歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

高松塚古墳 保存施設の撤去終了し34年ぶりに墓道部露出

2008年12月04日 | Weblog
 文化庁は2日、明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で先月14日から進めていた2階部分の保存施設の撤去作業を終了したと発表した。
 保存施設が外された墳丘は、長さ約5.5m、幅約2.7m、高さ約3mの空間が現われ、石室の入り口(南壁)につながる墓道東壁が露出した。墓道が姿を現したのは、保存施設の建設が始まった昭和49年以来34年ぶり。
 保存施設を撤去すると、施設と墓道のすき間を埋めていた裏込めの土流出した様子や、南海地震による亀裂で墳丘の一部が崩落した状況が明らかになった。また、同様の目的で置かれた凝灰岩の切石には、取り合い部の側に黒いカビが集中していた。
 墓道は墳丘築造後に遺体の埋葬や壁画を描くために掘られ、終了後に再び埋め戻されたと推定している。
 同庁は、こうした保存施設と取り合い部の状態が壁画の劣化を招いた一因と見て、さらに調査を進める。
[参考:奈良新聞、毎日新聞]
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宮廷歌謡「風俗歌」 平安期の楽譜 鍋島家・徴古館で確認

2008年12月04日 | Weblog
 平安時代に貴族の間で歌われた宮廷歌謡「風俗歌(ふぞくうた)」26曲を収めた楽譜が、旧佐賀藩鍋島家の文化財を所蔵する博物館「徴古館」(佐賀市)で確認された。風俗歌の楽譜がまとまって収録された平安時代の史料はなく、歌謡史研究の中でも遅れていた分野とされる。「風俗歌の基本的な文献になる可能性もある」と、専門家の期待も高まっている。
 楽譜は今年9月、国文学研究資料館(東京)が09年度から行う徴古館が所蔵する国文学の史料調査の事前調査で確認された。楽譜の歌詞は万葉仮名とみられる文字が使われているという。
 徴古館所蔵の「東遊歌(あずまあそびうた)神楽(かぐら)歌)」(国重要文化財、平安後期)と表紙やつなぎ目が似ており、書風も平安時代のものとみられることから、同時期の作品である可能性があるという。
 同館によると、11代鍋島直大(なおひろ、1846-1921)は雅楽に傾倒し、宮中の雅楽を掌握する式部職の初代長官を務めた。こうした経緯をふまえ直大が入手したのではないかとみる。
[参考:毎日新聞]
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太田市 上強戸遺跡群 奈良時代の大型車輪部材が東日本で初出土

2008年12月04日 | Weblog
 太田市上強戸町の上強戸遺跡群で、8世紀半ばの奈良時代に使われた大型車輪の一部とみられる木製部品が見つかった。
 同遺跡群では平成14~16年度にかけて群馬県県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)により発掘調査が実施され、19年8月から整理作業が行われている。
 発掘調査では、古墳時代から飛鳥時代にかけての水田跡や溝跡、奈良時代の水路跡、中世の大規模な鍛冶工房跡が見つかり、溝跡や水路跡からは鍬・田下駄・弓などの豊富な木製品が発見された。
 車輪部品とみられる木材が発見されたのは、水田に掘られたとみられる深さ約1.2m、上部の幅約5.3mのU字型の溝の中。長さ40cm、幅5cm、厚さ3cmの緩く湾曲したアカガシ製と推測される板で、2カ所に四角い穴があけられ、両端には別のものと組み合わせるための突起(ほぞ)が作られていた。板は外輪の部材を連結するための継手にあたる内輪と分析しており、鎌倉時代の絵巻物「石山寺縁起」を参考に組み合わせると、車輪の直径は約1.5mになるという。
 周辺で8世紀半ばの物とみられる土器が見つかっていることから、奈良時代に使われたものと考えられるが、古代の組み立て式の大型車輪はこれまで、京都府と奈良県で出土したのが確認されているだけという。
 東日本では初めての例となるが、出土した溝は水路とみられ、周囲では、他の木材も多数発掘されていることから上流から流れ着いてきた可能性もあるとしている。
 同遺跡群は、国の史跡に指定された「上野国新田郡庁跡」から東に約3kmの位置。周辺は当時、「東山道」が武蔵国と下野国方面に分岐する交通の要所だった地点。
 調査を行っている県埋蔵文化財調査事業団では、来月刊行される同遺跡群の調査報告書に掲載する。
[参考:群馬県埋蔵文化財センター、12/3東京新聞、12/4産経新聞]
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つくば市 小田城跡 格子状の障子堀が県内初出土

2008年12月04日 | Weblog
 つくば市教育委員会は1日、発掘調査を進めている国指定史跡「小田城跡」(同市小田)の本丸北側の北虎口付近から、格子状の障子堀が出土したと発表した。
障子堀は、城の防御機能を高めるため、空堀の底に穴を掘り障壁を造ったものだが、畝の部分が格子状になっている形状が見つかったのは県内で初めてという。障子堀は、小田原城など北条氏の城でよく見られる。障子堀は、敵が侵入する際に足を取られるほか、水を保持しやすいことからも防御効果があると考えられていた。さらに、畝が一列の障子堀より、格子状の方が、より防御効果を高めたとみられる。
 調査した北堀跡は深さ約3mで、さらに1m以上掘り進んで障壁が造られていた。幅30-50cmで、格子の形は部分的に食い違ったり途切れたりと複雑な構造となっている。底に掘られた穴の深さは1m以上あるとみられ、地上から障子堀の底までの深さは約4mと推定される。
 格子状の障子堀は2000年度の予備調査で、別の場所から存在の可能性が指摘され、約150m四方の本丸を取り囲む内堀全域に広がっている可能性が高いという。
 小田城は鎌倉-戦国時代、現在の茨城県に当たる常陸国の南部に勢力を持った豪族の小田氏の居城。佐竹氏に敗れて1570年に城主が交代し、どちらが障子堀を造ったかは分かっていない。
 また、北堀に面して土塁が切られた虎口跡の通路からは、小砂利や焼けた壁土を突き固めた舗装の痕跡も確認した。
 一連の発掘調査は本年度で終了し、来年度から史跡公園として保存するための工事に着手する。
 同市教委は6日午前10時30と午後1時30から現地説明会を開き、一般公開する。小雨決行。問合せは市出土文化財管理センターへ
[参考:東京新聞、読売新聞、つくば市歴史・文化財]
参考1:
先月10月14日に確認された水戸城跡障子堀
 
備考2:
 小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久四年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代時知に至り小田氏を名乗るようになる
 小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれは平城で、約2ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防衛のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。
 この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入り口には馬出しを設けて、直接進入が出来ないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。
[参考:小田城跡の案内板(つくばし教育委員会)]

八田知家(はった ともいえ、1142-1218)
 下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
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