小田原市本町の旅館跡地の遺跡発掘調査で、戦国時代末期から江戸時代初期のものとみられる南北に延びる土地境界の石積みが見つかった。発掘調査をしているのは江戸時代、東海道に面した宿場があった「宮前町」(現本町3-6)の一角。江戸時代末期に大名が宿泊する本陣や、2カ所の脇本陣と旅籠23軒があり、「本町」とともに小田原宿の中心だった。発見された石積みは旅籠と隣地の土地境界を示すもので、石積みが南北にまっすぐ延びている。震災前の大正時代に作成された古地図と一致しており、戦国時代からの町並みが明治、大正まで続いていたことが分かるという。
北東250m先の(仮称)城下町ホール予定地(本町1-138)の発掘調査では江戸時代の重臣の屋敷の礎石などとともに、戦国時代(16世紀)に造られたとみられる砂利敷きの道路(幅約5m、長さ120m)が東西方向に延びているのが見つかっている。
市文化財課は、小田原北条氏の時代に京都の町並みと同じように、正方位に区画された町づくりが行われていたことを示すと云う。
小田原北条氏は戦国時代、城と城下の整備を進め、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされる前には、堀と土塁からなる周囲約9kmにも及ぶ「総構(そうがまえ)」を完成させている。
石積みなどとともに、伊万里、瀬戸焼など多数の陶磁器、茶道具なども出土している。
[参考:毎日新聞]
関連:前出
北東250m先の(仮称)城下町ホール予定地(本町1-138)の発掘調査では江戸時代の重臣の屋敷の礎石などとともに、戦国時代(16世紀)に造られたとみられる砂利敷きの道路(幅約5m、長さ120m)が東西方向に延びているのが見つかっている。
市文化財課は、小田原北条氏の時代に京都の町並みと同じように、正方位に区画された町づくりが行われていたことを示すと云う。
小田原北条氏は戦国時代、城と城下の整備を進め、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされる前には、堀と土塁からなる周囲約9kmにも及ぶ「総構(そうがまえ)」を完成させている。
石積みなどとともに、伊万里、瀬戸焼など多数の陶磁器、茶道具なども出土している。
[参考:毎日新聞]
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