連日の猛暑。タカ長ブログも盆休み状態で、自宅で本など読んで過ごしています。
その本「精鋭たちの挽歌」(長尾三郎著:ヤマケイ文庫)を読んで、登山家の業みたいなものを感じたり、この本にも少しだけ出てくる高見和成さんの活躍ぶりを見て、、、、
彼の遺稿集を久しぶりにひもどいているところです。
ご存知の人も多いでしょうが、高見さんは1998年2月に伯耆大山に散った日本を代表する登山家でした。タカ長が彼に勝っている(?)のは年齢と登山を始めた年(タカ長昭和33年、高見さん昭和39年)だけで、登山の実力はもちろんその実績も月とすっぽん以上の差がある、言ってみれば雲の上の存在なのです。
そのようなわけで一度も山に誘われたことはありませんし、タカ長としても「一緒に行こう」と冗談にも言えない存在でした。その高見さんとタカ長をむすんでいたのは、彼が行っていた自称「文化人もどき」の活動を通じてです。この面ではいろいろな思い出を残して頂きました。
その中で忘れられないのが、、、、1997年11月に広島山稜会のK先生の山荘で行われたピアノコンサートの日のことです。そのコンサートの準備をしていた高見さんを、彼の求めに応じて早めに山荘に訪ねたら、、、
「来てくれたん、、、、、」と言って、人懐っこい、、、、、少年のような、、、、輝くような笑顔で迎えてくれました。多くの人の心に刻みつけた、あの純粋な笑顔を私にも見せて下さり、、、、
あのときの光景はいまもって心に残っているのです。
遺稿集にはヒマラヤでの彼の活躍の様子とともに、多くの人がこのような彼の人柄を紹介しています。
彼と一生に山を歩くことのなかったタカ長ですが、彼の遭難死のあとも何度か大山を訪ねています。その度に遭難現場の北壁に目をやり、彼のことを思い出しています。
今年の5月14日に撮影した大山の北壁です。左側に光って見えているのが天狗沢で、その右が大屏風岩。
岩登りをしないタカ長には大山北壁の細かい説明は出来ませんが、光って見えるのが天狗沢で、この上部で事故は起きました。
名目のわけは知らないのですが、そのすぐ左に「墓場尾根」があるのは、、、、、、何かを感じさせます。この名前は彼が亡くなる前からあるのですが、、、、、、。
この高見さんにはまだまだたくさんの思い出を頂いています。
いまはお盆の時期、亡き人を偲ぶことも許されるはずですね。
その本「精鋭たちの挽歌」(長尾三郎著:ヤマケイ文庫)を読んで、登山家の業みたいなものを感じたり、この本にも少しだけ出てくる高見和成さんの活躍ぶりを見て、、、、
彼の遺稿集を久しぶりにひもどいているところです。
ご存知の人も多いでしょうが、高見さんは1998年2月に伯耆大山に散った日本を代表する登山家でした。タカ長が彼に勝っている(?)のは年齢と登山を始めた年(タカ長昭和33年、高見さん昭和39年)だけで、登山の実力はもちろんその実績も月とすっぽん以上の差がある、言ってみれば雲の上の存在なのです。
そのようなわけで一度も山に誘われたことはありませんし、タカ長としても「一緒に行こう」と冗談にも言えない存在でした。その高見さんとタカ長をむすんでいたのは、彼が行っていた自称「文化人もどき」の活動を通じてです。この面ではいろいろな思い出を残して頂きました。
その中で忘れられないのが、、、、1997年11月に広島山稜会のK先生の山荘で行われたピアノコンサートの日のことです。そのコンサートの準備をしていた高見さんを、彼の求めに応じて早めに山荘に訪ねたら、、、
「来てくれたん、、、、、」と言って、人懐っこい、、、、、少年のような、、、、輝くような笑顔で迎えてくれました。多くの人の心に刻みつけた、あの純粋な笑顔を私にも見せて下さり、、、、
あのときの光景はいまもって心に残っているのです。
遺稿集にはヒマラヤでの彼の活躍の様子とともに、多くの人がこのような彼の人柄を紹介しています。
彼と一生に山を歩くことのなかったタカ長ですが、彼の遭難死のあとも何度か大山を訪ねています。その度に遭難現場の北壁に目をやり、彼のことを思い出しています。
今年の5月14日に撮影した大山の北壁です。左側に光って見えているのが天狗沢で、その右が大屏風岩。
岩登りをしないタカ長には大山北壁の細かい説明は出来ませんが、光って見えるのが天狗沢で、この上部で事故は起きました。
名目のわけは知らないのですが、そのすぐ左に「墓場尾根」があるのは、、、、、、何かを感じさせます。この名前は彼が亡くなる前からあるのですが、、、、、、。
この高見さんにはまだまだたくさんの思い出を頂いています。
いまはお盆の時期、亡き人を偲ぶことも許されるはずですね。