広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

昭和最後の思い出

2019-01-07 00:40:18 | 昔のこと
30年前、1989(昭和64)年1月7日に当時の天皇陛下が崩御され、昭和という時代が終わった。その思い出。
※「崩御(ほうぎょ)」とは天皇が死去すること。ちなみに一定範囲の皇族の場合は「薨去(こうきょ)」と呼ぶ。最近(2010年代)のマスコミは、そうした方々が亡くなっても「ご逝去」と伝えることが多い。一般人でも使う「逝去」のほうが分かりやすいという判断なのだろうが、敬意という点ではどうなんだろうか。
※「昭和天皇」は「追号」という、戒名のようなもので、崩御後の呼び名。「元号+天皇」の呼称を、在位(存命)中に用いるのは不適切。

その年、僕は小学校6年生。世の中が多少は分かってきて、興味も出てきた頃。その年度の秋にさかのぼる。
9月19日・月曜日の夜、天皇は大量吐血。療養と昭和の終わりが始まった。

翌日9月20日から、連日、天皇の病状が報道される。
ものすごくあいまいな記憶だけど、9月20日は、秋田市では先生たちの研修会で学校が休みだったような気がする。
【5月2日追記】平成最後の2019年4月30日にバスに乗っていると、小雨でワイパーが動く音が聞こえ、それによって昭和が終わるきっかけとなった1988年9月20日の記憶がよみがえった。
当日はやはり学校が休みだった。午前中に皮膚科医院へ通院。診察を終えて外に出たら、激しい雨。秋田市営バスに乗った(初代日野ブルーリボンである161・162号車のどちらかだった)ら、ワイパーが高速で動いていて、バスのワイパーってけっこう大きい音がするんだなと思った。
1988年9月20日の気象データを調べると、6時から18時(昼)の天気概況は「大雨」。10~12時にも、毎時4~5ミリ降っていて、記憶と一致する。(以上追記)

報道では、「何時現在の陛下の呼吸数は~、心拍数は~」とか「若干量の吐血」「何ccの下血」といったことまで伝えられた。

NHKのニュースでは、皇居前(二重橋かな)から社会部の記者のレポートが入ることが多かった。
よく出ていたのは、吉村記者(2000年定年退職した吉村秀實氏?)と池上記者。
池上記者とは、あの池上彰氏。この翌年からキャスターに転じ、ダジャレを言ったり、子どもニュースを立ち上げたりしていくことになる。

これを受けて、世の中では「自粛」ムードが広まる。
井上陽水が「お元気ですかぁ」と言う日産のテレビCMで、その音声が消されるとか、忘年会や年賀状を控える動きがあったそうだが、子ども心にはほとんど印象がない。バブル景気のさなかだったので、自粛の中でもどこか浮かれていたというか、極端な影響はなかったのかもしれない。
土地によっては学校行事にも自粛が及んだらしいが、秋田市ではそのようなことはなかったはず。秋の徒歩遠足や学習発表会(旧称・学芸会こと学芸発表会。母校では1985年度から改称)は、例年並みに実施された。学区内の児童館の増築が竣工して、そのささやかな記念行事に出たこともあった。
もちろん、秋田の小学生の日々の暮らしはこれまで通り。6年生だから社会科で、戦後の歴史や日本国憲法のことを習う時期だったかもしれない。この件についても何らかの説明があったと考えるのが自然だが、記憶にない。
家族で横手公園に「よこて菊まつり」を見に行ったのも、この時期のはず。

1988年といえばオリンピック。ソウルで開催され、鈴木大地(現・スポーツ庁長官)のバサロ泳法、カール・ルイスとベン・ジョンソンの対決などに沸いた。【3月19日追記】この10年後に若くして亡くなるフローレンス・ジョイナーの活躍も。
今まで、ソウル五輪はもっと早い時期、つまり(近年のように)8月とか夏の開催だったと思いこんでいたが、実際には1988年9月17日から10月2日開催。
つまり、開幕早々に倒れられたのだった。まだ、自粛が広がっていなかったのだろうか。【7日補足】感覚としては、「ソウル五輪が終わってひと段落してから、天皇が倒れられた」という時系列だった。

当時、フジテレビで月曜20時から「志村けんのだいじょうぶだぁ」という番組が放送されており、その中に「ウンジャラゲ」があった。みんなで並んで、歌に合わせて踊るという他愛のないもの。元は「ハナ肇とクレージーキャッツ」の歌と踊りをカバーしたものだそう。
おそらく9月19日(ちょうど月曜)より前に放送は始まっていたと思われるが、そのシングル発売(CDもレコードもカセットテープも出たそうだ)が、1988年11月2日。
歌のあっけらかんとした雰囲気は、自粛ムードにそぐわない気もするが、当時はそうとらえなかったのか。ある種の寛容さを感じる。

そして冬。
この年、というより1985~1990年代初めは、雪の量が少ない時期だった。
1988~1989年のシーズンの秋田市は、ほとんど積もらなかった気がするが、気象データによれば積もっては融けを何度か繰り返していた。
そんな12月、秋田市営バスには、大型車から遅れること数年、中型車にも新塗装の車両が導入され、学校帰りに見かけて(雪は積もってなかったはず)心を躍らされた。

年が明けて、1989年。
秋田市は1月1日は積雪ゼロで最高気温5度。4日・5日に15センチほど積もって、6日以降はまた暖かくなって急に融けていく。初詣など特に記憶はない。

秋田市は冬休みは1月中旬まで続く。当時の僕は早起きだったようで、休み中なのに7日・土曜日も7時前には起きてテレビをつけた。
すると「天皇陛下危篤」といった臨時ニュースを伝えている。
当時は、身近な身内の死は未経験で、「危篤」状態をよく知らなかったが、ことの重大さは分かった。
【7日補足】6日以前では、「9月以降、病状が良くはないことは理解していたが、どういう結論になるのか、つまり回復されるのか、亡くなるのか、だとすればそれはいつなのか」が子どもにはまったく予想がつかなかった。7日朝の危篤の報道は、唐突なもので、急に悪い方向に進んだように感じられた。(あくまで子ども心には)

NHKでは斎藤季夫(すえお)アナウンサーが、落ち着いて淡々と、しっかりと伝えていた。
当時53歳で、平日正午のニュースを担当していた。今は30歳代のアナウンサーが担当しているが、昔はもっとベテランがやっていたのだ。
【7日追記】当時の斎藤アナウンサーは額が広いほぼ白髪で、(当時の人はたいていそうだけど)今の53歳より老けて見える。でも、落ち着いた雰囲気の人で、声も読み方も聞きやすく、重大ニュースを伝えるには最適の人だったと思う。通常なら、土曜日の早朝に出勤していないと思われるが、来るべき時に備えて特別シフトだったのかもしれない。
なお、当時の19時のニュースは松平定知アナウンサー。もし、彼が7日朝の担当だったら…、そして最近のまだ若くて斎藤アナと比べると上手くないアナウンサーたちが担当していたら… そう想像すると、斎藤季夫さんで良かった。

そして7時55分。
宮内庁長官が記者会見で「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において、崩御あらせられました。」と発表。
切り替わって真っ黒い背景に、白い手書き毛筆文字で「天皇陛下(改行)崩御」と映し出され、♪ピンポンパンポンポンポン…というチャイムが鳴った後、斎藤アナウンサーが映り繰り返して読み上げた。【7日補足】毛筆文字の画面は、当然、事前に用意されていたのだろう。
※この辺り映像は、著作権的にはどうかとは思うけれど、動画サイトで視聴できます。(斎藤アナの服装も分かり、明るめの青いスーツとネクタイだったのが意外。)
【9日追記】宮内庁長官は、上記のカギカッコ内を読み上げた後、これまでの経緯や病名をけっこう長く説明し、最後に再びカギカッコ内を繰り返し、その後で黒画面・チャイムの流れ。長官の話しぶりは比較的淡々としており、子ども心には長い説明も分かりづらく、「ホウギョ」がキーワードであることも、すぐには分からなかった気がする。繰り返しと黒画面、その後の斎藤アナの繰り返しで、ついにその時になったことをはっきりと認識したのかもしれない。

子ども心には、「ホウギョ」が理解できず、次に「崩御」がそれらしいことは分かった。長官の話しぶり、黒い画面といった全体の雰囲気からして、ことの段階が1つ進んで、ついに来るべき時が来たらしいとなんとか理解した。
天皇が亡くなるのは64年【7日訂正】62年(と少し)ぶりなわけで、大人も似たような感覚だったかもしれない。

あと、黒い画面の時に流れたチャイム音が、妙に明るく、長く、どこか場違いにも感じられた。
NHKでは、昔からこのタイプのチャイムを緊急時に放送するそうで、東日本大震災の発生直後にも流れたそうだ。
ただ、微妙に異なって、崩御時のほうが少し長くて音色が多いようだ。ネット上では「重大さに応じてチャイムを使い分ける」説と、「崩御時は、手違いでチャイムを【3月19日補足・少し時間差をつけて】二重に放送してしまった(ので長く聞こえる)」説が存在する。
【2021年3月20日追記】二重かは別として、このチャイムはNHKのテレビラジオの全チャンネルが同時放送に切り替わるタイミングの音として、2021年時点でも使われていた。地震の場合、震度6弱以上(の緊急地震速報が出た時?)で同時放送になるらしい。2021年3月20日に最大震度5強の地震が発生したが、どうも手違いでチャイムが鳴ってしまったようで、しかも画面の字幕も「宮城で震度6強」と間違った。(以上追記)

その後は、NHK、民放ともずっと臨時ニュース。落ち着くと、ご健在の頃の映像で昭和を振り返るなど、特別番組。
民放では、東日本大震災後のように2日間はCMもなかったそうだが、記憶にない。
NHK教育テレビ(現・Eテレ)は、学校放送など通常編成。NHKBS1も通常だったそうだ。

崩御後、自治体は6日間、民間は2日間の弔意を示すよう協力してもらうことが閣議決定された。
「歌舞音曲(かぶおんぎょく)」の自粛が求められ、大相撲初場所や高校スポーツ大会の延期(ラグビーは決勝中止・両校優勝)、コンサートや成人式にも影響が及んだというが、やはり秋田の小学生には影響はなかった。

関東以西の学校では、当時は冬休み明け最初の登校日(3学期始業式)は1月7日だったか8日だったはず。7日は土曜日だけど、当時は半ドンで午前中だけ学校があった。多くの企業や役所でも、週休二日制はまだ少数派。
そういうところでは、学校や職場でどんな動きや会話があったのだろうか。

冬休み中の僕も、この日は予定が入っていた。歯医者の予約である。
ある種の非常(非日常)時に、そんなことをしてもいいのか、もしかしたら歯医者さんは休んでるんじゃないかなんて思ったが、約束だから行くほかあるまい。歩いて数分の距離だし。

道路に雪はまったくなかったと思う。そして、少し静かな感じもしたが、普通に車が走っているいつもの街。歯科医院もいつもの対応。こんな時でもこんな雰囲気でいいのかと思った。
渡されたレシートには「64.-1.-7」とか印字してある。
天皇が亡くなれば、「昭和」ではなくなるのは、本件以前から知っていた。
昭和は終わるのだろう。昭和の次は何? それは今日から? 明日から? 次の関心はそうしたことで、ちょっと不謹慎ながら、どこかわくわくした気持ちになった。

我が家では七草がゆは欠かさない。1989年1月7日も、朝か昼に食べたはずだけど、まったく記憶にない。
平成の始まりなど続きはいずれ。※続きはこちら


それにしても、当時の決まりではそうするしかなかったにせよ、「昭和の終わり」は突然訪れ、その時を明るい気持ちで迎えることはできなかった。
生前ご退位により、「平成の終わり」には時間的余裕があり、各自さまざまな思いを巡らせながら迎えることができ、そして「平成最後の○○」と楽しむ余裕さえできるのは、悪くない。なんでもかんでも「平成最後」にしちゃうのもどうかとは思うけど。

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2 コメント

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こんばんは (秋田市4227ファン)
2019-01-07 22:07:11
『志村けんのだいじょうぶだぁ』懐かしいですね。自分も見てました。
自分も昭和生まれとして今日は昭和64年1月7日の事を思い出していました。
昭和天皇が体調を崩されて以降はニュースの冒頭で天皇陛下のご容態として御様子・血圧・呼吸数・心拍数などが報道されていたのを覚えています。
あの日はテレビ・ラジオ以外は、いつも通りの一日で先日話題のあったト一屋堂の沢店は通常営業で自分も祖母と買物に行った記憶があります。
今年は『平成最後の1月7日』と言う事で昭和64年1月7日の事を思い出した訳ですが昨年は今年のように思い出していなかったような・・・。
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こんばんは (taic02)
2019-01-08 00:40:35
今年で丸30年、そして平成最後ということで、どうしても感傷的になってしまうのでしょう。
昨年も、10年前も20年前も、ほぼ意識しないで過ごしていましたね。1月7日なのか8日なのかさえ、あいまいなくらいで…
思い出してみると、子どもであった当時でも、いろいろと記憶に刻まれています。それだけ特別な出来事だったのでしょう。

我々世代は今となっては、人生の最初の少しだけを、長い昭和の最後の少しだけ経験したに過ぎず、平成のほうが長くなってしまいました。
元号が変われば、さらに昭和が遠い存在になってしまいます。
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