哲学は科学と異なり「目的」も扱う
「目的」とは 自己の主観に基づいたものであり 主観なくして「目的」を見定めることはできない
科学的な論理客観的根拠は既に世界(外界)存在する「結果」を導き出すだけであって 「目的」は科学では抽出することが原理的にできないからだ
「目的」とは自己(内界)における主観的感覚の中から導き出されるものであって 生物の遺伝的な進化における必然的な「結果」をどんなに大量に抽出枚挙しても「生物の目的は生存」であることの論証には全くならない
哲学では主観にも踏み込む
科学的探求というものは「真実を知りたい」という欲求(主観)が動機であるのだが 単なる主観だけでは「地下鉄に毒ガス」などという支離滅裂な「答え」に帰結してしまうこともしばしばである
「地下鉄に毒ガス」という帰結を信じ込んでしまうのは 論理客観的根拠に基づいた「考え」や「判断」が伴っていないからである
科学の動機は欲望であるが 論理客観的根拠に基づいた合理性のある検証(考え)なくして科学としては成立しない
単に主観的に気分が良くなる「信じたい話」だけを頼りにしているから論理客観的根拠に基づいた検証性が失われて科学を逸脱するのである
ドイツ語におけるGaistには「霊的なもの」も含まれているという
「霊的なもの」って何だっつうと 要は感覚的に「感じているもの」である
神を信じたがるのは 信じていれば安心満足で 信じていないと恐怖や不安を感じるから信じたがるのであって どんなに多数のヒトが信じたがる傾向があったとしても それが主観的感覚によって促されている錯覚に過ぎないことの反証にはならない
左側頭葉の一部に強力な磁気刺激を与えると神を感じることがあるという
神を神だと感じ それが神以外の悪魔か何かとは感じないのは それが主観的に「気持ち良い」からである
そもそもヒトは哺乳類であるため 産まれてくれば「親」に頼り信じ込み服従することで生存に適するような遺伝的進化が組み込まれており 特定の誰か他者を盲目的に信じ込んおけば安心する個体への淘汰圧力によって「親」を超越した「超親」として「神」を求める習性が存在すると言える
「多くのヒトが求めるもの」だからといって それが「人間の目的」の論証にはならない それは単に「ヒトの習性(傾向性・バイアス)に過ぎず バイアスであるという点において無意識なのである
神話の共通性をどんなに陳列枚挙しても それは「ヒトに共通する習性」に由来するものであることの論証にはなっても 「人間性の論証」だの「目的」であることの根拠論証には全くならない
科学的探究心というものは 主観的感覚だけではわからない「怪異」に対して 実験的結果や数理的分析による論理客観的根拠に基づいて「本当の原因」を求めることで科学的論証として成立するのであって 主観的に「俺たちは神を感じるから 神は実在する」という話は科学的論証にはならない
ヒトが「なぜ神を感じるのか」は既に述べたが 感覚によって促される「怪異」的な恐怖や不安が科学的探求の動機にはなるとしても 主観に過ぎない感覚だけで論理的根拠もなく実証不能の謎の観念を信じこもうとするのは科学や哲学からの逸脱にしかならない
真実というものはあくまで論理客観的な根拠に基づいて論証される必要性がある
論理的根拠が伴わなければ真実であることの証明がないからである
人間性というのを客観的に定義すれば 「利己を棄て自己犠牲を伴ってでも社会的責任を負う選択」だと言える
ヒトの多くは「死にたくない」だろうが たくさんのヒトが「死にたくない」と「感じ」「思って」いるとしても それは「ヒトの習性」という結果を述べたに過ぎず 「ヒトの目的」にも ましてや「人間の目的」の論証にも一切ならない
真理というものは多数決で決まるものではなく あくまで論理客観的根拠に基づいて抽出されなくてはならない
人間としての「目的」とは社会安全性を追求することである
持続可能性の追求もまた 社会安全性の中にあるものであって そのためには利己的利益を後回しにして自己犠牲をはらってでも社会安全性を目的にすることが人間としての目的だと言えるのである
自己がどんなに社会の中で「生存にとって有利な行動」を採っても 所詮は必ず死ぬのであって 利己性の追求というのは本当は合理性がない
「死にたくない」というのは主観的感覚だけであって 合理的な根拠を伴うわけではない
しかし 社会安全性の追求もまた主観的感覚に基づくものではあるものの それこそが「人間」としての社会的合理性が伴うのであり 人間としての「目的」の論証に適うのである
誰も赤ん坊が丸焦げにされたり餓死したりする社会の中で生き続けていたいと思う奴はいないのであって そこはやはり宮沢賢治の言う「全ての人が幸福にならなければ自己の幸福もあり得ない」のである
目の前で子供が車に轢き殺されていたら飯の味なんぞわからなくなる
わからなくなるはずなのだが 連続幼女殺人を行った宮崎勤は殺害した幼女を喰ったという それはもはや味覚も含めて様々な「感覚」が壊れているのであろう
社会安全性にとって最も重要なのは こうした「人間として壊れている」者に懲罰を加えて満足することではなく 「どうして壊れているのか 何がどうしてこうなったのか」についての原因究明による再発防止である
幼女強姦などの幼児性愛性というものはヒトの男には少なからず存在する願望であって エロ漫画でも幼女強姦が描かれているものも少なくはなく 現代芸術家として有名な会田誠も少女の手足を切断してイヌ用のリードを着けた作品を発表して人気を得ていたりするものであって こうした「少女に対する猟奇性」は決して少数派ではない
漫画や日本画は芸術分野であって内容に倫理が伴う必要性はないが 科学や哲学は芸術(主観)だけで決定されるべきものではないので倫理が必要であり そもそも哲学は倫理を扱う分野であり 倫理もまた論理的根拠に基づいて「本当の倫理とは何か」を検証せずに倫理もヘッタクレもないのである
そもそも繁殖行動バイアスとして「勃起したペニスを挿入して痛がり嫌がる相手に興奮する」のが「ヒト」であり こうした先天的本能習性というものはヒトにまで進化する以前から「生存や繁殖にとって適した結果」に過ぎず こうした先天的欲望や願望には自己選択可能性はなく 個人の「目的」であることの論証にもならない
手当たり次第に通りすがりの少女を強姦しているような奴ばかりなら 社会安全性もスッタクレもあったものではないのは説明するまでもなかろう そんな社会の中で生き続ける合理的必要性など存在しないのである
ヒトには様々な「感覚」が存在していて その中から客観的に合理性のある行動選択をすることによって はじめて「人間」として存在可能となるのである
主観的感覚とは 先天的に組み込まれたものであって 選択可能性は存在しておらず 錯覚などの認識的欠陥が伴う可能性を否定できない
だから論理客観性に基づいた検証(考え)が必要なのである
論理客観的根拠のない話を信じ込んでいたのでは 安全性の保証がなく 無責任性の観点からは同罪である
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における理性を超越した「悟性」だの「純粋統覚」だの「叡智界」などといった話には そもそも理性を超越(逸脱)しているために論理客観的な根拠が全く伴っておらず カントの勝手な妄想錯覚以上の意味が存在しないのであり 安全性の保証がない
安全性の保証根拠がない話であっても 大衆の多くは主観的に満足さえすれば鵜呑みにし 信じ込んで安心して それ以上何も考えなくなることで 洗脳は成立するのである
マルクス:ガブリエルだの養老孟司だのリチャード:ドーキンスだのを科学や哲学だと信じ込んで鵜呑みにしていれば 大衆の大半は安心で満足なのだろうが その自律的論理検証性の欠落は社会的無責任の点において同罪なのである
刑事罰制度も同様である
司法役人任せにしておけば通り魔が出てこなくなるわけでも 犯罪の原因がわかるわけでもないのに 裁判員制度ごときで司法改革だと錯覚しているのはあまりにもバカげた話である
感覚的に多数のヒトが「刑罰で解決だ」と「思って」いても その多数決が本当に社会安全性にとって合理的に安全性の根拠が伴うわけではない
論理客観的に回避可能な危険性が存在することを無視し 目先の主観的満足安心ばかりを追求しておいて 原発の津波に対する脆弱性を放置した東電担当者や役員達を糾弾する道義的権利はない
時折デイビッド:フィンチャーの映画さながらの猟奇的殺人事件の報道があるが 1/数万程度の確率で猟奇殺人が起きていることになる それもあくまで警察による「犯罪認知件数」の範囲であって 実態は実際にはもっと多いことはあっても 少ないことはない
日本は犯罪件数自体が非常に少ないのだが 「少ないから良いや」という話にはならない
数だけを根拠にするのであれば 「航空機事故による死亡率は低いから対策を怠っても良い」ことになるのである
一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れているのであり ヒトという種の生物に普遍的に存在している「人間としての欠陥」は全てのヒトが自覚しなければならないのであって 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という身勝手な話は通用しないのである
Ende;