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2011年5月1日 1回目
浜川橋(涙橋)・立会川駅付近 坂本竜馬にかかわる見所
浜川橋(涙橋)付近
▲浜川橋(涙橋)
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名「浜川」から名付けられ、またの名を「涙橋(なみだばし)」と言い、現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安4年(1651)に、この先に「お仕置場(鈴ヶ森刑場)」が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されましたが、この時、親族らが密かにお見送りに来て、この橋で共に(涙)を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
▲浜川砲台跡
浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。)ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させている。砲台は8門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200メートルである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。 【若き龍馬の足音】
▲工事現場のフェンスに描かれた竜馬
立会川駅周辺
▲立会川駅
▲竜馬像
ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警護のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々に来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。品川での黒船警固から竜馬の幕末は出発したのです。
▲立会川 二十歳の竜馬像解説
本文 ☆cosmophantom
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