書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

今更変えられない

2019年06月22日 14時40分51秒 | 意識論関連
ヒトは 自然と客観的論理思考が出来るようにもなる可能性もあるのだが

これはあくまで脳肥大の結果的な可能性の存在を述べているに過ぎず

決して先天的本能習性として客観的論理思考をするよう出来ているわけではない

客観的論理思考というのは むしろ動物的な先天的本能習性が促す主観的感覚によって阻害されることはあっても 促されることはない

事実 ヒトの大半は自律的には論理思考が出来ず 肩書権威や多数派に同調するだけで 何が客観的真理なのかを追求する意欲すら持たない

客観的論理思考とは 主観的感覚をも客観視する主体性に基づくものであって あらゆる欲望や執着中毒を一度全て棄てる必要がある

目先の恐怖心や執着心の程度強度で判断している限り 本当の意味での客観性というものは発揮することは出来ず

精々「問題意識のない傍観者」になるのが関の山である



社会安全性を求めることも これも一種の利己性である

社会環境の安全性が担保されない状態では 何をやっても無駄になる可能性がある

どんなに金儲けをしても どんなに人気評価を得ようとも 赤ん坊が丸焦げにされる社会では何の意味もないからだ

ヒトの行動の全ては利己である

しかし その利己の究極とは自分だけが過剰な利益や評価を得ることではなく 社会全体の安全性の上においてのみ自分の存在理由が成立するのであり

その利己性は自ずと社会性や人間性を伴うことになる

たとえ多数からの誹謗中傷を受けようとも 社会的排除を受けようとも こうした環境に左右されずに自律的に社会的責任判断をすることが人間性であって 目先の多数体制に迎合同調して目先のご機嫌取りをすることが人間性ではない

目先の世間的評価をアテにしているから偽善なのであって 人間性というのは利己を究極まで追求した先に到達するものに過ぎない



ヒトはどうしても目先の多数に迎合する習性があるため 自律的に客観的論理検証判断というものをしなくなる習性がある

他人からの外見的雰囲気(観念)に基づいた 薄っぺらな人間性の基準だけで他人を判断し その薄っぺらな基準に基づいた薄っぺらな人間性を装うから偽善なのであり

観念に基づいているからこそ 論理的根拠(真理)を伴わない

真理を伴わないというのは 間違い 若しくは嘘という意味である

間違った観念に基づいて行動しているからこそ 真の意味での合理性や効率性もなく 同じような失敗を何度も繰り返すことに陥るのである



ヒトは間違える

そして ヒトは間違いを気分的に悔やんだり 観念的に反省したりして 精神論的に頑張れば何とかなると錯覚している

間違いというものは その間違いの構造メカニズムを分析して再発防止に活かすことによって 教訓としての大事な知識にすることも出来るのだが

そういった「ポカヨケ」的な対策を姑息だと錯覚し 全てを精神論で片付けようとする習性が ヒトにはある

アクセルペダルとブレーキペダルが隣り合わせに並んでいる状態を「今更変えられない」と「思って」しまうのである

そして 頑張って踏み間違わないよう 注意することで何とかしようとする

禁煙をするのに根性で何とかしようとする

犯罪中毒患者を刑務所に監禁するだけで解決だと勘違いする

それがそもそも間違いなのである

努力辛抱根性的な精神論で「頑張って」も そんなものは長続きはしない

年柄年中朝から晩まで「頑張って」いることなど そもそも無理だからである

間違い易い状態そのものを変えて 誰もが間違え難い状態にしておけば 「頑張ら」なくても間違いは減るのである

ヒトの多くは精神論的に「頑張る」ことの方が偉いとでも「思って」いるようだが その主観に過ぎない観念に囚われている頭の悪さを認識する知性の欠如を認識すべきである

インパール作戦的に「頑張れ」ば 何かの解決になるという錯覚が 無駄な因習を漫然と繰り返す頭の悪さの原因である



Ende;
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