書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

再発防止

2021年07月19日 15時14分39秒 | 意識論関連

踏み間違い事故を起こした後期高齢者を何年拘置所に監禁しても 踏み間違い事故の原因究明にも再発防止にもつながることはない

罰という「見せしめ」で恐怖を煽っても そもそも誰も望んで「間違えて」いるわけではないからだ

 

だが 自分の運転技能が低下していることを認めず 「俺は絶対に踏み間違えてなどいない」などと言い張る傲慢さを発揮する原因を究明し 「どのような人物が事故を引き起こしやすいのか」を統計的に割り出すことは不可能ではなく

統計的に事故を起こしやすい個人が特定できれば免許返納を強く推奨したり 最悪剥奪や 自動ブレーキ搭載車への補助金の基準にもなり得るだろう

そもそも死亡事故というのは後期高齢者だけのものではなく むしろ若年層の方が圧倒的に多いのである

列車の場合はATS(自動列車停止装置)という「ポカよけ」システムが普及しているが これを自動車に応用してはいけない理由はない

運転の状況 具体的にはアクセルの開度 ブレーキの強度 ハンドル操作などをGPSデータと紐付け ログに取っておけば 悪質な運転をする運転者には現行犯でなくとも免許取り消しなどの「処分」をしても良いはずである

安全運転を心がけているドライバーであっても陥りやすいミスを検出できる可能性もあり 危険な箇所ではカーナビから危険情報を報知し 事前に危険回避を促すことも可能であろう

それこそGPS情報から制限速度を超えないシステムを組み込めば 重大事故は大幅に減ることは間違いないだろう

「いつどこに移動したのか」といった個人のプライバシーは守りつつも ビッグデータを集めて安全性を高めることの重要性は無視できないはずである

 

このハイテクの世の中でも 旅客機が空港内で迷子になることすらあるという

そういうバカみたいなミスは徹底してポカよけすべきである

高速道路の逆走においても 現在は道路情報表示で「お知らせ」するしかしていないが もっと積極的に走行中の車輛に危険情報を報知するようにもできるはずである

交通死亡事故は近年激減してはいるものの 撲滅には至っておらず 毎年松永莉子パパのような地獄を味わっている被害者や遺族は毎年増えているのである

「AIを用いた自動運転さえ用いれば事故がなくなる」という簡単なものではないことは既に別の記事で述べた

完全自動化すれば事故が激減することは確かだろうが 結局は「ヒト」が間違いや失敗を減らす努力は怠ってはならない

「安全」というのはCOVID-19対策だけのものではない

 


Ende;

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欠陥

2021年07月19日 10時40分11秒 | 意識論関連

集団組織に対する忠誠忠実さに主観的な「美しさ」を感じてしまう先天的習性があるからこそ 唯々諾々と服従しただけの兵隊を「英霊」扱いしたがる

その一方で 戦争そのものに反対した「政治犯」達に対しては何ら「美しさ」を感じることがなく むしろ「裏切り者」や「卑怯者」としてしか扱おうとしない

内部告発者に対する冷遇というのは 組織に忠誠忠実な者だけを特別視したがるヒトの先天的習性に因るものである

 

サルやイヌに見られる先天的な「社会性」に基づく集団組織の「ルール」とは あくまで順位序列という封建的な統率に基づいたものであり それが結果的に協調的行動や役割分担を促すとしても そこには公平性や平等といった「人間としての社会性」は存在しない

単に個体の生存や種の保存だけを基準に論じれば 集団組織に同調迎合し 野獣の「ルール」に従っておいた方が適するのだが これは動物的な社会形成習性に過ぎず 子供のイジメにおいても暴力団や振り込め詐欺師や暴走族やテロリストにおいても発揮されるものである

戦争などというバカげたことをする上においては 従順な兵隊は「便利」ではあるが 兵隊というのは統率者がイカれているかどうかの判断は全くしなくなるため ミャンマー軍や香港警察や戦時中の日本軍やナチス政権下のドイツ軍のような蛮行も平気で実行することが可能となるのである

 

ヒトの多くは 主観的に気分が良くなることを短絡的に「正しいこと」だと勝手に錯覚し 気分が悪くなる話には一切耳を貸さなくなる習性がある

これがいわゆる「認知的不協和を解消する」という行動バイアスであり 洗脳のベースとなる

ヒトの多くは 一度信じ込んだ内容や多数が信じている相手や 長い間慣れ親しんだ慣習に主観的安心感を持ち これらに対して気分の悪くなる「主観的に不都合な話」は論理的根拠を無視し 「自分だけは絶対に大丈夫」だという根拠のない過信に溺れて非合理な行動選択しかしなくなる

そのため 主観的に気分が良くなりさえすれば 合理的な根拠や証拠が提示説明されていなくても 短絡的に鵜呑みにし 疑うことを一切しなくなるのである

そして 「何が本当なのか わからない」というバカに陥る

論理客観的根拠の有無を検証する(考える)ことをしない以上 それは「バカ」としか言いようがない

「ウイルスはそのうち弱毒化する(北村義浩)」などというデマを主張していても 相手が感染症の専門家で日本医科大学客員教授という肩書権威さえあれば誰も疑うことはなくなる

さらに酷いケースでは 東京大学名誉教授という肩書さえあれば 「客観的事実などない(養老孟司)」だとか「世界は存在しない(マルクス:ガブリエル)」などというオカルト観念までをも鵜呑みにするようになる

「哲学者」という肩書さえあれば 論理的根拠を逸脱したイマヌエル:カントの「純粋理性批判」さえもが「哲学」として扱われ しかも学力偏差値の高いバカ学生達も何の疑問も持つことはない

何百万円もの奨学金という借金をしてまで嘘を鵜呑みにしていて これを「バカ」という以外何と言うのかは 私は知らないし 知りたいとも思わない

「悟性」だの「純粋統覚」だの これらに基づいた「叡智界」などという話は全てカントの勝手な決めつけに過ぎず 何せ「理性を超越(逸脱)」しているために論理的根拠が全く説明されていないのである

カントの話に多くのヒトは主観的「感動」を覚えるらしく 気分が良くなり脳内麻薬が促す快楽によって疑うことや検証することを放棄してしまうのである

言っておくが 「叡智界」というのは「ヒトが知覚できない」とカントは明言しているのである

なんだそれ

それ 鵜呑みにできる奴の方が異常だろ

知覚不可能なものを一体どうやって応用すんだよ

「哲学は 役に立たなくても良い」とは言うが それはあくまで「すぐには役に立たなくても良い」という意味であって 論理的根拠を伴わず「役に立たないことが立証可能な話」までをも哲学に分類して良いという意味ではない

何が論理的根拠を伴う「哲学」なのか その区別認識ができないのは それが本当に「哲学」なのかどうかを検証する姿勢が全くないからである

要するに「何も考えていない」のである

 

ヒトというのは 基本的に動物であるため 「目先の快楽安心(脳への報酬)」を得ることだけが「目的」になりがちである

そのため 主観的に目先の安心感や満足感さえ提供されれば それが本当に「自分がこれからも生き続けるに価する社会にとって有益なのかどうか」についての検証は多くのヒトはしないものである

 

ヒトが人間性を発揮するために必要なのは 先天的に組み込まれた習性としての「快楽が促すバイアス」に無意識に流されることなく 主体的に論理的根拠を伴う真実かどうかの検証が必要不可欠である

権威や多数に同調しておいた方が気分的には安心満足であろうが その主観に過ぎぬ安心満足というものは 先天的欲望によってシーケンシャル(条件反射的無意識)に促されている「習性」に過ぎない

 

人間としての意識とは こうした主観的気分感情に左右されることなく主体的 自律的に真実を見極めることであり これは「ヒトという種の生物」には先天的習性としては組み込まれていないのである

ところが 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ(山極寿一)」などという話に大衆の多くは気分的安心満足や共感を得ることで それが論理客観的根拠が伴うかどうかは誰も考えなくなる

ヒトは 多数が考えないことは 考えないことの方が「正常」だと勝手に錯覚する こうした多重の錯覚によってヒトは物事を論理的に検証しなくなり バカになるのである

ヒトというのは先天的にはバカなのである

先天的にはバカだが どこがどのようにバカなのか どこに「ハードウェア的なバグ」が存在しているのかを自覚していれば 無為にバカに陥ることは避けることが可能でもある

そのために必要なのは 個人の主観的気分感情を一旦棚上げにし 徹底的に論理検証(考えてみる)ことである

先天的に大脳辺縁系の活動が活発な(せっかちな)人だと 物事をじっくり考える精神的余裕がないため すぐに面倒臭くなって安易な結論をでっち上げて「考えを終わらそう」とする傾向が強く 勝手な決めつけを鵜呑みにして主観的満足を優先してしまう

「学力偏差値=頭が良い」という大衆観念に基づき 知識の「量」だけが知能の本質だと錯覚しているのもそのためである

「東大に合格したから 頭が良い」などという観念は 東大医学部の学生達が地下鉄に猛毒サリンを撒き散らした事実を無視しているからである

有名大学出身者であれば就職には有利かも知れないが 大企業における粉飾決算や談合や検査偽装などの不祥事が繰り返され一向に改善しないことからも公益的には意味がない

様々な不祥事を起こしているのは高学歴なデクノボウ達なのである

本来大学というのは公益的社会貢献が眼目であるはずだが 世間における利己的優位性にしかならないものに公金を投入しているのは社会的には合理性を欠いた「大衆迎合」に過ぎない

もちろん低学歴なデクノボウというのもいるものだが 学歴学力や世間的評価基準というものが人間性とは無関係であることは明らかであり 統計的にも学力学歴と犯罪にも有意な相関は見られないばかりか むしろ通り魔やテロリストなどの凶悪犯罪の方が学生時代に学力偏差値が高い傾向すら存在するのである

 

ヒトという種の生物は 先天的に観念的な順位序列を勝手にでっち上げて多数や権威に同調迎合して満足するだけで 主体的自律的に物事の真実を見極めるための検証(考え)をしないものである

こうした先天的本能習性に起因する人間としての欠陥を自覚しないことには あらゆる「人災」は根絶不可能である

「先天的な人間性」などという実証不能の謎の能力を鵜呑みにしていて 「叡智」もヘッタクレもあったものではない

人間としての社会性や倫理というものを発揮するためには 固定観念や因習に囚われることのない思考の柔軟性や
各々の個人が主体的自律的に物事を検証するという「考え」が必要不可欠である

科学や哲学は多数決ではない

あくまで論理客観的根拠に基づいた検証(考え)が伴わなければ 真理(本当のこと)は見極められないのである

真理が区別できないということは 社会安全性や持続可能性の追求においても「何が本当なのか わからない」ということでもある

 

 


Ende;

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