慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

織田信長の「天下布武」が意味すること(1)

2021年11月15日 | 歴史
🌸織田信長の「天下布武」が意味すること

⛳「天下布武」を掲げた織田信長の真意
 ☆天下布武「自分の武力を持って天下を統一する」という意味
 ☆信長は、尾張を統一した後、清州城に居を構えた
 *美濃を落とすことを次の目標に据えた
 *美濃の近くの小牧山に城を作り、美濃の攻略を考えた
 *信長は美濃の稲葉山城を落とした
 ☆信長は、稲葉山城に拠点を移し、「岐阜城」と名前を変えた
 ☆信長は、この時から「天下布武」のハンコを使い始めた

⛳信長は、尋常なスピードで「石高150万石」を手に入れる
 ☆信長は尾張と美濃の2国を手中に収めた
 ☆2国で”天下統一″は時期尚早すぎる疑問があるが?
 *一人の戦国大名が尾張と美濃両国を手にするのは凄い事
 *尾張と美濃は、各々六十万石の石高がある場所
 *信長は、2国を手に入れた時点で、120万石の経済力を持った
 (信長は全部で150石ほどの石高を有していた)
 ☆石高150万石を、兵士の数に換算すると4万人を動かせる力
 *尾張や美濃、伊勢という国々は豊かだった
 *それだけの兵を抱えることができた
 ☆当時、4万人もの軍勢を動かせる戦国大名
 *信長のほかにいませんでした
 *甲斐の武田信玄の石高は、20年掛けて60万石
 (兵力にして2万人が限度)
 ☆信長は、30代半ばで4万人の軍勢を持つ戦国大名へと成長
 *信長は、凄いスピードで巨大な力を得た
 ☆信長が「日本列島全体を武力で統一するのだ」と言っても
 *ちっとも絵空事とは思えない

⛳「岐阜」という名前は、周の文王に由来するもの
 ☆周の文王とは、中国殷代末期の人物
 *儒家の孔子が「理想的な君主」と称し、生涯尊敬し続けた
 ☆文王は、君主への礼を重んじる儒学の教えを守り
 *家臣として紺王に仕え続けた
 ☆信長が新たに名付けた「岐阜」の「阜」
 *小高い山、小さな山を表す
 *周の文王の起点「岐山」と信長が美濃の「岐阜」同じ意味を持つ
 ☆信長は「岐阜」という名前を城につけたことで
 *「俺こそが現代の文王だ」と主張している

⛳「天下=畿内」説の論者たち

 ☆近年「信長は日本列島の統一を目指した」定説をひっくり返し
 *「信長が統一は、日本列島ではなく畿内」とする研究者が多い
 ☆「天下=京都」説を掲げる研究者たちが言うのは
 *室町幕府の再興が、信長の本当の狙いだった説
 ☆しかし、信長の「天下布武」は日本列島全体を意味していたと思う
 ☆室町幕府を再興したのはあくまで方便の一つに過ぎない

⛳頼朝が使用した「天下」という言葉の意味
 ☆「天皇」という単語
 *「天の下しらしめす大君」を意味し、「天の下」は天下です
 ☆「天下=京都」なら、天皇は京都だけを支配したことになる
 *少なくとも天皇は、日本列島全体の王様であった
 ☆「天の下」は京都や奈良だけでなく、日本全体を意味している
 ☆源頼朝は後白河上皇に対抗する際に、
 *「天下草創」という言葉を用いて、貴族に手紙を書いている
 *この言葉が「天下=京都」だと考えるのであれば
 *頼朝は鎌倉にいるので、大きな矛盾が生じる
 ☆室町時代にも「天下」という言葉は使われていた
 *この際も「京都」ではなくて「日本全体」を指して使われていた
 ☆信長の時代だけが、「天下=畿内」とおかしな話
 ☆「天下=日本全体」を意味すると捉えるほうが自然
                        (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の論点』



織田信長の「天下布武」が意味すること(1)
(ネットより画像引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 米ドル/円は、本日中にも11... | トップ | 地政学(1919~45年)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事