豊橋市教委の発掘調査で、真言宗船形山普門寺(豊橋市雲谷町)の旧伽藍址で通称・元堂址から新たに建物跡と見られる3つ目の「基壇」が見つかった。
普門寺は、神亀4年(727)年に僧行基が開山し、その後、養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とされる化積上人が住職となって再興、頼朝が立ち寄ったと伝えられている。
元堂址は東西80m、南北25mの平場で、従来、5間×4間の四方の礎石を誇る大きな基壇が確認されていたが、昨年度、その東側で2つ目の基壇、今年度に西側で3つ目の基壇を確認した。周囲には、建物から落下した中世末ごろの瓦片が多数散乱している。
これまでの調査で見つかった茶碗などの陶器類から、平安時代に作られた可能性も出てきた。また周囲の石積みからは鎌倉時代の痕跡が確認されている。
市民を対象に現地説明会を行う。21日午前10時と午後1時30分の2回、問合せは市教委へ。
[参考:東日新聞]
備考:
「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開創したとされる。
嘉応年間(1169年~1171年)に兵火にあって焼失。
養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。
旧伽藍跡の船形山中腹は、東に「元堂」、西に「元々堂」の大型の平場(ひらば)をはじめ中小の平場が200カ所以上あり、典型的な山岳仏教寺院。
平家滅亡の念願かない、源頼朝が入洛する際当寺に立ち寄ったと云われる。
源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
普門寺の北東2.5kmにある鞍掛神社も、源頼朝が上洛途中にこの神社を通り、鞍を奉納して武運を祈願したため鞍掛神社と名を改めたと伝わる。神社の前には静岡県新居から現在の豊川市本野原に至る鎌倉街道が通り、神社の東100mのところには、頼朝が馬を止めて休んだといわれる駒止の桜の碑がある。
普門寺は、神亀4年(727)年に僧行基が開山し、その後、養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とされる化積上人が住職となって再興、頼朝が立ち寄ったと伝えられている。
元堂址は東西80m、南北25mの平場で、従来、5間×4間の四方の礎石を誇る大きな基壇が確認されていたが、昨年度、その東側で2つ目の基壇、今年度に西側で3つ目の基壇を確認した。周囲には、建物から落下した中世末ごろの瓦片が多数散乱している。
これまでの調査で見つかった茶碗などの陶器類から、平安時代に作られた可能性も出てきた。また周囲の石積みからは鎌倉時代の痕跡が確認されている。
市民を対象に現地説明会を行う。21日午前10時と午後1時30分の2回、問合せは市教委へ。
[参考:東日新聞]
備考:
「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開創したとされる。
嘉応年間(1169年~1171年)に兵火にあって焼失。
養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。
旧伽藍跡の船形山中腹は、東に「元堂」、西に「元々堂」の大型の平場(ひらば)をはじめ中小の平場が200カ所以上あり、典型的な山岳仏教寺院。
平家滅亡の念願かない、源頼朝が入洛する際当寺に立ち寄ったと云われる。
源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
普門寺の北東2.5kmにある鞍掛神社も、源頼朝が上洛途中にこの神社を通り、鞍を奉納して武運を祈願したため鞍掛神社と名を改めたと伝わる。神社の前には静岡県新居から現在の豊川市本野原に至る鎌倉街道が通り、神社の東100mのところには、頼朝が馬を止めて休んだといわれる駒止の桜の碑がある。