生存に対する結果的必然性をどんなに枚挙陳列しても 生存そのものが「生物の目的」であることの論証にはならない
ヒトが神を求める結果的必然性をどんなに陳列枚挙しても 神の実存の論証にはならないのと同じである
ヒトが求める神や神話の共通性を陳列枚挙しても 神の実存の証明にはならない
ヒトという種の生物の先天的錯覚によって ヒトが作り出す神話に共通性が伴うことは言えるが ヒトの先天的錯覚をどんなに多数枚挙しても 錯覚は錯覚である
そもそも社会安全性を求めているのは「人間」であって神ではない
遺伝的進化が主観的な望みや祈りや呪いで起きるものではないのと同様に 実存証明もない神に頼ることよりも 人間性や倫理とは何かを厳密に理解することの方が実利的で有効なのである
神に人智を超越した謎の知識や力や能力があるとしても それが人間社会の安全性や持続可能性にとって有効であることの根拠にはならない
謎の超能力でも持っていれば ヒトの多くは霊的な感覚によって恐怖や畏怖の感情を持ち 「従わないとどうなるかわからない」という強迫観念から盲目的な信頼や信仰をしたがるが それらは全て主観的感覚によるものであり 先天的行動バイアスによって促される無意識な条件反射に過ぎない
ヒトという種の生物だけに見られる先天的習性を論証しても それは「ヒトという種の生物の先天的習性」の論証にしかならず 「ヒトには先天的な錯覚や欠陥が一切存在しない」ことの論証が不可能である以上 「ヒトという種の生物=人間」という方程式は成立しないのである
歴史上ヒトは様々な非合理的虐殺や差別を繰り返してきたのであって それがなくならないのは自分というものが先天的に「絶対に大丈夫だ」と錯覚する正常性バイアスが働くことによって 自己客観性が働かなくなるからである
ヒトという種の生物は先天的に人間としての欠陥があり 様々な感情や主観によって論理客観的な検証性(考え)が働かなくなることによって 簡単に非合理な行動に陥り ヘイトスピーチやイジメや差別による虐待虐殺を行うようになるのである
過去の「失態」を論理客観的に原因究明し再発防止の対策に活かすという教訓がないから 何度も同じような差別を繰り返すことになるのである
ヒトは先天的に人間ではなく 先天的には「人間としての欠陥」が存在しているからこそ ヒトは簡単に人間性を失い非合理な行動を繰り返すのである
戦国時代の覇権争いによる紛争を英雄視するといった無責任な解釈の仕方をすることも 非合理性の一面である
シリアやアフガニスタンにおける軍閥同士の紛争を指揮していても それが人間性や英雄であることの証明にはならないのと同様 それを単に「時代の所為」にしておけば正当化できると「思って」いるのは歴史家共のエゴである
歴史上ヒトは幾度となく殺し合いをしてきたのであって その現象から「真理」を探求せずに結果だけを枚挙して「英雄」だのと形容することばかりしているから 具体的な教訓としての再発防止策が全く出てこないのである
つまり 現状の歴史教育というものは科学的な解明が一切伴わない 文学(主観)的オカルト観念にしかなっていないのである
池上彰は「なぜ戦争がなくならないのか これを見ればわかる」などと称した番組を放送していたが 実際には具体的に戦争が起きる論理客観的原因を述べたわけではなく 戦争が産業化したことによる「戦争が終わりづらい要因の幾つか現象論を陳列したに過ぎない
本当に論理客観的に「原因」がわかっているのであれば 実質的に戦争や紛争を回避するための対策として活かすことが可能なのであって 池上彰はそのことには一切言及していないのである
にも関わらず 大衆もマスコミもそれが嘘だと見抜くことができずに観念的な「納得」だけで 言っている内容の論理整合性の欠落には誰も気付いていない
それは池上彰も含めて鵜呑みにした視聴者や放送したマスコミにも社会的な無責任性が存在しているのである
どんなにバカが多数であっても バカでいることが許されるわけではないが だからといって「罰」でバカが治るわけでもないこともわかっている だからこその「刑法廃止」論なのである
頭の悪さというものは 機械手続き的な懲役罰で治る論理的根拠は何もないのであって 犯罪のようにわかりやすい顕著なバカが出てくる大きな要因として 世間大衆に蔓延する顕在化しない頭の悪さが温床となっているのである
「一つの大きな事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている」とは ハインリッヒの法則だが これはヒトの頭の悪さにも共通することである
「独習」などと称して知識の「量」さえ獲得すれば頭が良くなり世間的に成功するかのような「エサ(脳への報酬)」につられて鵜呑みにするバカは多いが
著者の一人である読書猿自身が「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえる」などという非科学的デマにも誰も気づかない時点でバカ確定である
そんなデマを鵜呑みにしておいて 都合よくデマや嘘に騙されないようになるわけがないのは当たり前の話である
嘘やデマと 真理真実を見極め区別するために必要なのは「知識の量」ではなく 主体的自発的に論理客観的に検証しようとする本質的な人間としての意識である
「自律とは自発の中にあり 他にはない」これは定理である
自発性や主体性のない奴に自律なんぞあるわけがないからだ
ヒトはその先天的な社会形成習性によって 他人からの評価という「他人から与えられる脳への報酬」につられて主体性を簡単に喪失する性質がある
ギャンブル依存症などと同様に 承認欲求もまた中毒性があるため 他人からそそのかされる形での「独習」で満足したがるが 速読というのは内容を主観的な雰囲気だけで解釈する方法論であって 内容を厳密に精査する検証性はほとんど働かないため どんなに大量の書籍を読んでも 内容の間違いや嘘には気づくことはできないのである
そもそも他人から勧められた「独習」である時点で 既に主体性を持った独学ではない
大衆の多数人気よる発行部数や売り上げは 内容の論理客観的正確さの論証には一切ならない
むしろ大衆人気がある時点で大衆迎合や洗脳に過ぎない可能性を疑うべきである
「ハーメルンの笛吹き男」は実話であり ヒトとは多数人気に同調して簡単に洗脳され騙されるものなのである
身銭を切って購入した書籍だと 「身銭を切った」ことを事後正当化してしまうため その内容に嘘やデマが混入していても認識しようとはしなくなる傾向があり 書籍が高価なほどその傾向は高くなる
ヒトは元々洗脳されやすい性質があることを踏まえれば 「どのような洗脳の構造があるのか」を自覚して物事を見るようにもできるのだが ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫だ」という感覚的錯覚によって簡単にバカになり 洗脳にも気づかなくなるのである
言っておくが どこの出版社も書籍の内容の真偽に責任など負うつもりはなく 何百年にも亘ってイマヌエル:カントの「純粋理性批判」などというオカルトファンタジーを「哲学」として扱っていたのである
こうしたメディアの無責任性も含めての「メディア:リテラシー」だということを自覚する必要がある
自分の頭の悪さを自覚しなければ 何度でもデマや嘘に騙されることに陥る
それは「必然」というものである
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