ヤヴァイ奴来た
Ende;
「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません(養老孟司)」などという主観的観念を共有しているというのは
自分の謙虚さをアピールして 誰かに慰めてもらうことを期待して言っているとしか思えないんだよね
自発的 主体的 能動的 純粋に 自分がやりたいと思うことに集中し 熱中し 夢中になっていれば 「自分が生き続けることの意味がわからない」なんて言葉は出てこないはずなので
自分の無能をひけらかして謙虚さをアピールしているのって 実は姑息で卑しい奴の発言なんじゃなかろうかと思っている
自分が好きでやっていることが 社会にとって何の役に立つのかなんてわからない
もしかしたら役立つかもしんないし 役に立たないかもしんない
でもそれって科学実験と一緒で「やってみなくちゃ わからない」ことなので とりあえずやってみるという姿勢が大事なんじゃなかろうか
本当に主観的に好きなことであれば 他人よりも深く辛抱強く探求することが出来る
写真家の岩合光昭が猫の写真や動画を撮ったからといって それが社会にとって何の役に立つのかはわからないけど 専門の研究者に匹敵するくらいに猫の生態を解明してしまったりしている
だから 主観的に好きなことなら徹底して探求することによって 結果的に他人が気づかないような発見をすることもある
量子物理学研究者の益川敏英が「嫌いなことや苦手なことは そんなにやらなくて良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」って言うのは そういうことなんじゃないかと思う
「私はこんなに無能です」って主張されても それ 何の役にも立たないですから
自分が社会にとって役に立つことが出来るかどうかなんて 結局は一生を終えた後になってからわかることであって
遺伝子の研究で有名なメンデルや 画家のフィンセント:ファン:ゴッホが生前評価されなかったからといって それが無意味だったわけではない
だから他人からの評価なんて アテにならない
「無駄かもしんないけど とりあえずやってみたいから やってみる」っていうスタンスで良いんだと思う
大体ノーベル賞受賞者の大半は そんなスタンスで研究してるんじゃないだろうか
実際 量子物理学でノーベル賞穫ったっつっても 今のところそれが一体何の役に立つのかなんてまだわかんないんだよね
他人からの評価を目的にしていれば 他人が誰もやらないような突拍子もないことには手を出さないわけよ
そうすると みんながやっているような平凡でつまらないことばっかり競争して 結局新しい発見や発明には至らない
誰もやったことのないようなこと 誰も考えたこともないことに挑戦してみて はじめて新しい発見や発明に至る可能性が出てくるんであって
「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」なんて平凡でしょうもない観念を共有しても そんなもんクソの役にも立たない愚痴や嘆きでしかない
そういう愚痴とか嘆きを多数で共有したところで クソしょうもない観念の共有にしかなんないのよね
バカな奴は クソしょうもない観念を多数共有さえしとけば「普遍性の論証」になると思っているらしいのだが 主観をどんなに多数共有しても「ヒトには そういう習性傾向がある」ことの統計的論証にはなるんだろうけど それが論理客観的な人間性とか倫理の論証にはならない
どんなにクソしょうもない観念を多数共有しても それは主観的安心満足を得ているだけであって 人間性の論証にはならないのよ
人間性っていうのは客観的論理検証という意識によって発揮されるものであって 主観的観念の多数共有で論証されるようなもんじゃない
もしかすっと その部分を理解してない奴が多いんじゃなかろうか