広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

市営バス方向幕・横編

2012-09-26 19:51:45 | 秋田市営バス
秋田市営バスの行き先表示(方向幕)。前面に続いて、中ドア付近にある側面の表示器編。
※ここでは、共通の仕様で使われていた中型バス・大型バスの表示器について取り上げています。小型バスについてはまた別なので。

前面の表示器が小さかった頃の車両は、側面の表示器も小型(横長)で、ドアの上部に飛び出すように付いていた車両が多かったはず。内容は、当初は正面・後部と同じ内容だったかと思う(あまり記憶にないのですが…)。
【10月27日訂正】小型表示器だった当時の写真(昭和40年代など)を見ると、既に側面には複数の経由地を表示していることが確認できたので、訂正します。(ただし、矢印で結んでいたか、上り下りで内容が異なっていたか等詳細は不明)
1980年代に正面の表示が大きくなって以降は、側面の表示器も縦方向が倍ほどに拡大され、中ドアの右側に設置されるようになった。
(再掲)ドアの右に大きな行き先表示
表示内容も大きく変わり、始発といくつかの経由地と終点を順に左から右へ縦書きで並べて矢印で結んだものとなり、分かりやすく・見やすくなった。
秋田駅発交通局行きの場合、下の画像のような感じだったと記憶している。
※当初の側面表示のイメージ(書体、表示される地名等は実際と異なります)

そして、おそらく1988年頃、前と後ろの表示内容が見直され、旧型表示器と新型間で統一されたわけだが、その時に側面の表示も見直された。
駅発交通局線(記事冒頭の写真の再掲)
以前の大型表示器からの変更点は、「◯◯経由」と左端に主要経由地を示して枠で囲んだこと、始発の停留所名(上の交通局線では「秋田駅」)を表示しなくなったこと。

これにより、まず、終点が同じで経由地が違うものが識別しやすくなった。現在のLED式表示器でも、上部に横書きで経由地などを表示できるようになっているので、それに通じる思想ではないだろうか。
そして、考えてみれば、始発停留所名を経由地・行き先表示に示すことは意味がないことであり、それを省いて、他の経由地を表示するスペースをより多く確保できるわけで、合理的。また、新国道経由飯島北行きのように、始発点が複数ある(秋田駅、新屋案内所、新屋高校、南高校、商業高校)場合、従来はそれぞれにコマを作成しなければならなかったが、始発を表示しない新表示では中央郵便局前以降のバス停を矢印で結ぶことによって1つのコマを共通で使えるようになったはずで、コマ数の節約もできたと思われる。
この表示は、旧来の小型幕の車両にもセットされ(もちろん文字は小さい)たし、交通局最終日まで使われた。

なお、秋田中央交通では、市営バスに触発されたのか、ごく一時期(昭和50年代後半?)の導入車両において大型表示器・矢印表示を採用していたものの、基本的には小型幕で正面・後部と同じ内容を表示していた。
矢印表示が本格的に登場するのは、市営バスの移管が始まった2000年代から(ただし新車でも小型表示器)、表示器のサイズが大きくなるのはLED化されるまで待たなければならなかった。
小型の幕の跡に大型のLEDを設置することは難しいため、中央交通で途中でLED化された車両は強引な取り付け方(前のほうに取り付けられたり、窓枠や戸袋窓と重なるなど)がされた車両もある。


話を戻して市営バスの経由地を枠で囲った側面表示には、前面と同じく、微妙に違う2つのタイプが存在した。
新屋西線のノーマルな秋田駅行き(前と後ろは「県庁市役所 秋田駅」)で比較。
266号車(2002年4月)

231号車(2001年3月)
欲を言えば、県営住宅経由と区別できるように「栗田神社前」などを入れるべきだと思うが、作成時期や書き換え費用を考えると、仕方ないのか。

どちらも、書いてあることは同じ。違いはお分かりでしょうか?

まず、「県庁」と「市役所」の間の「・」の有無。これは県庁を通る系統だけで見られる違い。
そして、「川尻」と「秋田駅」の文字の形が違う。266号車では正方形(正体)なのに対し、231号車では縦長(長体)になっている。枠の中の「経由」だけはどちらも縦長。
前面の青い文字で2文字の経由地の文字が横長(平体)だったのと同じような現象だ。

他のコマでも、
291号車の西口発明田経由桜ガ丘行き。1文字から4文字まで揃う(2002年4月)
縦長になる表示では、3文字以下が縦長で、4文字だと正方形となるようだ。
したがって、側面では[「経由」以外の文字がすべて正方形][矢印間の3文字以下が縦長]の2種類があったことになる。
前面同様、縦長文字があるほうが新しい幕かと思う(これについては根拠があります。後日紹介します→続きの記事の「朝日町」参照)が、使い回しなどが行われていたようで、車両の新旧などとの法則性はなかったようだ。

ちなみに、上の西口発桜ガ丘線では枠の中に「秋田駅経由」とある。これは、本来は交通局始発で駅に立ち寄るつもりで作成したのだろう。
このような、他所始発が前提で「秋田駅経由」とあるコマを秋田駅始発の系統にも流用する例は、手形山団地線などでも見られた。(一方で、県庁経由交通局線は、駅始発とそうでない駅経由のコマが両方用意されていた)



5文字以上の場合。
256号車の商業高校経由割山行き。縦長文字あり(2002年3月)
縦長文字があるほうの経由地の枠内の「商業高校」は4文字でも縦長になるようだ。5文字の「免許センター」は扁平な文字。

次の2つの正方形だけの表示は、「秋田八丈」塗装のワンロマ車で2002年3月撮影。(回転途中を撮影したのでズレています)
とてもレアな系統
今は完全に廃止された「県庁・茨島経由御野場団地線」というのがあり、その中に「山王新町経由」という系統があった。山王新町経由は移管前の1995年春に廃止されており、撮影当時で既に使っていないコマだったことになる。
少なくとも1988年度以降は、上り片道だけで、御野場→南高校前→卸センター入口→茨島→山王新町→県立体育館→県庁→秋田駅という経路。要は13号線をずっと走り、臨海十字路の手前で曲がって山王大通りに出る。
平日に1本だけの運行で、御野場発が朝の10時頃で、いまいち存在意義が分からない系統だった。

側面表示は、山王大通り以降のバス停が表示されていて、末端に偏っていて、分かりにくい。「茨島」くらいあってもよかったのではないだろうか。

文字は、枠内の「山王新町」が4文字だけど正方形、しかも小さい。「県庁・市役所」は扁平。

これは今もあります
イオン秋田中央店(当時は秋田サティ、バス停名は「若草団地前」)前を通る「有楽町・柳原経由御野場団地線」。
枠内の「有楽町・柳原」は正方形。矢印間の「卸センター入口」「牛島駅入口」は扁平。

ちなみに逆方向の縦長版。
294号車(2002年3月撮影)
この表示は、イオン秋田中央店前以降が同ルートとなる、卸センター経由新屋線の上りと兼用できる。

ということで、以上が側面幕の概要でした。
まだ続きがありまして、さらにマニアックな話になります。
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市営バス方向幕・前編

2012-09-24 22:46:04 | 秋田市営バス
先日の記事で、秋田市営バスの液晶式の行き先表示器の話が出たので、関連して市営バスの行き先表示(方向幕)について。
前置きしますが、とてもマニアックです。しかも何度かに分けてアップしますので、物好きな方だけ、どうぞお付き合いください。
今回は車両正面上部の表示について。※タイトルの「前編」は「ぜん編」ではなく「(車両の)まえ編」という意味です。

最初に、行き先表示の変遷。
市営バスに限らず、大昔のバスの行き先表示は、紙や布などに行き先を書いたものを掲出していたようで、大昔の秋田市営バスの写真を見ても、毛筆で「新屋行」などとなっているのが確認できる。
その後、経由地がカッコ書きされた看板屋さんが書くような手書き文字になるなど変遷したようだ。

僕が記憶にある、昭和50年代中頃には、フイルムに印字したものをモーターで回転させて、目的のコマで止めるもの(方向幕としては完成型)が市営バスのすべての車両に設置されていたかと思う。夜間は内側(フイルムの裏側)から蛍光灯が点灯する。
しかし、昭和50年代中頃の車両は、表示スペース自体は現在のLEDより狭く(小型で)、こんな感じの表示だった。
イメージです ※書体は異なります
細身で扁平な書体、秋田駅前(当時は西口しかなかった)行きは「秋田駅前」と表示、経由地は下段にカッコ書きで緑色文字で表示、といった特徴があった。

その後、1981年からの冷房車導入と前後して、新車の行き先表示器に現在のLEDと同じサイズの大型のものが採用された。
(たしか1980年の一部車両あたりから大型化されたので「行き先表示は大きいけれど、冷房がない」という車両が何台か存在したはず)
大型表示器の車両では、太めの丸ゴシック体、秋田駅前行きを「秋田駅」と表示、経由地は青文字で左側に表示、というスタイルになった。
ただし、その内容は「山王・交通局」「新国道 飯 島」など、末期に見慣れた表示とは異なるものも少なくなかった。
さらに、旧来の小型表示器の車両はそのままだったので、新旧2種類の表示が混在していた。※書体についてはこちらにて。

その後、おそらく1988年頃だと思うが、全車両の幕の内容が統一された。この表示が交通局最後まで使われ、記憶に残る方も多いだろう。
この時は、「山王・交通局」→「県庁 市役所 八橋球場・交通局」と内容が大きく変わったコマも一部にあるが、「新国道 飯 島」→「新国道 土崎・飯島」、「通町 市民生協」→「通町 寺内 将軍野・市民生協」といったように、従来の大型幕の内容をベースに、黒文字で主要経由地や路線名を表示するようになった。
より具体的に分かりやすくなったわけだが、文字数が増えて縦長の文字になって、雰囲気が変わった系統もあった。

この時、旧来の表示が残っていた小型幕の車両でも、大きい幕と同じものに差し替えられた。もちろんスペースは狭いので文字は小さく、文字は細身の丸ゴシック体だった(今、中央交通に残る幕車の書体に似ている)。【2021年10月2日追記・小型幕交換後の書体は、写研「ナール」で、1987~1988年度のどこかで交換されたと思われる。】
なお、この時、ドアの側面の行き先表示も改められ、経由地を枠で囲って表示するようになった。(側面幕については別記事にて)

そして、前回紹介した1996年に登場した液晶表示器でも、基本的にこの内容を踏襲しており、文字の配置を崩さないよう配慮されていたように見えた。(モノクロなので青文字も黒で表示。後部の「天徳寺・秋田駅」など1行に収まらず、2行に分けて表示したものもあった)
市営バスでは、現在主流のLED式表示器が設置されることはなかった。



では、ここから本題。
市営バス末期に残っていた大型の行き先表示は、内容は統一されていたものの、微妙な違いがあったという話。

ここで、2つの写真をご覧いただく。
どちらも、1996年に市営バス最後の新車として導入され、2006年の最終日まで走り続けた日産ディーゼル製中型車の1台「135」号車が、外旭川市営住宅(旭野団地)行き神田線の表示を出しているところ。※この車両の導入当初は液晶式で、数年経ってから幕式に変わった。
 2002年5月/2004年7月撮影
2つの写真の行き先表示の違いがお分かりだろうか?
2002年は「神田・旭野団地」、2004年は「神田.旭野団地」。つまり、区切りが中黒(・)とピリオド(.)で違っている。中黒のほうが幅を取っている。
さらに撮影角度が違って分かりにくいかと思うが、2002年のほうが文字がやや縦長で、その配置にすき間があるのに対し、2004年では文字が正方形に近く、密に配置されている。

蓬田上丁行き添川線でも、
 270号車(2002年7月)/291号車(2004年5月)
「添川・蓬田」と「添川.蓬田」が存在。文字数が少ないためか、文字幅は同じか。

このように、秋田市営バスの行き先表示の文字とその配置には、2種類が存在していたのだ。
どちらの幕がセットされるか、車両の新旧やメーカーなどによる法則はないようだ。135号車のように途中で入れ替わったケースもある。これは経費節減のために新車に廃車から外した幕を再利用したり、幕が破損(巻き取り時に絡んで破れるなど)して予備の幕を再利用していたことなどによると考えられる。
また、詳しく取り上げないが、前と同じ内容が表示されていた後部の行き先表示(サイズ自体は前より小型)でも、同様の違いがあるが、上記の理由から、同じ車両の前と後ろで違う種類の幕がセットされていた場合もあると考えられる。


神田線、添川線は黒文字だけだったけれど、青文字の経由地入りのコマにも違いがある。
代表的な県庁経由交通局線で比較。
130号車(2005年11月)

121号車(2003年2月)
同様に黒文字では中黒とピリオドの違いがある。ピリオドのほうは「八橋球場」と「交通局」で文字の幅が異なる。

そして、「県庁」と「市役所」が上下に2行で並ぶ青文字。
中黒のほうでは、県庁も市役所も、文字が正方形で同じ幅。
ピリオドのほうは、「県庁」の文字幅が広く、横長になっている。「市役所」のほうは若干文字が太くて縦に長い感じもする。

新屋西線でも同様
280号車(2002年5月=中央交通へ譲渡直後で塗装変更されていない)

229号車(2002年3月)

ここまでを踏まえると、市営バスの方向幕には[中黒区切り、青文字2文字も正方形][ピリオド区切り、青文字2文字が横長]の2種類が存在したと言えそうだ。
[ピリオド区切り、青文字2文字が横長]のほうが、より見やすくしようと努力したように伺える。
また、1992年に運行を開始した泉秋操線の青文字「通町 泉道田」のうち2文字の「通町」は横長のものしか見たことがない。
したがって、おそらく、[中黒区切り、青文字2文字も正方形]のほうが先に作られた幕で、[ピリオド区切り、青文字2文字が横長]のほうが後で作られた幕だと考えられる。

【10月8日訂正】以前の記事に掲載した古い写真(画像へのリンク)を見たら、「通町 泉道田」が全部正方形の車両も存在した(208号車)から、↑そうでもない。
でも、前に紹介した、比較的初期の大型幕の車両(191、197、198号車)の写真では、揃って後者の幕がセットされているので、そうでもないのかもしれない。


さらに、上のパターンに当てはまらないものもありまして。
商業高校経由割山線
294号車(2002年3月)

249号車(2002年3月)
青文字は違いがあるが、黒文字の区切りはどちらもピリオド。(ただしピリオドの余白の幅は違う)

もう1つ、レア(1日1便)な交通局発県庁・千代田町経由神田旭野団地線。
 269号車(2003年7月)/275号車(2002年8月)
これも同じく。
※269号車も275号車も、どちらも1992年度導入。それなのに違っていることになる。(この年は三菱製中型車が7台=269~275号車と大量導入された。新塗装の車両では、同年度内・同型車導入の最多記録。ただし、複数回に分けて納車されたのでナンバープレートは連番でない)
※「千代田町」が「千代田」になっている。青文字部分に4文字以上入れることはできなかったのだろうか。

これを加味すると、[中黒区切り(一部はピリオド)、青文字2文字も正方形][ピリオド区切り、青文字2文字が横長]となるのだろうか?

側面の行き先表示にも、同じような新旧の違いがありまして、後日また
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市営バス小ネタ

2012-09-20 22:39:08 | 秋田市営バス
昨日に続いて、バスの日便乗記事。秋田市営バス関連のちょっとしたネタです。
昨日と同じく、古い写真のため写りが悪い画像もありますのでご了承ください。

●旧塗装
市営バスの車体塗装の変遷を紹介したけれど、1985年度までに導入された路線用車両の塗装(2001年春で消滅)の写真はほとんど残っていない。
紹介していなかった、まともに写っている画像は、以下の3つくらい。
197号車(2000年9月撮影)
以前写真をアップした198号車と同型の三菱製中型バスで、この塗装で最後に導入されたグループ。
この車両導入当時は、「ワンマン」表示灯の設置が義務付けられており、それが不要となってからも残っているのが一般的だが、上の197号車では撤去されていたようだ。(198号車には残っていた)

191号車(2001年1月撮影)これは「ワンマン」灯が残っている
この頃の市営バスの中型バスといえば、この車両。
日野レインボーの初代モデルで、2灯式のヘッドライトや頭がボコっと飛び出たデザインが特徴。くぐもったような独特なエンジン音も印象にある。
市営バスの初期の冷房車の代表でもあり、真夏のバス停で、遠くから頭の出っ張ったバスが来るのが分かると、うれしかったものだ。

上の写真では、行き先表示の両側が黒いが、これは晩年に塗り替えられたもの。当初は197号車などと同じく、赤かった。
この市章は、円と中の「+」のバランスが変わっている。

この車の側面・後部の写真もあった。
雪の中の191号車(2000年11月撮影)
頭の出っ張りがよく分かる。
この塗装では、後部の上のほう(ランプ類~リアガラス)もグレーだったのか。(新塗装では白)


●日産ディーゼルの大型車
日産ディーゼルのバスを特集したことがあったけれど、秋田市営バスの同社製路線バスは、ほとんどが中型車だった。
真の大型車は、1988年度導入の223号車と224号車の2台だけ。
※1993年度のワンステップは、大型車として運用されていたが、実際は中型バスの車体を延長したもので、メーカーでは「普通型バス」と呼んでいた。

その唯一の写真。
224号車(2000年7月撮影)
翌年以降に導入される日産ディーゼル(富士重工ボディ)製中型車とはほぼ同じデザインであるだけに、幅の広さ以外は中型とほとんど同じ。
写真でも分かるかと思うが、この車両は、車体下部の肌色の部分が、オレンジ色に近いサーモンピンクのような塗装だった。

(再掲・参考)2台とも日産ディーゼル製(中型)だが、奥の268号車のほうが赤みが強い
この部分の色は、メーカーや製造時期によって微妙な差があり、日産ディーゼル製は赤みが強い傾向があったけれど、223・224号車はその中でも特に赤っぽかった印象がある。


●旗の取り付け位置
市営バスでは、祝日などに車両に国旗と市旗を掲出していた。
基本的に、正面中央の市章の辺りに「V」もしくは「X」型に棒を立て、向かって左に国旗・右に市旗を付けていた。
しかし、1992年と1994年度に導入された大型バス(1993年も大型が導入されたが従来通り)だけは、違った。
1992年度の「秋田八丈」塗装
上の写真のように、ヘッドライトの脇というか車体の角付近に垂直に棒を立て、そこに旗を付けていた。
矢印の位置

大型車として最後の導入となったいすゞ製1994年度車。窓の「新政」の広告も懐かしい
いすゞ製では、ウインカーより後ろに旗があり、「前面」というより「側面」か。
初めてこの取り付け位置を見た時は、旗が外れて引っかかってるんじゃないかと思ってしまった。

旗のポールを隅に寄せて、正面中央部をすっきりさせたい目的だったのだろうか。いずれにせよ、旗を立てない中央交通では、関係のないことになってしまった。


●液晶式行き先表示
市営バスとして最後の新車導入となった1996年には、2006年春まで交通局に残って“最後の秋田市営バス”となった日産ディーゼル製中型車5台(134~138号車)のほか、日野製小型車「リエッセ」も2台(65・66号車)導入された(先に中央交通へ譲渡)。

上記、日産ディーゼルの車両の記事で触れたように、1996年度の車両では、液晶式の行き先表示が設置された。
現在主流のLEDではなく、バックライト付きモノクロ液晶によるもので、とても見にくかった。
(再掲)こんな感じ

その液晶行き先表示の唯一の写真があった。
65号車(2000年9月撮影)
小型バスに合わせた、小型の液晶表示器が使われていた。
いちおう「泉・山王環状」と読める(見づらいのはカメラの性能のせいもあります)

中型バスの液晶は、4年ほど経っていったん他の車両に移設され、それもすぐに撤去されてしまい、結局フイルムに印字した幕式が最後まで残った。【22日訂正】他の車両に移設された時期は不明。最終的に(移設先車両で)撤去されたのが、初導入から4年ほど経った2000年夏だったはず。
小型バスのはいつ頃かは分からないが、やはり早期に幕式に戻された。
東京都営バスでも、1994年から2000年頃にかけて同種の行き先表示を設置していた車両があったそうで、やはり秋田市営バスは先進的(というか新しもの好き?)だった。
【2015年10月3日追記】写真の通り、バックライトの色は黄緑色だったが、導入されて間もない頃の中型バスでは、試験なのかオレンジ色のような色なのを見たことがある。
中型バスの表示器が、いすゞの中型バスに移設されたのは1998年春頃だったようだ。それが2000年夏まで使われた。
【2017年5月19日追記】秋田のバスでは行われていないが、大都市などバス会社によっては、最終バスや割増料金の深夜バス等であることを示すため、行き先表示の照明の色を変えているところがある(LED化後は外枠を点灯)。バックライトの色を変えられたのは、それに対応するのが本来の目的だったのかもしれない。(以上追記)

市営バスの小ネタは、またいずれ。
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棒バス停

2012-09-19 23:42:25 | 秋田市営バス
そういえば明日は「バスの日」なので、久々に秋田市営バスの話題。バス停についてです。
旧秋田市交通局のバス停は、この記事などで紹介した通り「ダルマ型」のポールが圧倒的に多く、あとはバスロケーションシステム(バス接近表示)対応のものなどがあった。


では、冒頭の写真のようなタイプのバス停があったのはご存知だろうか。
※この記事の写真は、すべて2002年夏~秋に撮影しました。バス停名が分からなかったり間違っているかもしれないものがあります。また、画質が悪いです。

7センチ角くらいの「棒」に色を塗ってバス停名を書いたもの。(ダルマ型と同じような台座にささっている)
上から、赤・黄色・水色という、秋田市営バスのバス停らしい色が塗られている。
赤い部分には白で市章と「市営バス」、黄色い部分に黒でバス停名がそれぞれ縦書き。
※ここでは、このバス停を指して「棒バス停」と呼ぶことにします。
ただし、写真のように老朽化したものが多く、色や文字が剥げ落ちたり、バス停名をワープロ書きしていることがある。
てっぺんはとがっているのだが、朽ちて平らになったものもあった
末期には、ダルマ型と同じ、A4サイズの時刻表を掲示できる枠が付いていたが、昔は、棒の幅と同じ縦長の時刻表を掲示するようになっていたはず。
矢印の部分はバス停名表示用かと思うが、元々は時刻表スペースだったかも


全国的に、このような棒状のバス停が閑散路線に置かれることがあるようだ。秋田市営バスで棒バス停が設置されたのも、運行本数が極めて少ない路線。
この記事のコメント欄で書いたように、昭和末期には、秋田市中心部の「鱗勝院前」「聖園短大前」「千代田町」などにも設置されていた。
これは、1日1本だけ、旭野団地と県庁市役所~交通局前(現・臨海営業所)を結ぶ、神田線の系統「千代田町経由神田交通局線」が使ったもの。
しかし、平成に入って間もなく、「泉秋操線(現・泉ハイタウン線)」が毎時1本以上の頻度で運行を開始したため、その経路と重複することになった聖園短大前や千代田町はダルマ型に交換され、また千代田町経由神田線自体が経路変更で別の道を通るようになったため鱗勝院前は廃止されて、市街地の棒バス停は短期間で姿を消した。(以後、新設されるバス停は本数が少なくてもダルマ型が置かれる)

ということで、市営バスの棒バス停といえば、どうしても「郊外・山村部のバス停」のイメージが強い。
市営バス仕様の棒バス停が最後まで残っていたのが、この記事で写真を紹介している「中北手線」沿線。
1日2~3本小型バスが走る路線で、秋田駅西口から築地、楢山大元町を経て横森地区に入るまでは、築地経由の桜ガ丘線や経法大線(現・ノースアジア大学線)と同じ。
「横森三丁目」公園風の場所に置かれていた
「横森三丁目」から単独区間に入り、一つ森公園北側のくねくねした道を走る。そこから先は棒バス停が連続する区間となる。
「大戸」。信号機の左右が横金線
「大戸」で県道横山金足線を越え、大平台と山手台の間の谷間の平地の田んぼの中を東へ進み、秋田自動車道をくぐった「上小山田」まで行く路線。地名としては「上北手小山田」であり、「中北手」という地名はないようだ。
「大戸公民館前」かな。奥の丘の上が新興住宅地・大平台。桜ガ丘線の折り返し停留所でもある
中北手線は2003年春に中央交通へ移管され、2010年春に廃止されて、秋田市が運行する「マイ・タウンバス東部線中北手コース」として、日赤病院を起点に運行されている。
つまり、横金線より東側での運行であり、駅~横森付近は通らない。その代わり、従来は通っていなかった「大平台三丁目」を通るようになり、桜ガ丘線への乗り継ぎに配慮されているようだ。


新興住宅地や幹線道路が近いにも関わらず、それらが眼中にないかのごとく、風景に溶け込んで立ち続ける棒バス停たち。
緑の中

「はさ掛け(稲の自然乾燥)」と

「火の用心」

朽ちてただの木の棒と化す

移管後は興味がないので、これらの棒バス停がどうなっているか知らないが、残っているとしても塗り替えられていることだろう。
一方、他路線の折り返し場などで、駐車禁止の看板の支えなどとして、使い古しの棒バス停が市営バスの塗装のままで残っている場所もある。今も残る秋田市営バスの面影の1つと言えそうだ。

この記事後半も参照。かつては秋田中央交通にも存在したとのこと。
【2018年1月28日追記】テレビ朝日「帰れまサンデー」によれば、2018年初め時点で、静岡県伊豆半島の先のほうを走る東海バス・石廊崎線において、ほぼ同じ形状のバス停が現役で使われており、出演者は「杭みたい」と驚き、「乗降客が少ないバス停だからこんな形なのか」と話していたが、「風で倒れないように」この形状になったとの説明が入った。棒バス停は、秋田市営バスもしくは秋田県内独特のものではないようだ。
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大学病院行きバスの現状

2012-08-01 23:55:42 | 秋田市営バス
秋田駅と秋田市広面(ひろおもて)にある秋田大学医学部附属病院の間のバス路線について。
先日の記事では、昔の路線をややこしく紹介したけれど、今回は現状について。
【2024年5月31日追記・この記事は2012年時点での状況です。2010年代後半以降、路線廃止や乗務員不足を理由にした減便が行われ、2024年時点ではこの記事の記載内容よりも、路線・便数とも少なくなっています。利用の際は最新の情報を確認願います。

大学病院方面のバスは、秋田駅の西口と東口両方から出ている。
運賃は東口から210円、西口から240円と東口のほうが安いものの、運行本数は東口が毎時1~2本でしかも等間隔でないのに対し、西口からはおおむね10~20分間隔で運行されているので利用しやすい。
駅と大学病院を結ぶ路線網
東口発、西口発ともそれぞれ複数の路線がある。(路線が違っても同じバス停間の運賃は同額、所要時間もあまり変わらない)
まとめると、(運行本数は平日の駅発)
●東口発
・駅東線
先日の記事で紹介した、秋田市交通局から移管された小型バスの路線。
現在は全便が大学病院の2つ先の「境田上丁」まで行って、そこで折り返す。
1日5本、所要時間13分。

・赤沼線(東口発)
秋田駅東口→大学病院→秋田駅西口→車庫と秋田駅を2度通るややこしい路線。西口発着については後述。
特に大学病院から乗る時は、東口行きと西口行きの時刻が近接していて、行き先表示が分かりにくいので、注意が必要。
1日20本、所要13分。

●西口発
・手形山団地線(中央交通のサイトでは手形山大学病院線などとなっている場合もある)
秋田市交通局からの移管路線。手形陸橋を渡って手形山崎を左折、秋田大学(本部)前、秋田高校手前で手形山へ上って、大学病院の脇(西側)へ出る。
(再掲)手形山を上る手形山団地線
手形山を上って下りて、しかも一部便は県営住宅の中に入って戻って(手形山西町経由)と、遠回りになるものの、現在は運行本数が最も多い路線なので、大学病院へ行くメインの路線と言っていいかもしれない。現在では唯一の大学病院が終点/始発の(大学病院で折り返す)路線。
20~30分に1本、所要17分(手形山西町経由は20分)。

・太平線・松崎団地線・赤沼線(西口発)
中央交通オリジナル路線。
昔は「車で大学病院へ行く」といえば、この路線の経路が一般的だったのではないだろうか。手形山崎までは手形山団地線と同じで、手形山崎を直進して三吉神社前を経て、谷内佐渡(やないさど)で旧道から左折して大学病院正面へ至る。
市営バスと競合していた当時は、中央交通の大学病院行きとしての主要経路だったはず。

3路線とも、経路からいったん外れて大学病院へ立ち寄る(乗り入れる)ような運行形態。(いずれも谷内佐渡の「大学病院入口」交差点から病院までの500メートルほどを行って戻る)
大学病院通過後、太平線は岩見三内、松崎団地線は松崎団地へそれぞれ向かう。西口から来た赤沼線は、今度は東口へ向かうわけで、上記東口発赤沼線の復路の役目を担う。
所要時間12分。1日の本数は太平線8本、松崎団地線8本、赤沼線20本。

なお、西口-手形山崎-三吉神社前とこの路線と同じ経路を通るにも関わらず、大学病院に乗り入れない路線や系統もあるので、注意。(車内放送で特に注意があるわけでもないようだ)
下北手線(宝川上丁行き)の全便と1日1便だけの手形経由ノースアジア大学行き、それに松崎団地線の一部(朝夕の「331」系統)が該当する。
下北手線なんか、そちら方面から通院する人もいるだろうし、大学病院に乗り入れてもよさそうなものだが…



路線の概要は以上。では、平日に西口から大学病院へ向かうと仮定して、そのダイヤに注目。
上記の通り、手形山団地線と太平線・松崎団地線・赤沼線(以下、3路線をまとめて「谷内佐渡経由」とする)があるので、10分か20分に1本どちらかの経由が運行されている。(例外は12時00分の次が12時30分くらい)
路線によって駅の乗り場が違うことに注意すれば、利用しやすいダイヤと言えよう。

しかし、「同時に2本が発車する」時間があるのが、引っかかる。
9・11・12時の毎時00分には、大学病院線と谷内佐渡経由(赤沼線または太平線)が同時刻に駅を出るのだ。ダイヤ上は手形山崎まで2台が続行し、上記の通り5分か8分差で大学病院に到着(谷内佐渡経由のほうが早い)することになる。
そして00分発の次の便は、9時と11時が20分、上記の通り12時は30分までない。
どちらかのダイヤを動かし、「10分発」にできないものだろうか。そうすれば、乗客にとってわずかながら乗車機会が増え、待ち時間が減るのに。


次に、帰り。大学病院から駅へ向かう場合。
行きが10~20分おきにあったのだから、帰りもそうなのか?
実際に、大学病院発の秋田駅行きの時刻表をご覧いただこう。
平日の10時台~13時台の実際のダイヤを元に、西口行きと東口行きを合わせて1つの表にしてみた。時間の配分(間隔)が分かるように、いちおう5分刻みの目盛りを上段に入れた。
※ご利用の際は、公式な時刻表でご確認願います
ぱっと見て、まばらな時間帯と密集した時間帯があるのがお分かりかと思う。

13時32分には西口行きと東口行きが同時に発車している。
10時35分と38分、12時55分と58分のように、手形山経由西口行きが出た3分後に谷内佐渡経由西口行きが発車するケースが多い(14時以降にも複数回見られる)。上記の通り、谷内佐渡経由のほうが5分程度所要時間が短いので、手形山崎~駅にかけては後から出た谷内佐渡が先着することになる。(ただし、実際には谷内佐渡経由が遅れて病院に到着・発車するケースが多く、そうとも限らない。乗客も分かっていて、先に到着していて始発である手形山経由に乗る人が多い)

12時58分の次は13時32分まで34分間の空白を始め、おそらく通院を終えて帰宅する乗客がいると思われる10時58分の次が11時25分など、空白が大きい時間帯もある。
その11時25分の次は3分後の28分、さらに4分後の32分と3本立て続けに来たりもする。
大学病院前バス停に西口行きと東口行きが揃って入線
大学病院前からは、昼間に毎時5~6本以上運行されていて、秋田ではかなり運行本数が多いバス停ではあるのだが、こんなダイヤでは実質的な運行本数は毎時3~4本なのと変わらない。本数が多いのにそれが均一に配分されていなくて、乗車機会が少ないのだ。
駅発とは異なり、上り便はそれぞれの始発点から来る関係上、完全に等間隔なダイヤにすることは無理なのは分かる。
でも、手形山経由にしても谷内佐渡経由にしても、昼間の乗客の過半数が大学病院と駅方面とを乗り通す客だ。そこに着目すれば「手形山経由/谷内佐渡経由」ではなく、「大学病院行き」という1つの路線として一体的に捉えてダイヤを作成できないだろうか。

市営バスと中央交通がそれぞれの路線を分担していた当時なら、こういうダイヤでもしょうがないけれど、移管(=運行会社が1社になった)後10年近く経つというのにこんなダイヤでは、中央交通のやる気を疑ってしまう。
あと何年かすれば、近接するダイヤを「利用が少ないので」と理由をつけて廃止・統合するんじゃないか(したいんじゃないか)と、不安に感じてしまう。(それぞれの路線の単独区間を乗る客もいるわけで、廃止されると影響を受ける利用者は当然いる)

秋田市交通局を廃止・民間移管する時、そのメリットの1つに「2者で競合していた路線のダイヤが効率化される」というのがあったかと思う。僕は、このダイヤの効率化とは2者が続行していたのがなくなり、等間隔なダイヤになるということだと捉えていた。
また、秋田市が作った公共交通政策ビジョンでも、基幹路線では等間隔にバスが来るようにして、時刻表を見なくても利用できるようにする(「どのくらい待てるか」が人それぞれではあるが)ことが掲げられていたと思う。ある程度の本数を確保し、それを均一に配分して、乗車機会を増やす(あるいは一定に保つ)わけだ。手形山経由だけを見ればたしかにほぼ等間隔だけれど、大学病院-駅で見ればとてもそうとは言えない。
他にも、牛島方面の路線の秋田駅行きでも、同じように運転間隔が密な時間とまばらな時間帯が今なお存在する。

大学病院正面。信号の向こうがバス乗り場、玄関は左奥の木の陰(昨年秋撮影)
大学病院前は、以前は道路を渡った向かいにバス乗り場があったのだが、現在は病院の敷地内にバスが乗り入れ、病院の玄関へ屋根付き通路で行くことができる。
上記の通り運転本数(運転間隔ではなく)も多く、秋田市内の総合病院の中でも、いちばんバスで通院しやすいのが大学病院だ。
だからこそ、もう少しダイヤに配慮してくれれば、乗客は利用しやすくて助かるし、さらに乗客が増えるかもしれないのに。バス会社はそんなことは考えていないのだろうか。


あるいは、谷内佐渡経由と手形山経由をくっつけて、大学病院周辺で周回運行するような路線に再編することも考えられるかもしれない。(二ツ屋福島線のような)
それなら乗車機会を減らしたり偏ったりせずに、運行の効率化が図れそうな気もするが、そんなことは夢のまた夢でしょう。

※大学病院近くの谷内佐渡バス停についての記事
※2020年秋には、大学病院乗り場が少し変化した。
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駅東線と駅東口線

2012-07-26 23:38:51 | 秋田市営バス
秋田市の地理や路線バスには詳しいつもりでいるけれど、秋田駅東側の路線バス網やその変遷は、把握しきれていない。
個人的にあまり縁のない地域ということ、宅地化の進展で道路やバス路線に変化が多いこと、かつては市営バスと中央交通がほぼ半々くらいの割合で路線を持っていて、かつ市営バスからの移管後にその整理統合が行われたことが原因だと思う。
ということで、あまり正確な情報や根拠がなく、間違っているかもしれませんが、この記事では秋田駅東側のバス路線の一部を取り上げてみます。
※市営バスの歴史をたどるのに有用な秋田市広報紙の検索サイトが、現在うまく機能していません。これが使えたら、新たな情報が分かるかもしれません。


●駅東線と駅東団地線(現状)
その名も「駅東線」という路線がある。秋田駅東口-秋田大学医学部附属病院-境田上丁を結ぶ秋田市交通局からの移管路線で、秋田大学北光寮前、手形十七流(てがたじゅうしちながれ)辺りの狭い道を通るため、小型バスで運行されている。
現在は、路線のすぐ隣を中央インターへつながる道(県道62号線)や横山金足線(県道41号線)が走っているが、それには目もくれずにひたすら狭い道を進む路線。
運行開始当時はどちらの道もなく、狭い道が網の目のように走る地域だったはずだから、その中から路線が選ばれて小型バスが走り、それがそのまま現在に残ってしまったのだろうか。
【28日追記】東口から東進して横金線と交わる区間だけを見ると、現在メインの県道62号線上には、東通一丁目、東通二丁目、城東中学校入口(旧・東営業所入口)と3つしかバス停がないのに対し、並走する駅東線では7つもある。それだけ地域に密着した路線ということだろうか。
市営バス当時の駅東線(2003年撮影)。行き先表示は「駅東 南団地.大学病院」
路線名は「駅東」線というけれど、秋田市に「駅東」という地名はない。考えてみればとてもアバウトな路線名。

かつては秋田駅に「東口」はなく、さらに昔は駅の東側は一面の田んぼだった。
そんな秋田駅東側が開発途中だった頃、秋田市民はそこを指して「駅裏」とか「駅東(えきひがし)」と呼んでいた。かなり広範囲でおおざっぱなエリアを指していたと思うが、広面(ひろおもて)や横森、今でいう東通や桜の一帯だろうか。(以前から開発されていた、手形地区はその範疇には入れないはず)
その頃のエリアの呼び名が路線名になったのだろうか。

したがって、この路線名は「えきひがし線」だと思っていた。
秋田市民は「えきひがし」とは言うが、「えきとう」などと読む人はいないはずだから。
ところが、乗り場案内のローマ字を見ると、
※乗り場案内の写真は1年前に撮影したものです。現在も内容は同じですが、系統番号表示に伴いデザインが少し変わっています。
右上「駅東線 Ekito sen」
えきとう線」なの?
市営バス当時は知らないが、少なくとも中央交通ではそう呼んでいるらしい。(車内放送では路線名はアナウンスされない)
※上の写真、他の路線の英語表記もいろいろとツッコミどころがありますが…


ところで、昨年、城東中学校隣の中央交通の秋田東営業所(旧・秋田市交通局東営業所)が廃止された。
それに伴い、秋田駅西口発着の明田地下道・城東消防署経由東営業所線の代替として「駅東団地線」が運行されている。
これは終点付近にそういう団地があるようだけど、「えきひがし団地」? 「えきとう団地」?
正解は、
「駅東団地線 Eki Higashi danchi sen」
えきひがし団地線」ですか。
駅東団地線は秋田駅西口発着、駅東線は秋田駅東口発着で、経路が重複する区間はないとはいえ、ちょっと紛らわしい路線名だ。
地図に示すとこうなる
ここまでは、現状についてでした。


●駅東線と駅東口線(昔)
【27日追記】コメントにて新たな情報をいただき、以下の内容に実際と異なる部分があることが分かりました。最後の追記で補足しますので、本文は初回アップ時そのままにしておきます。

昔の市営バスの時刻表を眺めてみると…
駅東線と駅東口線がある!(平成8年3月26日改正)
駅東線があるほかに、「駅東“口“線(これは「えきひがしぐち線」でしょう)」という紛らわしい路線があり、両路線が上下に並んで掲載されていた。
この平成8(1996)年の時刻表では、駅東線は秋田駅前(西口)発着、駅東口線はその名の通り秋田駅東口発着。行き先は両線とも大学病院またはその先の境田団地行き。(一部は逆方向の南団地経由東営業所発着もある)
と、いうことは、現在の駅東線(東口-大学病院・境田団地)に相当するのが、この当時は駅東口線という名だったことになる?


ここで、途中バス停が掲載されている、昭和63(1988)年度のポケット時刻表を見てみる。当時は東口にバス停ができて間もない頃だった。
駅東口線 ※現在「南団地」と呼ばれるバス停が「山崎南団地」となっている
やっぱり現在の駅東線と同じだ。

では、
駅東線 ※「市場前」は現在の「明田地下道入口」
なるほど。昔の駅東線は、西口を出て南下し、明田地下道をくぐって東通仲町を過ぎてすぐ左折(駅方向へ戻る)。東口そばを横切って、「手形東町」から駅東口線の経路に合流していたようだ。
オレンジ線が昔の駅東線の単独区間。手形東町で赤のルートに合流して大学病院へ向かっていたらしい

1988年度のダイヤでは、駅東口線が毎時2本程度、駅東線が毎時1本程度運行されていた。1996年度のダイヤでは、両路線とも毎時1本ずつになっている。
1996年12月26日改正の時刻表までは、駅東口線と駅東口線が共存しているのを確認。残念ながらその翌年度(1997年度)の時刻表は保存していなくて不明。
次に手元にある平成10(1998)年11月1日改正の時刻表では、
東口発着発着が「駅東線」になっている
西口発着の「駅東口線」が姿を消し、東口発着が「駅東線」を名乗っており、現在と同じくなった。
運転本数は毎時1本で現在よりは多い。(現在は平日5.5往復、土日3.5往復)

【27日追記】1988年時点では、駅東線・駅東口線とも全便が大学病院止まりで境田団地へは乗り入れていない。1996年(駅東線・駅東口線とも)や1998年では、一部便(半分以下)が境田発着になっている。現在は、総本数が減ってしまったわけだが、全便が大学病院経由(構内に入る)の上、境田上丁で折り返している。
さらに別の過去の時刻表をざっと見たら、平成元(1989)年4月には「境田公園」発着という記述が見られたり、同年12月には別路線のはずの「城東消防署経由大学病院線(大幅減便の後、2009年に廃止)」扱いだったりと変遷が著しかったようだ(詳細は省略)。


昔は東口がなかったわけだから、最初にできたのが西口発着の「駅東線」だろう。
その後、秋田駅東口ができて、そこからバスが発着することになり、桜ガ丘線など今まで西口発着だった路線の一部が東口発着に振り分けられた。駅東線も一部が東口発着とされて「駅東口線」という名が付けられたのだろう。
それにしても、駅東口線という名称。駅東線と紛らわしいし、他にも東口発着の路線だってあるのだから余計に紛らわしい。昔の秋田市交通局は、たまにこういうちょっと意味が分からないことがあった…

やがて、駅東側方面の路線は西口より東口発着にさらにシフトし、元々の駅東線が廃止・従来の駅東口線を駅東線としたのだろう。1997年春に現在の秋田駅の駅舎が完成し、秋田駅東西の行き来がよりスムーズになったので、憶測になるけれどその時点で変更されたのかもしれない。【28日追記】いただいたコメントによれば、1997年春には「東口経由駅東線」として掲載されていたとのことで、まだ西口発着だったようだ。東口発着のみになったのは1998年からだろうか。
東口が充実してからは、西口発着明田地下道経由ではだいぶ遠回りになり、時間・運賃面で不利だっただろうし、西口発着への需要は多くないだろうから。
そしてそれが中央交通へ移管(2003年4月)されて現在に至るわけだ。

なお、大学病院を出て、駅を通らずに南大通り経由で山王方面へ向かう系統が、現在も平日朝に1本だけ走っている。これは1988年も1996年も、駅東線(西口発着)の一部として扱われている。


【27日補足】コメントをいただいて、上記本文中で重大な点を見落としていたのに気づいた。
上の写真では分かりづらいが、1996年の時刻表では[上りは駅東線と駅東口線の大学病院発が同時刻]であり、[下りは駅東線が西口を発車した8分後に、駅東口線が東口を発車(一部を除く)]しているのを見落としていた。
これはすなわち、1996年当時は「駅東線と駅東口線は同じ路線であり、西口発の駅東線が東口にも立ち寄り、東口から先で駅東口線に名前を変える(大学病院発は東口を通って西口が終点)」ということ。

1988年の時刻表では、両路線は別々の時刻で運行されていたので、1989年から1996年の間のどこかで、2つの路線がつなげられたというか統合されたと推測できる。
運行形態統合後も、時刻表の欄は統合されず、以前のまま別々に掲載されていたようだ。
ということで、まるで「水増し」されているような感じだし、ずいぶんと分かりづらい時刻表だった。
(補足終わり)


今では本数が減り、すぐそばの広い道を通る路線もできて脇役的存在になってしまった駅東線だが、秋田駅東側の発展をずっと見続けてきた路線と言えそうだ。
後日また、この辺りのバス路線を取り上げるかもしれません。

※駅東線はこの後、2014年に減便されて平日3往復のみ(土日全休)に。さらに2016年秋には廃止されることになった。廃止時のルート等の記録はこちら
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大型バスの使い道

2012-07-15 23:44:41 | 秋田市営バス
2日続けてバスの話題が続きます。「市営バス」カテゴリーにしますが、まずは今の中央交通の話から。

先日、秋田市に現れた、三菱ふそうバス・トラック製の大型路線バス「エアロスター」。(小田急バスの中古が秋田中央交通へ来たもの)
いただいたコメントによれば、その後、ディーラーへ入庫していたそうだし、僕も走っているのをしばらく見ていなかった(運が悪いのかもしれないが)。

と思っていたら、冒頭の写真のように秋田駅東口に登場。やっぱり大型バスは長くて大きい。
行き先表示は「秋田中央交通」で車内は満員。
御所野のイオンモール秋田の無料送迎バス(シャトルバス)に使われていた。(この時が初めてではなく、以前もあった)


御所野イオンのシャトルバスは、2011年5月から毎週火曜日に運行されていた。
今年3月からは、火曜のほか毎週日曜日にも運行され(火曜と日曜でダイヤが異なる)、さらに7月は一部の金曜日・土曜日や祝日にも運行されている。
※ご利用の際は、運行日やダイヤをイオンモール秋田の公式ページ等で、各自ご確認願います。

シャトルバスには、以前は貸切版三平バスをはじめ、中央交通の貸切専用の車両が使われていた。しかし、最近は同社の緑色の一般路線バスが使われることが多くなった。
使われる路線車両は、見た限りではすべて大型バスで、臨海営業所所属。
元秋田市交通局の路線貸切兼用車両で「秋田八丈」塗装だった車両など、日頃、新屋方面などの路線バスでよく見かけたり乗ったりする車両が登板することもある。
この車両もシャトルに使われたことがあるはず
そして、
この車両は?
行き先表示がLEDでなく幕式のままの「369」というバスが使われていた。
中央交通の大型路線バスはすべてLED化されたと思っていたが、まだ未交換の車両があったとは知らなかった。(したがって所属営業所は不明)
普段はどこを走っているのだろう?(国際教養大学方面だろうか?【16日訂正】そういうわけでもないようです。)

332も369もノースアジア大学スクールバス専属車両と同型。(富士重工ボディのいすゞLVキュービック。見かけは日産ディーゼルのバスと同じだけど中身はいすゞ)
どれも小田急の中古かと思ったが、少なくとも「332」は東京都交通局(都営バス)の中古らしい。他も中ドアの形状からすれば、首都圏のどこかの事業者の中古だろう。


そして、来たばかりのエアロスターのノンステップ「929」もシャトルバスに使われるようになった。
こうして見るとやはり平べったい。画像の縦横比を間違ってしまったかのよう

右はツーステップの中型バス。ノンステップのほうが床が低いのが分かる


シャトルバスに路線用車両を使うことは、貸切用車両では積み残しが出てしまうという収容力の問題だろう。
立ち客が出てしまうけれど、20分程度の乗車時間で、無料であり、若者の利用が多いことを考えると、まあ仕方ない。

でも、中央交通にとって、いや秋田において唯一の大型ノンステップバス「929」を、こんな用途に使うのはどうだろう?
その一方で、以前何度か紹介した、かなり古いツーステップの大型車「319」が、今日も一般路線を走行していた。
※以前撮影
運賃をもらい、足腰の悪い人や高齢者の利用も多いであろう一般路線にこそ、ノンステップを投入するべきではないだろうか。→以下の2013年6月3日付追記参照。
※一般路線を走ることもあるにはあります
※その後、新屋線で乗車できた

【10月15日追記】上の写真の古いバス「319」は10月15日時点でもまだ走っており、久々に新屋線で乗車した。
車内はほとんどが1人掛けのシート。座席柄は青のチェックで、ドア側前方はロングシート(うち一部が優先席で赤のチェック)。運転席側前方だけは座席が紺色の単色。もしかしたらもともとはここもロングシートで、移籍時に付け替えたのかもしれない。
「平成13年度(?)安全運転事業者なんとか 神奈川県」というシールが貼ってあった。降車ボタンはネコの絵入り。
乗り心地はギシギシして良くなく、スピードも出ない感じ(単に慎重な運転をしていただけかもしれないが)だった。
【12月7日追記】12月2日日曜日時点でも、イオンシャトルにエアロスターノンステップ、路線バスに「319」が使われていた。
【2013年1月4日追記】「319」は正月にも走っていた。この記事末尾に画像あり。
【2013年6月3日追記】「319」はまだ活躍中。2013年5月には、ついにイオンモールのシャトルバスにも使われた。
【2015年4月11日追記】その後、2013年6月24日を最後に見かけなくなった。ついに廃車になった模様。


以前紹介したように、旧秋田市交通局では長さ9メートル・幅2.3メートルの「中型バス」を積極的に導入し、長さ10メートル・幅2.5メートルの「大型バス」は、限られた台数を限られた路線やダイヤにしか使っていなかった。
秋田中央交通でも中型を多く導入していたが、市営バスの移管後、それがさらに明確になった。市営バスでは大型が走っていた路線でも、移管後に中型限定となってしまった路線がいくつかある。(後述)

秋田の人口とバスの利用実態、それに道路状況(狭い道が多いことや積雪)を踏まえると、中型バスがふさわしいサイズなのかもしれない。
しかし、イオンのシャトルバスのような大量の需要に備えて、ある程度は大型も保有しておくということだろうか。
でも、大型バスを投入するべきであろう種苗交換会プロ野球の増発・特発バスには、実際には中型バスが主に使われるなど、必ずしも大型バスが実力を発揮しているとは思えないこともある。
せっかくのノンステップバスや大型バスなのだから、もっと有効に、適材適所で使ってほしい。

※中央交通の大型バスについてはこの記事後半で少し紹介しています


ここからやっと市営バスの話題。
ところで、旧秋田市営バス路線の中で、大型バスが充当されていた路線って、どれだろう?
※中型バスの記事(上のリンク先)で触れたように、市営バスの大型バスは中型バスと混用されていたため、「100%大型バスが走る」という路線は存在しなかった。
1993年に秋田市交通局が初めてのワンステップバス(この記事後半)を導入した時、それが「15路線を走る」と報道されていた記憶がある。
このバスは大型バス扱いだったので、当時の市営バスの大型バスは15路線を走っていたと考えられる。

記憶を頼りにその路線名を挙げてみる。※間違いがあるかもしれません
頭に「×」があるのは、現在運行する中央交通では大型バスを使っていない路線。

交通局線(現・臨海営業所線)、スケート場線×山王線(たけやパン発着)(現在は県庁経由大川反車庫行きに統合)、
新屋線、新屋西線、川尻割山線、商業高校線
新国道経由土崎線、×寺内経由土崎線、×将軍野線(通町/県庁/新国道各経由とも)、新港線(新屋方面/南高校発着とも)(【17日追記】新港線は移管直後は中型限定だったが、近年大型が復活)、
×柳原経由御野場団地線[大型バス担当便は南高校発着の一部]、×泉秋操線(現・泉ハイタウン線)、×東営業所線(現・駅東団地線)[大型バス担当便はかなり少なかったはず]
以上、14路線。

新屋高校線と大森山公園線は新屋線に含むのかどうかとか、東営業所線の城東消防署経由と東小学校経由(現在は廃止)の区別はどうかとか、微妙な数え方の違いかと思う。【17日追記】「通町経由交通局線」(と「大川経由交通局線」も?)にも大型が使われていたが、上記「交通局線(これは県庁経由のこと)」に含むのか?
 かつては泉秋操線や通町経由将軍野線にも大型バスが入っていた

※2022年にはシャトルバスとして、将軍野線・泉ハイタウン線の経路を久々に大型路線バスが走った
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ワンロマで遠足へ

2012-07-09 23:10:53 | 秋田市営バス
今はどうか知らないけれど、昔は「遠足」という学校行事があった。
僕が通った小学校では、春に貸切バスで学年別(修学旅行のある6年生はお留守番)に違う場所へ出かける遠足、秋に徒歩で全校で同じ場所へ出かける遠足があった。
春の遠足は、学校からクラスメイトとともにバスに乗って移動するという非日常が楽しかった。その遠足のバスの話。※遠足とバスガイドの思い出の記事


春の遠足のバスに関しては、学校にとってもバス会社にとっても、苦労があったらしい。
当時の一般的な規模の学校なら1校につき15台くらいが同じ日に必要だし、5~6月の平日という限られた期間に市内約40の小学校の遠足が集中する。雨天中止/順延になることもある。他にも幼稚園などの遠足もあるだろうし、一般の貸切業務もある。
当時はJRバス東北(国鉄バス)は進出前だし、今のように貸切専業の新規事業者はなかったはず。秋田市交通局(秋田市営バス)と秋田中央交通の2者(と羽後交通も?)で、そのすべてをまかなわなければならなかったのだ。
各学校では予約と日程調整が大変だっただろうし、バス会社は車両・乗務員の確保に苦労したことだろう。

その対策の1つとして秋田市交通局がとっていたのが、通称「ワンロマ車」の導入。※以前の車体の塗装の記事で触れています
ワンロマ車とは「路線バスにも貸切バスにも使える兼用車両」のこと。全国的に見れば同じコンセプトの車両を保有する事業者がいくつか存在する(した)。
「ワンロマ」という言葉は、「ワンマン(=路線バス)」と「ロマンスシート(=貸切バス)」の間の子ということ。Wikipediaによれば京王電鉄バスが使い始めたもので、他の一部バス会社内やバス愛好家に広まった呼称。秋田市交通局で使っていたかは不明。

なお、貸切バス専用だった車両が古くなるなどして路線バス用に変更(格下げ)されることや、路線バス専用の車両を臨時に貸切業務に使うことは、あまりワンロマとは呼ばないはず。あくまでも、路線と貸切を兼ねる目的で導入されて使われる車両のことを指す。(明確な定義はないので、いろいろあるでしょうけれど)
他の事業者のワンロマも似たようなものだと思うが、秋田市交通局のワンロマ車は、普段は路線バスとして走り、必要に応じて貸切に回るというもの。そのため、ベースとなる車種は貸切用車種ではなく、路線バス用の車種。
写りが悪いですが、卸センター経由新屋線に使われる1985年導入のワンロマ車・187号車
秋田市交通局では、どうも1960年代に初めてのワンロマ車が導入されていたような雰囲気もあるが、詳細は不明。塗装は当時の一般路線バスと同じだったらしい。
その次の、というか記録も僕自身の記憶もあるワンロマ車が1980年導入の車両。その後、1985年と1992年にも導入された。いずれも大型バス。

導入年が分かって、走っていた記憶がある、秋田市交通局の3世代のワンロマ車の装備を記憶の範囲内でまとめてみる。
●世代が違ってもおおむね共通の設備
・一般路線バスと同じく、車両の前のほか中央にもドアがある
・車外の行き先表示器、車内の運賃箱、整理券発券機、運賃表示器、降車合図ボタンなど、ワンマン運転用各種機器は、一般路線バスと同一
1992年車の車内。前方まで2人掛けで上に荷棚がある
・客席の椅子はすべて2人掛け(前ドアと中ドア直後の各1席を除く)。ただし、リクライニング機能などのない通常の路線バス仕様のシートで、布地は同時期の路線バスと同じ。1985年以前の車では背もたれの高さがやや高めか。1992年車では一般路線車でも高い背もたれが採用されていたので差はない(後述)
・補助席はなし
1985年の187号車車内。当時はエンジ色のシートだった(翌年から柄入りになる)。窓下に席番表示がある
・座席番号が表示されている(1992年車にはなし)
 1985年車の席番表示。いすゞ(左)と三菱(右)で異なるデザイン
・1985年のいすゞと1992年の車には、通路天井に吊手(つり革)がなく、棒だけ(1985年の三菱車には数は少ないがあった)
分かりにくいけれど1985年三菱製194号車車内。少しだけつり革がぶら下がっている
・車内の一部に荷棚(パイプの網棚)がある ※中央交通では路線専用車でも一部に網棚がある車両があるが、市営バスの路線専用車にはなかった
・1985年車までは、前の席の背に灰皿があった(後に撤去)
1985年車。灰皿を撤去した位置にネジが残る
・車内の所々にマイクジャックの差込口がある
1992年車。降車ボタンの上にクラリオン製の差込口
【12日追記】他社のワンロマ車では、窓にカーテンが設置されているものもあるようだが、秋田市営バスのワンロマでは、路線専用車同様、日除けの類(スクリーンなども含めて)は一切なかった。

導入年ごとの差異。
●1980年車
・三菱製(愛好家に「ブルドッグ」と呼ばれるゴツゴツしたデザイン)でけっこうな台数(7~8台?)
再掲)高知の土佐電ドリームサービスでがんばる1982年製の同型車(ワンロマではない)。市営バスのは行き先表示が小さかった
・号車番号480番代。少なくとも481号車と487号車は存在したはず。(交通局末期は297号車が最大だったが、過去は400番代まであった)【2013年4月15日追記】480号車も存在したらしい。したがって、480~487号車の8台だったかも。
・塗装は貸切専用車両と同じ(1985年車と同じ)
・三菱製なので新屋の南営業所に所属していたはず
・行き先表示が小型、冷房なし、中ドアが引き戸でなく折り戸(同時期の一般路線車と同じ仕様)
この翌年の導入車両あたりから、行き先表示が大型化されたり、冷房車になったりしたため、年式のわりには早期に「古い」と感じてしまう車両になってしまった。
1992年度末で廃車されたはず。(代替となる1992年のワンロマ車は、秋に導入されたので、半年ほどは共存していたようだ)

●1985年車
・いすゞLVキュービック 6台 182~187号車
・三菱エアロスター 2台 194・195号車
・塗装は貸切専用車両と同じ
 (いずれも再掲)184号車と194号車
両車種ともモデルチェンジ直後であり、秋田市交通局では初の導入。秋田県内でも最初期だっただろう。
交通局の縮小に伴い、2000年度末で廃車。
195号車の座席。床は懐かしい板張り
上の写真に写っているように、三菱製の座席には、背中の部分に黒い半球状のものが埋め込まれていた。座ると違和感はなかったが、ネジ隠しとかだったのか?

●1992年車(秋に運行開始。導入時にはテレビのローカルニュースで報道された)
286号車
・日野ブルーリボン 4台 283~286号車
・「秋田八丈(秋田黄八丈)」の織物をモチーフにした専用塗装  ※一部サイト等で「秋田八景」とされているのは誤り

以下は、このワンロマならではの装備だと誤解される場合もあるがそうではなく、実際には同時期導入の大型路線専用車でも採用されていた点。
・側面の窓ガラスが青く着色され、下部が固定・上部がスライドして開閉する構造
・正面に「秋田市営」の行灯(側面後部は「秋田市営」ではなく「秋田市交通局」と表示)
・ハイバックシートと呼ばれる背もたれが高く、ヘッドレスト風のものが付いた座席(メーカーにより差があるが、1993年度の日野製路線専用大型車には同一のものが設置された)
どちらも1992年導入の大型車(後ろの路線専用車はいすゞ製)。ワンロマも路線専用も窓の仕様や正面の行灯は同じ
また、1992年度導入の路線専用車からは、バーコード付き整理券や新型運賃箱が設置されたが、ワンロマだけは従来通りのインク印字の整理券・普通の運賃箱(ただし紙幣両替は完全自動化)だった。

2002年度からは中央交通に譲渡されて、同社の通常の路線バスの塗装になり、現在も運行中(今年で20年目!)。【その後、2014年春までに全車両が廃車された】
【2017年6月18日補足】上の写真に写っているような、通常塗装ながら青い窓ガラスの大型バス(秋田八丈塗装と近い年式のいすゞと日野)も存在したが、これらは座席の数が少なく、ワンロマ車ではない。この世代では、あくまでも秋田八丈塗装のブルーリボンだけがワンロマであった。


いろいろ細かく書いたけれど、秋田市交通局のワンロマ車は、塗装のほかは路線車より座席の数が多いのが最大の違いであり、着席定員を増やすことに重きを置いたものと考えられる。
40人は着席できるだろうから、ちょうど学校の1クラス分が収まることになる。

でも、路線車ベースのため、タイヤ周辺などの座席の位置・高さにはちょっと無理がある。
1992年車の後輪上の席。足元がきつそう…
1985年車には灰皿もあったが、この仕様のバスで大人から金を取って団体旅行というのは無理があったのではないだろうか。
ちなみに、1992年車は窓ガラスの位置が高く、子どもが座ると外の景色が見づらかったかもしれない。むしろ1985年のいすゞのほうが窓が大きい感じがした。


他のバス会社では、ワンロマ車を路線バスとして使用する時は、路線やダイヤを限定することがあるようだ。座席数が多い分、立席スペースが少なかったり、通路が狭くて混雑時に支障をきたすためだろう。
秋田市営バスでは、路線専用仕様の他の大型バスと区別なく使用され、新屋、新国道方面などを走っていた。乗客の立場としては空いていればゆったりと座れたけれど、混雑時には通路が狭くて混雑が激しく感じられて嫌だった。

秋田市交通局では1997年度で貸切事業を廃止しているので、残ったワンロマ車も晩年は路線バス専用だったことになる。【11日追記】1998年度以降も、市立学校の宿泊研修の輸送などの業務は行なっていたようだ。この記事のコメント欄参照。
1992年車が譲渡された秋田中央交通では、同時期にほぼ同じ仕様の淡路島の「淡路交通」の中古(いすゞキュービック)を何台か導入している(座席が茶色いチェック)。
でもやっぱり、他の路線バスと一緒くたに使っているようで、ワンロマ車としての特性は発揮していないようだ。(たまにイベント等のシャトルバスとして使われていることもあるが、その時も一般路線バス車両も一緒に来ていたりするので)



僕は、ワンロマ車での遠足を経験している。小学校3年生の遠足で、1980年導入車に乗った。
3クラスだったので3台が来た。行き先は県立博物館経由で男鹿の寒風山。路線バスの車で当時は有料だった道路(県道55号線)を通って、寒風山へ登ったわけだ。

たしか、他の学年には貸切専用車が来ていた。市内の大森山へ行く1年生など移動が近距離の学年が専用車両で、比較的遠くへ行く3年生が路線バス兼用車なのが、ちょっと不満だった。他の子どもたちは、路線バスっぽい車で遠足に行くことは分かったらしいが、むしろ楽しんでいたかもしれない。降車ボタンを押してしまって、先生に怒られたりして。
もちろん、ちゃんとバスガイドさんも来てくれて、金足農業高校の実習田は砂地なので下にビニールを敷いていることを教えてくれたり、寒風山回転展望台の駐車場で笛を吹いてバスを誘導していたのを覚えている。※寒風山回転展望台は秋田中央交通の子会社の経営。市営バスで“敵地”に乗り込んだことになる。【2016年6月9日追記】回転展望台は元々は県営で、1985年に中央交通系列へ移管されたらしい。訪れた時は、ちょうどその前後だから、どちらがやっていたのかは不明。
道中では窓枠の差込口にマイクを差し込んで、歌を歌った子もいたかもしれない。


遠足に来たワンロマ車の行き先表示は、「貸 切」だったと思う。
※この記事冒頭の画像の「貸切」は1992年車のもの。1980年車は小型の表示器だったので書体などは異なったはず
末期の市営バスの行き先表示には青い文字で「秋田市営」、黒い文字で「会場行き」というコマもセットされており、貸切として使う場合にはこれらが使用されたこともあったかと思う。
「ワールドゲームズ2001」の観客輸送に当たる283号車
2001年夏に秋田県内各地で開催された「ワールドゲームズ2001」では、県内各事業者のバスが選手や観客輸送にフル稼働し、市営バスの1992年のワンロマ車も活躍した。
市営バスはその時点で既に貸切事業から撤退していたわけだが、「貸切」幕を見ることができた。

さらに、路線バス専用車両まで駆り出され、レアな路線車の「貸切」表示も見られた。
逆光ですが297号車
297号車は、1993年導入の日野製。前年のワンロマと共通する装備が多い。ヘッドライトは1992年車は丸型で、こちらは四角(後部のランプも異なる)。


別の機会には、こんなシーンも。
中型路線バス253号車の「貸切」(2001年1月26日)
この「貸切」バスは、秋田駅西口のバス乗り場のバス待機場に長時間停まっていて、動く気配がなかった。
バスには運転士のほかに交通局職員が乗っており、市営バスの路線バスが乗り場に入ってくる度に、銀色の箱を持ってそのバスに向かって行き、戻ってくることを繰り返していた。

おそらく、到着するバスの運賃箱から運賃や整理券が入った金庫(=銀色の箱)を回収し、代わりに空の金庫をセットしていたのだと思う。それを持ち帰り、各ダイヤごとの乗車人員や収入の調査・分析を行なっていたのではないだろうか。別の年にも、同じ時期に同じことが行われていたのを見た。
「貸切」というより「業務用車両」ということのようだ。


僕は、上の写真と同じような、路線バス専用車両の中型車の「貸切」にも乗ったことがあった。
県高校総体の開会式が雄和町(現・秋田市雄和)で行われた時、秋田市内の全高校の生徒が動員されたのだ。秋田駅東口に集合し、クラス単位で貸切バスで雄和へ運ばれた。
当時は東口も未整備だったし、何よりもバスの台数が多いので、駅から現在の中央道路地下トンネルの出入口付近にかけての路上に、バスが何十台も縦列に停まっていた。

バスも多種多様で、市営バス、中央交通とも貸切車から路線車まで来ていた。
僕のクラスは市営バスの中型・日野レインボーの193号車。当然、クラス全員が着席することはできず、つり革につかまっての移動だった。
一方で、他校は貸切でしかもスーパーハイデッカーの「わかくさ号」が割り当たっていたりして、不公平に感じたものだった。

ほかにも、市内の小学校6年生が八橋陸上競技場に来て行う陸上記録大会の時にも路線車の貸切を見たことがある。
比較的短距離・短時間で、単なる移動手段として利用される場合には、路線車を貸切に使うことがあったようだ。


最後に、貸切専用車両について少々。
遠足以外の学校行事、大森山の宿泊研修(小5・中1)や市内各所への社会科見学(小3・4)、冬のスキー教室(小4~6)などでは、貸切専用車両に乗った記憶しかない。時期的に需要が少なく、車両が空いていたのだろうか。
中でも、当時は新車に近かった名前(愛称)付きのバスが来ると、特にうれしかった。
二階建て「みはらし号(181号車)」と中二階建て(スーパーハイデッカー)「わかくさ号(199号車)」は別格として、1985年導入の160番代の貸切車両にも、1台ごとに公募で愛称が付けられていた。
1985年10月10日付広報あきた1006号によれば、あきたふき号、さつき号、こまち号、おばこ号、まごころ号、けやき号、かんとう号、ふれあい号
※おばこ号は164号車だったが他は何号車か不明。わかくさは秋田市の色である「若草色」、さつきとけやきは秋田市の花と木、かんとうは「竿燈まつり(命名当時は竿“灯”と表記)」にちなむもの。

秋田新幹線より10年早く「こまち号」もあったのだ。
翌年には、わかば号、やどめ号(どっちがどっちかは不明だけど200・201号車)も導入された。

【12日追記】市営バスの貸切バスに関連して、過去にこんな記事もありました。市営バスカテゴリーの記事でないので、リンクしておきます。
2008年12月21日 やまびこ号・まんたらめ号
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三菱エアロスター

2012-05-08 23:57:22 | 秋田市営バス
4か月ぶりに秋田市営バスの話題。※前回の記事
今までお伝えしたように、旧秋田市交通局は国内のバスメーカー4社すべてと、ほぼ偏りなく取引があった。
しかし、貸切用、路線バス用は大型・中型・小型と車種は多様であり、中でも中型車が多数派だったため、それぞれの車種内では、メーカーに偏りがあった。例えば、路線用中型車で、新しい塗装になった1986年から1996年までに導入された79台中、27台と34%を占めていたのが、三菱自動車製(現・三菱ふそうトラック・バス)。

一方、同じ期間に33台導入導入された、路線用大型車。※ここでは日産ディーゼル製「普通型」5台を含む
その中では、三菱製はわずか2台しかなかった。今回はそんなお話。


三菱の路線用大型バスは、1984年以降は「エアロスター」という車種名を与えられている。(中型は1986年以降「エアロミディ」)
同じ1984年に国内で初めてのノンステップバスとなったのも、エアロスターだった。
1996年にモデルチェンジして、リコール隠し事件や日産ディーゼルとの一時的な提携などを乗り越えて、現在に至る。

上記の通り、市営バスが新塗装になってから2台のエアロスターが導入されているが、その直前にも2台導入されていて、秋田市交通局にエアロスターは計4台あった。


当時の三菱のバスは純正の車体を組み立てる部門が2つ(愛知の自社工場と富山の系列会社)あった。エアロスターはその両者でデザインが若干違い、「エアロスターM」「エアロスターK」と区別されていたそうだ。
物影の弘南バスのエアロスターK(2011年撮影)
上の弘南バスは、「30214-9」号車なので、それから判断して平成「02」(1990)年製。どこかの中古だろう。
上の写真でも分かるように、運転席と反対側のフロントガラスの下が切り欠かれていて窓になっている。
この窓が、現行モデルにも受け継がれるエアロスターの大きな特徴で「視野拡大窓」とか「セーフティーウィンドウ」と呼ばれる。死角を軽減する目的の窓。
実際には、運賃箱に隠れて役目を果たさない(路線バスの場合)とか、ミラーで確認したほうが早くて確実であり、それほど重宝されていないようだし、この部分を埋めた仕様で発注・購入するバス会社もある。
たぶんエアロスターM。中古と思われ、視野拡大窓がない。Kより全体的にやや角張っている(2002年撮影)
【6月6日訂正】↑中型バスのエアロミディとのご指摘をいただきました。(コメント欄参照)
※エアロスターMについてはこの記事後半参照。


秋田市交通局の4台は、どれも富山の呉羽自動車工業→新呉羽車体工業という企業(現・三菱ふそうバス製造)が製造した「エアロスターK」だった。

1985(昭和60)年度。
秋田市交通局では、三菱製の2階建てバス「エアロキング」の「みはらし号(181号車)」、それにモデルチェンジしたばかりのいすゞ「LVキュービック」を使った、路線・貸切兼用の大型車(通称ワンロマ)を6台(182~187号車)導入するなど、積極的な新車導入が行われた。
再掲)いすゞLVキュービック。まさに箱型

その年、数は少なくて目立たなかったが、2台のエアロスターがやはりワンロマ仕様で導入された。
それが、194・195号車。
194号車(2001年撮影)
いすゞの6台と同一仕様だったが、吊り手(つり革)がある(いすゞは棒だけ)、座席の背もたれに黒い突起物がある、窓枠の降車ボタンが立ち上がらないと押せないほど高い位置にある、といった程度の差異があった。
【9日追記】前面の号車番号の表示が、いすゞではグレーの部分に黒文字、三菱では赤い部分に白文字なのも異なる。あと、赤(エンジ)色の色合いも微妙に異なるような気もする。
194号車後部(2001年撮影)
当時は、新屋に南営業所があり、三菱製のバスが集中配置されていたので、この2台もそうだったかもしれない。
当時の僕は、6台あったいすゞのほうも、見たり乗ったりすればうれしかったが、こちらはわずか2台で、乗る機会は極めて少なかったはずで、たまに見かけるだけでうれしかったものだ。
視野拡大窓の存在により、正面が左右非対称になっていることになり、これも斬新に感じたのだろう。
いすゞキュービックは、1980年代らしい角張ったデザインでかっこいいと思ったが、エアロスターもまた、その希少性とデザインが憧れだった。


1986年度は、路線バスの車体塗装が新しくなり、大型車だけ3メーカーから計7台を導入。
日野といすゞは3台ずつで、三菱は208号車1台だけ。
この年の路線バスは、窓や座席などが当時としては豪華な仕様で導入された。(そのわりに床は板張りだった)
非常に写りが悪いですが、2001年撮影の208号車
視野拡大窓によって赤いラインが途切れていたり、「208」の表記が狭いところに小さく書かれているのがちょっとおもしろい。
上の写真で分かる「豪華さ」といえば、「秋田市営」の行灯。それにヘッドライトが四角いこと。
1996年のモデルチェンジ以前のエアロスターのヘッドライトは、原則として丸型だったはず。秋田市交通局では、わざわざオプションで四角くしたのだろう。
【あいまいな記憶から余談】1986年の7台のうち、ごく一部の車両(1台くらい?)は、当初、行き先表示の幕(方向幕)が「白地に黒文字(または青文字)」ではなく「黄緑色(秋田市の色の若草色?)地に白文字」だった。とても見づらかったので、後に他と同じものに交換されたようだ。根拠はないけれど、もしかしたらそれが208号車だったかもしれない。


1987年度はバスが1台も導入されず、1988年度からは中型車を中心として導入が進む。
1988年度に導入された大型車は5台。いすゞと路線用では初導入の日産ディーゼルが2台ずつで、三菱はまたしても1台だけ。
それが214号車。ろくな写真がないのですが、
2000年撮影
この年の大型車は、窓などが普通の仕様になってしまった。正面の行灯はなく、ヘッドライトは丸型だったはず。
ちなみに、この214号車を担当していた運転士だった秋田市職員が、交通局の人員削減にともなって他部局へ異動後、趣味でその模型を作っているということが、当時何度か報道されていた。

この後、大型車自体が1992年度まで導入されなかったが、三菱製のものは最後まで導入されずに終わった。
4台とも、2000年度末(2001年春)で廃車となったはず。


秋田市交通局でエアロスターの導入が少なかったのは、何らかの意図があったのか、それとも単なる偶然だったのかは分からない。
全国的には、三菱のバスを好んで採用しているバス会社が少なくないため、エアロスターはそんなに珍しいバスではない。
しかし、秋田県では、かなりの少数派。現在、秋田市内で見かけることはほとんどない。
羽後交通は中古車など何台か保有しているが、秋田市内へは来ないようだ。
秋田中央交通は、大型車はいすゞ(と市営バスから譲受した日野と最近見かけないけど日産ディーゼル)の中古車ばかり。三菱製の新車は高速バス用がほとんど。(秋田市には来ない秋北バスも、いすゞオンリーなのでなし)
強いて挙げれば、県立特別支援学校のスクールバスや自動車教習所の大型2種教習車くらい。

秋田市のバス路線をエアロスターが走る日は、もう来ないのだろうか。


と思っていたけど、もしかしたら近いうちに何かあるかもしれません。(思わせぶりな終わり方ですみません)
※その後、「何か」ありました(中古のエアロスターが導入された
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秋田市営バスの顔

2012-01-12 23:45:50 | 秋田市営バス
何年か前、青森市営バス(当時は青森市交通部だったか?)の公式サイトに「バスの顔」とかいうページがあった。(現在はない)
100台以上にのぼる全車両を正面から写した画像がアップされていて、同型車であっても1台1台すべて掲載されていた。バス事業者の公式ホームページにこうした車両紹介があること自体異例だし、バス愛好家のホームページでも全車両の正面の姿を網羅したものはそうないと思う(愛好家の間では「公式側」と呼ばれる、正面とドアのある側面が1度に見えるアングルで撮影するのが一般的だそう)。交通部の車両への愛情とサービス精神が伝わるともいえそうだが、とてもマニアックなものだった。

バスの車体の塗装は、同じ会社の同じ時期の車両なら、一見どれも同じ。しかし、ほんとうはいろいろと差異がある。
秋田市営バスの場合、大型バスと中型バスが存在し、それぞれに4つのメーカー製があったため、比べてみるとなかなかおもしろい。
この記事では、以前の青森市営バスのページを少し意識して、秋田市営バスの車両のごく一部だけですが、バスの顔=「正面のデザイン」に注目して紹介します。
写真と知識の関係上、1986年から1996年までの間に導入された新しい塗装の大型バスと中型バスを中心に紹介します。(機会があれば、側面・後部や車内など続編をアップするかもしれません)※市営バスの車体塗装の変遷についてはこちらの記事
※この記事は、あくまでも外観の相違に着目したものであり、エンジンの違いなどは考慮していません。したがって、見かけは同じでも型式が異なったり、その逆の場合もあります。
※記事中に「◯◯年度に導入」といった記載がありますが、これは「年(1月~12月)」ではなく「年度(4月~翌年3月)」です。交通局では年度単位で車両を購入していたため、年度ごとの方が追跡調査しやすく、理にかなっている判断したためです。交通局には年度後半に納車された例が多いこともあり、クルマでよく使われる「年式」とは一致しない場合があり得ます。

まずは中型バス。総数は79両。
 いすゞ・264号車。1991年度導入/日野・241号車。1990年度導入(写真の色合いがややおかしいです)
中型バスの中では、いすゞ製は少数派で14両導入。1988~1991年度に4度に渡って導入されたが、正面デザインの違いはない。
上部の行き先表示の周囲が、赤く縁取られているのが目を引く。

21両あった日野製(車種名・レインボー)のうち、1988~1991年度の16両が右上の写真のデザイン。
いすゞと異なり、ヘッドライト下~バンパーの上にグレーの部分がある。フロントガラスが左右非対称なこともあり、向かって左の窓下に白い部分が多い。
121号車。1994年度導入
1994年度にオートマチックトランスミッションで導入された5両は、ヘッドライトが丸型から角型に変わったが、塗装は同じ。(レインボーは1995年から標準仕様で角型ヘッドライトになったそうなので、当時はオプションだったことになる)

次は三菱ふそう。中型バスは7度に渡って27両導入され、市営バスの中型バスでは最多勢力。(逆に新塗装の大型は2両しかない)
いすゞ、日野が市営バスから姿を消した後、日産ディーゼル製とともに最後の年まで走り続けた。【14日訂正】最終年度は日野製の車両も2台だけ残っていたので、下記の通り訂正します。
市営バスからいすゞが姿を消し、日野が大幅に数を減らした後は、三菱のバスが日産ディーゼルとともに秋田市営バスの主力車両として最後の年まで走り続けた。(最終年度は日野2、三菱4、日産ディーゼル5の計11両)
 230号車。1989年度導入/293号車。1993年度導入
左の写真は、1988~1992年度までの5年度、20両のデザイン。市章がやや上に付いている印象。
右上の写真の1993年度の3両(オートマ)では変化が見られた。
従来より全体的にやや角ばったフォルムになり、ヘッドライトの形状が変わり、コーナリングランプが新設。ヘッドライトの上に段差がつき、旗を立てるポールがバンパーの上からそこに移った。塗装は全体的に下に移動した感じで、市章は他メーカー並みの位置になり、窓下の白が少し増え、バンパー上のグレーの部分が狭くなった。

1年のブランク後、1995年度の4両(オートマ、座席の模様が変更)が市営バス最後の三菱製で、また若干の変更。(交通局の最終年度まで残った車両がこのタイプ)
132号車。1995年度導入(ちょっと珍しい西口発明田経由桜ガ丘行き)
おおむね1993年度と同じだが、バンパーが黒からグレーに。
「カラードバンパー」というやつだ。秋田市営バスの路線バスでは、この車両だけだと思う。(貸切バスでは赤いバンパーのものが多かった)
といっても、他のバス会社の同型車でもカラードバンパーがあるので、オプションではなく、標準仕様で着色できたのだろう。【2023年3月14日追記・他事業者のエアロミディでは、後ろのバンパーも色が付いた車があるが、秋田市営バスは従来どおり黒だった。】
【14日追記】結果的に三菱製中型バスは、マニュアル車かオートマ車かで正面の顔が異なることになり、識別しやすい。なお、後部にも同様に明確な差があるのだが、いずれもオートマだから新しいデザインになったわけではなく、偶然だろう。
【15日追記】オートマ車は、1993年度の1両(292号車)を除く6両が、段階的に中央交通に譲渡された。譲渡後の中央交通の塗装では、どちらもバンパーが黒く塗装されたので、外観から導入年度を識別しにくくなった。
弘南バスのエアロミディの変遷について

残るは日産ディーゼル(現・UDトラックス)。※以前の関連記事
中型は1988~1992、1996年度の6度、17両導入。
 233号車。1989年度導入/135号車。1996年度導入
以前も紹介した通り、1988年度と1989年度の4両だけは、左の写真の古い車体。
面積は広そうなのに、フォグランプがバンパーでなく車体に付いている関係か、デザイン的にはちょっと窮屈そうで、中央のラインのカーブが大きく、市章が下がって旗のポールと重なっている。

残りの13両が右上の写真。(細部では年度ごとに若干の差があるのですが)
ヘッドライトがバンパーと一体化し、フロントガラスが大きくなったようで、他のメーカーよりも塗装される面積が狭くなって、独特の塗装になった。
グレーの部分がなくて肌色の部分が少なく、ラインのカーブが小さくなり、市章が赤いライン上にある。


1988年度から1996年度までコンスタントに導入され続け、大きな仕様変更が少なかった中型バスに対し、大型バスは1986、1988、1992~1994年度の5度しか導入されず、毎年のように発注時の仕様が変更されていた。
あまり写真がないのですが、いくつかご覧ください。
日野・297号車。1993年度導入
全国的にバス愛好家の間では、秋田市営バスの大型バスといえば「豪華な仕様」というイメージがあったようだ。当時の東京都営バスを意識していたとも言われている。その1つが「秋田市営」と表示された行灯(あんどん)。
実際には、行灯は大型車全部ではなく、1986、1992、1993(一部)年度導入の車両にあった。日野製の大型バス(車種名・ブルーリボン)は、たまたまこの3つの年度に導入(11両)されたため、上の写真の297号車のようにすべてに行灯が付いている。(なお、1992年度の日野製は、貸切兼用の「秋田八丈」の塗装)

ただ、日野の行灯は、他メーカーと比べてサイズが小さく、地の白い部分が長期間放置したセロハンテープのように黄ばんでいる印象があった。
塗装に注目すると、上部の行き先表示の左右に、白とグレーの部分が回り込んでいる(いすゞ製ではここが全部赤い)。
ヘッドライト・行灯付近に銀色のラインが3本走っているのも特徴。他の市営バス車両では見られないが、僕が通っていた幼稚園の通園バス(日野製で1970年代製か)にもあった。市営バスの銀色ラインは、中央交通へ譲渡された際に撤去され、普通の黒バンパーになってしまった。

いすゞの大型バスは1986、1988、1992、1994年度の4度、13両導入。
 280号車。1992年度導入/220号車。1988年度導入
中型同様、大型バスでも行き先表示の周囲が赤い。
行灯があるのは、1986と1992年度の車両。左上の写真のように日野製と比較して、行灯が大きく、地色が白いのが分かる。
「LVキュービック」と呼ばれたいすゞ製大型バスは、当時の路線バスの中で唯一、フロントガラスが分割されず一枚になっていて、2本のワイパーが重なる配置になっている。そんなことも関係しているのかフロントガラス下部が丸みを帯びた形状になっていて、それに合わせて塗装の赤・白・肌色のライン(他車種では一直線の部分)がカーブしているのが独特。
280号車では行灯もあって面積が狭いため、市章の上部がガラスにかかっている。それと、旗を取り付けるポールがないように見えるが、位置が異なり端のウインカー付近にポールがある。※旗の位置はこの記事参照

1988年度に導入された大型バス(日野以外の3社5両)は、中型バスと同一の仕様だった。
その1台、右上の写真の220号車では、行灯がない分、スペースに余裕がある。ガラスに合わせてラインがカーブしているが、280号車のとは角度などが少し違い、赤は細いように見える。


三菱は1986、1988年度に1両ずつ入っているが、いい写真がないので、省略。※この記事に画像があります
日産ディーゼルは、1988年度と1993年度に7両導入。しかし、初のワンステップバス(超低床式バス)となった1993年度の5両は、交通局では大型バスとして運用していたが、メーカーでは「普通型バス」と呼んでいて、実質的には中型バスの車体を大型バス並みに延ばしたものだった。
116号車。1993年度導入
車体幅は中型バスと同じなので、たしかに他の大型バスよりほっそりして見える。
上の方の写真にある日産ディーゼルの中型車138号車と差異はほとんどない。(ワイパーの色くらいか)
日産ディーゼル製の真の大型バスは1988年度の2両だけなのだが、それも写真がない。ただ、外観は中型バスと大差がなかったと記憶している。


たいへんマニアックだったと思うけれど、改めて並べて比較するといろいろと違いがあることが分かった。
この記事では触れなかったけれど、実はメーカーや導入時期によって色合いに微妙な違いがあったり、何らかの事情により1台だけやや異なるデザインが施されているような車両もあった。機会があれば、いずれ紹介します。

【以前の記事の訂正】以前、新塗装の路線バス119両(空港リムジン用は除く)の内訳を「大型バスが34両、中型バスが78両、小型バスが7両」としていましたが、どうも「大型バスが33両、中型バスが79両、小型バスが7両」が正しいようです。訂正します。
しかし、今後も訂正してしまう可能性もありますし、あまりアテにならない独自の調査・集計ですのでどうかご了承ください。

※次の記事(三菱の大型バス)はこちら
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大住団地線

2011-12-30 23:20:20 | 秋田市営バス
久しぶりに仁井田字大野の続きで、この記事で終わりです。書いているうちに秋田市営バスの歴史のような内容になったので、市営バスカテゴリーに入れておきます。
※仁井田の前回の記事一連の最初の記事

前回は、路線バス「大野線」の終点「大野四区」から北西へ300メートルほど進むと、農村(っぽい)風景が一変して新興住宅地の街並みに出た。
市立大住小学校のすぐ南西(間に田んぼがある)で、雄物川の堤防(茨島・大住アンパスの通り)やJR羽越本線からは、共に300メートル前後。
住所としては、線路側の一部が2001年に住居表示が行われた「牛島南二丁目」で、それ以外が「仁井田字西潟敷」「牛島字東潟敷」。(牛島南二丁目は、かつては牛島字西潟敷、牛島字東潟敷、仁井田字西潟敷だった)
ここは仁井田地区と牛島地区の境目であり、昔は東西の「潟敷」に分かれていたようだ。「潟」とは、以前触れた「大野潟」のことだろう。

古くないほぼ同サイズの戸建住宅がびっしりと並ぶここは、「大住ニュータウンみなみ野」と呼ばれる住宅地。(明確な範囲は分かりません。ちなみに、雄物川側のアンパスの通り沿いは「第二みなみ野」と呼ぶらしく、所在地は仁井田字新中島)
僕がここが「みなみ野」という名であることを知ったのは、1993年。しかし当時は、「みなみ野団地」という名称だと思っていて、アパートみたいな集合住宅をイメージしていた。
アパート風でなく戸建住宅の集合を「団地」と呼ぶのは、あまり一般的ではないような気もするが、このような意味で使うこともあるにはある。

おそらく、「大住ニュータウンみなみ野」というのは、不動産会社が分譲地に付けた愛称なのだろう。
では、「みなみ野団地」は誰が付けたのか?
おそらく、当時の秋田市交通局だと思う。1993年春に大住団地線を延長した際、「大住団地(みなみ野団地)線」と名付けたのが最初だと思う。
秋田市交通局は、実際の正式名称をちょっといじってバス停名や路線名にする場合が少なくなかったフシがあり、他にも旭野団地、栗田県営住宅、酒造センター辺りなどが該当しそう。

大住団地線は2001年度から中央交通に移管され、現在は「大住・みなみ野団地線」と呼んでいるようだ。
この路線は、現在は秋田駅西口と牛島西四丁目を結んでいる(平日の1往復は駅に寄らず県庁経由大川反車庫発着)のだが、牛島側での経路や終点の変遷を見ると、興味深いものがある。
まずは、現在の路線図をご覧ください。
赤い線が前回まで紹介した「大野線」、青い線が「大住・みなみ野団地線」。バス停はすべて記載。(一部地図からはみ出ていたり、元市営バスの路線だった大住線の方を赤い線にした方がいいですが、前回の使い回しなので…)
※大住・みなみ野団地線は、2017年10月に有楽町~大住団地入口間の経路が変わり、旧道~二ツ屋下丁~南高校前を通らなくなりました(大住団地入口以降は変更なし)。さらに2019年4月からは末端の2停留所が廃止(移動)され短縮されました。以下は経路変更前・初回アップ時の情報をそのまま残しています。
国土交通省国土地理院「電子国土Webシステム」より抜粋・加筆
秋田駅から有楽町・牛島を通って来た大住団地線は、「二ツ屋下丁」通過後、国道13号線に合流する「二ツ屋」三叉路を急角度に曲がって13号線へ出て、秋田市中心部へ戻るかのようなコースをたどる。
この“逆走”区間は、県立秋田南高校の前を通って、次の「大住入口」交差点までの400メートルほどで、バス停は「南高校前」1つだけ。しかし、南高校前は、卸センター入口(柳原)経由御野場団地線も通るので、両者で上りと下りのバス停位置が入れ替わっているという、少しややこしいことになる。

国道が猿田川を渡る手前、スーパーマーケット「ナイス仁井田店」がある「大住入口」丁字路交差点を左折。(上の地図ではみ出た部分)
ナイス仁井田店。奥の左右が国道で、左がローソンと猿田川
ナイス仁井田店は、前身の「フードセンター」当時からの建物で、昭和の趣がある小型店舗。ナイスの中では最古の店だろう。
ここからは他路線が通らない大住団地線単独のコースで、再び狭い道になる。
左手(ナイスの裏)には、住宅や秋田南高校の脇が見える
秋田南高校の校地のうち、この付近は1994年度までは「秋田県教育センター」だった。教育センターが潟上市天王へ移転して秋田県総合教育センターとなり、1997年の南高校の校舎改築の際、同校の校地が広がった形。
住所はこの辺りまでが「仁井田緑町」で、以降は「大住」になる。そこのバス停が「大住団地入口」。
大住団地入口バス停付近に、小さな郵便局がある。
「大住簡易郵便局」
簡易局にしては本格的な構えのようにも見えるが、ATMはない。
そういえば、この一帯には郵便局もゆうちょATMも極めて少ない。
【1月1日追記】コメントをいただいて思い出した。以前、ここは酒屋だった。酒屋が廃業後、大住団地バス停そばにあった郵便局が移転して来たとのこと。

郵便局差の先も道は狭いが、700メートルほどに渡ってほぼ一直線。「大住二丁目」「大住三丁目」の2つの停留所がある。
沿道は戸建ての住宅があり、裏側には集合住宅形式の県営大野住宅や雇用促進住宅仁井田宿舎がある。昭和40~50年代に開発されたらしい。
大住を行く大住団地線
バス通りは商店街にもなっており、それなりにお店がある。1983年に設立された「大住地区商工振興会」には、現在42店舗が加盟している。
大住二丁目バス停付近
秋田らしく美容室のほか、クリーニング店、医院が多い感じだが、秋田銀行大住支店、弁当屋などもあり、広小路なんかより商店街の体をなしているとも言えそう。幼稚園もある。
大住三丁目
大住三丁目付近になると、住宅がメイン。

そして、やや広い道と交わり、住宅街が途切れる。
広い道は新しい道で、左折すると「あきたこまち誕生の地」碑・「小中島入口」バス停方面。そして向こうの広大な空き地が、秋田県農業試験場跡地。住所も再び「仁井田(字小中島)」になる。※関連記事
先にさらに細い道が続いているが、それは試験場跡を抜けて大野へ至る。
バスは右折。
右(国道・大住三丁目方向)から来て奥へ右折
曲がってすぐが、「大住団地」バス停。
右は住宅地、左は試験場跡
住宅地と試験場との境、大住地区の端である「大住団地」は、上記の通り1992年度までは、大住団地線の全便が折り返していた。
この先も含めて他の停留所のバス停のポールは、表示板部分がリニューアルされているが、なぜか大住団地だけは上下とも手書き文字の古いまま。(運行会社名部分は書き換えられているが、消えている)
「大住団地」以外の文字が見えるような… どこかの使い回しか?
かつてはここで折り返していたということは、方向転換や待機する「回転地」があったはず。
僕の記憶によれば、その場所がたぶん今も残っている。
先ほどの交差点。奥が大野、バスは後ろから右へ
交差点の東側(上の写真正面)に、ちょっとした空き地があり、それが回転地だったと記憶している。
現在は、上の写真の通り、舗装されて電話ボックスがあり、何台かの車が停まっていた。どういう位置づけのスペースなのか?

大住団地を過ぎたバスは、右手に大住の住宅、左に試験場跡を見て、200メートルほど進む。その末端が「大住小学校入口」バス停。
(今までと逆向きで)右が試験場跡地。大住小学校はこの左後方
「入口」といっても、市立大住小学校までは100メートルも離れてはいない。でも、「小学校前」っていうほど前でもない。
道は田んぼに突き当たる。バスは左折してすぐに右折。
突き当り。右奥が大住小
150メートルほど、田んぼの向こうに小学校や住宅を眺めて進む。
試験場跡とは異なり今も耕作されているので、四季折々の田んぼの光景を見られる。冬は吹雪くし、通学路なのに幅員が充分でないので、注意。

やがて左にカーブし、道幅が広くなり、突如、新しい住宅地に入り込む。
ここからが「大住ニュータウンみなみ野」。500メートルほど直進。

写真がないですが、ニュータウン最初のバス停が「みなみ野入口」。次が、
大住コミュニティセンター入口
1994年4月開館の秋田市大住地区コミュニティセンターは住宅地の奥にあり、バス停から120メートルほど離れている。
上の写真の通り、バス停の表示が変わっていて、小さな文字で「みなみ野団地」という“サブタイトル”が付いている。
「大住・みなみ野団地線」という割には、ズバリ「みなみ野団地」というバス停はないことになるが、上記の通り、みなみ野への延伸が1993年度、コミセン開館が1994年度なので、1993年度の1年間だけは「みなみ野団地」というバス停名だったことになる。
広報あきた1274号1993年3月20日より
大住団地線延伸を伝える秋田市の広報紙でも、このバス停が「みなみ野団地」になっている。
ちなみに、二ツ屋福島線の今の「南部公民館前」は当時は「牛島東六丁目」というバス停名だったようだ。

前回、大野四区から歩いてきた時に出たのがこの付近。

以後、写真はないですが、道路は右にカーブして、小さな「古川」を渡り、国道以来久々の信号機付き交差点へ。
直進すれば雄物川堤防沿いの茨島・大住アンパスの通りへ出るが、バスは右折。
あと300メートルほどで終点で、曲がってすぐ「西潟敷」バス停。雰囲気は変わるが、引き続き住宅街。
上の広報の図でも分かる通り、みなみ野延伸当初は、ここが終点だった。いつの間にか(移管前か後か不明)、さらに1つ先の「牛島西四丁目」が終点になっていた。
牛島西四丁目には回転地があるが西潟敷にはおそらくない。昔は近くの路上で方向転換していたのかもしれない。(憶測です)

牛島西四丁目の200メートルほど先がJR羽越本線のアンダーパス「牛島西アンパス」。※この記事の下の方
線路を潜れば茨島や卸町へ行くことができるが、牛島西アンパスは高さ制限3.0メートルなので、バスが通ることはできなさそう。

以上、大住団地線のルートをざっとたどりました。
秋田駅西口(~二丁目橋)から各バス停までの運賃は、
(二ツ屋上丁~)南高校前まで300円、大住団地まで330円、大住コミセンまで370円、牛島西四丁目まで390円。
ちなみに大野線の大野四区までは390円。


ここで、広報あきたのバックナンバーなどから、二ツ屋・大住方面の秋田市営バスの歴史を振り返ってみる。※市営バスだけで、中央交通については不明
・1962(昭和37)年2月 羽後牛島駅止まりの「牛島線」の一部を二ツ屋まで延長して「牛島二ツ屋線」運行開始(44往復。他に山王・県庁経由も毎時1本あったらしい)
→羽後牛島駅止まりのバス路線は現存しない。二ツ屋線については以下で徐々に
・1962(昭和37)年4月 県立秋田南高校開校
→南高校は二ツ屋下丁が実質的な最寄りバス停なので、二ツ屋延伸は通学対策もあったのかもしれない
・1968(昭和43)年12月 牛島ニツ屋線のうち22往復を仁井田上丁まで延長して運行
→現存しない路線だが、御野場団地線の原型だろうか?
・(参考)1971(昭和46)年11月 茨島環状線(茨島・牛島環状線)運行開始【2024年9月28日追記・1958年から存在したような情報もあるが、詳細不明。また、茨島環状線は2016年に卸町経由に再編され、2024年で廃止。】
→環状線は現在は牛島東一丁目の秋田銀行前で曲がってしまう(線路を渡らない)が、当時はその道路がなかったので、二ツ屋下丁まで来て、大住団地線のように南高前へ折り返して国道を戻っていた(踏切と跨線橋で線路を2度渡る)。
・1972(昭和47)年12月 二ツ屋線を延長して「大野団地線」運行開始
→これが大住団地線の誕生か。当時は「大住」という地名がまだ存在しなかったわけだが、農業試験場の敷地を挟んで終点が相対する、中央交通「大野線」に対抗するため「“大野”団地線」としたのだろうか?
この場所を「大野」と呼ぶのは、浦安にある東京ディズニーランドみたいに若干ズレているような気もする。しかし、県営住宅の名称や、大住に近い仁井田字西潟敷の私立「大野保育園」(1977年開園)の名称からしても、この辺も「大野」と呼ぶことに一定のコンセンサスが得られていたのかもしれない。
現在みなみ野に立つ電柱。電線は「大住ニュータウン線」で電話線は「大野西」。大野と大住が交錯する
・1976(昭和51)年3月 「ニツ屋線 秋田駅~ニツ屋下丁」「仁井田線 秋田駅~仁井田」「大野団地線 秋田駅~大野団地」などでワンマン運転開始
→この時点で、二ツ屋線とその派生路線の計3路線が走っていたことになる
・1976年(昭和51)年4月 住居表示実施で「大住」という地名が誕生
・1976年(昭和51)年11月 広報あきた684号に掲載された運賃表によれば、
初乗り60円!(元画像が不鮮明です)
運賃表が合体していることからも、当時は仁井田線と大野団地線が二ツ屋線の派生系統として一体的にとらえられていたことがうかがえる。(新屋線とそれを延長した新屋高校線・大森山公園線みたいな関係か)
仁井田線は「仁井田中丁」を通り「仁井田横丁」が終点。
大野団地線は「大野郵便局前」が終点。
→やはり「仁井田線」とは御野場団地線の原型なのか。「仁井田中丁」は国道13号線のバス停で、現在の御野場団地線も通る。「仁井田横丁」は国道上の「四ツ小屋入口」交差点付近。御野場団地線はその直前で曲がって御野場へ向かっている。
→現在は「大野郵便局」という郵便局自体存在しない。運賃表の位置からすると、現在の大住団地バス停に相当しそうだ。もしかして大住簡易郵便局が、別の名前で別の場所にあったのだろうか。【1月1日追記】コメントや上記の通り、わりと最近まで回転地近くに郵便局があったとのこと。
・1979(昭和54)年4月 広報の市営バス沿線風景を紹介する連載で「ニツ屋仁井田線」が紹介される
「国道十三号線を通り、(中略)御野場団地まで運行されている路線です」とされている一方、「仁井田終点」とも記載。
→これまでの「仁井田」が実は御野場団地のことだったのか、あるいは今の御野場団地とは違う位置なのかは不明だが、いつの間にか御野場方面へ路線が延びている。
・1980(昭和55)年7月 「大野団地線」を「牛島大住線」に名称変更
→この時、交通局庁舎が保戸野から臨海へ移転している
当時の記事を見る限り「大住“団地”線」ではないが、この時点で、僕も記憶している牛島・仁井田方面のバス路線網が確立されたと言えそうだ。(結局、御野場団地線がいつからそう呼ばれたかは分からなかった)

以降は、保存してある市営バス時刻表から。(時刻表の画像をアップすれば説得力がありますが省略させてもらいます。見間違いがあるかもしれません)
・1988(昭和63)年春 大住団地線は毎時2本運行。全停留所掲載の冊子時刻表では現「大住二丁目」が「仁井田ストアー」となっている。
二ツ屋線は毎時3本運行。うち基本系統は「二ツ屋下丁」発着で毎時2本。残り1本が「福島下丁」発着(=二ツ屋下丁は通らない)。(他に南高校発着便も)

・1989(平成1)年春 この改正からダイヤが「平日土曜」と「日曜祝日」の2本立てとなる。※当時は週休2日制ではなく、土曜日も平日扱い。学校の下校時刻の関係などで、土曜運休/土曜のみ運行というダイヤもあった。
平日の二ツ屋発着がごく若干減ったが、まだ福島下丁便がサブ扱い。しかしながら日曜日は全便が福島下丁発着となる。

・1990(平成2)年12月(同年春の時刻表がないため不明) 二ツ屋線の基本系統が「福島下丁」発着になり正副が逆転。従来の二ツ屋下丁便に相当する系統は、平日昼間を中心に毎時1本程度の運行。
その二ツ屋下丁方面系統は、なぜか「午前中は(二ツ屋下丁の次の)大野口発着で土曜日も運行」「午後は二ツ屋下丁発着で土曜日運休」というパターン。(夕方や夜間は例外あり)下りの行先表示はどちらも「牛島・二ツ屋」だった。
ダイヤは秋田駅を毎時45分に出発し、折り返して大野口/二ツ屋下丁を毎時07分発。したがって大野口発の便では、二ツ屋下丁発よりも、以降のバス停の通過時刻が若干(たしか1分)繰り下がっていた。
僕は、この当時の大野口/二ツ屋下丁発の上りバスを何度か利用した経験がある。実は、直前に御野場団地線(毎時53分始発)があり、二ツ屋下丁で毎時00分発だったと思う。つまり大野口/二ツ屋下丁発は、御野場発の7~8分間隔後を続行する短区間路線なので、いつもガラガラだった。
疑問だったのは、どこで方向転換していたのかということ。二ツ屋下丁にも大野口にも回転地はない。二ツ屋下丁行きのバスは、一度国道の方に出ていって数分後に戻ってきていた。おそらく、大野口発着便と同じ場所で方向転換していたのだろう。ひょっとして、国道の路上でぐいーんと回転していたのか?
大野口/二ツ屋下丁発着のバスは、そもそもの存在意義と、大野口発着と二ツ屋下丁発着があることの意味、どこで方向転換しているかと、謎の多い路線だった。
【2012年3月18日追記】この記事にいただいたコメント方向転換の場所が判明した。大野口停留所の先にある、13号線から旧道が再度分岐する「切上」の三叉路で行なっていたという。国道から左側の旧道に入っていく道に、再度国道へ戻る右折車線が設けてあり(現在もある)、それを使ったそうだ。ほぼバスの方向転換のためだけに設けられた車線ということのようだ。

・1993(平成5)年春 この改正から、土曜日も休日ダイヤとなった(学校はまだ第2土曜だけが休みだった)
大住団地線がみなみ野団地(西潟敷)まで延長。ただし、全便ではなく半数(毎時1本)だけで、残りは従来通り大住団地線発着。行き先表示はどちらも「牛島・大住」を使用し、西潟敷行きは「みなみ野」という紙を前に掲出していた。
また、福島下丁発着の二ツ屋線が末端で環状運行するようになる。

・1994(平成6)年春 二ツ屋線の大野口/二ツ屋下丁発着系統が廃止
32年に渡って存在した二ツ屋下丁発着系統がなくなり、二ツ屋線は福島下丁行き(正確には南部公民館前=牛島東六丁目行き)とわずかな南高校発着の2系統に。【牛島経由南高校発着系統は2014年で廃止。】
二ツ屋福島線の242号車
・1996(平成8)年春 大住団地線がすべてみなみ野団地発着に。本数は毎時2本のまま。おそらくこの時点で「みなみ野」の紙掲出をやめて、「牛島・大住」での運行に戻ったと考えられる。それが中央交通へ移管されさらにLED化され、今年9月まで使われていたことになる。
・2001(平成13)年春 牛島方面の市営バス路線が秋田中央交通へ移管
【31日追記】記憶にある限りでは、市営バス時代の二ツ屋・大住・御野場各線とも中型バスでの運行で、大型バスが使用されたことはないはず(おそらくワンマン化以降は)。全営業所で分担して担当していた模様。
中央交通移管後も中型バスでの運行。当初は秋田東営業所が担当していたが、今年春の統合後は秋田営業所が担当(車両はかつて東に所属していたものがメイン)。

牛島駅→二ツ屋→大住/御野場と路線が延伸されたことから仁井田・大住地区の発展が見て取れる変遷ではないだろうか。
一方、今年秋からは大住団地線、二ツ屋福島線とも減便され、特に二ツ屋線はかつては毎時3本もあったとは信じられないような過疎ダイヤになってしまった。(市営バス時代が供給過剰ではあったが)


最後に、大住団地線の経路を考えると、かなり遠回りしている。
途中の牛島地区での乗降と運行開始当初の道路事情や上記の経緯(二ツ屋線が延長された)を踏まえると、昔はそれでよかったのだろう。
しかし、現在の終点の牛島西四丁目は、感覚としては茨島とか卸町経由で秋田市中心部へ行きたくなる場所。この辺りの皆さんは、牛島経由のバスでは秋田市中心部や秋田駅前との行き来に時間がかかりすぎると思っているかもしれない。
そして、昨年、羽越本線を潜る市道「茨島・大住アンパス」が開通した。アンパス周辺は道が広く、路線バス空白域でもあるので、ここを走る「新・みなみ野団地線」が設定できないだろうか。
秋田駅から新屋線・茨島環状線の経路で旧7号線・秋田大橋まで来て東へ曲がるルートでもいいかもしれないが、それよりも有楽町・イオン秋田中央店前から直進、卸町・茨島の生協前の市道を抜け、堤防に突き当たって東へ曲がりアンパスへつながるルートが最短だろう。つまり、「有楽町・卸センター前・卸町・茨島七丁目・アンパス経由」となる。

地図上で秋田駅西口から牛島西四丁目までの距離を測定してみた。
現在の大住団地線の牛島・南高校前・大住経由では7.3キロ。一方、卸町・アンパス経由なら5.7キロと1.6キロ短縮される。
これは秋田駅西口から有楽町バス停付近までの距離に相当する。仮に卸町・アンパス経由のバス路線ができて、駅からみなみ野周辺までバスに乗れば、時間が短縮されるほか、現行より50円は運賃が安くなるかもしれない。
みなみ野からさらに逆方向に進んで大住・南高校方面、あるいは堤防沿いをさらに進んで大野・御野場方面など、新たな路線・経路も考えられる。公共交通の便が悪かった地域の需要掘り起こしや既存路線の渋滞や積雪による遅延の緩和になるかもしれない。
前も書いたけれど、秋田市内の路線バスは「現状のバス路線網を維持する」のでは既に無理があり、「新しい道路や生活の変化に対応した抜本的な路線網の見直し」こそ必要だと思う。

※その後、2015年10月の牛島方面のバスの状況
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巻きつくバス停

2011-10-04 23:38:05 | 秋田市営バス
秋田市北部に「陸上自衛隊秋田駐屯地」がある。
所在地としては「飯島」だが飯島地区の南端の辺り。将軍野(しょうぐんの)や土崎港地区と境を接しているため、「自衛隊は将軍野や土崎にある」というイメージの方が強いかもしれない。
現在は駐屯地の敷地のすぐ東側を、県道41号線(ヨコカナ線こと県道横山金足線)が通っているが、一般的な駐屯地へのアクセスといえば、新国道(という名の県道56号線)から市道の「自衛隊通り」に入って将軍野踏切を渡り、敷地の南西に位置する正門へ行くルートだろう。

その新国道から自衛隊通りに入る交差点が「自衛隊入口」交差点。交差点から駐屯地までは1.5キロほど。
新国道といえば秋田市内を南北に貫くイメージだが、この付近はほぼ東西方向に走っている。自衛隊は北方向なので、秋田市中心部から来ると右折することになる。
交差点を境に西が土崎港、東が将軍野。
自衛隊入口交差点。西から東を見る。左が自衛隊方向
自衛隊入口交差点の南側の市道は、坂を越えて旧国道へつながる。交差点のすぐそばには県立秋田中央高校のほか、秋田県点字図書館がある。南が丘へ移転する前には県立盲学校もあった。(ちなみに、中央高校には校舎改築計画があり、盲学校跡地も活用して新校舎を建てるらしい)
そのため、この交差点はかなり以前(少なくとも昭和50年代)から、視覚障害者用信号(音響式・盲人用信号)が設置されていた。現在はさらに、歩車分離式(建前上は斜め横断不可)になっている。


この交差点のそばにあるバス停の名も、「自衛隊入口」。
ここは、新国道側を新国道経由各路線、市道側を将軍野線(通町経由市民生協発着と県庁・サンパーク経由組合病院発着)が走っていて、路線が交差しているため、それぞれに「自衛隊入口」というバス停がある。
周辺略図
新国道側は、上り下りとも交差点を過ぎた位置(=上の図では下りが西側の2、上りは東側の1)にあり、市道側は上下とも交差点の北側(3と4)に設置されている。
なお、本数は少ないが新国道経由将軍野線(中央高校前を通らない)というのがあり、その上り(秋田駅行き)は市道側3→新国道側1と2つとも通ることになる。おそらく、どちらからでも乗せてくれるとは思うが、降りるのは市道側だけかもしれない。(未確認です)


今回注目するのは、自衛隊入口バス停のうち、略図でいう「1」のバス停自体について。

バス停には、普通、バス停(のポール)が立っているはず。
市道側の下り側(4)には、旧市営バスの初代バスロケ(接近表示)付きのものが設置されている。2代目には更新されず、ただの照明付きバス停になったわけだが、バスロケが必要なほど利用者のいるバス停だったのだろうか?
市道上り(3)、新国道下り(2)は、普通のいわゆる「ダルマ型」バス停が立つ。

しかし、1の新国道側の上り・秋田駅行き側は…
後方が交差点
交差点の東に、歩道が切り欠かれた(バスベイ)、バス停らしき部分がある。
点字ブロックもバス停を示す丸い点の「警戒」(なぜか2か所)
【2016年5月21日追記】警戒ブロックが2か所あるのは、新国道の近隣のバス停でも見られる。同時期に施工されたのだろうが、意味がないことであり、かえって混乱させてしまう。
でも、ポール類は見当たらない。
じゃあ、時刻表はどこにあるの?


なんと、
電柱にあります!

バス停の名称表示と時刻表が電柱に“巻きついて”いるのだ。
以前、弘前市にある弘南バス「桔梗野」停留所の絵に描いたバス停を紹介したけれど、これは「巻きついたバス停」か。


ただし、「秋田中央交通」「自衛隊入口」という表示はあるものの、「バス停留所」といった表記はなく、一見、これがバス停とは認識できないかもしれない。

普通のバス停なら時刻表をはめ込む枠があるが、板を巻きつけているだけなので、構造上無理。
そのため、
ガムテープで貼られている(9月以前の改正前の時刻表)

バス停名と運行会社名
普通、会社名が上段で、バス停名が下だと思うが、なぜか逆。
間に白いテープが貼ってあるが、ここには「秋田市営バス」と表示があったはず。(※そのため、この記事を市営バスカテゴリーに入れました)

東側から西を見る。奥が交差点
裏面も、時刻表はないが同じ内容の板が巻いてある。

上の写真で分かる通り、電柱が立つ位置は、切り欠きの中央部(警戒ブロックのある位置)から離れた位置(バス走行方向から見ると先方)にある。
当然、バスは中央部にドアを横付けして停まるので、電柱の前で待っている人は、そこまであわてて移動しないといけない。

ここ以外のポールが立っているバス停でも、新国道の近隣バス停や竿燈大通りの一部(上りの大町二丁目や交通公社前)で、切り欠きの先端にポールが設置されている場合がある。
乗客の動線としては好ましくなさそうに思えるが、歩道の狭さを考慮して、通行の妨げにならない位置に置いたのだろう。


それにしても、この“電柱のバス停”の表示、白が基調なので目立たないし、位置はずれているし、そもそもまさかこんなスタイルのバス停があるとは思いもしないだろうから、初めての人は見つけられないかもしれない。
せめて、他のバス停と同じような、目立つ色遣いにして目立たせた方がいいと思う。

市営バス当時から存在していたので、歴史はそれなりにあるわけだが、なぜ、電柱をバス停にしようと思いついたのだろう。
バス停の前後の電柱を見てみると、
「ここに電柱広告を出してみませんか?」
自衛隊入口交差点周辺の多くの電柱が、広告募集中だった。(バス停に比べて、広告が高い位置に巻かれている)
秋田市中心部では、医療機関の広告などが電柱にあるのをよく見る。新国道周辺では、広告主が見つからないらしい。

巻きついたバス停も、この手の広告と同じ形式だ。
しかし、バス会社がバス停のために、長年に渡って広告費を出し続けているとは考えにくい。ポールを立てるのならタダだろうし。
もしかして、電柱管理会社側(NTT系?)が、どうせ空いている広告スペースだからと、無償でスペースを提供しているのだろうか。巻きつけ位置を広告より下げたのは、時刻表が見やすいようにとの配慮だろう。
電柱広告であれば、屋外広告物としての手続きが必要になる。しかし、バス停ならいらないだろう。この辺の扱いはどうなっているのだろう。

【5日追記】最近は、各種地図サイト(MapionやGoogleマップ)でも、バス停の位置が表示される。
細かい位置については、いい加減な場合(道のど真ん中にあるとか)もあるが、自衛隊入口交差点周辺では、ほぼ忠実。しかし、この新国道上りの自衛隊入口だけは、Mapion、Google、それにgooの地図でも、バス停が存在しないことになっている。現地での調査に基づく元データが共通なのかもしれないが、調査員も、電柱がバス停になっているのに気づかず、見落としてしまったのだろうか。


ほかにも意外なスタイルのバス停としては、南秋田郡五城目町に、バス停の絵を民家だか店舗の壁に貼ったバス停があるのだとか。→この記事にて

※自衛隊入口の冬の様子はこちら
その後の変化

【2017年12月28日追記】広島市の広島電鉄の路面電車の停留所「小網町」は、狭い道にあり、車道部分と段差がなく線で区切っただけの乗り場「平面電停」。電停名称表示や時刻表を掲出するスペースが確保できないため、路肩の電柱に設置されているのを知った。自衛隊入口のように巻きつけているのではなく、平らな板を何枚か電柱に固定した、立て看板のような外観。現在は安全面から平面電停は少なくなっているが、他の都市でも存在する(した)。もしかしたらこれにヒントを得たのかもしれない。
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23年前の時刻表

2011-09-20 23:54:50 | 秋田市営バス
9月20日は「バスの日」なので、またバスの話題。
その前に、訂正です。先日アップした秋田市営バスの広告の記事で、背もたれの広告を取り上げました。その後、自分でつけていた記録を見たところ、その開始時期等に関して誤った記述をしていたのに気づきましたので、元記事に訂正・補足をしました。
他にも記憶違いの点もあるかと思いますので、その点はご了解いただき、もし誤りにお気づきで正しい情報をお持ちでしたら、ぜひ教えてください。
続編として、他の車両広告についてアップしようかと思っていましたが、正確を期すため、もう少し情報を整理してからにしようと考えています。お待ちください。


今回は時刻表の話題にしますが、その前にせっかくなので、バスの日関連の話題も。
今年も秋田駅前のアゴラ広場で、17日に「第16回秋田バスまつり」が開催された。行ったわけではないが、テレビのニュースによれば、雨の中たくさんの人が訪れていた。
内容は例年と同じようで、毎年行列ができる「抽選会」は今年も盛況。あとはステージ発表や県内3事業者から路線バスが1台ずつ展示されていた。
展示された車両も変わり映えがなく、秋北バスは国際興業グループの新しい塗装の車両、中央交通は昨年展示されたのと同じ新車で購入したノンステップバスいすゞエルガミオ(昨年は「819」だったが、今年はもう1台の「818」)。

チラシには、「協賛」として、ディーラーやタイヤメーカーなどの名が挙がっていたが、その中に「UDトラックスジャパン株式会社秋田支店」の名もあった。旧日産ディーゼル秋田販売のことで、同社はバスの製造をやめているようだが、協賛はしているわけか。

昨年も書いたけれど、このイベントでバス利用者が増えるとは言いがたいと思うし、日ごろバスに乗っているお客への感謝の機会とも言えないと思う(回数券を買った人にババヘラアイスをくれること程度)。
特に今年は、秋田市内の路線バスに10月からさまざまな変化がある。中央交通単独や秋田市のイベントでないので無理かもしれないが、系統番号表示の予告や、高齢者100円バスのPRの機会にもなりそうだったが、やったのかな。


ついでに話が逸れるが、もう1つ10月から、秋田市が広告主となって、公募した秋田らしいデザインのラッピングバスの運行が始まる。6つのデザインが採用されることになったが、秋田市交通政策課のホームページによれば、そのうち3台が、先立って22日から運行を開始するという。
22日10時から11時まで、秋田市役所前で展示(山王大通り・噴水側からラッピングが見える向き)し、午後から運行を開始するとのこと。



ここからが本題、バスの時刻表―バス停掲示ではなく利用者に配布されるもの―について。
現在は、バス案内所で、冊子の時刻表を無料配布している。
中央交通の全路線(秋田市内と五城目地域と男鹿地域)について、主に始発と終着(一部途中停留所)の時刻が掲載されている。「秋田市マイタウン・バス」など自治体が運行しているバスについては、中央交通が受託している路線であっても掲載されないようだ。

市営バスと中央交通が完全に別々だった当時の中央交通の時刻表がどうだったのかは知らないが、秋田市営バスの段階的路線移管が進んだ2000年代中頃以降はこのスタイル。
市営バス路線が少なくなった頃は、1冊に市営バスと中央交通がまとまって収録されていた。

では、路線が多かった頃の秋田市営バスはどうだったか。
僕の記憶にあるここ20年ほどは、ダイヤ改正の都度、秋田市内全世帯に配布されていた。(案内所でも配っていたはず)
秋田市の広報紙「広報あきた」に折り込んで配布されていたので、印刷費以外にコストはかからなかったのだろう。「市営」バスでなければできない芸当だったと言える。
なお、現在の広報あきたは、ポスティング業者に委託して配布されているが、10年くらい(?)前までは、各町内会を通して配布されていた(各町内会の班長などが各戸に配達)。町内の負担軽減のため、業者委託になったと記憶している。

その時刻表は、新聞紙大の紙(紙のサイズは徐々に大きくなっていった)見開きに全路線が収められていた。2色刷りで、当初は紺色とオレンジ、紙が大きくなってからは紺色とピンク。路線別に、始発時刻のみが掲載されている。
昭和63(1988)年12月21日改正
この当時は、まだ平日/休日のダイヤ区分がなかった。(一部便を日曜または土日運休/運行して対応)

平成7(1995)年12月26日改正
移管が始まる前の時刻表。曜日別ダイヤになったこともあり、びっしりと時刻が並ぶ。

【12月30日追記】1988(昭和63)年度までは、曜日区分のないダイヤだったようだ。
1989(平成1)年度から「平日・土曜」と「日曜祝日」の2本立てとなり、1993(平成5)年度に「平日」と「土曜日曜祝日」に変更されている。

平成14(2002)年4月1日改正
この形式の時刻表としては、手元に保存してある最後のもの。完全移管の4年前。
紙のサイズが大きくなったこともあり、余白が目立つ。
市営バスは上半分だけ。左下には秋田駅前の乗り場案内などをスペースを広く取って掲載。右下には、この時に移管されたばかりの新屋方面の中央交通時刻表が掲載されている(現在の豊浜ふれあい号分も含む)。

【23日追記】この大きな時刻表は、市営バスの各車内にも配置されていた。運転席に置かれており、乗客から乗り換えの問い合わせがあった場合などに活用されていた。一部車両では、車内に掲示(運転席背後などに)されていた。
余談だがこれとは別に、秋田駅の乗り場別に、秋田駅の発車時刻を列記したワープロで作った表も、運転席に置かれていた。(8:00大住、8:10柳原南高校、8:15牛島御野場・・・といったような)これはおそらく、各運転士が自分のバスを乗り場に入線させるタイミングを計るためのものだったのではないだろうか。



交通局ではこれ以外に、一時期、冊子の時刻表を作成していたこともあった。
1987(昭和62)年度に始まったようで、同年6月10日付広報あきた1066号に「市交通局では、6月15日から市営バスの定期券や回数券を購入したかたに、「市営バス時刻表」を無料で1冊ずつさしあげます。この時刻表は横9センチ、縦19センチとコンパクトで、持ち運びにとっても便利です。(略)市営バスの利用案内情報がすべて盛り込まれています。」とある。

翌年には、バスの日(この年が制定後2年目)に合わせて配布されたようだ。
1988年9月10日付広報あきた1111号には、「9月19日(月)、市内の主要バス停5か所で、通勤時間帯、買い物時間帯に合わせ、「バスの日」の標語入りポケットティッシュ1万個と携帯用時刻表千冊をプレゼントします。」とあり、市役所前、南営業所(現・新屋案内所)、交通公社前、秋田駅前、買物広場で配布された。

1989年以降の広報には、冊子時刻表があるような記載はないようで、2年間しか作成されなかったのだろうか。

その1988(昭和63)年の時刻表が、我が家にあります!
左の縦長のがそれ
上の写真、右側は2005年の中央交通の時刻表。上記の通り、移管末期だったため市営バスの時刻表も掲載されており、下に2者の名前が表記されている。
現在の中央交通単独の時刻表も、表紙デザインは異なるが、サイズや中身は同じはず。
市営バスのは縦長で、持ち運びにくい。なんでこんなサイズにしたんだろう。この点は、今の中央交通の方が親切。

というわけで、昭和最後の年度の時刻表を見てみます。
表紙(裏表紙はミサワホームの広告)
広報あきた1066号には、1987年度の時刻表表紙の写真が出ている。解像度が低くて分かりにくいが、おそらく赤れんが郷土館前を走る市営バスのイラスト。
この1988年度では、それと同じタッチの秋田市役所前を走る市営バスが描かれている。
誰が書いたのか分からないが、直線的で色遣いが独特で、どことなく現実離れした印象を受ける。それでいて、実は細部は忠実に描かれている(ように感じる)なんか不思議な絵。
拡大。ちなみに22日にラッピングバスが展示されるのが、右奥(噴水の向こう)付近のはず
花時計・噴水・旗・正面玄関の配置はかなり正確だと思うが、秋田市旗の色が反転(本来は若草色に白抜きマーク)している。
市営バスの車両は、フロントガラスや窓の配置はともかく、ちゃんと緑のナンバープレートを付けているし、車体の塗装も忠実。正面にあるべき、秋田市章がないのがちょっと気になる。【21日追記】バンパーの色は実物は黒かったはず。
 (再掲)実物
この塗装は、以前紹介したように、1985年度までの導入車のもので、それらがすべてなくなった(廃車または譲渡に伴う塗装変更)2000年度まで見られた。
表紙のイラストは、ヘッドライトや行き先表示付近の屋根のデザインからして、当時は最新型(ただしモデルチェンジ直前)で市営バスに多数在籍した「日野レインボー」だと思われる。(上の写真は同年代の三菱製)

ところで、1986年度には、市営バス末期まで見られた新しい塗装の車両が既に登場していた。
1986年度に導入されたのは少数(7台)で、1987年度は導入がなく、時刻表発行後の1988年度下期(12月頃)から、新塗装の車両が大量に導入されていくこととなるので、まだなじみがなかったのかもしれないが、せっかくならこのイラストも新塗装のバスにすればよかったのにと、当時は思ったものだった。それも今となっては貴重な記録。


時刻表は119ページに及ぶ。(現在の中央交通の時刻表も100ページ超か?)
目次
方面ごとに「章」のように分かれている。
各章の最初のページには、大雑把な路線図がある。
左の広告については、後で
路線図は横にして見なければならず、しかも線が入り組んでいて進行方向が分からず、使いづらい。

ページをめくると、各路線ごとに、全停留所名と時刻が掲載されている。
当時は曜日区別がない1本のダイヤだったので、上りと下りの表が1つずつ。いくつかの途中バス停の通過時刻も掲載。(現在の中央交通のは、途中時刻はごく一部のみ)
大回線
今では、平日朝に片道(楢山回り)1本だけが運行されている「大回り線」も、当時はまだこんなに運行されていた。
逆回りの「手形回り」っていうのもあったんです。どちらも、朝に4本、夕方に5本も運行されており、たぶん休日も同じダイヤだったのだろう。

全体的に見て現在と比較すると、各路線とも本数が多かったという感想を持つが、路線網はそれほど大きな変化はない。(マイタウンバスへの移行や経路が変更された路線がある程度)
御所野へ行く路線や泉ハイタウン線(泉秋操線)は、まだ運行されていない。


ところどころにある、豆知識的コーナーや広告も興味深い。
バスロケーションシステムの紹介
1981年に秋田市交通局が世界に先駆けて導入したという、無線を使ったバス接近表示の解説。その後、1994年に機器が更新(別メーカーのもの)されたが、民間移管されることなく、消滅した。

63年度夏秋観光団募集表
堅苦しいタイトルだけど、市営バスツアーの予定表。
「船と海峡トンネルで函館青函博覧会の旅」、3泊4日で当時放送されていた大河ドラマにちなんだのであろう「富士山の御来光と武田信玄の甲府を訪ねて」といった遠距離から、「二階バスで秋田市内めぐり」といった手ごろなものまで、秋田市営バスが各地へ出かけていたことが分かる。

「ご存知ですか?」
複数の子どもを連れて乗車する場合の、運賃の算出方法の表。これと同じものが車内にも掲載されていたはず。
この一家(?)のイラスト。
上から大人、児童、幼児、乳児、再び幼児(このほかに女性の大人もいる)
みなさん、独特の風貌です。


最後に、広告。
車両の広告でもおなじみの各社、ディーラー4社、開局間もないFM秋田などもあったけれど、印象的なものをいくつか。
くつとかさなら協働社
秋田を中心に周辺各県に店舗を構えていた「協働社」。今は高層マンションが建つ、広小路西端の店舗は、百貨店のような総合スーパーのような大きな店で、秋田市中心部の賑わいの核の1つだった。
上の広告では、ウサギのロゴマークを囲んで、店舗網(秋田市外も含む)が記されている。角館にあったのは覚えているが、五城目や生保内にもあったのか。

秋田ステーションデパート
今の秋田駅ビル「トピコ」。ロゴマークが懐かしい。

サンポート土崎 ジャスコ土崎港店
現在のイオン土崎港店。
「J」のロゴマークもまた懐かしい。「♪ジャスコで逢いましょう~」という歌が聞こえてきそう。
当時は、秋田駅前のジャスコは既に撤退(1985年にパレドゥー、1987年にフォーラスとしてオープン)し、御所野のジャスコもまだない(1993年オープン)。(秋田サティも1995年オープンでまだないし、そもそもイオン系列ではなかった)
したがって、土崎ジャスコが秋田市内唯一のジャスコとしてがんばっていた時期だったわけだ。
それにしても、スクラップアンドビルドで有名なイオンが、長きに渡って同じ場所・同じ店舗形態で営業を続けているのは、すごい。

一方、
秋田ニューシティ
向かいに建物(イーホテルショッピングモール)があるので、絶対に見られないアングルからの絵。左上のダイエーの看板のバランスがちょっとヘン。
「キラキラ「私」的空間。/明日が見える、ショッピング・シティ/未・来・派 ス・ト・リ・ー・ト」とやたらとキャッチコピーが多いが、全部時代を感じさせる。
この14年後にダイエーが撤退し、23年後には更地になって跡地をどうしようか悩むことになる(悩むのは辻さんですが)とは、当時は想像すらしなかった。

23年前には想像できなかったと言えば、上の方で後でとしていた、クラリオンの広告。車載機器メーカーとして、広告を出したのだろう。(秋田市交通局ではスピーカー、マイク、テープ再生装置などがクラリオン製だった)
そのモデルさん、
「きこえるねきみの音。」(←ひらがなばかりで区切りがなくて分かりづらいけど、当時の流行り?)
「'88クラリオンガール Ren Ho」
レンホー!!
まさか、この後ニュースキャスターになって、国会議員になって、仕分け人になって、ナントカ大臣になるとは…
「きいてくれてますか国民の声。」

この記事後半にて、回数券販売所について取り上げています。
コメント (4)
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市営バスの広告

2011-09-14 23:56:40 | 秋田市営バス
久々に秋田市営バスカテゴリーの記事です。
市営バスカテゴリーでも話題があちこち飛んで申し訳ないですが、今回は広告について。

路線バスは、広告媒体としても大きな役割を持つ。
外側、内側、車内放送、バス停、時刻表など、広告スペースがたくさんある。
現在は、車体外側をまるごと1つの広告にした、「ラッピング広告バス」もあるが、これは2000年に東京都交通局が始めたのをきっかけに、全国に広まった(東京都が最初というわけではないはずだが)。
したがって、その頃既に縮小傾向にあった秋田市交通局では、ラッピング広告車両が現れることはなかった。

しかし、秋田市営バスは、現在の民間会社に比べて積極的に広告を集めており、その手段もユニークなものが多かったと思う。
とりあえず今回の記事では、比較的オーソドックスな、車体に取り付けられた広告を中心にまとめてみたい。
※掲載する写真は、広告を主眼に撮影したものではなく、カメラも撮影する腕も今より悪かったです。写りが悪い点をご了承ください。
130号車(2001年撮影)
市営バスの側面の広告は上の写真のような感じ。
窓の下の車体に広告をはめ込む枠が設けられ、そこに広告のパネルを入れている。枠は反対面にもある。
また、入口である真ん中のドアには、貼るタイプの広告がある。
上の写真の通り、広告枠は空いている車両も多かった(特に運転席側)が、中ドアにはほぼ全車両に広告があったと記憶している。中ドアはドアが開いている時は見えないわけで、広告効果が低そうだが、スポンサーには人気があったのだろうか。

 
226号車(2001年撮影)と280号車(2002年撮影)
今度は後部。
リアウインドウの下にも広告枠が1つまたは2つ。上の写真の「うまい酒 両関」のように、ここには地元酒造メーカーの広告が多かった気がする。
また、226号車のようにリアウインドウのガラス面の下部や左右に、シール式の広告を貼った車両もあった。
そして、特徴的なのが、屋根の上。
226号車は秋田銘菓「金萬」、280号車は故・藤田まこと氏が微笑む、地元の「仏壇の升谷」。
【17日追記】ちなみに、交通公社前のバス停(下り)の前にあり、バス回数券の販売所でもあった呉服店(現在は移転)は「升“屋”」。(さらにちなみに、この升屋は那波商店の呉服部という扱いらしい)

屋根の上に金属板を(おそらく)溶接し、そこに広告を表示(貼っている?)している。
僕の記憶によれば、これは1992年度から始まった。当初、「秋田朝日放送10月開局」という広告が出ていたので、間違いない。
他には、「秋田ステンレス」「北都銀行」などが当初あったと記憶しているが、比較的頻繁に代わっていたようだ。
238号車(2000年撮影)「北都UCカード」
上の広告は、「UC」の円形のロゴ部分が、出っ張っていたと思う。また、右側は少し剥げているが、アイドリングストップを呼びかけている。

三重交通でも同じ趣旨の広告があったが、あちらは左右2つに分割されていて、広告をはめ込む方式だった。
その記事でも触れたが、この広告板付きの車両が路線移管に伴い、中央交通に譲渡された場合、板は撤去されずにそのまま残った状態で移籍した。
しかし、移管後は広告スペースとしては使われず、車体と同色に塗りつぶされてやや格好悪い。(強いて言えば、バックモニタのカメラ設置スペースになっている。上の升谷の280号車も譲渡直前であったため、既にカメラが取り付けられている)


路線・貸切兼用の「ワンロマ車」であり、「秋田八丈(秋田八景ではありません)」をデザインした特別塗装の大型車は、その性格上なのか、全体としては広告が控えめだった。側面は中ドアにしか広告がなかったと思う。
その後部
285号車(2001年撮影。「ワールドゲームズ2001」の輸送のため「貸切」として使われている場面)
僕はあまり意識していなかったのだが、いつの頃からか(たぶん導入当初はなかった)、電動回転式の広告が設置されていた。
拡大
横方向に細切れになったものに広告が描かれ、それが周期的に回転して、別の広告(別のスポンサー)に変わるらしい。
これも中央交通へ譲渡時に撤去された。

正面も見ておきます。
260号車(2003年撮影)
「バスマスク」と呼ぶらしいが、たまに前面にこのような広告が出されていた。写真で確認すると、少なくとも2001年と2003年の夏場には、「アリナミン」がスポンサーになっていた。夏の疲れにってことでしょうか。せっかくの市章が隠れてしまうし、たまにぐにゃっと曲がっていることもあり、見栄えとしてはイマイチか。
バスマスクは、全国的によく使われているようで、中央交通でも自社のツアーの宣伝や国土交通省の違法改造車撲滅だかのシンプルなものを見かける。

ついでに車内の座席。
 
246号車(2001撮影)と不明【2014年2月25日追記】125号車(日野製の1994年車) ※両者でシートやひじ掛けの形状が異なる点にも注目(246号車のは「天龍工業」製で、いすゞ、日産ディーゼル、一部の三菱製の車両で採用されていた)
【19日訂正】記憶違いがあり、以下の内容に明らかな誤りがありました。訂正します。多少は確実である内容(申し訳ないですが必ずしも確実とは限りません)を、その下に改めて記します。
たぶん2000年以降だと思うが、それまで布地がむき出しだった背もたれの、上部に白いビニールカバーをかぶせた車両が何台か出現した。経年劣化を防ぐ/ごまかすためだったのだろうか。
さらにその一部には、写真のように1つ後ろの席に座っている人の目に入る広告が背もたれ裏面に設置された。当初は、クリアケースみたいなのが付いていて、そこに広告の紙を差し込んでいた(上の写真のどちらの車両もこの方式)が、やがてビニールのようなものに印字してそれを接着剤で直接貼り付けていたかと思う(←もしかしたら白いカバーのない車両で、布地に直接貼っていたかも?)。
各車両ごとに背もたれ全部が同じ広告で統一されていたと思うが、広告主は地元の医療機関から携帯電話キャリアまで、いろいろあったと記憶している。

譲渡された車両は、カバー自体はそのままだったが広告は撤去されて、接着剤の跡が格好悪かった。
でも、最近は見かけなくなった気がするから、カバーも撤去したのだろうか。肩の部分の取っ手のネジを外さないとカバーを外せない(そして再度取っ手を付けないと)から、けっこう面倒そうだが。


背もたれの裏面、1つ後ろの席に座っている人の目に入る位置にも、広告が設置されていた。僕の記録によれば、1992年には既に登場している。
広告主は地元の医療機関から携帯電話キャリアまで、いろいろあり、1台の車内では同じ広告主で統一されているのが基本だったと思う。
当初は、座席の布地に広告を縫い付けていたようだが、後に接着剤で貼り付ける方式に変わったと記憶している。接着剤で留めていたものは広告が撤去されると、その跡が布地に残り、見栄えが悪かった。

また、1998年から、一部車両の背もたれ上部に、白いビニールカバーがかけられた。主に比較的古い車両だったので、擦り切れたり日焼けによる経年劣化を防ぐ/ごまかすためだったのだろうか。
そのカバーの同じ位置にも、同じように広告が設置された。それが上の2つの写真で、クリアケースみたいなものを貼り付け、そこに広告を印刷した紙を差し込んでいたようだ。
(以上、訂正・補足終わり)


今度は、広告の内容やデザインを見てみる。
134号車(2003年撮影)
国民年金の広告だから、秋田市の年金担当課が広告主か。秋田市が秋田市に対して広告を出しているわけだが、弘前市でも弘南バスに国民年金の広告を出していたから、別段どうこうというものではないのでしょう。
「じいちゃん、ばあちゃん おれ達がささえるぜ!」(2004年撮影)
おれ達の年金はどうなるのやら…


冒頭の130号車の写真、「紅鮭」とあるのが目を引く。

赤い車体に赤い地色で溶け込んでいるようだが、大きな文字のシンプルなデザインだから目立つ。
これは秋田市民市場内の「進藤水産」の広告で、かなりのバリエーションがあった。
そこで、進藤水産広告コレクション。
「辛子明太子」(253号車2002年)
色違いの水色が出てきて、
「たらこ」(129号車2002年)
秋田といえば
「ハタハタ」(255号車2002年)
なんだかよく分からないけど、
「塩干物」(272号車2002年)
ちなみに、272号車の正面は、中央部を境に、左右で微妙に塗装の色合いが違うのがお分かりだろうか。右の方が濃い。「272」の書体も左右で異なる。不思議。

これだけいろんな商品を扱ってますが、どれも
「特選」(277号車2002年)で「新鮮」(254号車2002年)だから「千客万来」(253号車2001年)
後部にも
「北の海のおいしい便り」そして上にはまことさん(271号車2003年)
なお、上の写真ではほとんど見えないけれど、後部の行き先表示機が故障しており、「明田 桜ガ丘・梨平」という本来小型バスしか充当されない系統の行き先が出ていた。

まだほかにもバリエーションがあったのだろうか。
中央交通では、ここの広告は見かけない。


中ドアの広告。
秋田市共通ポイントカード「ほっぺちゃんカード」(236号車2001年)
このタイプの広告では、いちばん下に「バスが完全に停車してからご乗車下さい。」と書かれていたものが多い。
でも、そんなことをお客に言うよりも、「バスを完全に停車させてから、ドアを開けてください」と運転士に教育するべきだと思うのだが…
※ただし、末期の秋田市交通局では、停車させてからドアを開けることは徹底されており、この点での不安はあまりなかった。

太平堂の銘茶(太平堂茶舗)(131号車2006年)
交通局末期によく見かけた広告。インパクトがある。
この広告は、数少ない、中央交通へ“移管”された広告で、現在も見かける(バスが完全に停車してから~も同じ)。ただ、中央交通の緑の車体が背景になると、印象が違う(その方がお茶らしいかな)。
【19日追記】中央交通の中ドア広告で「升谷」のものがあった。まことさんのお顔も「バスが完全に停車してから~」もない、シンプルなもの。


279号車(2002年撮影)この車は、後部屋根上の広告板がない
運転席側の側面に、2つの広告が仲良く並んでいる。それは、
どっちも仏壇屋さん!

さっきの太平堂茶舗の131号車も、
前方に「繁田園」があって、どっちもお茶屋さん!
繁田園は狭山の同名店舗の流れを汲む秋田の老舗で、ここも市営バスによく広告を出していた。

いろいろゴチャゴチャしているけれど、
256号車(2002年撮影)
屋根の上と窓の右下がどっちも眼科!

どの車両にどの広告を割り振るかというのは、どうやって決めていたのだろう。
競合する同業他社の広告と隣り合うというのは、テレビCMで言えばパナソニックと東芝、ライオンと花王、ドコモとソフトバンクが同じ番組のスポンサーになるのと同じわけで、あり得ないことだけど。→ところが2020年代になると、そういうこともあり得るようになっていた


秋田市営バスの広告といえば、窓ガラスとか車内放送とかもう少し話題があります。
あまり写真がないのですが、後日、アップできればと思っています。

※中央交通の広告についてはこちら
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日産ディーゼルのバス

2011-06-10 22:50:42 | 秋田市営バス
バスに詳しくない人に「国内にあるバス(マイクロバスでなく大きいバスの)メーカーを挙げてみて」と聞けば、日野、いすゞ、三菱(現在は三菱ふそう)まではすんなりと出てくる方も多いと思う。

でも、あと1社あり、それが「日産ディーゼル」。
と思っていたら、2010年2月に「UDトラックス」に名称変更し、さらに最近、バスの取り扱いをやめてしまったという。(ホームページの製品一覧にバスが出ていない)
日本のバスのブランドが4つから3つに減ったことになる。

UDトラックスは、日産自動車との資本関係はなく(業務提携はしている)、ボルボの子会社だそうだ。
「UD」とは、日産ディーゼルかつて開発した「ユニフロー掃気ディーゼルエンジン(Uniflow scavenging Diesel engine)」の略で、後にそのエンジンが製造されなくなってからは「究極の信頼(Ultimate Dependability)」の略ということになっていたようだ。
日産ディーゼル当時から、赤い丸に白抜きで「UD」と書かれたロゴが同社製の車に付けられていた。
※以下、記事中では旧社名の「日産ディーゼル」を用います。


日産ディーゼルは、旧秋田市交通局(秋田市営バス)の最後の20年ほどにおいて、重要な役割を果たしたメーカーだと思う。
この記事では、秋田市営バスと日産ディーゼルのつながりについて取り上げます。
※以下、車両の導入に関する情報は、個人的な記録・記憶に基づくものです。誤りがあるかもしれません。

4番手のメーカーであったこともあり、全国的には日産ディーゼル製のバスを導入しないバス会社も少なくないようだ。
青森県の青森市営バスや弘南バスは日野、いすゞ、三菱の3社とは取引があるが、日産ディーゼル製のバスは1台もないはず。

秋田市交通局でも、大昔は分からないが、昭和50年代頃には、日産ディーゼルを除く3社から購入していたようだ。
ところが、昭和60年代に入ると日産ディーゼル製のバスも導入するようになった。
どういう事情だったのかは分からないが、ある程度の規模の公営交通事業者では、全メーカーと取引している事例が多いから、公平性の観点だろうか。
ちなみに、日産ディーゼルの秋田の販売会社は、交通局庁舎(現・臨海営業所)のお隣りにある。

おそらく最初の日産ディーゼル製の秋田市営バスは、1985(昭和60)年度の貸切車両。
この年は、貸切バスが全部で9両(三菱製二階建てバス「みはらし号」を含む)も導入され、公募により1台ごとに愛称が付けられた。全貌は不明だが、少なくともうち1台の164号車「おばこ号」は日産ディーゼル製だった。
【8月11日訂正】これより前の1981年導入の空港リムジンバス用車両(貸切タイプ)が日産ディーゼル製でした。
(再掲)空港リムジンバス。ドア右に「UD」マークがある
(以上、8月11日追記)

さらに翌1986年度導入の“中二階建てバス”(スーパーハイデッカー)の199号車「わかくさ号」も日産ディーゼル製で、後部にでっかい「UD」マークが付いていた。
「みはらし号」とともに秋田市営観光の看板車両として、1998年度末の貸切事業廃止まで活躍したはず。


この1985~1986年度には、路線バスも盛んに新車が投入されており、1986年度からは新しい塗装・内装に変更された。
しかし、その車両は今までに路線バス導入実績のある3社製ばかりで、日産ディーゼル製の路線バスはまだ導入されなかった。
また、1987年度は1台も新車を購入しなかったようだ。

昭和最後の年である1988年度からは、中型バスを中心に続々と路線バスへの新車導入が始まり、同年に初めて日産ディーゼル製の路線バスが導入された。
以後、大量の新車が導入された1993(平成5)年度までの5年間は、日産ディーゼルも含めた4メーカーが揃って導入されて続けた。

年度別に日産ディーゼル製の路線バスを数えてみると、
1988年度3台、1989年度3台、1990年度4台、1991年度1台、1992年度3台、1993年度5台。
大量導入が一段落した1994年度以降は導入車両数が少なくなり、年ごとに特定のメーカーだけから購入していた。日産ディーゼル製は1996年度に5台導入された。
以上、日産ディーゼル製の路線バスは計24台。
※貸切車両では、1991年度の少なくとも2台(もしかしたら3台)、ひょっとしたら1992年にも? が日産ディーゼル製で導入されているはず。

秋田市営バスの日産ディーゼル製車両は中型バスが多く、大型バスは1988年度のうち2台と1993年度の5台(※後述)の7台。※大型バスと中型バスの違いはこちらの記事
新塗装になった1986年度以降の導入車両では、大型車(3433台)の20.621.2%、中型車(7879台)の21.821.5%、小型車を含めた全119台中でも20.2%が日産ディーゼル製となる。思ったほど多くはないんだな…
(ちなみに、全119台中、日野4039台(小型7含む)、いすゞ2627台、三菱29台と、日野自動車製が多い)
【2012年1月12日訂正】大型車・中型車および日野・いすゞの台数を、1台間違えて集計していたようなので、上記の通り訂正します。個人的データですので、まだ間違っているかもしれませんのでご了承願います。


ところで、日本のバスというのは、車体の組み立て(架装)を別の企業(車体メーカー、コーチビルダー)が行うことが多い。
日産ディーゼルは系列の車体メーカーがないため、スバルでおなじみの富士重工で組み立てられるのが基本だった(例外も多いけれど)。秋田市交通局の日産ディーゼル製車両はすべて富士重工で組み立てられた。
側面に「FHI富士重工」のロゴがある
しかし、いすゞなど他メーカーのバスでも富士重工が組み立てるケースもあって、「外見はそっくりなのに、実際は別メーカー」という場合もある。(秋田市交通局の末期ではそうした例はない)


秋田市交通局の日産ディーゼル製の車両は、特徴的なものが多かったと思う。総数は少ないが存在感があるメーカーだったと言えるかもしれない。
1.4台だけ
24台のうち、20台は外観のデザインがほぼ統一されている。
しかし、最初に導入された中型バス4台は違うボディデザインだった。
2002年3月撮影
1988年度の225号車、1989年度の233~235号車がこのタイプ。
丸っこいボディなのに、ヘッドライトは四角くてアンバランスな感じがしたし、同時期の他メーカーに比べて古臭いデザインだと感じてしまった。
【11日追記】1台は中央交通へ譲渡されしばらく使われたが、現在は廃車済み。

富士重工では1994年まで製造していたボディらしく、現在も中央交通に同じ外観の車両が数台あるが、それは日産ディーゼルではなくいすゞブランド。

2.モデルチェンジ
大型バスは1988年度の最初の車両から、中型バスは1990年度導入分から、新しいデザインになった。
2001年10月撮影
全体的に角張っていながら、前面は柔らかくカーブしていて、初めて見た時にカッコイイと思った。
バンパーとヘッドライト周りが一体化したデザインが今までになかったが、その分前面の塗装できるスペースが減り、赤いラインや市章の配置が若干変わっている。
2004年2月撮影
秋田市交通局では1990年度から窓枠の色をシルバーから茶色に変更したこともあり、引き締まってぐっと都会的なバスに見えた。

3.オートマチック
新車が大量に入っていた1992年度には、大型・中型合わせて全メーカーで計18台が導入された。うち、日産ディーゼル製の中型バス3台(276~278号車)は、画期的なものだった。(上の2001年10月撮影の写真が277号車)

秋田市交通局初のオートマチックトランスミッションが採用されたのだ。
バスのオートマ車では、機械式というヘンな方式のものもある(横浜市営バスで乗ったが乗り心地が悪かった)のだが、秋田市営バスのは普通乗用車でも一般的なトルクコンバータ式だった。
後部に「オートマチック車」と表示(翌年以降の導入車両には表示なし)
同年には三菱製の中型バスも導入されたのだが、それは従来通りのマニュアルトランスミッション車だったので、日産ディーゼル分だけがオートマだった。試験的な意味合いだったのだろうか。
翌年以降は、メーカーに関わらず導入される中型バスはすべてオートマチック車となった。(大型・小型はマニュアル)
プロが操る大きい車両なので、普通乗用車と違い、オートマだからといって必ずしも運転しやすいわけではないらしいし、燃費やメンテナンスの面ではむしろ不利なのかもしれないが、秋田市交通局を特徴付ける車両となった。

エンジン音が同型のマニュアル車とは違い(途切れずに「ずーーーっ」という連続した加速音)、音を聞くだけでこの車両が通るのが分かった。

左がオートマ277号車、右奥が前年に1台だけ導入されたマニュアルの268号車
マニュアル車とは外観上の違いはない。
ただ、塗装の色合いが微妙に違っており、肌色部分はマニュアル車の方がピンクがかっている。(他メーカーと比べても277号車の方が“正確な”色だと思う)

一部は現在も中央交通で活躍中のはず。

4.普通型JPシリーズ
現在は標準仕様となっている「ワンステップバス」。
床が低く、車内との段が1段少なくて乗り降りがしやすい。高齢化社会・バリアフリーに欠かせない仕様だ。

1990年代初め当時は、大都市圏でワンステップバスが出始めても、高価なことと積雪時に底をこすることを恐れて、雪国では採用が遅れていた。
そんな中、秋田市交通局が1993年12月にワンステップバス5台を導入した。高齢化が進んだことやスタッドレスタイヤ対策で除雪体制が整ったことを勘案して導入に踏み切ったもので、秋田県内では初、東北以北の公営バスの中でも初導入だったという。
それが日産ディーゼル製(116~120号車)。
2002年1月撮影。窓ガラスには「新政」のシール広告
当時は「超低床(ちょうていしょう)式バス」と呼ばれ、1台約2400万円で従来の大型バスより300万円ほど高価とのことだった。(1993年12月1日広報あきた1300号より)

交通局では、このバスを大型バスとして扱い、路線を限定して運用していた。しかし、このバスは長さは大型バス並み(上の写真で分かるでしょうか)なのだが、幅は狭くて中型バス並み。
実はこのバスは、厳密には大型バスとは言えないのだった。
中型バスをベースにその車体を延長したもので、日産ディーゼルでは「大型」でも「中型」でもなく「普通型」と区分し、「JPシリーズ」と名付けられていた。
【2017年7月2日追記】後に他社も同じコンセプトのバスを発売するようになり、愛好家などは「中型ロング」と通称するようになった。バス会社によっては、中型ロングをまとまって導入するところも出たが、秋田県内ではこのJPに続く導入は長らくなかった。
しかし、2016年~2017年にかけて、羽後交通が西武バスの日産ディーゼルJP(本荘営業所=たまに秋田市内にも来る)、秋田中央交通が都営バスの日野レインボーHR(秋田営業所・国際教養大学周辺路線専属=秋田市街では原則非営業)をそれぞれ中古で導入した。その後も増備され、秋田市街も走るようになった。
秋田市オリジナル? の低床バスのマーク
秋田市交通局が導入したのは、JPシリーズの初代モデルであり、さらにその中でも極めて最初期(富士重工による架装では初めて?)に製造・納入された車両らしい。

現在のワンステップバス(ノンステップバスも)は、車内の前方には段差がないが、このバスは座席の部分が1段高くなっていたし、車体を上下させて車高を調節する機能(ニーリング)がないなど、技術的にはまだ未熟だったものの、バリアフリーの先駆けといえる車両だった。
座席部分に段差があることの注意書き
JPシリーズはこの後、首都圏などでも普及していくのだが、秋田市交通局には先見の明があったというか、新しもの好きだったというか…

エンジンも特別なもの(中型バス用のものにターボを付けた?)で、「ふーん ひょんっ」と一風変わった音を立てて走っていた。
また、これも現在では主流だが、「フィンガーシフト」などと呼ばれる軽い力でギアチェンジができるシステムが秋田市営バス(の路線車両)では初めて採用された。
昔のバスは床から長いシフトレバーが伸びていて、それがギアにつながっていたが、このタイプでは普通乗用車みたいな小型のレバーがちょこんとある。そのレバーは単なるスイッチで、そこから電気信号がギアに送られ、圧縮空気や油圧でギアチェンジをする仕組み。
指1本でもレバーを操作できるほど軽い(だから“フィンガー”シフト)ので労力軽減にもなるが、床が低いバスでは床下スペースが狭くて技術的にこのタイプしか採用できなかったという事情もあったようだ。
変速時には、機械やエアの音がするのが特徴で、メーカーや車種で異なるが、この車では「カシュッ」という鋭い音がした。
つまり、「ふーん ひょんっ カシュッ ふーーん ひょんっ カシュッ」という音を響かせながら走っていたので、このバスも音を聞くだけで通るのが分かった。

窓ガラスが日産ディーゼル製としては初(であり最後)の下部固定・上部引き違いの大きなもの(市営バスの大型バス標準タイプ)になったり、座席の布地の柄が変わって、2人掛けの座席が前後にずれて設置されて肩が触れ合わないようになるなど、設備の面でも特徴があった。

翌年はいすゞ製の(本当の)大型バスのワンステップ車が導入され、それを最後に秋田市交通局では大型バスもワンステップ車もフィンガーシフト付きの車も増備されなかった。そのため、先進的だったJPシリーズも、1度限りの導入に終わった。
一部は現在も中央交通で活躍中。

【18日追記】久しぶりに新屋線でこのバスに乗った。
市営バス当時よりも、ギアチェンジ時の「カシュッ」という音がしなくなった気がする。部品交換でもしたのだろうか。エンジン音は相変わらず。
中央交通ではこの春から、これより1~2年古い日野製やいすゞ製の大型バス(交通局や県外からの中古車)の行き先表示の幕式からLED式への交換を進めている。しかし、このJPではLED化されたものは1台も見ていない。どういう意図があるのか。
【2014年8月18日追記】上記追記からまもなく、JPを見なくなった。廃車されたようだ。
また、余談だが翌1994年導入のいすゞ製大型ワンステップ車も、当時としては珍しい車両だったようだ。WikipediaのいすゞLVキュービックの中で「前中ワンステップバス(LV2/3系)」として項目が立てられている。従来のツーステップバスをベースに、車内前方だけをワンステップ化してコスト削減を目指したもので、1993年に改造扱いで発売。川崎市交通局、東武鉄道(当時)、そして秋田市交通局などに導入された後、1997年から正式なカタログモデルになったそうだ。
【2017年7月2日追記】上記の通り、その後2016年頃、羽後交通に西武バス中古のJPが導入され、本荘営業所に配属。秋田市内へやって来ることもあり、秋田市にJPが復活。ただし、車体は西日本車体工業製なのでデザインは異なり、エンジンも違うので走行音も違う。

5.最後の秋田市営バス
秋田市交通局の新車導入は、1996年度が最後。
以後は車両が増えることはなく、段階的路線移管が始まった2000年以後は、譲渡されたり廃車になって、年々在籍車両が減っていった。

1996年度導入車は7台。2台は日野製の小型バス(65、66号車)で、2003年春の移管時に中央交通へ譲渡された。

残り5台が日産ディーゼル製の中型バス(134~138号車)で、前例にならってオートマチック車。
上記の1992年度導入の初代オートマ車との相違点は座席の布地と一部の配置、中ドアの開閉ブザー音の変更、後部ランプの大型化、コーナリングランプの設置程度。(もしかしたらエンジンなど型式は違うかもしれないが、詳しくないし外見では分からないのでここでは触れません)

写真がないのが残念だが、導入当初はもう1つ特徴があった。それは行き先表示(前・後ろ・側面とも)が幕式ではなく液晶式だったこと。
今はLED式が主流だが、そうでなく、バックライト付きのモノクロ液晶。
当時はLED式もほとんど出回っていなかったから、次世代の行き先表示として試験的に導入したのではないだろうか。(小型バスにも設置された)
こんな感じだったはず
液晶のドットがとても大きくて文字が粗く、しかも筋が入ったり、そもそもとても見づらかった記憶がある。
バックライトの色は緑がかった黄色(モノクロだった頃の携帯電話の液晶をイメージしていただけるといい)だったような気がするが、どうも色を変えられるらしくもっと緑がかっていたり、赤かったのを見た記憶もある(あいまいです)。
その後、なぜか134~138号車からは液晶が外されて従来通りの方向幕に交換された。外された液晶は、なぜか古めのいすゞ製中型車(1989年度導入の236~240号車?)に転用されたが、それも2000年夏頃には幕式に戻されて、液晶装置は姿を消した。
※液晶行き先表示についてはこの記事末尾参照
【2017年5月19日追記】秋田のバスでは行われていないが、大都市などバス会社によっては、最終バスや割増料金の深夜バス等であることを示すため、行き先表示の照明の色を変えているところがある(LED化後は外枠を点灯)。バックライトの色を変えられたのは、それに対応するのが本来の目的だったのかもしれない。


この5台は、導入当初は、秋田商工会議所が秋田市中心市街地で試験運行した「無料買い物バス」(1997年)に使われたこともあったが、基本的には地道に市営バスの路線を走り続けた。【2017年5月19日追記】無料買物バスでは、液晶幕は使われず、上にシール(ワープロ打ちなどでない本格的なもの)を貼って対応。運行は短期間で終わったが、市営バスと中央交通の両者が担当し、おそらく市営バスは期間の最初のほうで、他のタイプの車両は使われなかった。【2017年6月5日訂正】市営バスでは、他に上記の最初期の4台だけの旧車体の日産ディーゼル製中型車も使われたようだ。当時放映された商工会議所による告知テレビCMでは、そのうち235号車の写真が使われていた。(以上追記)
秋田市交通局最後の年となった2005年度には11台の中型バスだけが残ったが、その中にこの5台が含まれていた。(他は1994年度日野製の121、123号車、1995年度三菱製の130~133号車。)
最後の年は半分近くが日産ディーゼルだったことになり、記録写真(当ブログも含めて)や秋田市民の記憶にその姿を留めたことだろう。

秋田市営バス最終便となった、2006年3月31日の秋田駅前20時28分発の県庁市役所経由交通局行きは、記念乗車に対応して5台体制で運行された。(200人集まったとか)
その中で、マスコミから盛んに「“赤バス”最後のバス」として脚光を浴びたのが、日産ディーゼル製の138号車だった。
当日の運用からすれば、131号車が本当の最後のバスであり、138号車は増便の1台に過ぎないと個人的には思ったのだが、交通局側でも138号車を最後のバスとして扱い、乗客に138号車が写った乗車証明のしおりを配ったようだ。
交通局が最後に購入した車両の中でも、いちばん最後の車両番号であった138号車を最終ランナーとしたのだろう。
2004年5月撮影
この5台も譲渡されて現在も活躍している。
なお、日産ディーゼルと取引がなかった秋田中央交通も、交通局移管と同時期に取引を開始し中型バスの新車を何台か購入している。

秋田市営バスに先進的な車両を提供し、最後を飾る車両ともなった日産ディーゼルのバスだったが、2003年には富士重工がバス架装から撤退。
その後は前から一部製品の架装実績があった福岡の「西日本車体工業」に製造を集約するも2010年で同社は解散、一時製品を相互供給し合っていた三菱との業務提携・合弁会社設立も立ち消え、バスの製造・販売をやめることに至ったのだろう。(←この辺の経緯はあいまいです)
日野といすゞは既に製造部門を統合しているので、今後の日本のバスは実質的には「日野・いすゞ」と「三菱」の2つになってしまう。

※関連記事(2012年のバスまつり)はこちら
コメント (4)
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