が危なっかしいことは家族や周囲の人が認識していたのに 実際に誰かが死ぬまで放置されたという環境要因や そもそも踏み間違いやすい自動車の構造自体にも原因はあるはずなんですね
事故に限らす犯罪も含めたあらゆる「人災」というのは 実際に重大事象に陥る前にも予兆があるものであって 東京電力福島第一原発にせよ 東芝やオリンパスの粉飾決算や 西武グループによるインサイダー取引も バブル経済の破綻にも 予兆というのはたくさんあって 小さな綻(ほころ)びの段階から丁寧に対処しておけば重大事象に陥る前に避けることは可能だった
避けることが可能だったからこそ 原発事故は畑村洋太郎は「人災」だったと認定しているわけです
ヒトは誰しも間違えるものであって 間違えることを前提として対策を施しておく必要がある
過失や犯罪の被害者だって 決して「絶対に間違えることのない完璧な人間」なわけじゃありませんから 特権的に報復的懲罰を要求しても良い論理客観的根拠なんてないんですよ
本気で社会安全性を高めるために必要なのは 危険学や失敗学の考えに基づき 徹底した原因究明と再発防止策の構築なんであって そのためにはあらゆる刑罰は少なくとも一時停止する必要性がある
一人の人物の過失や犯罪の陰には 無数の要因が絡み合っていて 特定の人物だけを悪者にして懲罰を与えて「解決」だとみなすのは あまりに短絡的であり 社会安全性の観点からは無責任極まりない判断だと言えるのです
刑法廃止論を説くと 多くのヒトは「情緒」が不安定になります
論理的には正しいと 頭では解っていながら 感覚(主観)的には恐怖を感じるからでしょう
「刑罰がなくなれば 何をしても怖くない」と思うバカは相当数いるでしょう
怖いか怖くないかで行動が決定している時点で 行動選択に主体的自律性がないわけであって その時点で人間として欠陥品なわけです
しかし 現行の刑法というのは 実際に被害が認知されて実行犯が検挙されない限り どんなに人間性が欠けていても何の予防的治療も行われることはありません
誰かが被害に遭うまで相当数の犯罪者予備軍は放置されてしまうわけです
こういった司法制度の根本的欠陥(危険性)について 多くのヒトは「怖く」は感じないのかも知れません
「怖く」なければ情緒なんですかね?
それなら刑法廃止で犯罪者が「怖くないから 悪いことを出来る」ことも情緒なんすかね?
逆のパターンもありますよ 西宮冷蔵が雪印の食品偽装を内部告発して倒産状態に陥っている状態は 果たして情緒的に安定しているって言えるんすかね?
東電の原発運転に対する無責任な体質に絶望して辞職し 四国で農業に従事していた元社員にとって 果たして情緒的に安定しているって言えるんですかね?
正しいことを正しいと正直に言うことで 裏切り者として差別排除されていれば 大抵のヒトは情緒的に安定することなんて出来ないでしょうよ
誰一人として正しいことを正しいと認識しない状態の中で 正しいことを主張し続けることは戦慄しか覚えませんよ
だから 情緒って一体何なんすかね?
何かの役に立つんすかね?
そういうややこしい細かくて厳密なことは 考えなきゃ情緒的に安心なんでしょうよ
だからニーチェを読んで安心して 何も考えなくなると情緒的に安定することも出来る
安心して600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも平気になる
ヒトとは そういう残念な生き物なんでしょうよ
Ende;
野依良治やアルベルト:アインシュタインが時折使う言葉だけど
論理的な定義があやふやなまま情緒について議論しても意味がない
たとえば 情緒不安定な原因って何かと言えば 自己客観性の欠如が原因の大半を占めていて
故に認知行動療法が効果的なわけですよ
主観的な感覚が促す意味のない恐怖や不安なんてもんは錯覚に過ぎないことを 客観的に論理検証することで解消することが出来る
ヒトの多くは多数他人という社会環境から受ける強迫観念で行動が決定してしまう習性があって 多数派に同調迎合していないと不安や恐怖を「感じ」るという先天的欠陥が存在しているので
客観的に考えて多数派の異常性を認識していても 観念的に「悩む」ばかりで 自律的に社会的責任判断するという「考え」を阻害してしまう
ヒトの多くは気分的に「悩む」と あたかも自律的に何かを「考えた」かのような錯覚に陥るため 必死になって努力辛抱根性論的に「悩む」と「自分は物事を深く考えたので 頭が良くなった」かのような錯覚に陥り
結局は有効な「考え」に到達出来ないので ひたすら「悩み」に翻弄されることに陥る
科学や哲学に観念(主観)的な「悩み」なんてもんは存在しません
あるのは論理客観的な「考え」だけです
ですから 仏教における「煩悩」からの解脱というのは 論理客観的な「考え」によって無駄な苦しみから解き放たれることを意味するのであって 仏教の考え方というのはむしろニーチェだのハイデガーだのプラトンよりも哲学(論理)的なわけです
「苦しみから解き放たれる」とは言っても あくまで「無駄な苦しみ」からの解放であって 東池袋のプリウス暴走事故で女房子供を失った松永さんの「地獄」までどうにかなるわけではない
松永さんも 多くの交通事故被害者同様に「厳罰」を求めていますが 果たしてアクセルと踏み間違えた老人だけを悪者にしておけば 踏み間違い事故って減るでしょうか?
事故を起こす前から老人の運転が危なっかしいことは家族や周囲の人が認識していたのに 実際に誰かが死ぬまで放置されたという環境要因や そもそも踏み間違いやすい自動車の構造自体にも原因はあるはずなんですね
事故に限らす犯罪も含めたあらゆる「人災」というのは 実際に重大事象に陥る前にも予兆があるものであって 東京電力福島第一原発にせよ 東芝やオリンパスの粉飾決算や 西武グループによるインサイダー取引も バブル経済の破綻にも 予兆というのはたくさんあって 小さな綻(ほころ)びの段階から丁寧に対処しておけば重大事象に陥る前に避けることは可能だった
避けることが可能だったからこそ 原発事故は畑村洋太郎は「人災」だったと認定しているわけです
ヒトは誰しも間違えるものであって 間違えることを前提として対策を施しておく必要がある
過失や犯罪の被害者だって 決して「絶対に間違えることのない完璧な人間」なわけじゃありませんから 特権的に報復的懲罰を要求しても良い論理客観的根拠なんてないんですよ
本気で社会安全性を高めるために必要なのは 危険学や失敗学の考えに基づき 徹底した原因究明と再発防止策の構築なんであって そのためにはあらゆる刑罰は少なくとも一時停止する必要性がある
一人の人物の過失や犯罪の陰には 無数の要因が絡み合っていて 特定の人物だけを悪者にして懲罰を与えて「解決」だとみなすのは あまりに短絡的であり 社会安全性の観点からは無責任極まりない判断だと言えるのです
刑法廃止論を説くと 多くのヒトは「情緒」が不安定になります
論理的には正しいと 頭では解っていながら 感覚(主観)的には恐怖を感じるからでしょう
「刑罰がなくなれば 何をしても怖くない」と思うバカは相当数いるでしょう
怖いか怖くないかで行動が決定している時点で 行動選択に主体的自律性がないわけであって その時点で人間として欠陥品なわけです
しかし 現行の刑法というのは 実際に被害が認知されて実行犯が検挙されない限り どんなに人間性が欠けていても何の予防的治療も行われることはありません
誰かが被害に遭うまで相当数の犯罪者予備軍は放置されてしまうわけです
こういった司法制度の根本的欠陥(危険性)について 多くのヒトは「怖く」は感じないのかも知れません
「怖く」なければ情緒なんですかね?
それなら刑法廃止で犯罪者が「怖くないから 悪いことを出来る」ことも情緒なんすかね?
逆のパターンもありますよ 西宮冷蔵が雪印の食品偽装を内部告発して倒産状態に陥っている状態は 果たして情緒的に安定しているって言えるんすかね?
東電の原発運転に対する無責任な体質に絶望して辞職し 四国で農業に従事していた元社員にとって 果たして情緒的に安定しているって言えるんですかね?
正しいことを正しいと正直に言うことで 裏切り者として差別排除されていれば 大抵のヒトは情緒的に安定することなんて出来ないでしょうよ
誰一人として正しいことを正しいと認識しない状態の中で 正しいことを主張し続けることは戦慄しか覚えませんよ
だから 情緒って一体何なんすかね?
何かの役に立つんすかね?
そういうややこしい細かくて厳密なことは 考えなきゃ情緒的に安心なんでしょうよ
だからニーチェを読んで安心して 何も考えなくなると情緒的に安定することも出来る
安心して600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも平気になる
ヒトとは そういう残念な生き物なんでしょうよ
Ende;