2016年8月24日 島根県
津和野城 100名城
島根県鹿足郡津和野町後田
別名「三本松城」とも呼ばれ、中性の山城と近世の山城が一体となった全国でも数少ない山城です。
吉見氏は戦国時代には当初大内氏に属していたが、11代当主正頼は大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して挙兵。天文23年(1554年)に100日以上に及ぶ籠城戦が生じた(三本松城の戦い)。その後、厳島の戦いに勝利した毛利氏が防長経略を開始すると、吉見氏はその傘下に入って引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長2か国に押し込められると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。亀井氏により、山麓に居館(津和野藩邸)や外堀が設けられて、城下町が整備された。貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。
リフトで津和野城へ
リフトを降り天守を目指す
熊が出るの??よく読んだら生息地とある。ふ~
堀切??どこ?分からないまま先に進む
出丸
出丸からは津和野の街並みがよく見える
本丸への途中、馬立・台所跡へ
▲馬立・台所跡
西櫓門跡
▲天守台石垣??たぶん
▲太鼓丸へ
☆☆☆
この櫓は、旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置された隅櫓で、南西に馬場があったのでこの名が付けられています。構造は、重層入母屋の本瓦葺きで、外部漆喰(しっくい)仕上げの櫓構建築です。建築年代について記録はありませんが、藩邸が嘉永6年(1854)の大火で焼失し、安政3年(1856)に再建されていることから、この櫓も安政年間の建築と思われます。旧津和野藩邸の建物で現在残っているのは、この櫓と嘉楽園内の「物見櫓」の二棟があるが、もとの位置を変えずに旧状を留めている唯一の建物となっています。
2016-09-16 06:05:27
cosmophantom