ヤミ鍋
先日紹介したこの本に「コンビニがない時代、弁当はどうしていた?」という一節があります。
そういえば、当然コンビニもありません。弁当はどうしていたのでしょう?特に夏、保冷パックもないのに、、、、。
それについてはよく覚えていないのですが、(以下略)。
著者の徳永哲哉ガイドはタカ長より17歳若いのです。その徳永ガイドが覚えておられないのですから、タカ長が青春のころの山メシのことを覚えていなくても何の不思議もありません。
しかし、断片的な記憶は少しだけあります。その乏しい記憶の話です。
広島高等師範学校山岳部OBの猛者に連れられて冬の大山に登ったときのことです。
風雪の山で下山できなくなっている九州から単独行の人に遭遇、私たちについて下山してもらったことがあります。結果としては人助けしたことになります。
無事下山したその登山者が牛肉を土産に持って私たちのテントを訪ねてきました。その夜はその牛肉を入れた豪華なすき焼きになりました。冬の大山にしごかれて、予定を早めて下山する彼、私たちにはそれが最後の夜でした。
何もかも自分たちの肩に担いで登らないといけない当時の登山、食料をはじめすべてのものは必要最低限のものだったはずです。そこの届けられた多めの牛肉、それを一度に食べるすき焼きがまずいわけがありません。
ひと山終えた充実感とご馳走。その登山者をふくめた夕食は盛り上がりました。この夜の山メシはタカ長の山人生最高の山メシだったようにも思えます。
季節は問いませんがテントを担いでの山行き、最後の夜は残りものを全部鍋にして食べていたようです。文字通りの「闇鍋」で、明るいところでは食べられないようなものだったのかも分かりません。それでも不思議に味は良かったように記憶しています。
ヤミ鍋といえば、私たちの職域の山グループの納山祭(?)、山での忘年会ではヤミ鍋をしていました。そのルールはただ一つ、一人一品もって来て、それをひとつの鍋に入れること、それだけです。
まともな食材を持ってくる人ばかりではありません。何やらあやしげなものを鍋にぶち込む仲間もいました。それらをぶち込んだ鍋の味は味噌味だったのか、醤油味だったのか記憶にありません。しかし、その何とも怪しげな鍋が案外美味かったことだけは覚えています。
山メシのレシピ本が売れている昨今には通用しない怪しげな鍋ですが、タカ長には忘れられない青春のころの山メシです。