歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市観音寺地区遺跡・御所市本馬遺跡 東日本文化の影響を受けた縄文晩期遺跡

2008年12月03日 | Weblog
(観音寺本馬遺跡)
 京奈和自動車道インターチェンジ建設に伴う、橿原市観音寺地区遺跡の約1万3000㎡と、南に約200m離れた御所市本馬地区遺跡の約4000㎡で行われていた調査で、土器棺墓や、近畿では珍しい縄文時代の平地住居跡、他にも祭祀用とみられる土偶や装飾が施された石棒が出土し、一帯は縄文文化が発達した東日本の影響を受けた縄文時代晩期(約3000年前)の大規模集落だった可能性が強まったと、県立橿原考古学研究所と御所市教育委員会が3日発表した。西日本の縄文文化の実相を知る上での貴重な資料という。
 一帯には4万㎡に及ぶ大規模な集落があったと推定。埋葬エリアが観音寺地区遺跡、居住エリアが本馬地区遺跡だったとみている。
 両遺跡からは、計19基の土器棺墓(観音寺地区からは16基)が出土。人骨は残っていなかったが、数基ずつまとまって見つかり、家族ごとに埋められた可能性もあるという。土器棺墓は高さ20~40cm、直径20~30cmの深鉢を転用し、再葬による人骨を納めたとみられ、斜めか横向きに埋葬されていた。多くが同時期の河川跡2本の間に群集し、あるものは岸辺に沿って等間隔に点在するため、川を意識して埋葬されたとみられる。県内では橿原市・曲川遺跡で同時期の土器棺墓が70―80基見つかっている。
 観音寺地区ではほかに石組炉(縦約80cm、横約55cm)と、壺などの土器も遺物収容箱に200箱以上という膨大な量が見つかった。
 土偶は女性をかたどったとみられ、計5体分が出土。橿原市側で出土した1体は長さ約14cmで、目と大きく開けた口、両足を少し広げたユニークな姿で、祭祀で使われた後に廃棄されたとみられる。石棒は橿原市側で見つかり、長さ約26cm。先端には幾何学文様の線刻がある。東日本では線刻のある石棒の出土例は多いが、縄文文化が発達しなかったと考えられている西日本では、ほとんど装飾がないという。いずれも子孫繁栄を願う祭祀具とみられる。
 本馬地区遺跡の平地住居跡は直径6m。縄文時代の住居跡の出土例は、穴を掘って築造する竪穴式住居が中心で、平地住居は近畿では兵庫県の佃遺跡に次いで2例目という。
 現地説明会は7日午後1時~3時(説明は午後1時30分と2時30分)。JR和歌山線・玉手駅から北へ徒歩約30分。問合せは同研究所へ。
[参考:産経新聞、朝日新聞、共同通信、奈良新聞]
ゆるキャラ縄文時代から?かわいい土偶出土 奈良・橿原(朝日新聞) - goo ニュース
縄文晩期の大集落跡か 奈良・橿原、墓や土器片が出土(共同通信) - goo ニュース
参考:
2008年1月23日
橿原市・観音寺Ⅱ区 2200年前の方形周溝墓17基が出土
京奈和自動車道建設予定地で県内最大規模(東西16m、南北14m)を含む17基を確認した。墓に供えた溝内の土器から年代がわかった。墓域は東西300m、南北150m。[橿原考古学研究所 読売新聞 産経新聞]
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桜川市・真壁城跡 門の礎石が見つかる

2008年12月03日 | Weblog
 桜川市教育委員会は2日、同市真壁町古城の国指定史跡「真壁城跡」の本年度発掘調査で、門の礎石の可能性がある石2基を発見したと発表した。同城跡で礎石が発見されたのは初めて。
 礎石と見られる石は、本丸や二の丸の外側にある中城の北虎口付近の戦国時代後期(16世紀後半)の地層で見つかり、2基とも花崗岩で、高さ約30cmと約20cmである。門柱が置かれたとみられる平らな面があり、周囲には二の丸や城外へ続く道路跡も確認された。
 今回の調査ではほかに、塀跡とみられる複数の穴など虎口を形成する遺構群を確認した。防火用とみられる直径約1.5mの井戸も発掘された。
 現地説明会が6日午前10時30分と午後1時30分の2回開かれる。問合せは、市教委文化生涯学習課
[参考:東京新聞]

真壁城跡 (真壁郡真壁町古城)
 中世、真壁・大和周辺を治めた真壁氏の城跡。東西約700m、南北約600m。
 足尾山西麓台地の裾の微高地を利用し造られた平城で、戦国時代に造成されたと思われる四重の堀や土塁が残っている。
 本丸北側には、幅平均20m、深さ1~2m、最も深いところで7mに達する堀が巡らされている。その外縁に二の堀が廻らされている。さらにその東の外縁部には三の堀がある。本丸の東側に二の丸、三の丸が設けられている。平成6年に国の史跡に指定された。
 承安2年(1172)、真壁長幹が築造したといわれる。
 真壁氏は、平国香の6代子孫・常陸大掾多気直幹の四男長幹(1159-1223)が分家してこの地に土着して真壁氏を名乗るようになってから始まる。
 関ヶ原の合戦後、19代房幹(1569-1612)は主家佐竹氏の秋田移封に随伴して、蘆名氏が入った羽後角館(秋田県角館町)へ移住した。
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高崎市・綿貫伊勢遺跡 現地説明会 12/7

2008年12月03日 | Weblog
 今年の3月から発掘調査を始めた遺跡。遺跡の南約300mには国史跡の観音山古墳(全長97mの前方後円墳、6世紀末~7世紀前半)がある。調査区内でも古墳時代を中心に奈良・平安時代から中世、近世に至るまでの住居跡の遺構や遺物が出土している。
 現地説明会では、これまでの出土品など、発掘調査の過程・成果の紹介を行うという。
 日 時 平成20年12月7日(日) 午前10時~午後3時
 主 催 (財) 群馬県埋蔵文化財調査事業団、綿貫伊勢遺跡調査事務所
[参考:群馬県埋蔵文化事業団HP]
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八幡市・王塚古墳 前方後円墳

2008年12月03日 | Weblog
 京都府八幡市教委は2日、調査していた同市美濃山の王塚古墳がこれまでは大型円墳と考えられていたが、古墳時代中期(5世紀前半)全長75mの前方後円墳であることを確認したと発表した。これまで、同市の男山丘陵で見つかった大型前方後円墳3基はすべて古墳時代前期に築造とされ、古墳時代中期には男山地域の支配者の勢力は衰退し、城陽市の久津川古墳群を中心とする勢力に吸収されたと考えられていたが、南山城における古墳時代の勢力関係に見直しを迫る発見とする。
 今年11月からの調査で「くびれ部」が出土し、後円部の基底石(長辺20~30cm)、前方部斜面の葺き石、埴輪列なども発見された。墳丘を2段以上の階段状に造っていたこともわかった。
 現地説明会は6日正午と午後2時から開催される。問合せは同市社会教育課。
[参考:京都新聞、読売新聞]

 八幡市南部の美濃山丘陵の東側にあり、小高い丘の上の台地状の平坦地の東端に位置している。
 石清水八幡宮からは南東方向よりに4km先に八幡女郎花遺跡からは同じ方向2km先である。直ぐ北東には美濃廃寺があり、その東側に古山陽道が通っていたと思われる。
これまでは、周溝を巡らしたある径60mの円墳で、周辺から円筒埴輪が出土しており、築造年代は4世紀後半~5世紀初頭と見られていた。

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