広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

秋田駅バス乗り場

2011-06-03 23:51:22 | 秋田市営バス
前回に続いて、秋田駅西口のバス乗り場のお話。

西口バス乗り場は4列あり、1番から13番まで13個の乗り場が配置されている。
前回記したとおり、基本的には1982年度からの電照式のポールが設置されているのだが…

●14番目の乗り場
かつて(1982年よりかなり以前から)は、「0番」乗り場もあり、男鹿半島などへの定期観光バス、市の施設見学、一部貸切バス等の発着に使われていた。
少なくとも1982年以後は、屋根のない、バス待機場の外れ(タクシー待機場側)に電照式でないポールが立っていた。
1番乗り場と0番乗り場の位置関係。2001年1月、駅前交番付近の階段から撮影

雪に埋もれる0番乗り場。“ようこそ男鹿半島へ”と表示がある

0番乗り場はいつの間にかなくなったのだが、撮影した画像を確認する限りでは、2001年1月には存在していたが、同年9月にはなくなっているようだ。
現在、貸切バス等は東口バスの乗り場を使用している。

【2017年4月15日追記】上記の通り、0番乗り場だった跡とその周辺は、バスの待機スペースとして使われているわけだが、2016年に耳にした社内(車両の運転士と営業所間)の無線では、待機場所のことを「ゼロ番」と呼んでいた。ポールがなくなり乗客の乗り降りはできなくなっても、社内の呼び名としては0番乗り場が健在のようだ。


●2種類のポール
さて、1番から13番乗り場に話を戻す。
今まで意識していなかったが、13本の電照式バス停のポールは同じものではなく、2タイプがある。
(再掲)5番乗り場 13番乗り場
背の高さはほぼ同じだが、区切り方が異なり、縦方向のマス目の数が3つのものと4つのものがある。
駅舎側3列の1番から9番までが4マス、西側1列の10番から13番が3マスのようだ。前回紹介した10番乗り場も3マスのタイプ。

なぜ異なるポールが存在するのか。ヒントは9番までと10番以降で違うということ。
それは、かつての運行会社ごとの乗り場に対応しているから。旧秋田市交通局(秋田市営バス)の段階的民間移管が始まる前までは、市営バスが1番から9番乗り場、中央交通が10番から13番乗り場だった(一部共同運行路線を除く)。
かつて市営バスが使っていたポールが4マス、以前から中央交通が使っていたポールが3マスタイプということになる。

じゃあ、なんで市営と民間で形が違うのか。
それは、「バスロケーションシステム(バスロケ、バス接近表示)」の有無。
秋田市交通局は、無線を使ったものとしては世界初というバスロケを1981年に導入している。
当初はこの秋田駅の乗り場にも接近表示が設けられ、1番から9番乗り場までの4マスタイプの、上から2段目(と3番目?)がそのスペースに充てられていた。

その後、老朽化に伴い1994年にシステムが更新された際、バスロケを設置するバス停の絞り込みが行われ、秋田駅前には接近表示を設置しないことになった(始発停留所なんだから接近を知らせる意味があまりなく、妥当だと思う)。
その際、ポールの交換は行われず、接近表示部分が塞がれて単なる電照式バス停となり、機能的には10番以降のポールと同じになった。
バスロケ撤去後の5番乗り場。市営バス当時は上のマスは黄緑色だった

上の写真のとおり、市営バス当時は上のマスが黄緑色(若草色?)だった。これは、市中の路上にある旧バスロケ対応のバス停と同じデザイン。
民間移管後も、路上のバス停は事業者名を修正しただけで黄緑色のままの箇所が多いが、駅前だけは移管と同時に白いものに代えられた。誤乗を防ぐためだろう。

2000年以降、段階的に市営バス路線が民間移管されることになり、毎年徐々に市営バスの乗り場が中央交通の乗り場に替わっていった。


●交換されたポールも
13本のポールすべてが今も現役ではなく、確認できるだけで2本が別のものに代えられた。
設置されて30年近く経つだけに、腐食などで老朽化してしまったのだろう。

まずは1番乗り場。かつては市営バス型のものだった。
2002年5月撮影
【4日追記】今、写真を見て気づいたが、5番乗り場のものより1番乗り場↑の方が脚が長い。市営バスタイプの中でも違いがあるみたいだ。
しかし、いつの間にか、
3マスの茶色い枠のものに代わっている(写真が傾いてスミマセン)
話がそれるが、上の写真矢印の側面の部分は、秋田杉で装飾されておらず、以前からある屋根が見えているらしく、ちょっと汚い。
他の列も同様なのだが、せっかくなんだからここもなんとかすればいいのに…

もう1つは3番のりば。
2009年撮影
上のポール部分は市営バスタイプだが、根本に注目。
地面に直接埋めこまれているのではなく、土台があってそこに脚が埋めこまれている。(土台が動くわけではなく、地面に固定されている)
最初からこうだったのか、あるいはいつからこうなったのかは定かではないが、このような設置方法なのは3番乗り場だけ。(2004年1月の段階でもこうなっていた)

その3番乗り場が、今年の3月か4月頃には、
ポールがなくなっている
土台は残っており、コーンが被せられていた。
もしかして地震で倒れたのだろうか?

代用として、普通の(ダルマ型)バス停が置かれていた。
なんというか…
ポール自体はピカピカの新品のようだが、「3」を示す表示は、
貸切バスの「3号車」を示すシールをセロハンテープでべたべた貼っていた

しばらく経ってもこの状態だったので、ひょっとしてずっとこのままなのかと思っていた矢先、(頻繁に見ていたわけではありません)
5月29日撮影
ピカピカの電照式が設置されていた! 4マスタイプで、鈍い銀色の枠。(土台は以前のものを使っているようだ)
これはこれで場違いな雰囲気。
位置は違うが黄緑色のマスが復活し、会社名が書かれている

せっかくならポールも秋田杉にしたら… おカネがかかるでしょうけど。


ところで、現在3番乗り場は神田線や添川線などが使用しているが、市営バス時代当時は5番乗り場(移管の途中の最末期では2番乗り場だった時期も)だった。
そこには、こんな表示があった。
毛筆の路線案内
他の乗り場と同じ活字の案内もあったのだが、なぜか下のマスにこの手書きの表示があった。2000年代の段階では、他の乗り場にはなく、ここだけだった。
2005年に移管される直前まであったと記憶しているが、今はない。
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中型バス

2011-03-07 21:13:43 | 秋田市営バス
「♪大型バスに乗ってます」という歌(「バスごっこ」香山美子作詞)がある。
バスという乗り物にはいくつかのサイズがあるのだが、一般の方の多くは、マイクロバス以外のバスを指して無意識に「大型バス」と呼ぶことが多いのではないかと思われる。
しかし、実際には「中型バス(中型車)」と呼ばれる大きさのバスが存在し、秋田市営バスに欠かせない存在であった。
※秋田市営バスの前回の記事はこちら

地方のバス会社では路線バス用に中型バスを導入しているところが多く、旧秋田市交通局を含む秋田の路線バスでも中型バスが主力で、街中でよく見かける。
しかし、おそらく、バスに詳しくない方は、中型バスを見ても「大型バスだ」と認識してしまうと思う。両者の違いは、おおむね、
大型バス:長さ10メートル、幅2.5メートル、定員80名前後(立客含む)
中型バス:長さ9メートル、幅2.3メートル、定員60~70名前後(立客含む)
で、外見では中型バスが1回りほど小さく見え、車内では通路の幅が狭く感じる。履いているタイヤのサイズも異なる。
メーカーによって、大型と中型の車体がほぼ同一デザインのところもあるし、あまり共通性がないデザインのところもある。
2台並んだ秋田市営バス
上の写真の2台は同一メーカー製でないので比較しにくいけれど、左が中型バス(三菱製)で右が大型バス(いすゞ製)。

秋田市交通局の路線バスは、大型:中型が3:7~4:6程度の比率だったと思う。
車体の塗装が新デザインになった1986年度以降に導入された路線バスだけに限ってみれば、大型が31台に対し中型が81台も導入されている(独自の集計であり、間違っているかもしれません。また、他に小型7台、空港リムジン2台)。【6月10日訂正】「大型が34台に対し中型が78台」が正しいと思われますので、訂正します。【2012年1月12日再度訂正】「大型が33台に対し中型が79台」が正しいようですが、アテにしないでください

秋田市営バスの路線には、「中型バスしか走らない路線」が多かった。
具体的には、神田線、添川線、手形山団地線、仁別線、秋田温泉線、牛島経由の各路線、東口発着横森・桜ガ丘方面、新屋発着のローカル路線(浜田線等)など。
狭い雪道を神田線として走る中型バス
城下町の町割りが残る中心部の狭い道や郊外部の狭くてカーブした旧道がバス路線になっていることが多い秋田市では、大型バスよりも小回りが効く中型バスが重宝されていたのだろう。

一方、新屋線、新屋西線、川尻割山線、新国道経由各線、寺内経由土崎線などでは、大型バスが走っていた。
とはいえ、便数の100%が大型バスなのではなく、それなりに中型バスも運行されていた
つまり、秋田市営バスには「大型バス“しか”走らない路線」というのは存在しなかった。
ひどい写真ですが
上の写真は川尻割山線を走る中型バス(手前)。後ろの新屋線は大型バスで長さが際立つ。

大型バスに対応した路線なのに、中型バスが混在していた理由は、次の2つがあったと思われる。
1.“中型バス限定ダイヤ”の存在
大型路線の一部には「中型バスが限定で担当するダイヤ(便)」があった。
「◯時◯分発には毎日必ず中型バス」が来るということであり、普段は主に神田線や手形山団地線を走っている車両が、ローテーションの一部として大型バスの路線にもやって来て走るというケース。

例えば昼間の新屋線の一部(毎時00分秋田駅発が多かった気がする)がこの例だった。新屋発着のローカル路線(浜田線など)に使う中型バスを送り込むための回送を兼ねていたのだろう。

2.“大型バスとして扱われる中型バス”の存在
実は「中型バスなのにも関わらず、大型バスの路線しか走らない車両」というのが、一定数存在した。言い換えれば「大型バスと共通で運用される中型バス」。
図中黄色い部分のこと
つまり、中型バスなのに神田線や手形山団地線は一切走らず、新屋線や新国道方面ばかりを走っていた車両があったということ。

大型路線で見かける中型バスには、上記1よりもこちらのケースの方が多かったと思う。
この場合は同じ時刻の便でも、その日によって大型バスが来たり中型バスが来たりまちまちだった。雨降りなどで混雑する日に中型バスに来られたら、迷惑に感じたものだった。

このような使われ方をする中型バスは、比較的古い車両が多い傾向があった。まっさらの新車は、まずは中型バス専用路線で使われ、ある程度年数が経ってからこちらのグループに回されてくることが多かった。
中型バス限定路線にも常に新しい車両が回るようにという配慮(完全冷房化前の段階における、冷房車の割合の平均化など)だったのだろうか。
【9日追記】したがって、大型バスも入る路線と中型バス限定路線とで比較すると、冷房化率も新塗装の車両の比率も、中型限定路線の方が常に少し先を行っていた。
こんな面倒なことしないで、大型バスをもっとたくさん導入・保有し、大型と中型を完全に分離して運用すれば済む話のような気もするけれど。


中型バスの側面
秋田市営バスの大型バスは、導入時期によって仕様(窓の配置や装飾)が若干異なり、やや統一感に欠けていたが、中型バスはほぼ同じ仕様で導入され続けた。
(メーカーが4社あったこともあり、微妙な差異は多々ありますので、いずれまた)

2002年3月の新屋・割山方面の路線の民間移管の際、交通局に残っていた大型バスがなくなり(20台が譲渡、2台が廃車)、小型バスも2003年3月に譲渡された。
それ以降、“秋田市交通局最後の3年間”を支えたのが、中型バスであった。
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赤いバス

2011-02-16 23:26:02 | 秋田市営バス
秋田市営バスのお話。今回は、市営バスの車両の色について。※前回はこちら
5年前の今頃、「さようなら赤バス」などという言い回しが一部マスコミなどで使われた。
その記事中では、「市民や利用者から“赤バス”の名で親しまれた秋田市営バスが間もなく、3月末を持って65年の歴史に幕を閉じる…」といったような表現もあったと記憶している。

秋田市営バスは赤系統の色合いの車体の塗装だったから、「赤いバス」→「赤バス」となったのは察しが付く。
でも、その「赤バス」の呼び名が市民に親しまれたというのは事実だろうか?

少なくとも僕の周りでは、秋田市営バスを指して「赤バス」と呼んだのは、それより前には1度しか聞いたことがなかった。
それは僕が高校生の時(1990年代前半)。
高校のそばのバス停で帰りのバスを待っていると、バスで通勤している同じ学校の先生とご一緒した。おそらく1940年頃のお生まれで現在は65歳過ぎくらいの女性。

そのバス停は、市営バスと民間バスの両方が通っていたのだが、僕は間もなく市営バスが来ることが分かっていて、もちろんそれに乗るつもりだった。
するとそれより先に、緑の民間バスがやって来た。
僕は乗るつもりがなかったので、道路際から下がっていたのだが、それを見た先生は「青バスが来たわよ。あなたは赤バスなのね?」と声を掛け、乗って行かれた。
つまり「民間バスが先に来たけど、あなたは後から来る市営バスに乗るのね」という意味だった。

僕は「赤バス」「青バス」という言葉をその時初めて聞いたので、一瞬戸惑った。
日本では古来から緑色のことを「青」というから緑のバスが「青バス」なのだろうし、「市営バス」「中央交通」というより、「赤バス」「青バス」という方が言いやすい。なるほどと思った。
でも、僕の周りにもその先生と同年代の方々はそれなりにいるが、「赤バス」「青バス」と言うのは聞いたことがない。地域性があるのかもしれない。

僕が生まれ育ったのは、市営バスだけが走っていた地域。
交通局の段階的縮小・民間移管が始まる前は、民間バスに乗る機会がほとんどなく、生まれてから20数年間で10回以下しか利用しなかったと思う。それほど市営バスが身近だった。
だから、赤とか青とか区別する以前に、単に「バス」といえば市営バスを指していたのだろう。区別して呼び分ける必要がなかったのだ。(区別が必要な時は、「市営バス」「中央交通」と呼んでいた。)

僕に言わせれば、「赤バス」は「親しみを込めた呼び方」というより、「競合地域において区別するための呼び名」だと思う。
皆さんや周りの方々は「赤バス」って言っていましたか?


ちなみに、「市バス」という呼び方についても少し。
そもそも秋田では、「市バス」という表現はあまり使わなかったと思う。新聞記事などで略称として使う程度のはず。

一般的に「市バス」といえば「市営バス」の略だと思う。だから、現在の秋田市には「市バス」はない。
しかし、他の方々のブログを拝見していると、たまに「秋田の市バスは…」といった表記を目にする。内容からして昔話でなく現在の話題なので、民間会社のバスのことを指して「市バス」と呼んでいるのだ。
中には「秋田市の市バスを運行しているのは、秋田中央…」などと、民間会社が運行していることを理解した上で、「市バス」という言葉を使う方もいた。

こうした使い方をするのは、若い人やよそから来た人が多い気がするので、世代や地域によっては、「市内を走るバス」の意味で「市バス」を使うのだろうか。
そう言われれば、広島・松山・長崎などの路面電車は民間会社が運行しているが、「市電」で通じるのと同じ理屈だけど…
でも、「都バス」といえば東京都交通局のバスだけを指し、小田急とか東急とか西武とか、都内を走る民間バスのことは「都バス」とは言わないし。




さて、上記の通り、秋田市営バスの車両は赤かったわけだが、具体的にはどんな塗装だったのかまとめてみたい。
多くの方の記憶にあるのは、この記事冒頭の写真のような塗装だと思う。

だけど、これだけが秋田市営バスではない。かつては他にもいくつかの塗装が存在していた。
※同じデザインの塗装の車両でも、窓枠等の車体自体のデザインで受ける印象が異なったり、メーカーや導入時期によって微妙に色合いが異なることもありました。後日、紹介するつもりですが、ここで取り上げる写真は、あくまでも1つの実例とお考えください。

●路線旧塗装 ?年~2001年 (←この見出しは便宜的なもので、正式名称ではありません。年代は新車として導入した期間ではなく、その塗装の車両が存在していた時期です。)
ボンネットバス時代の古い写真を見ると、また別の塗装だったようだが、昭和40年代以降に導入されたバスは、こんな塗装だった。
懐かしく感じる方も多いはず
僕が物心ついた頃は、市営バスといえばこれだった。

おそらく、1985(昭和60)年度に導入された車両までがこの塗装だったはず。
新塗装登場後も、原則として塗り替えられることはなく(一部の小型バスは塗り替えられた)、2000年度(2001年3月)まで見られたと記憶している。
上の写真は、最後の年度に撮影したものだが、僕が撮った旧塗装の写真の中で唯一まともに写っているもの。奇しくも、旧塗装最後の1985年度導入車の中でも、いちばん最後の番号が振られた「198」号車だった。
この記事にも少し画像があります

●路線新塗装 1986年~2006年
そして、たぶん1986(昭和61)年度導入車両からは、おなじみの塗装になった。
ちょっと写りが悪いですが、上と似たアングルで同じ三菱製中型車(モデルチェンジしてるけど)で比較してみると、
1992年導入の「273」号車
新旧を比べてみると、赤い線が太くなり、ラインの数が減ってシンプルになった。
僕のイメージとしては、旧塗装は「肌色っぽい」印象があり、新しい方は「白い部分が多い」感じがしたが、実際には、肌色と白の面積は新旧であまり差がなさそう。目を引く赤色の帯が太くなったせいで、相対的に肌色が減って白が増えたように感じたのかもしれない。
また、正面上部の行き先表示の周囲は、旧塗装では赤く、新塗装では黒い。しかし、一部の旧塗装車両でも、末期には黒く塗り替えられた車両があった。

新塗装導入と同時期に、各メーカーがモデルチェンジを行ったこと、座席の布地が無地から柄入りのものに変更されたことなどもあり、スタイリッシュで新しさを感じたものだった。
新塗装のバスは1996(平成8)年までほぼ毎年導入され、計100台以上(110~120台くらい?)に上った。【2014年2月24日追記】119台(小型車7台を含む)のはず。
しかし、2000年から始まった段階的移管に伴い、おそらく2001年度以降は民間会社へ譲渡されて緑色に塗り替えられたり、それほど古くないのに廃車になったものもあり、年々数を減らしていった。
最後の2005年度に在籍したのは、わずか11台。

●貸切旧塗装 ?年~2001年
観光(貸切)車両は別塗装だったが、やはり「赤バス」であり、かなり古くから赤かったようだ。
1960年9月1日付「広報あきた」151号「のり心地満点! すばらしい赤いバス
赤バスならぬ「赤いバス」だそうです。JR九州みたい。

僕が子どもの頃の貸切車もこの塗装で、遠足などで乗った思い出がある。
実はこの塗装の車両、一部は路線バスでも走っていた。
これ
地色はグレー。赤はエンジ色っぽくて、路線用の赤とは違う。
窓の下の細い線が後部で途切れていたり、車体裾と窓上の赤い部分が斜めの線で後部に行くほど狭くなっていたりするのが、おもしろいデザイン。
正面の市章のところの細い線だけ、地色ではなく白色のようだ。正面はなんとなく歌舞伎役者みたいな印象。
子供の頃は羽後交通のバスに似た塗装だと思っていたが、それよりは赤の面積が少ない。

これは、車体は路線用車種がベースだが、塗装は貸切用と同じという、変わった車両。
内装は路線バス仕様のシートながらも、背もたれが高めで全席が2人掛けで、貸切としての使用も考慮している。もちろん、運賃箱などワンマン路線バス用設備もある。
これは、普段は路線バス(大型車なので路線は限定されていた)として走り、遠足シーズンなど繁忙期には貸切バスとして走る、「路線・貸切兼用車両」。(バス愛好家などには「ワンロマ車」と呼ばれる。僕も遠足で乗った経験があるので、詳細は後日

秋田市交通局では、4世代の兼用車両があったようだが、うち1980年頃導入の2代目(1992年頃廃車)と、上の写真の1985年度導入の3代目が、貸切と同じ塗装だった。(初代は1960年代後半に路線バスと同じ塗装で導入されたらしい、4代目については後述)
時期的には、路線用も旧塗装だった時期だが、行き先表示の脇が黒く、モデルチェンジ直後の「いすゞLVキュービック」(秋田県内初導入だったかも)でもあったので、斬新でかっこよく感じた。


貸切(兼用ではなく専用の)車両についてはよく分からないが、おそらく、1986年度に導入された車両もほぼ同一の旧塗装だったようだ。その車両はおそらく1993年頃までになくなったと思われる。
一方、上の写真の1985年度導入の路線・貸切兼用車両は、旧塗装の路線専用車両と同じく、2000年度末で姿を消したはず。

●貸切新塗装 1985?年~1998年
貸切の新塗装は、1985年度導入の2階建てバス「みはらし号」において、旧塗装をアレンジした塗装が採用されたのが最初のはず。翌年導入の中2階建てバス(スーパーハイデッカー)「わかくさ号」も同じような塗装だった。

上記のとおり、1986年頃までは他の(2階建てでない)貸切車両が旧塗装で導入されている。したがって、貸切車両は何年かにわたり、新旧の塗装を混在して導入していたということのようだ。(というか二階建て車両だけ特別塗装だったということか)

その後、平成に入ってから導入されたと思われる(2階建てでない)貸切バスは、2階建てバスの塗装によく似たものになった。
 (再掲)回数券表紙の広告より
従来のものをベースにしたダイナミックなデザインになった。グレー・赤とも明るい色合いになり、白い部分もある。
分かりにくいが、側面には星のマークや「AKITA CITY」の文字が大きく配置された。
貸切事業は路線より早い1997年度いっぱいで廃止された。この塗装はその時に、旧塗装よりも先に消滅したことになる。

【2019年10月18日追記】ネットで「秋田市交通局 二階建バス乗車記念」という絵はがきらしきものの画像を見つけた。
内容からして、みはらし号導入間もない頃に、乗車記念に配ったものだと思われるが、平成初期頃に交通局庁舎(営業所?)でもらったような話も。
みはらし号の写真とともに、「昭和60年秋田県で最初に導入」「車体のデザインは秋田市立美術工芸専門学校によるもので、「みはらし号」の愛称は一般公募204点の中から選定されたものです。」「高さ3m77cm 長さ11m99cm 巾2m49cm」と説明。
これにより、このデザインの作者がある程度判明した。
秋田市立美術工芸専門学校とは通称「美工専」。後に秋田公立美術工芸短大、さらに秋田公立美術大学となった。専門学校部分も、短大附属高等学院→大学附属高等学院として存続(高校ではなく専門学校)。
「~学校によるもの」とあるので、生徒学生ではなく、教員に依頼したのかもしれない。そういうのができる先生がいたはず。
その数年後の一般路線バスの新デザインは、誰がデザインしたのか、気になるところだ。


赤くない市営バスもいくつかあった。
●秋田八丈 1992年~2002年
白い!
これも路線・貸切兼用車両(4代目)で、1992年度に日野製の大型車5台4台だけが導入された。【2012年1月11日訂正】導入台数は5台ではなく4台でした。
正面に秋田市章はあるものの、それ以外は市営バスらしさを感じさせない外観。白地に斜めの色違いのラインが3本引かれた、シンプルなデザイン。

これは、秋田市の伝統工芸の織物「秋田八丈(秋田黄八丈)」をモチーフにデザインしたもの。

なお、Wikipediaや一部サイトなどにおいて、この塗装を「2代目の貸切路線兼用車」で塗装を「秋田八景」と称しているが、それは誤り。兼用車の4代目であることは上記の通りだが、「秋田八景」が誤りといえるのは以下のような理由から。
・具体的な日付は示せないのだが、導入当初、テレビのニュース(たしかABS)や魁新報で、「秋田八丈をデザインしたバス」として報道された記憶がある。【2024年6月23日補足・コメント欄も参照】
・1992年に秋田県が「新・秋田八景」というのを定めており、それ以前にも「秋田八景」というのがあったらしい(江戸時代の紀行家・菅江真澄が関係している?)が、いずれにしても秋田「県」エリアのものであり、秋田「市」のバスが取り立ててデザインにする必要性がない。また、この3色ラインのデザインで、「八景」を表現しているとするのは、無理がある。

側面から続いて天井にも色が付いている
2001年度末までこの塗装が見られたが、2002年春の新屋方面の路線移管に伴い、譲渡(この時に、交通局に残っていた大型車がすべて廃車または譲渡された)され、緑色に塗り替えられてしまった。現在も活躍中だが、もう20年も経つのか。

以下は、自分で撮影した写真はないので、秋田市サイト内の「秋田市写真館」の写真をお借りして紹介します。トリミング、トーンカーブの補正を行っています。
●初代ミニバス 1975年~?年
道が狭い新興住宅地に路線バスを運行するため、1975年に小型バスが導入され、他の路線バスとは異なる塗装だった。
水色とオレンジ
僕は1度だけ乗った記憶があるが、塗装までは印象に残っていない。
活躍はあまり長くなかったようで、10年くらいで2代目が導入され、さらに1993~1996年度には3代目が導入されたが、いずれも他の路線バスと同じ塗装だった。

●初代空港リムジンバス 1981年~1993年頃
1981年に秋田空港が雄和町(現・秋田市雄和)に移転したのに伴い、市営バスと民間会社の共同運行で、貸切車両をベースにした専用車両による空港リムジンバスの運行が始まった。
車両はそれぞれの運行事業者が保有したが、塗装は2社共通だった。
秋田市章が側面に付いている(後期の貸切車両も同じ位置)

●2代目空港リムジンバス 1993年~?
上記の車両の老朽代替として、1993年度に2台が導入され更新された。初代リムジンは3台以上在籍したはずだが、2代目は2台だけだったはず。
写真はないのだが、真っ白なボディに赤と青で「~」みたいなデザインが入ったシンプルな車両だった。メーカーのカタログに載っている標準塗装で注文したのかもしれない。
【3月8日追記】だけど改めて前項の旧塗装リムジンバスを見ると、使われている色は白・赤・濃い青(紺)で新塗装と同じだ。旧塗装を意識していたのかもしれないい。

導入後少しして、市営バスがリムジンから撤退したので、この2台は貸切に転用、さらに貸切も廃止されたが、うち1台は「秋田市太平山自然学習センター」の送迎バス「まんたらめ号」として活躍しているようだ(塗装・ナンバーは変更)。
【2014年4月6日追記】「貸切」としての用途は、老人クラブが活動する際に利用できる「いきいきふれあいバス」に限定されていたようだ。
【2016年7月25日追記】空港リムジンから交通局が撤退したのは1995年春らしい。いきいきふれあいバスは1998年開始。1995~1997年は、一般貸切だったのか?


以上が、僕が知る限りの秋田市営バスの車体塗装バリエーションのすべて。
市営バスを民間移管する際の条件の1つとして、「市営バス時代の塗装はすべて変更する」というのがあったそうだ。移管途中の段階における誤乗を防止するために必要だったのだろう。
でも、今は完全民間移管したのだし、いつか“復活”したら楽しそうだと、勝手に妄想してしまう。モデルチェンジした21世紀のバスにも、赤い塗装は似合いそう。
チョロQにするのもいいかも。

それにしても、特に旧塗装のバスの写真を、もっとたくさん撮っておけばよかったと悔やんでいる。
(今後の記事でも市営バスの写真をアップしますが、ほとんどが最後の数年間に撮影した新塗装のものです)
※次の記事はこちら
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秋田市営バス廃止から5年

2011-02-05 23:47:30 | 秋田市営バス
冒頭の写真は、2001年度末の秋田駅西口乗り場。
このようにかつてはバス乗り場の大部分を秋田市営バス(秋田市交通局)が使用していて、赤い市営バスがひしめき合うのが、日常の風景だった。

そんな秋田市から2006年3月末をもって秋田市営バスがなくなって(完全民間移管)から、間もなく5年。
個人的には「まだ5年しか経っていないのか」という心境だが、多くの市民の記憶から薄れつつあり、若い人や引っ越してきた人はかつて秋田の街に市営バスが走っていたことなど知る由もない。

当時の政府の「民間でできることは民間に」という方針、それを受けて全国の多くの都市で公営交通事業の見直しが行われたこと、そして市営バスの存在が秋田市にとって財政的負担になっていたであろうことを考えれば、秋田市営バスが廃止されたことはやむを得ないし妥当だったのかもしれない。
思い出として市営バスを懐かしむことはあっても、市営バスが復活してほしいと思うのはかなわないことなのだろう。


だが、人口減少や経済の衰退が進んでいること、国による高速道路料金定額・無料化など公共交通をないがしろにする政策が行われていることなどを差し引いても、この5年間で、秋田市のバス事情は必要以上に後退・衰退してしまったと言わざるを得ない点が少なくない。
他の都市ではよくある100円バスや循環バスは未だに運行されていないし、かつてはあったバスロケーションシステム(バス接近表示)は廃止された。新しい道路ができてもそれを通るバス路線ができるわけでもなく、ダイヤ改正の主な内容は減便。(詳細は後日)
(東京や仙台など大都市ではなく)秋田市と同程度かそれ以下の規模の他都市と比べても、秋田市は公共交通が使いにくい都市になってしまった思う。それによって必要以上のバス離れ、公共交通への無関心を引き起こしているとはいえないだろうか。
こうなってしまったのは、車移動を好む多くの秋田市民の意識もあるだろうが、交通局廃止後5年間における「バス会社の経営・営業の方針」と「公共交通に対する秋田市の関わり方」、そしてその両者の意思疎通が取れていないのが原因のように僕は感じている。


まず、バス会社。この会社は、市営バスの全路線を引き受け、同社既存路線と併せて、秋田市内の路線バスのほぼすべてを運行している。
かつて、市営バスを将来どうするか議論されていた段階では、市営のまま存続することや第3セクター化なども選択肢にあった。
しかし、このバス会社の社長が「秋田市程度の規模の都市では、1つのバス会社が経営した方が効率的」と言って、自ら望んで市営バスの全路線移管を引き受けたものと記憶している。それが現在のほぼ1社独占体制につながっている。

それなのに、いざ移管してみると、今まで何度か取り上げたが時刻表すら満足に作れない有様(最近、多少改善してはいるけれど)。秋田市のバスのほぼ全路線を手中に収めたのに、それを活かして新しい取り組みをするわけでもない。
これでは、お客さんに乗ってもらいたいという気持ちが感じられず、現状維持で手一杯のように思える。
自ら進んで移管を申し出た、あの心意気はどうしたの? と思ってしまう。

このバス会社も、秋田市郊外や市外の過疎路線を抱え、経営が大変なのは分かる。(だから、決して批判ばかりするつもりはない。もっとがんばってもらいたいのです)
利用者としても、かつての市営バス運行地域だけ“優遇”されていたとも考えられるから、ある程度の不便は我慢しないといけないと思う。
でも、秋田市中心部なら、ダイヤや路線網を再検討して工夫をすれば、乗客や収益が増えそうな余地はまだまだあると思う(具体的には後日)。
少し工夫して少しがんばれば、利用者としてはもう少しは便利になるし、バス会社としてももう少しは儲かりそうに思うのは、素人考えだろうか。


そして秋田市。
2009年3月に2015年度までの秋田市における公共交通の将来構想をまとめた「秋田市公共交通政策ビジョン」を策定した。路線やダイヤ設定から路線図やバス待合所、さらには利用啓発にいたるまで幅広く公共交通を使いやすくする構想に満ちあふれている。それから早2年が経つ。
1年後の2012年度末に、各施策の見直しを行うことになっているが、この2年間でビジョンの内容はどのくらい進んだのだろう?
昨年、車両の行き先表示の社会実験は行われたがそれっきりだし、それ以外にはほとんど変化がないように感じる。
我々の目に見えないところで着々と進展しているのなら余計なお世話だが、来年度1年間でメチャクチャがんばらないと成果がほとんどなさそうに思えるのだが…

さらに、秋田市が関わる日赤病院・婦人会館跡地(中通一丁目)の再開発関連では、中心市街地に駐車場収入をアテにした無料の乗り物を走らせるとか言っているし、しかも先日は、秋田県が電気バスを試作して秋田市中心部で運行することを検討していることが分かった。
いずれも公共交通政策ビジョンには想定されていないものであると思われ、これらと足を引っ張り合うことになりかねない。

ほかにも、郊外地域では、市営バスから移管された民間路線が、その数年後に不採算で廃止されたのに伴い、秋田市が運行するコミュニティバス(実際の運行は民間委託)となり、いわば“再市営化”されたのもなんかヘンなお話に思える。

秋田市でやっていたバス事業を民間会社に譲り渡したわけだし、そもそも路線バスは秋田市民の足である。
民間会社といえども公共交通機関であり、しかも独占状態のため代替できる企業もない。だから、秋田市はもっと積極的に関わるべきだと思う。
市役所内には市営バス時代の運行ノウハウや、事情に詳しい職員もまだ残っていると思う。惜しむことなく、民間バス会社に提供してはどうだろうか。


では、これからの秋田市の公共交通はどうなればいいのだろうか。
少なくとも僕個人には、年取っても自分で車を運転できる自信も、運転手付き車を保有できる自信もない。
これは他の多くの秋田市民も同じはずで、絶対に秋田市に公共交通機関は必要で、今よりも使いやすくする必要があると思う。

秋田市の公共交通を使いやすくするためには、新たに路面電車とか新交通システムを造るという考えもできるだろうが、それには場所・建設費用・運営会社・利用者数・冬の天候対策などなどクリアすべき課題があまりにも多すぎる。
その点、バスは既存の道路を利用すれば済むし、今と同じ会社が運行してくれれば課題は少ない。利用者の要望を充分に聞き、ほんとうに必要とされる路線を作れば、とても利用しやすいはず。ディーゼルエンジンだと環境に悪いという意見もあるかもしれないが、1人1台乗った自家用車が渋滞するよりはずっとエコだろう。
バスだけ(+既存のJRや私鉄)で移動しやすい街を作っている都市がたくさんある(盛岡市、松江市鳥取市弘前市など)のだから、秋田市でもバスを充実させるべきだと思う。
繰り返すが、秋田市に必要で、いっそう充実させるべき公共交通機関は、路線バスであると思う。

以上、抽象的で自分勝手なことばかりを並べてしまいました。

2005年3月通町二区にて。最後まで残った市営バスの路線の1つ、泉秋操線(現・泉ハイタウン線)。
市営バスでは祝日は国旗・市旗を前に付けていた。
「134」号車は、交通局が最後に購入した(1996年頃?)車両の1台で、中型サイズのオートマチック車。
民間会社に譲渡されて緑の塗装になり、現在も活躍中のはず。

そんなわけで、秋田市交通局廃止から5年という節目に際し、当ブログでは「秋田市営バス」カテゴリーを新設し、秋田市営バスを思い出として振り返るとともに、現状と将来の秋田市の公共交通について思うところを、好き勝手に綴ってみたいと思います。(他の記事同様、不定期でのアップです。何回くらい続くかも分かりません)
ネット上では、秋田市営バスの車両を記録したサイトはそれなりにあります。全国各地のバス愛好家の方々によるもので、貴重な資料として残ることでしょう。しかし、日常的に秋田市営バスを利用していた人による記録、記憶は極めて少なく、このままでは秋田市営バスの路線やサービスに関する情報がなくなってしまいそうです。自分自身でも忘れてしまいそうなので、記録しておく目的もあります。

あくまでも一個人の意見である点をご了解いただき、間違いやご意見などがあれば、お寄せください。
※当時の写真は、カメラの性能と腕のため、見苦しい点があります。
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コメント (22)
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