書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ハーメルンの笛吹き猿

2021年01月09日 15時01分01秒 | 意識論関連

生存に対する結果的必然性をどんなに枚挙陳列しても 生存そのものが「生物の目的」であることの論証にはならない

ヒトが神を求める結果的必然性をどんなに陳列枚挙しても 神の実存の論証にはならないのと同じである

ヒトが求める神や神話の共通性を陳列枚挙しても 神の実存の証明にはならない

ヒトという種の生物の先天的錯覚によって ヒトが作り出す神話に共通性が伴うことは言えるが ヒトの先天的錯覚をどんなに多数枚挙しても 錯覚は錯覚である

そもそも社会安全性を求めているのは「人間」であって神ではない

遺伝的進化が主観的な望みや祈りや呪いで起きるものではないのと同様に 実存証明もない神に頼ることよりも 人間性や倫理とは何かを厳密に理解することの方が実利的で有効なのである

神に人智を超越した謎の知識や力や能力があるとしても それが人間社会の安全性や持続可能性にとって有効であることの根拠にはならない

謎の超能力でも持っていれば ヒトの多くは霊的な感覚によって恐怖や畏怖の感情を持ち 「従わないとどうなるかわからない」という強迫観念から盲目的な信頼や信仰をしたがるが それらは全て主観的感覚によるものであり 先天的行動バイアスによって促される無意識な条件反射に過ぎない

ヒトという種の生物だけに見られる先天的習性を論証しても それは「ヒトという種の生物の先天的習性」の論証にしかならず 「ヒトには先天的な錯覚や欠陥が一切存在しない」ことの論証が不可能である以上 「ヒトという種の生物=人間」という方程式は成立しないのである

歴史上ヒトは様々な非合理的虐殺や差別を繰り返してきたのであって それがなくならないのは自分というものが先天的に「絶対に大丈夫だ」と錯覚する正常性バイアスが働くことによって 自己客観性が働かなくなるからである

ヒトという種の生物は先天的に人間としての欠陥があり 様々な感情や主観によって論理客観的な検証性(考え)が働かなくなることによって 簡単に非合理な行動に陥り ヘイトスピーチやイジメや差別による虐待虐殺を行うようになるのである

過去の「失態」を論理客観的に原因究明し再発防止の対策に活かすという教訓がないから 何度も同じような差別を繰り返すことになるのである

ヒトは先天的に人間ではなく 先天的には「人間としての欠陥」が存在しているからこそ ヒトは簡単に人間性を失い非合理な行動を繰り返すのである

戦国時代の覇権争いによる紛争を英雄視するといった無責任な解釈の仕方をすることも 非合理性の一面である

シリアやアフガニスタンにおける軍閥同士の紛争を指揮していても それが人間性や英雄であることの証明にはならないのと同様 それを単に「時代の所為」にしておけば正当化できると「思って」いるのは歴史家共のエゴである

歴史上ヒトは幾度となく殺し合いをしてきたのであって その現象から「真理」を探求せずに結果だけを枚挙して「英雄」だのと形容することばかりしているから 具体的な教訓としての再発防止策が全く出てこないのである

つまり 現状の歴史教育というものは科学的な解明が一切伴わない 文学(主観)的オカルト観念にしかなっていないのである

池上彰は「なぜ戦争がなくならないのか これを見ればわかる」などと称した番組を放送していたが 実際には具体的に戦争が起きる論理客観的原因を述べたわけではなく 戦争が産業化したことによる「戦争が終わりづらい要因の幾つか現象論を陳列したに過ぎない

本当に論理客観的に「原因」がわかっているのであれば 実質的に戦争や紛争を回避するための対策として活かすことが可能なのであって 池上彰はそのことには一切言及していないのである

にも関わらず 大衆もマスコミもそれが嘘だと見抜くことができずに観念的な「納得」だけで 言っている内容の論理整合性の欠落には誰も気付いていない

それは池上彰も含めて鵜呑みにした視聴者や放送したマスコミにも社会的な無責任性が存在しているのである

どんなにバカが多数であっても バカでいることが許されるわけではないが だからといって「罰」でバカが治るわけでもないこともわかっている だからこその「刑法廃止」論なのである

頭の悪さというものは 機械手続き的な懲役罰で治る論理的根拠は何もないのであって 犯罪のようにわかりやすい顕著なバカが出てくる大きな要因として 世間大衆に蔓延する顕在化しない頭の悪さが温床となっているのである

「一つの大きな事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている」とは ハインリッヒの法則だが これはヒトの頭の悪さにも共通することである

「独習」などと称して知識の「量」さえ獲得すれば頭が良くなり世間的に成功するかのような「エサ(脳への報酬)」につられて鵜呑みにするバカは多いが

著者の一人である読書猿自身が「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえる」などという非科学的デマにも誰も気づかない時点でバカ確定である

そんなデマを鵜呑みにしておいて 都合よくデマや嘘に騙されないようになるわけがないのは当たり前の話である

嘘やデマと 真理真実を見極め区別するために必要なのは「知識の量」ではなく 主体的自発的に論理客観的に検証しようとする本質的な人間としての意識である

「自律とは自発の中にあり 他にはない」これは定理である

自発性や主体性のない奴に自律なんぞあるわけがないからだ

ヒトはその先天的な社会形成習性によって 他人からの評価という「他人から与えられる脳への報酬」につられて主体性を簡単に喪失する性質がある

ギャンブル依存症などと同様に 承認欲求もまた中毒性があるため 他人からそそのかされる形での「独習」で満足したがるが 速読というのは内容を主観的な雰囲気だけで解釈する方法論であって 内容を厳密に精査する検証性はほとんど働かないため どんなに大量の書籍を読んでも 内容の間違いや嘘には気づくことはできないのである

そもそも他人から勧められた「独習」である時点で 既に主体性を持った独学ではない

大衆の多数人気よる発行部数や売り上げは 内容の論理客観的正確さの論証には一切ならない

むしろ大衆人気がある時点で大衆迎合や洗脳に過ぎない可能性を疑うべきである

「ハーメルンの笛吹き男」は実話であり ヒトとは多数人気に同調して簡単に洗脳され騙されるものなのである

身銭を切って購入した書籍だと 「身銭を切った」ことを事後正当化してしまうため その内容に嘘やデマが混入していても認識しようとはしなくなる傾向があり 書籍が高価なほどその傾向は高くなる

ヒトは元々洗脳されやすい性質があることを踏まえれば 「どのような洗脳の構造があるのか」を自覚して物事を見るようにもできるのだが ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫だ」という感覚的錯覚によって簡単にバカになり 洗脳にも気づかなくなるのである

 

言っておくが どこの出版社も書籍の内容の真偽に責任など負うつもりはなく 何百年にも亘ってイマヌエル:カントの「純粋理性批判」などというオカルトファンタジーを「哲学」として扱っていたのである

こうしたメディアの無責任性も含めての「メディア:リテラシー」だということを自覚する必要がある

自分の頭の悪さを自覚しなければ 何度でもデマや嘘に騙されることに陥る

それは「必然」というものである

 

 

Ende;

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霊的なもの

2021年01月09日 13時35分18秒 | 意識論関連

「国民」と一言で括ってもいろいろな人がいて

国家権力による刑法罰で威圧しなければ自主的には社会安全性や公平性に一切配慮しないバカもいるのだが 世の中そんなバカしかいないわけではないはずである

今回の新型コロナウイルス感染症対策や温室効果ガス削減対策といったものについては 国家権力を用いた威圧的な刑法罰ではどうにもならず あくまで個人による自主的 自律的な行動が求められるのであり 

「法律で規制さえしておけば全ては解決する」という為政者や役人による短絡的発想こそが国民の主体性の醸成を阻害しているのである

 

ヒトという種の生物は どうしても主観的な安心満足ばかりを追求し 論理客観的な検証に基づいた行動選択をしたがらない傾向があり

また 多数派や多数派が認証している権威や権力者に服従迎合しておいた方が主観的に安心な習性が先天的にあるため どうしても主体的には論理客観的判断選択というものが蔑ろにされがちな傾向が強い

だからといって十把ひとからげに「刑法罰で威圧さえして服従さえさせておけば良い」という短絡的な発想では むしろ国民の主体的判断能力というものを阻害するばかりである

刑法罰などの威圧的抑圧ばかりに頼ってしまえば 国民は罰に対する恐怖心(主観)でしか行動選択が出来なくなってしまうようになる

これは家庭内での子供の虐待と同じように ヒトから主体性を奪ってしまい 同時に自律的な判断能力も奪ってしまうことになるのである

為政者や役人による短絡的な刑法依存もまた 自律的な判断能力の欠如が招くものであり バカのスパイラル状態がバカを助長する温床になってしまっているのである

 

刑法罰がなければ主体的に社会的責任を負う選択をしないバカが一定数存在することは確かだが 感染症対策や温室効果ガス削減においては罰で抑圧して解決するものではなく あくまで国民一人一人の主体的で自律ある行動選択がなければ実現不可能である

そもそも自律のないバカに対して どんなに刑罰を与えても自律的な社会的責任判断能力が発揮されるようになるわけでもないのであって 罰では社会安全性は高まらないのであり 実際刑罰というものは再犯率が50%近くあり 犯罪者の半数は「治っていない」のである

犯罪者が「治っていない」にも関わらず 司法手続き上「懲役◯年」などという判決に基づいて刑を執行しても その半数は再度社会の中で再び被害をもたらしてしまうのであり その被害の責任については司法役人の誰も責任を負わない制度にしかなっていない

主体的に社会的責任を負わないバカであれば 殴って(罰)服従させておけば主観的には満足であり それは私も感覚(主観)的同じではある

だが 主観的満足では論理客観的な安全性には結びつかないのであって だからこそ危険学や失敗学では「刑法を一時停止」させて徹底した原因究明と再発防止を優先するのである

社会にとって最も重要なのは安全性である

安全性にとって最も優先されるべきものは罰という感情論ではない
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ドイツ語のガイストと日本語の精神―知性のない精神

このブログの著者が誰なのかがわからないのだが 日本語における「精神」についての批判は的を射ており 文章も読みやすいのでお薦めできる

日本では古来から「精神論」と称して努力辛抱根性論のようなものを指しているのだが これは知性とは正反対とも言える概念である

 

しかし「霊的なものと知性が矛盾しない」という発想は鵜呑みにしてしまうとオカルトにしかならない

そもそも科学や哲学というものは「怪異(主観的感覚)」を解明して「真理」を識別するためのものであり その動機としての知的好奇心自体は理性ではなく 欲望である

社会安全性を優先するという「選択」自体は欲望の一つであるのだが 様々な自己の欲望の中から優先順位をつけるのは理性である

純粋理性状態とも言える大脳辺縁系を損傷した人にとっては こうした「選択」自体も働くことはない

大脳辺縁系を損傷してしまうと欲望の全てを失うことになるため 知的探究心をも失うことになる

しかし 理性が働かずに目先の欲望の強度程度で行動が決定していれば野獣の行動と変わりはなくなる

これは文系の奴らが主張したがる「バランス問題」ではなく あくまで理性が欲望を制御していることによってはじめて人間性や倫理として働くのであって 決してバランスの問題ではない

欲望のままに好奇心だけで判断しても真実を見極めることはできず あくまで動機としての好奇心(欲望)に基づき理性によるフィルターによって不純物としての誤謬を取り除くことによって真理を見極めることが可能となるのである

大脳辺縁系を損傷していないのであれば 欲望は勝手に働くものであり それゆえヒトの多くはヘイトスピーチだの私刑だのイジメといった非合理な行動にも暴走するようになるのである

しかし理性は勝手に働くことはなく あくまで主体的に物事を判断しようとする本質的な人間としての意識がなければ働くことはない

それなら大脳辺縁系を損傷していない一般的なヒトが優先すべきは理性の方であり 感情の方ではない

 

霊的なものと知性が矛盾しない」わけではなく 「霊的」なものとは何かを論理客観的に分析すれば それは主観的感覚や錯覚に他ならない

どんなにたくさんのヒトが同じ錯覚を「感じる」としても その感覚としての「霊的なもの」が科学的に証明されるわけではない

あくまで主観には錯覚が伴う可能性が排除できず むしろその錯覚の原因となる「必然的理由」は解明できるとしても 錯覚それ自体が錯覚ではないことの論証にはならない

それは「生物というものが結果的に生存していることの必然的理由」と「生物の目的」の違いと同じであり どんなに大量の結果を陳列枚挙しても それが目的であることの論証にはならない

感覚(主観)によって促される様々な怪異(恐怖)に対して 論理客観的証拠によって「何が起きているのか」という真理を見極めることで 科学や哲学として成立するのであって 「霊的なものの全てが知性と矛盾しない」という話にはならない

怪異などに対する恐怖心を動機として 真実を探求し 見極めようとすることで科学や哲学が成立するとは言えるのだが そこには必ず理性としての論理客観的根拠や証拠が伴う必要がある

 

単なる「多数の感情論」によって厳罰化や死刑制度を「民主主義」的に正当化しても それが「社会安全性にとって最も有効である」ことの論証にはならない

加害者側が潔く罰を受け入れたからといって 加害の原因が解明されるわけでもなく 通り魔が死刑を望んでも通り魔事件そのものの原因究明にも再発防止にもならず 似たような非合理でバカげた無差別殺人は繰り返すことになるのである

こうしたバカげた現状制度を傍観放置することもまた 社会的には無責任な選択であり どんなに多数が傍観放置しているとしても 「責任が薄まる」わけではない

 

 

Ende;

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