街道ウォーク<旧日光街道<日本橋~蒲生駅
2013年12月29日 目指すは日光東照宮 1回目
千住宿問屋場・貫目改所跡
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50尺です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、四十貫目(150kg)を積むと大馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産業の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から二里八丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、無事に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていました。ただ、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
平成18年3月 足立区教育委員会
cosmophantom
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