歴歩

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風納土城・倉庫跡?から南朝宋時代5世紀中頃の中国製「青磁陰陽刻蓮弁文碗」(越州窯製)が出土

2008年12月11日 | Weblog
風納土城・倉庫跡?から南朝宋時代5世紀中頃の中国製「青磁陰陽刻蓮弁文碗」(越州窯製)が出土
 12月3日の聯合ニュースで、先に(11月26日)に報道された風納土城で最近発見された倉庫跡とみられるくぼみで見つかった甕から、新たに中国製青磁食器が出土したことが報道された。その青磁とは中国製青磁陰陽刻蓮弁文碗(중국제 청자음양각연판문완)である。
 これは、百済の王室および支配層が生活容器として中国製青磁を使った可能性が現れたという点で注目される。
 特に碗の用途が、主に酒や茶のような飲料を入れて飲む容器という点を考慮すれば、この碗が出土した甕に入れられた物品も酒などの飲み物だった可能性が大きく、これに伴い一帯の倉庫の機能は当初推定したように近隣の宮廷や官庁で必要とされた食物を保管した場所だった可能性が一層高まった。
 長方形のくぼみの中にあった三個の甕のうち、真中の甕の中からひとつの青磁碗の2片が出土し、全体の3/4程度が残っていて、全体の形状や模様を把握することができた。口径10cm、高さ5.9cm程度で、碗または盞(杯)として分類できるこの青磁は白色胎土に透明な軟青色の釉薬をかけたことで氷裂が現れて、全体的に量感が豊かである。口縁部には2行の浅い横線が周囲に描かれ、その下には陽刻の浮き彫り風の蓮弁文が刻まれていた。蓮弁は先が尖っていても量感があり、際に3条の陰刻線を描いており、蓮弁の間にも重なった蓮弁の尖った先端の部分が浮彫りされ、花びらが重なっている姿を表現している。外側と内側の蓮弁の葉は各々7枚ずつ合計14枚の模様で構成されている。糸底の部分(高台内)は平たい形状で釉薬はかけられていない。
 今回出土した青磁碗と似ている点では、天安龍院里古墳群の長方形石室墳出土品(ソウル大学校博物館所蔵)がある。 大きさは風納土城出土品より大きい(口径16.4cm,高さ9cm)が、全体の形状や蓮弁文の施文技法などが似ている。 ただし龍院里出土品は全体の色が薄緑色を帯びていて、きれいな青色を帯びる風納土城出土品とは差がある。参考として中国の年代が分かる墓で出土した資料として、南朝宋・永初元年(420年)と元微2年(474年)の出土品と比べてみた時、蓮弁中央部に彫られる縦の陰刻線が永初元年のものはなく、元微2年のものは2本があり、風納土城のものは1本で、二つの遺物の間に該当する5世紀中頃に越州窯で作られたた製品と考えられるとしている。
 これまで、南北朝時期の中国製陶磁器は風納土城をはじめとする漢城百済中心地域と当時地方首長層の古墳群だった烏山水洞、天安龍院里、公州 水村里 古墳群などで集中して出土しているので、これは同時期の高句麗や新羅地域に比べて、飛び切り多い量で百済と中国間の活発な交易関係と、当時の百済支配階層の実生活の容器として中国磁器をより好んでいたことなどが推察できるとする。
 国立文化財研究所は倉庫と推定されるくぼみの遺物調査とともに、壷内部に入っている土壌を精密分析して保存されていた物品の種類を明らかにして、さらに当時宮中生活の食生活文化を究明したいと話す。
[参考:12/3聯合ニュース]

コメント:
 非常に形と色のよい碗である。中国では、酒を飲む杯として使用していたのであろうが、口径10cmであるから、日本人からみれば茶碗に適している。展覧会で見る宋時代の茶碗といえば、通常は北宋時代(10~12世紀)のものであるが、この時期は南朝宋(5世紀)であるから、500年以上も遡る。写真で見る限りこの時代に、このような味わいのある茶碗が作られたとは驚きである。


[12月10日掲載分]
ソウル・風納土(풍남토상)城 漢城百済時代の住居跡、5世紀頃の倉庫跡が出土
 11月26日聯合ニュースは、韓国文化財庁国立文化財研究所が行っているソウル市松坡区の百済初期都城の風納土城 (史跡 第11号)の発掘調査で、百済遺構が大量に出土したと報じた。
発掘調査場所: ソウル市松坡区風納1洞197番地一帯
出土遺構:
①漢城百済(B.C.18~A.D.475)当時の住居跡など100余基
②計88余基の竪穴、そのうち倉庫とみられる大小の長方形竪穴21余基
遺構は一列に並んで造成されて群を成しており、計画的な造成意図が伺えるとする。
 特に長方形竪穴の中の一つでは高さ1m以上の大型甕が3個出土しており、この竪穴の性格が隣接する経堂地区など中心地にあった宮廷や官庁で必要とされる食糧などを保存した倉庫だったとみられる。
 今回の調査された長方形倉庫群が泗比時代木槨倉庫の源流だった可能性があるとする。
③長方形竪穴周辺で南北と東西方向に通る溝の遺構を確認。溝遺構は既に確認された東西道路の軸と連結して、97年に調査された経堂地区南側の溝遺構らとも延長線上にあることが明らかになった。
④中国北魏(386-534年)の影響を受けたと見られる蓮華文瓦当(연화문수막새)が完全な形で初めて出土。 最近経堂地区で出土した蓮華文瓦当片(注1)とほとんど同じ模様で、仏教が百済に伝来した以後の漢城百済後期と伝えられる蓮華文瓦当が製作し使われたことを立証するという。
 蓮華文瓦当は、菱形に近い葉(素弁)が6つあり、葉には軸がある。内房は円があるだけで種子は見られない。外区にも殊文はなく素文帯のようだ。いわゆる、素弁六葉蓮華文瓦当となる。
[参考:2008.11.26聯合ニュース]

注1:
 今年の3月30日に、206号遺構から出土した蓮華文瓦当片1点は、中心部の内房が全て現れるが、蓮弁が2枚だけ見えるものであり、瓦当の直径は復元すると12cm程度であり、漢城百済時代に使用していたことが確実になったと結んでいた。[参考:2008.3.30聯合ニュース]

前出
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中国・田螺山遺跡 世界最古のイチョウの木器、楽器か?

2008年12月10日 | Weblog
 11月29日の報道で、6000-5000年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかった中国浙江省の初期稲作集落跡・田螺山(でんらさん)遺跡で、約6800年前(新石器時代)の地層から、楽器とみられるイチョウの木器が見つかったことが10日分かった。
 調査した金沢大の中村慎一教授(考古学)らの日中共同研究グループによると、当時の農具や船の櫂、弓といった木器の材料はクワ類などが多く、イチョウで作った木器としては世界最古という。
 中村教授によると、発見されたのは円筒形の木器の一部で、長さ21・9cm。内側に環状の突起があった。叩いて音を出した楽器とみられ、木製打楽器としても最古級という。高床式建物のそばの水辺から、ほかの木器と一緒に出土した。
 イチョウ類は数億年前に世界各地で繁殖したが、中国南方の限られた地域に一種だけが生き残って現生種になっており、「生きた化石」と言われる。人間がどう利用してきたかは、原産地の中国でも不明の部分が多かった。
[参考:共同通信、産経新聞、前出]

世界最古のイチョウの木器 楽器か、中国・田螺山遺跡(共同通信) - goo ニュース
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高島市・池の沢遺跡 平安貴族の山荘庭園跡

2008年12月10日 | Weblog
 市教委は10日、滋賀県最古級の庭園遺跡「池の沢遺跡」(同市朽木村井)が、京都の貴族が行楽で使用したと考えられる鎌倉時代初期(13世紀初め)の姿をそのまま残した庭園跡であることが確認されたと発表した。
後世に改修された形跡がないことから、約800年前の作庭技術をそのまま伝えていると考えられ、これほど完全な形で残っているのは全国にも例がないという。
 同遺跡は、2006年に25年ぶりに調査を再開した。庭園跡は1万3500㎡で、今年7月から850㎡を調査した。
 庭園は比良山系最高峰の武奈ヶ岳を望む場所に設けられ、湧き水を利用した南北約80m、東西約32mの三日月型の池が中心。
中島を浮かべて橋を架け、護岸には荒磯(ありそ)風に岩を配置。なだらかな曲線を描いた州浜もある。
 池に湧き水を供給する水口には大ぶりの石を配し、高さ20mの崖から安曇(あど)川に池の水を排水する落口には石を組み合わせ、対岸の「鯖(さば)街道」からの景観も意識したと考えられ、滝のように見えるように意匠が凝らされていた。
池石積みの裏側から13世紀初めの土師皿が出土し、作庭時期が確定した。
 現地説明会は13日午前10時から。問い合わせは同市教委Tel:0740(32)4467。
[参考:産経新聞、京都新聞]
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奈良県高取町 薩摩遺跡 ため池跡を発見

2008年12月10日 | Weblog
波多里長檜前村寸木簡
 県立橿原考古学研究所が9日、薩摩遺跡(高市郡高取町薩摩)で奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、池の完成式で読み上げたとみられる人物名を記した木簡などが見つかったと発表した。
 木簡は「波多(はた)里長の檜前村寸(ひのくますぐり)本なすがこの池を造った。完成すると神が現れ喜んだ」などという内容。近くで皇朝十二銭の承和昌宝(835年鋳造)3枚が見つかっており、同研究所は「感謝のセレモニーで木簡を読み上げ、一緒に納めたのかもしれない」としている。
 木簡は表裏に文字が墨書きされ、縦21・5cm、横4・1cm。檜前村寸は有力農民で、高度な土木技術を持った渡来系一族の出身だったらしい。同研究所は、技術力を見込んだ国司の命を受け、ため池の造営に当たったと推測している。
 読売新聞の記事では2つの木簡の読みが掲載されている、それによると次のとおりである。
 ①癸應之 波多里長檜前主寸本為 □□□遅卿二柱可為□
 ②田□□前□申此池作了故神

 ため池跡は、東西40mの谷を堤でせき止める構造とみられ、南北の長さは90m以上、深さ1m。池の水を流すための木材を組み合わせた木樋の一部が見つかった。長さ約115cm、幅約50cm、厚さ約25cmで管状になっており、中がくりぬかれている。上面には取水穴を開けた蓋があり、穴に丸太を抜き差しして水量を調整したと考えられるという。 
古代のため池の発掘は大阪府の狭山池(約4万㎡、7世紀初め)など数例で極めて珍しく、古代の土地開発の一端を知る手掛かりとみている。
 現地説明会は14日午前11時~15時。説明は11時と13時の2回。近鉄市尾駅から東へ徒歩15分。
木簡は同日午前9時~午後4時30分、橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)で展示する。
[参考:10/9共同通信、産経新聞、読売新聞、橿原考古学研究所]

古代のため池跡発見=排水設備見つかる-奈良・薩摩遺跡(時事通信) - goo ニュース
古代のため池から施工者示す木簡出土…奈良・薩摩遺跡(読売新聞) - goo ニュース

 14日、現地説明会が行われ、県内外から約400人が訪れた。[参考:12/16奈良新聞]
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松原市・河内大塚山古墳 発掘中の陵墓参考地を考古学研究者らが見学 周濠浅かった

2008年12月10日 | Weblog
 河内大塚山古墳は大阪府の百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、平城天皇の皇子らの墓とする言い伝えなどから、大正時代に陵墓参考地になった。
 宮内庁は墳丘への「渡り堤」が周濠の水で浸食されていたため、修復工事に先立ち発掘中で、研究者側の要望に応じ調査区への立ち入りを許可した。その発掘現場を10日、考古学研究者ら15人が45分間見学した。出土品はなかったが、築造時の周濠が現在より浅かったとみられることが分かった。江戸時代に田畑の灌漑用の池として周濠を利用するため浚渫され、深くなったのではとみている。
 研究者間では、欽明天皇など6世紀後半の大王墓だったとする見方が強い。
[参考:共同通信]

河内大塚山古墳
 人工の造山だが、後円部頂上は松原市内で最も標高の高い場所という。
墳丘規模は、全長335m、前方部幅230m、後円部直径185m、前方部高さ4m、後円部高さ20m。
 規模としては全国で5番目の大きさ。横穴式石室が後円部にあるとみられる。築造時期は6世紀中葉から後半と考えられる。
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鎌倉市大町6丁目 「伝北条時政邸跡」建物跡を確認 史跡指定を目指す

2008年12月09日 | Weblog
鎌倉市大町6丁目 「伝北条時政邸跡」建物跡を確認 史跡指定を目指す
 鎌倉市教育委員会は9日の市議会文教常任委員会で、7月初旬より発掘調査を行っていた同市大町6丁目の「伝北条時政邸跡」から、鎌倉時代後期から室町期にかけてと推定される建物の柱跡が見つかったことを報告した。周囲には横穴式の墓「やぐら」が約40基確認されており、市教委は史跡指定を目指し国や県と協議を開始する予定。
 建物跡は表土から約2.5mの深さで柱の穴(直径40cm、深さ70cm)が6カ所、2m間隔で長方形の形で見つかった。竹林では1.5mの深さで建物の柱の敷石(直径30~50cm)が約2mの間隔で4つ並んでいた。いずれも、同時に発掘された壺や皿の制作年代から14世紀前半から15世紀の建物跡とみられる。
[参考:神奈川新聞]

[2008.6.17掲載分]
鎌倉市が 伝北条時政邸跡 の宅地を学術調査へ
 16日鎌倉市は、同市大町6丁目の「伝北条時政邸跡」と呼ばれる場所に住宅の造成計画が浮上し、地元自治会が調査を求めていたため、宅地を学術調査する方針を明らかにした。宅地を含め一帯は文化財保護法第57条の2の「周知の埋蔵文化財包蔵地」に指定されている。
1953年に敷地の一角から中国・宋~元時代の青磁の「刻花草花文大鉢」(東京国立博物館蔵 重文)が見つかっており、「鎌倉時代の非常に重要な遺跡の可能性がある」(市文化財課)。
 同日の市議会文教常任委で報告された。宅地は約3600㎡と隣接する竹林約700㎡を調査する。
 7月初旬から発掘などを行う予定。約半年で終了するという。
 なお、本件に関しては、4月21日(月曜日)第169回国会 決算行政監視委員会第二分科会 第1号にて、質疑されているので参考にされたい。
[参考:神奈川新聞インターネット新聞]
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白河市・野地久保古墳 全国5例目の上円下方墳

2008年12月08日 | Weblog
一般公開に考古ファン300人が詰めかけたと報道されました。
[参考:毎日新聞]

[2008.12.3掲載分]
福島県白河市・野地久保古墳 全国5例目の上円下方墳
 市教育委員会は2日、同市本沼野地久保の「野地久保古墳」が、7世紀中期~8世紀初頭に築造された「上円下方墳」と確認されたと発表した。
 上円下方墳の発掘は全国5例目で、東北地方では初めて。専門家は、東北地方と当時の中央政権とのつながりを示す貴重な古墳として注目する。
 一辺約16mの方形の上に、直径約10mの円形の土盛りが乗った形で、中心部から、石室の床石とみられる長さ約2mの石が見つかった。棺を入れるための「横口式石槨」があったと考えられる。石室の他の部分や遺物はなかった。石の加工技術の高さなどから、当時の有力者の墓とみられるという。古墳東側には石槨に使われたとみられる石材4個が残っている。
 市教委によると、野地久保古墳はJR白河駅から東約8kmの山の標高約340mの斜面にある。泉崎村との境界に近い白河市の丘陵地にあり、一帯は大和政権の白河郡衙が置かれた場所とされ、彩色壁画で有名な泉崎横穴などの古墳群が密集している。2004年に、棺を納めた石室の床石と環状の石組みが見つかっていた。
 野地久保古墳の周辺には、同じく横口式石槨を持つ谷地久保(やちくぼ)古墳や、6世紀後半~7世紀前半の豪族の館の跡とみられる「舟田中道遺跡」、古墳時代後期としては東北地方最大の前方後円墳・下総塚古墳がある。
 これまで、多摩川流域が上円下方墳の北限とされていたので、東北の古代史を考える上で重要な発見とする。
 同市教委は、一般向け現地説明会を、7日午前10時から行う。
[参考:毎日新聞、産経新聞、読売新聞、河北新報]
東北初の上円下方墳 白河・野地久保古墳 (河北新報) - goo ニュース

参考:上円下方墳
武蔵府中熊野神社古墳(府中市、7C中~後半) 
②石のカラト古墳(奈良と京都の県境、7C末~8C初頭) 
③清水柳北一号墳(沼津市、8C初頭)
三鷹市天文台構内古墳(三鷹市、7世紀)

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李方子さんが残した写真、日記などの資料が都内で発見される

2008年12月07日 | Weblog
李方子さんが残した写真、日記などの資料が都内で発見される
 韓国の李王朝最後の皇太子に嫁いだ元皇族の李方子(りまさこ)さんが残した写真、日記などの資料が二カ月前、都内の某氏宅で発見された。
 今回発見された資料は全684点。皇子李垠(りぎん)との婚約後の1919年に書かれた日記帳をはじめ、婚礼記念に撮影したガラス製の原版写真など11点、李夫妻が長男晋を連れて韓国に里帰りした日程表、母伊都子妃からの手紙など新発見の資料ばかり。
 後に初代韓国総監となった伊藤博文が大勢の役人を引き連れ、韓国各地を視察した様子をまとめたアルバム写真58枚や父高宗と韓国で撮影した幼いころの李殿下の写真などもある。
 すべての資料を4日、韓国大使館を通じて韓国政府に寄贈した。
[参考:埼玉新聞]

[2008.11.14掲載分]
韓国国立中央博物館 日本近代西洋画展 行方不明の小磯良平作品戦後初公開 
 「戦後初めて公開する」としていた小磯良平の絵画「日本髪の娘」について、2005年に韓国国立現代美術館で展示されていたとそうです。
小磯作品、05年に公開済み=韓国博物館(時事通信) - goo ニュース

 韓国国立中央博物館(ソウル)は13日、所蔵する李王家の日本美術コレクションの中から、日本を代表する洋画家、小磯良平の作品で、日本では行方が分からなくなっていた「日本髪の娘」(昭和10年)が見つかったと発表した。
 18日から同博物館で公開される「日本近代西洋画展」で、「日本髪の娘」をはじめ李王家が収集した日本を代表する作家の洋画40点すべてが戦後初めて公開される。
 「日本髪の娘」は、欧風の椅子に座った和服姿の若い女性を描いた100号サイズの作品。昭和12年に李王家が購入した。同館は「日本近代西洋画の最高傑作」と評価している。神戸市立小磯記念美術館の広田生馬学芸員は「小磯の脂が乗り始めたころに描かれ、非常にアカデミックな完成度の高い作品。昭和10年に東京で開かれた展覧会に出品され存在は知られていたが、その後日本では行方不明になっていた」と話す。朝鮮王朝最後の皇太子、英親王が、東京美術学校長の正木直彦や洋画家和田英作らの助言で収集した作品群の一つという。展示は09年10月まで。
 今回の展覧会について、国立中央博物館の宣承慧学芸員は「小磯作品をはじめ日本では所在が分からなくなっていたものばかりで、中には図録などの記録も残っておらず、存在そのものを知られていない作品もある。李王家がどんな日本の作品をコレクションしていたのかが初めて明らかになる展覧会だ」と語った。
 李王家コレクションは全体で約200点。韓国国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日韓共催のサッカーW杯が開かれた2002年に日本画や工芸品などが一般公開された。今年2月に就任した李明博(이명박、イミョンバク)大統領(65)の日韓協力路線を受け、残る洋画の公開も決まった。
 ほかに公開されるのは和田三造(1883-1968)の風景画「風景」や、藤田嗣治(1886-1968)が猫や男性を描いたスケッチ2点など。田辺至(1886-1968)の「少女」や小山敬三(1897-1987)の「熊野灘の遠望」、平塚運一(1895-1997)が朝鮮半島の古代国家、百済の首都付与・定林寺五重石塔を見て製作した版画「百済の過去の首都」も公開される。

 李王家コレクション: 朝鮮王朝時代に歴代国王を出した李王家の最後の皇太子、李垠(이은、イウン)殿下が中心となり、昭和8~18年にかけて収集した日本美術コレクション。約200点ある。韓国の国民感情への配慮から長く封印されてきたが、日本画と工芸品は日韓共催のサッカーW杯が開かれた平成14年に一般公開された。李垠殿下は日韓併合により日本の皇族に準じる待遇を受け、日本の皇族、梨本宮家の方子さん(韓国名:李方子、이방자、イ・バンジャ、り まさこ、1901-1989)と結婚。昭和38年に韓国に帰国するまで日本で暮らした。
[参考:共同通信、産経新聞、ニッカンスポーツ、産経iza]

ここで、とりあげるのは平塚運一(1895-1997)の作品
 島根県松江市生れ。版画家。父親が宮大工であった影響を受け、彫刻に興味をもったらしい。棟方志功の師でもある。
 1925年、仏教版画の勉強と収集し始める。また、古代の屋根瓦の模様についての研究を重ね、有名な仏教版画や古瓦を収集する。収集した古瓦3000点を島根県古代文化センターが所蔵している。
 李王家コレクションの中のでも版画が収蔵され、今回「百済の過去の首都」(多色摺り版画)が展示される。産経izaにはその写真が貼付されている。初期は多色摺り、後に単色摺りに戻ったといわれる。だから、初期の作品なのだろう。後に1940年に単色摺りで題材を同じくして製作した「百済旧都」という作品がある。

小磯良平の「日本髪の娘」発見 行方不明の作品 李王家収集(共同通信) - goo ニュース
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小田原城 北条氏が城下町を正方位に区画して町づくりをしたことを示す土地境界の石積みを発掘

2008年12月06日 | Weblog
 小田原市本町の旅館跡地の遺跡発掘調査で、戦国時代末期から江戸時代初期のものとみられる南北に延びる土地境界の石積みが見つかった。発掘調査をしているのは江戸時代、東海道に面した宿場があった「宮前町」(現本町3-6)の一角。江戸時代末期に大名が宿泊する本陣や、2カ所の脇本陣と旅籠23軒があり、「本町」とともに小田原宿の中心だった。発見された石積みは旅籠と隣地の土地境界を示すもので、石積みが南北にまっすぐ延びている。震災前の大正時代に作成された古地図と一致しており、戦国時代からの町並みが明治、大正まで続いていたことが分かるという。
 北東250m先の(仮称)城下町ホール予定地(本町1-138)の発掘調査では江戸時代の重臣の屋敷の礎石などとともに、戦国時代(16世紀)に造られたとみられる砂利敷きの道路(幅約5m、長さ120m)が東西方向に延びているのが見つかっている。
 市文化財課は、小田原北条氏の時代に京都の町並みと同じように、正方位に区画された町づくりが行われていたことを示すと云う。
 小田原北条氏は戦国時代、城と城下の整備を進め、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされる前には、堀と土塁からなる周囲約9kmにも及ぶ「総構(そうがまえ)」を完成させている。
 石積みなどとともに、伊万里、瀬戸焼など多数の陶磁器、茶道具なども出土している。
[参考:毎日新聞]
関連:前出
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仙台市・郡山遺跡 藤原京の1区画と同じサイズであることを確認

2008年12月06日 | Weblog
 多賀城が造られる前の国府跡である「郡山遺跡」(仙台市太白区)のII期官衙(役所)が、藤原京(694~710年)の1区画と同じ1辺533m(1500尺、1大尺=35.6m)の正方形であることが5日、仙台市教委の調査で分かった。
 建物の配置などから藤原京の宮殿との類似性は指摘されていたが、数値面から初めて裏付けられた。
 II期官衙は700年頃できた初めての陸奥国府で、724年に国府が多賀城(多賀城市)に移るまで大和政権が勢力を北へ広げる拠点だった。
 市教委が10月から遺跡の東辺を調査したところ、幅最大約3m、深さ約1・4mの大型の溝を発見。官衙の外郭となる材木列(塀)、大溝(堀)から55.5m(150大尺)離れ平行していた。以前の調査で西辺から同規模の溝が出土していることから、東西の長さが533mと判明。官衙の外側が塀と溝で区画され、一定の空白地を挟んでさらに外側に溝を持つことや、南北も同じ長さの正方形であることが分かった。
 藤原京で使われた尺度が使われていたことから、都市の設計思想が盛り込まれていた可能性が高まったとする。
 7日午前10時半から見学会が開かれる。問い合わせは発掘調査事務所((電)090・9633・4291)。
[参考:読売新聞、仙台市文化財]
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豊橋市 普門寺旧伽藍址 元堂址で新たに基壇見つかる 

2008年12月05日 | Weblog
 豊橋市教委の発掘調査で、真言宗船形山普門寺(豊橋市雲谷町)の旧伽藍址で通称・元堂址から新たに建物跡と見られる3つ目の「基壇」が見つかった。
 普門寺は、神亀4年(727)年に僧行基が開山し、その後、養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とされる化積上人が住職となって再興、頼朝が立ち寄ったと伝えられている。
 元堂址は東西80m、南北25mの平場で、従来、5間×4間の四方の礎石を誇る大きな基壇が確認されていたが、昨年度、その東側で2つ目の基壇、今年度に西側で3つ目の基壇を確認した。周囲には、建物から落下した中世末ごろの瓦片が多数散乱している。
 これまでの調査で見つかった茶碗などの陶器類から、平安時代に作られた可能性も出てきた。また周囲の石積みからは鎌倉時代の痕跡が確認されている。
 市民を対象に現地説明会を行う。21日午前10時と午後1時30分の2回、問合せは市教委へ。
[参考:東日新聞]

備考:
 「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開創したとされる。
 嘉応年間(1169年~1171年)に兵火にあって焼失。
 養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
 戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。
 旧伽藍跡の船形山中腹は、東に「元堂」、西に「元々堂」の大型の平場(ひらば)をはじめ中小の平場が200カ所以上あり、典型的な山岳仏教寺院。
 平家滅亡の念願かない、源頼朝が入洛する際当寺に立ち寄ったと云われる。
 源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
 普門寺の北東2.5kmにある鞍掛神社も、源頼朝が上洛途中にこの神社を通り、鞍を奉納して武運を祈願したため鞍掛神社と名を改めたと伝わる。神社の前には静岡県新居から現在の豊川市本野原に至る鎌倉街道が通り、神社の東100mのところには、頼朝が馬を止めて休んだといわれる駒止の桜の碑がある。
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高松塚古墳 保存施設の撤去終了し34年ぶりに墓道部露出

2008年12月04日 | Weblog
 文化庁は2日、明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で先月14日から進めていた2階部分の保存施設の撤去作業を終了したと発表した。
 保存施設が外された墳丘は、長さ約5.5m、幅約2.7m、高さ約3mの空間が現われ、石室の入り口(南壁)につながる墓道東壁が露出した。墓道が姿を現したのは、保存施設の建設が始まった昭和49年以来34年ぶり。
 保存施設を撤去すると、施設と墓道のすき間を埋めていた裏込めの土流出した様子や、南海地震による亀裂で墳丘の一部が崩落した状況が明らかになった。また、同様の目的で置かれた凝灰岩の切石には、取り合い部の側に黒いカビが集中していた。
 墓道は墳丘築造後に遺体の埋葬や壁画を描くために掘られ、終了後に再び埋め戻されたと推定している。
 同庁は、こうした保存施設と取り合い部の状態が壁画の劣化を招いた一因と見て、さらに調査を進める。
[参考:奈良新聞、毎日新聞]
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宮廷歌謡「風俗歌」 平安期の楽譜 鍋島家・徴古館で確認

2008年12月04日 | Weblog
 平安時代に貴族の間で歌われた宮廷歌謡「風俗歌(ふぞくうた)」26曲を収めた楽譜が、旧佐賀藩鍋島家の文化財を所蔵する博物館「徴古館」(佐賀市)で確認された。風俗歌の楽譜がまとまって収録された平安時代の史料はなく、歌謡史研究の中でも遅れていた分野とされる。「風俗歌の基本的な文献になる可能性もある」と、専門家の期待も高まっている。
 楽譜は今年9月、国文学研究資料館(東京)が09年度から行う徴古館が所蔵する国文学の史料調査の事前調査で確認された。楽譜の歌詞は万葉仮名とみられる文字が使われているという。
 徴古館所蔵の「東遊歌(あずまあそびうた)神楽(かぐら)歌)」(国重要文化財、平安後期)と表紙やつなぎ目が似ており、書風も平安時代のものとみられることから、同時期の作品である可能性があるという。
 同館によると、11代鍋島直大(なおひろ、1846-1921)は雅楽に傾倒し、宮中の雅楽を掌握する式部職の初代長官を務めた。こうした経緯をふまえ直大が入手したのではないかとみる。
[参考:毎日新聞]
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太田市 上強戸遺跡群 奈良時代の大型車輪部材が東日本で初出土

2008年12月04日 | Weblog
 太田市上強戸町の上強戸遺跡群で、8世紀半ばの奈良時代に使われた大型車輪の一部とみられる木製部品が見つかった。
 同遺跡群では平成14~16年度にかけて群馬県県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)により発掘調査が実施され、19年8月から整理作業が行われている。
 発掘調査では、古墳時代から飛鳥時代にかけての水田跡や溝跡、奈良時代の水路跡、中世の大規模な鍛冶工房跡が見つかり、溝跡や水路跡からは鍬・田下駄・弓などの豊富な木製品が発見された。
 車輪部品とみられる木材が発見されたのは、水田に掘られたとみられる深さ約1.2m、上部の幅約5.3mのU字型の溝の中。長さ40cm、幅5cm、厚さ3cmの緩く湾曲したアカガシ製と推測される板で、2カ所に四角い穴があけられ、両端には別のものと組み合わせるための突起(ほぞ)が作られていた。板は外輪の部材を連結するための継手にあたる内輪と分析しており、鎌倉時代の絵巻物「石山寺縁起」を参考に組み合わせると、車輪の直径は約1.5mになるという。
 周辺で8世紀半ばの物とみられる土器が見つかっていることから、奈良時代に使われたものと考えられるが、古代の組み立て式の大型車輪はこれまで、京都府と奈良県で出土したのが確認されているだけという。
 東日本では初めての例となるが、出土した溝は水路とみられ、周囲では、他の木材も多数発掘されていることから上流から流れ着いてきた可能性もあるとしている。
 同遺跡群は、国の史跡に指定された「上野国新田郡庁跡」から東に約3kmの位置。周辺は当時、「東山道」が武蔵国と下野国方面に分岐する交通の要所だった地点。
 調査を行っている県埋蔵文化財調査事業団では、来月刊行される同遺跡群の調査報告書に掲載する。
[参考:群馬県埋蔵文化財センター、12/3東京新聞、12/4産経新聞]
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つくば市 小田城跡 格子状の障子堀が県内初出土

2008年12月04日 | Weblog
 つくば市教育委員会は1日、発掘調査を進めている国指定史跡「小田城跡」(同市小田)の本丸北側の北虎口付近から、格子状の障子堀が出土したと発表した。
障子堀は、城の防御機能を高めるため、空堀の底に穴を掘り障壁を造ったものだが、畝の部分が格子状になっている形状が見つかったのは県内で初めてという。障子堀は、小田原城など北条氏の城でよく見られる。障子堀は、敵が侵入する際に足を取られるほか、水を保持しやすいことからも防御効果があると考えられていた。さらに、畝が一列の障子堀より、格子状の方が、より防御効果を高めたとみられる。
 調査した北堀跡は深さ約3mで、さらに1m以上掘り進んで障壁が造られていた。幅30-50cmで、格子の形は部分的に食い違ったり途切れたりと複雑な構造となっている。底に掘られた穴の深さは1m以上あるとみられ、地上から障子堀の底までの深さは約4mと推定される。
 格子状の障子堀は2000年度の予備調査で、別の場所から存在の可能性が指摘され、約150m四方の本丸を取り囲む内堀全域に広がっている可能性が高いという。
 小田城は鎌倉-戦国時代、現在の茨城県に当たる常陸国の南部に勢力を持った豪族の小田氏の居城。佐竹氏に敗れて1570年に城主が交代し、どちらが障子堀を造ったかは分かっていない。
 また、北堀に面して土塁が切られた虎口跡の通路からは、小砂利や焼けた壁土を突き固めた舗装の痕跡も確認した。
 一連の発掘調査は本年度で終了し、来年度から史跡公園として保存するための工事に着手する。
 同市教委は6日午前10時30と午後1時30から現地説明会を開き、一般公開する。小雨決行。問合せは市出土文化財管理センターへ
[参考:東京新聞、読売新聞、つくば市歴史・文化財]
参考1:
先月10月14日に確認された水戸城跡障子堀
 
備考2:
 小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久四年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代時知に至り小田氏を名乗るようになる
 小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれは平城で、約2ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防衛のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。
 この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入り口には馬出しを設けて、直接進入が出来ないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。
[参考:小田城跡の案内板(つくばし教育委員会)]

八田知家(はった ともいえ、1142-1218)
 下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
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