歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

岐阜市・織田信長公居館跡 戦国時代の日本庭園の池跡が見つかる

2012年11月22日 | Weblog
 岐阜市教委が16日、金華山の麓、岐阜公園で発掘中の織田信長公居館跡で、戦国時代の日本庭園の池跡が見つかったと発表した。
 池跡はロープウエー乗り場の南側、明治大帝像の移設跡地付近、地中50cmから掘り出された。南北7.5m、東西6.1m、深さ35cmの楕円形で、長良川の河原で採れる拳大の丸い石が池の底に敷き詰められていた。館の礎石とみられる直径30mの石二つが、池の隣に埋まっていた。
 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-97)は著作「日本史」で、永禄十二年(1569)に信長の館に招かれ、「きわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、(略)、幾つかには1パルモ(約20cm)の深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数いた。」と記しており、この記述と一致する。
 発掘現場の一般公開と説明会が24日午前10時~正午に開かれる。
[参考:岐阜新聞、共同通信、読売新聞、毎日新聞]

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 織田信長公居館跡
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羽曳野市・茶山遺跡 応神天皇陵の東側そば、誉田中学校校庭から大量の埴輪片が出土

2012年11月22日 | Weblog
茶山遺跡
 応神天皇陵(誉田御廟山古墳、全長425mの前方後円墳、5世紀前半築造)の東側そばの市立誉田中学校校庭(羽曳野市誉田6-5)で、市教委の発掘調査により古墳時代中期(5世紀前半)の水鳥や家、椅子、冠、馬、甲冑などを模った埴輪片、円筒埴輪など数百点に上り見つかった。円筒埴輪をモデルにした棺(長さ約1m、直径約50cm)や鉄斧なども出土した。
 室町時代(14世紀)頃に整地された土とともに出土したため、埴輪を立て並べた古墳があった可能性が高いという。
 現地見学会が23日(金)日午前10時~午後2時に開かれる。
[参考:産経新聞]

 羽曳野市HPを見ると、茶山遺跡(羽曳野市誉田6・7丁目)の一角となるようだ。
 古墳時代中期に古市古墳群の形成が始まり、埴輪を製作した職人集団(土師氏)が住んでいたと考えられている。
 12~16世紀にかけても、引き続き生活域であることが確認されている。 特に、14~16世紀には、園池状遺構や風炉、花入れ、輸入陶磁器なども見つかり、一般集落とは異なる様相を示し、これらは、文献史料に表れる誉田城(こんだじょう)と関わりのあるものと考えられているという。
 誉田城は誉田付近にあり、南北朝時代には河内の守護代の城であったとされ、応仁の乱(1467~1477)が起こった室町時代中期以後には、河内の守護、畠山氏の内部抗争の舞台として、高屋城(たかやじょう)とともに誉田城の名がしばしば登場する。
 今回、室町時代(14世紀)頃に整地されたことが確認されているので、古墳は南北朝初期の頃に破壊されたのかもしれない。楠木正行(?-1348)がここを戦場として争っている。

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