美浜町教委は22日、「興道寺廃寺」(美浜町興道寺)の第12次調査で、講堂の位置や規模が明らかになったことや、前回出土した須恵器の蓋に「耳」と墨書されているのが見つかったと発表した。
講堂は土台の南端と北端の位置が確認でき、東西16・5m、南北11・9mの範囲に建立されていたことがわかった。
前回の調査で出土した9世紀後半から10世紀前半の須恵器の蓋(直径13.2cm、高さ1.2cm)に「耳」と墨書されていた。平城京から出土した木簡に、この地域を示す「若狭国三方郡弥美(みみ)郷」という地名があり、古事記(注1)には、この地域を治めていた「耳別(みみわけ)氏」という豪族が登場する。町内には、現在でも弥美神社や耳川といった「耳」の名が残る地名がある。
また、古代には『耳寺』と呼ばれていた可能性もあるとしている。
興道寺は豪族の氏寺として7世紀後半に建立されたが、建物の方位を改めるため8世紀初頭に再建されたとみられている。同町教委は「墨書土器はきちんと置かれており、廃寺の際に儀式で使われた可能性がある。」と推定する。
発掘調査は平成14年から始まり、「金堂」や講堂の基壇、南門、中門、塔などの分布状況や規模がおおよそ判明している。
現地説明会は25日午前9時半から興道寺廃寺第12次調査地(美浜消防署から南西に約200m)で開かれる。午後1時からは町中央公民館ホールで、歴史フォーラム「『ここまで分かった! 興道寺廃寺』耳別氏、耳川流域に起つ~興道寺廃寺をとりまく地域、仏教、そして人々の実像~」も開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、美浜町HP]
(注1) 古事記「開花天皇」 (略) 室毘古王者若狹之耳別之祖 (略)
過去のニュース・情報
2009.9.19 興道寺廃寺 南門や講堂跡を確認
2008.10.17 興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土
講堂は土台の南端と北端の位置が確認でき、東西16・5m、南北11・9mの範囲に建立されていたことがわかった。
前回の調査で出土した9世紀後半から10世紀前半の須恵器の蓋(直径13.2cm、高さ1.2cm)に「耳」と墨書されていた。平城京から出土した木簡に、この地域を示す「若狭国三方郡弥美(みみ)郷」という地名があり、古事記(注1)には、この地域を治めていた「耳別(みみわけ)氏」という豪族が登場する。町内には、現在でも弥美神社や耳川といった「耳」の名が残る地名がある。
また、古代には『耳寺』と呼ばれていた可能性もあるとしている。
興道寺は豪族の氏寺として7世紀後半に建立されたが、建物の方位を改めるため8世紀初頭に再建されたとみられている。同町教委は「墨書土器はきちんと置かれており、廃寺の際に儀式で使われた可能性がある。」と推定する。
発掘調査は平成14年から始まり、「金堂」や講堂の基壇、南門、中門、塔などの分布状況や規模がおおよそ判明している。
現地説明会は25日午前9時半から興道寺廃寺第12次調査地(美浜消防署から南西に約200m)で開かれる。午後1時からは町中央公民館ホールで、歴史フォーラム「『ここまで分かった! 興道寺廃寺』耳別氏、耳川流域に起つ~興道寺廃寺をとりまく地域、仏教、そして人々の実像~」も開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、美浜町HP]
(注1) 古事記「開花天皇」 (略) 室毘古王者若狹之耳別之祖 (略)
過去のニュース・情報
2009.9.19 興道寺廃寺 南門や講堂跡を確認
2008.10.17 興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土