花・昆虫との田舎暮らし暦

田舎暮らしも13年目、木々・草花・鳥・昆虫等々、自然は初めて知ることが多く楽しい。色々な経験を紹介していきたい

高野山参拝

2018年05月03日 | 旅行

ゴールデンウイークの初日の4月28日、久しぶりにバス旅行に行った。目的地は高野山である。高野山と言うと奈良県のイメージがあるが所在地は和歌山県になる。岐阜県大垣市を7時40分に出発したバスは京滋バイパスを通り、大阪門真市から南下するルートを走る。そして岸和田ジャンクションを出て高野山に向かう。昼食は弁当が出る。バスの中で美味しく頂いた後、12時前に奥之院に到着した。写真左はお墓が両脇に並ぶ弘法大師御廟への道である。右は加賀百万石のお墓である。 

   

戦国から徳川時代の大きなお墓が目立つ中、御廟に着く。残念ながら”御廟の橋”の手前から写真撮影禁止、脱帽の上、大声で話すことも抑止されながら御廟を参拝する。御廟は左側から回って地下へ入れる。弘法大師に最も近づけるとされる祭壇を参拝する。帰りは来た道とは異なる経路を通る。右の写真は親族の供養のために持ち込まれた供養塔の集まりとの説明だったように思う。

   

奥の院辺りは海抜900m辺りにあるようだ。桜が満開を迎えていた。

   

奥之院から壇上伽藍のあるところまでバスで戻り90分間の自由時間となった。写真左は大伽藍に入る中門である。持国天・増長天・広目天・多聞天が安置されている。そして右の写真は中門を入ったところに位置する金堂である。高野山一山の総本堂である。

   

写真左は根本大塔で高さは50mあるようだ。大日如来・金剛界四仏に加え16本の柱には菩薩が描かれ、曼荼羅が顕されている。根本大塔から蛇腹道を通り、金剛峯寺へ向かう。右写真はその出口で大伽藍を振り返ったところである。紅葉が植えられているが青と赤の若葉が美しい。

   

金剛峯寺に到着する。秀吉に追放され自刃した豊臣秀吉の柳の間がある寺である。金剛峯寺の寺紋は2つある。五三の桐と右三つ巴である。

   

金剛峯寺周辺は石楠花が多く見られた。

   

金剛峯寺から先に記した蛇腹道を大伽藍に戻ると東塔と根本大塔が2塔同時に見えるポイントがある。塔が2つある寺も稀だが2塔が写真に納まるのは珍しい。

最後の写真は金剛峯寺にある石庭で蟠龍庭(ばんりゅうてい)である。石庭としては最大の庭のようだ。

    

金剛峯寺の別院の襖絵を描かれたのは守屋多々志画伯だった。弘法大師入唐の模様の他、花や鳥が描かれていた。残念ながら絵画を見る目は全くない。が、守屋氏は岐阜県大垣市生まれと知っていたことから新たな発見をしたような喜びが湧き、一つ一つの襖絵を注視しながら回った。

岐阜に住んで45年を経過した。以前はスポーツでも芸術でも生まれ育った徳島県出身者を応援・注視していた。が、何時頃からか岐阜県出身にも心が動くようになっている。洋画家の熊谷守一氏もそうである。また若手では直木賞作家の朝井リョウ氏がいる。”何者”は面白かった記憶である。内容?昨晩、何を食べたか覚えていない人にその質問はキツイ。

 

  

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上海の旅 上海蟹

2014年11月20日 | 旅行

       

誘ってくれる人があり、3年ぶりにマカオから上海の海外旅行に行って来た。マカオはカジノが目的ではなく”マカオグランプリ2014年”のカーレースである。こちらはまた後日に紹介する。上海は7、8年ぶりだろうか。”上海ガニを食べる”が大きな目的でマカオからの帰り、上海に2泊してきた▼写真1~4は宿泊したマリオットホテル31Fからの昨朝の上海である。良い天気だったが何となくぼやけて見える。お世話になった上海に住む人の話ではここ1、2年で更に空気が悪くなり、ひどいと言われていた▼着いた日は小籠包そして一昨日は待望の上海かに料理を食べた。スープなどの料理に雄のカニが1枚づつ付き、現地の友人と4人、無言で食べる。子どもの頃に食べたモクズガニに似ているが蟹味噌はそれよりも甘い感じがした。郷愁を感じながら食べるカニは格別に美味しかった▼私もそうだが、上海に誘ってくれた友人も観光などをする趣味のない人でもっぱら食べることとマッサージに凝った。特に私は今回は”体調を整える”が大目標だったのでマッサージに専念した。マカオでの”足裏マッサージ”、”アカスリ”に始まり、上海ではボディーマッサージ”そして最後の日は”オイルマッサージ”で締めた。これで、体調が良くなればいいのだが・・・・・体重が増えただけの気がしないでもない。

 

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鬼岩温泉 希少ラジウム温泉 157号線は通行止め

2014年10月19日 | 旅行

       

昨日は女房のお付き合いで福井県大野市へ行くつもりで朝8時過ぎに出発した。車のナビでは米原から敦賀経由の高速道路を推奨していたのだが天候も良く急ぐ用もないと言うことで淡墨桜で有名な根尾村から157号線の道を北へ走った。が、ナント全工程100kあまりの半分ほど行ったところの山中で通行止め、国道なのに、と思いながら引っ返した▼その2日前、瑞浪市にある鬼岩温泉び日帰りで行って来た。鬼岩公園は聞いたことはあったが行ったことはなかった。写真1~3は鬼岩公園にある巨石である。谷側沿いに整備された道を上がっていくと、このような大きな石が次々に表れる▼目的である希少ラジウム温泉と謳われている”鬼岩湯元館”に11時前に行った。写真4がそこである。が、お湯に入れるのが11時のためか人影はゼロである。恐る恐る聞いている内に11時になり入れてくれた。41度設定のものと37度設定の2つの湯船があったが少々、温度は低い。が、貸切状態でもあり1時間ほどゆっくりと湯を楽しんだ▼湯治と言うものがどれぐらいの効力があるのかはわからないが体調の悪さにラジウム温泉が効果があるのではと期待している。1週間ぐらいの湯治に三朝温泉あるいは玉川温泉に行きたいのだが・・・計画性のない私が何時、実行できるか・・・▼昨日のドライブの話に戻る。引っ返す時、もう大野市はあきらめ、道々”道の駅”などに立ち寄り買い物を楽しんだ。果物・野菜が中心の山の中のお店、その1ヶ所で魚を売っていた。よく見ると箱売りの”天然アユ”がある。思わず”幾ら?”、2,000円の答えに迷わず買った。帰って数えると小さいながら22匹いた。塩焼きに煮付けそして鮎飯、しばらく鮎三昧である。

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平等院鳳凰堂 蓮の花

2014年07月18日 | 旅行

      

小雨予報だった7月の初め、修理を4月に終えて拝観が可能となった平等院を訪れた。梅雨空の元、雨は降ったり止んだり、時には強くの生憎の天気だった。が、寺院を拝観する時の雨は情緒があって悪いものではない。”心静かに”の気持ちが強くなる▼写真1は広い阿字池(浄土池)の右前方から見た平等院鳳凰堂である。鳳凰堂はこの阿字池で周囲を囲まれている。祀られる阿弥陀如来坐像、雲中供養菩薩52躯を拝観するためには写真の右側に掛かる橋を渡って入る▼写真2は鳳凰堂屋上に祀られる鳳凰である。平等院鳳凰堂の建立は1053年であるがこの時に作られた鳳凰は現在は境内の鳳翔館に祀られている。飛び立つ瞬間の姿は気品がある▼写真3は阿字池から見た鳳凰堂の正面である。扉が開かれている時は丸い穴から阿弥陀如来坐像のお顔を拝顔できる。雨の向こうにぼんやりだがお顔が見える▼写真4は鳳凰堂を左に回りきったところに咲く睡蓮の花である。ハスの花と睡蓮を合わせて蓮華と言うようだ。仏教とともに伝来している▼ところでこのハス、根茎が蓮根(レンコン)と言うことを知らない人も多いのではなかろうか。レンコンは茨城県そして徳島県で多く栽培されていることを知った。そう言えば徳島県へ里帰りした時、帰り道に通る鳴門市の道路脇でまだ青いレンコンを”これは美味いよ”の勧めで買って帰り、その美味しさに驚いたことがある。その後、何度か探したが帰省の時期が悪いか行き当たらなかった。”今一度”の思いである。 別HP”望郷+田舎暮らし日記”の小旅行欄に平等院を追加しました。→http://netowl1949.webcrow.jp/tabi19.html

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竹中半兵衛の墓 三木市&岐阜県垂井町 禅幢寺

2014年06月04日 | 旅行

            

一昨日の2日から昨日にかけて三木市で一泊後、徳島の故郷へ行って来た。ご無礼していた両親の墓参りが主目的である。姉夫婦が三木市に住んでおり、ここで姉をピックアップし向うのであるが折角の機会と言うことで三木市にある”竹中半兵衛の墓”を訪れた▼偶然にもNHK大河ドラマ”軍師官兵衛”で前日の6月1日放映で竹中半兵衛が亡くなったので参拝者が多いのではと心配した。到着は1時過ぎであったが車は数台だった。写真1、2が墓がある場所で平井山観光ぶどう園の一角にある。右側の塀に囲まれたところが墓で田んぼの中にあるあぜ道に”竹中半兵衛の墓”の案内が立っていた。普段は殆ど人が来ないと思えるようなところだ。が、何組かの訪問者がある。写真3~5がその墓標である。多くの花が手向けられていた。来られている人と話す機会があり私が岐阜県から来たと言うと垂井町の禅幢寺をご存知で”遺骨はどちらにあるか”と問われた▼写真6~8はその垂井町にある禅幢寺である(2012年撮影)。写真8の案内板には亡くなった8年後の1587年に移葬と書かれている。本当のことは不明だが亡骸は禅幢寺に埋葬されていると考えたほうが良さそうだ▼2日間で840Kmの距離を走った。帰途、彦根を過ぎる頃に800Km近く走ったことに気が付き、ガソリンの残量は?と初めて心配になって見ると、残量の目盛は後1つ。後走れる距離は?と見ると80Km、まあ大丈夫!と少し心配しながら夜、9時に帰宅した。もう少し走っていたら危なかった・・・反省。

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